「宇田川源流」【大河ドラマ 青天を衝け】 西郷吉之助が出て来て渋沢栄一と二人で酒を飲むという展開の賛否
「宇田川源流」【大河ドラマ 青天を衝け】 西郷吉之助が出て来て渋沢栄一と二人で酒を飲むという展開の賛否
水曜日は「大河ドラマ青天を衝け」について、ちょっと歴史の話をしてみたいと思って、毎週ここでは、現在の政治の話や浮世の話を忘れて、歴史とロマンの世界に浸ってみたいと思うのである。一応今は、ジャーナリストも名乗ってはいるが、自分の心の中は歴史小説家の方がピッタリ来ているのではないかという気がしているのである。
そのように考えれば、やはり、今は少なくなった「時代劇」の中で大河ドラマは、やはり「ドラマとして」しっかりと作られている気がする。もちろん「ドラマとして」であって、「史実とあっているかどうか」などということは関係ない。ある意味で「ドラマはドラマ」なのである。もちろん、ドラマであるから何でもしてよいというような話ではない。反日ドラマのような内容は、見ていて全く面白くない。基本的に「ドラマ」は「ドラマを通してのテーマに忠実」である必要があり、その「テーマ」が、現代の日本人(NHKは日本の放送局です)に必要なものであれば、当然に、そのテーマが重要になってくる。逆に「反日ドラマ」のテーマは「日本に反する」のであるから、まあ、日本を嫌いな国々はそれでも良いのかもしれないが、少なくとも日本の放送局の放送に適さないことになる。
まあ、逆に言えば「史実である」ということではなく「今の日本人に荷つようなテーマ」であって、なおかつ「そのテーマを表現するために多少の演出をする」ということはそれなりに許されるべきではないかと思うのである。
さて、その意味では「大河ドラマ」は、やはり日本の放送局の歴史を扱ったドラマとしてはなかなかよくできている。例えば、昨年の明智光秀を扱った「麒麟がくる」の中で、茶の湯の名器である「平蜘蛛」がそのまま残ってしまっていたり、あるいは、明智光秀が最後死んでいなかったような終わり方になったりというのは、なかなか議論を呼んだ。しかし、そのことは、「歴史のロマン」として様々なところで語られているところであるし、また、その内容をいかに考えるのかということになる。また「歴史にロマンを与える」というような者ならば、テーマとしても問題はない。
では今回の「青天を衝け」ではどうであろうか。
【青天を衝け】渋沢篤太夫、西郷吉之助とも交流「豚鍋は三度ほどごちそうになった」と記録
俳優の吉沢亮が渋沢栄一役で主演を務めるNHK大河ドラマ『青天を衝け』の第15回「篤太夫、薩摩潜入」が23日、放送された。
今回、栄一と喜作(高良健吾)は、武士として初俸禄をもらい、円四郎(堤真一)から栄一は「篤太夫(とくだゆう)」、喜作は「成一郎(せいいちろう)」という新しい名も授かる。篤太夫の初仕事は、薩摩藩士・折田要蔵(徳井優)の隠密調査だった。そこで出会った西郷吉之助(博多華丸)から、“先の時代が読める優秀な人材ほど非業の最期を遂げる”と聞かされた篤太夫は、円四郎の行く末を心配する。
この日は、篤太夫と西郷が豚鍋をともにするシーンがあり、本作の公式ツイッターは「一橋家に仕えた篤太夫は、有志を訪ねまわり、諸藩の動きを探る活動を行っていました。その一人が西郷吉之助。篤太夫はなぜか西郷に気に入られ、時には鹿児島名物の豚鍋を作るから一緒に食べないかと誘われたそう。豚鍋は三度ほどごちそうになった、と記録にあります」と実際に2人の交流があったことを明かした。
今回が初登場となった、西郷吉之助・華丸については「華丸さんの西郷どんめっちゃいいな」「華丸さん、西郷どんだったね」「演技力が確かすぎる」と好評の声が上がっていた。
2021年05月23日 21時01分 ORICON NEWS
https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12173-1081556/
今回の「青天を衝け」では、渋沢栄一が西郷吉之助(隆盛)と大阪で出会い、なおかつその大坂で語り合うということになる。そもそも、参与会議から禁門の変が終わるまでの間は、いわゆる「一会桑」といわれる「一橋家の徳川慶喜」「会津藩の松平容保」「桑名藩の松平定敬」の三つの藩と島津の薩摩藩は非常に仲が良かった。実際に、禁門の変でも長州と対立していたのは薩摩藩であり、また第一次長州征伐もその主力は薩摩藩であったといって過言ではない。そのほかにも宇和島の伊達宗城なども、そちらに近く、長州は孤立していた。いや、孤立したのではなく、その前に一緒に攘夷をしようとした孝明天皇も、また、水戸藩の浪士たちも、皆いなくなってしま田のである。水戸藩などはそのような志を持った人々は、天狗党の乱ですべて死刑にされてしまっているのである。
その流れが変わるのは、それこそ土佐の坂本龍馬が誘引して薩長同盟を成し遂げたのちであり、それまでは徳川慶喜とはかなり近しい関係であったのだ。
しかし、「青天を衝け」では、その辺は無視して、いつの間にか徳川慶喜と島津久光が対立するような形になってしまっている。そのうえ、その中にあるはずの「松平容保」「松平定敬」は、あまりセリフもない状況になっているのである。これは当然に渋沢栄一が主人公であるから、そこにかかわる人だけを有名な役者にして、セリフを増やすというような形になるのである。
例えば、平岡円四郎の後、一橋家を支えたのは原市之進であるが、その辺もあまり出てこない。それよりも猪飼勝四郎の方が親しく書かれている。まさに、「渋沢栄一目線」というのがこのような所でもよくわかるのではないか。
実際に、渋沢栄一が西郷隆盛と豚鍋を食べたなどという記録はない。もちろん、西郷と会っているかもしれないし、また、豚鍋も食べているかもしれない。また、そののちの例えば西南戦争などとの関係から、後に何か別な話に発展する伏線かもしれない。そのような伏線を付けるために、事前に「会わせておく」というのは、小説家などではよくある手法である。なぜならば「会った」という記録はもちろんないのであるが、「会わなかった」「会ったこともなかった」「一面識もなかった」というのは、「なかった」ということで、まさに悪魔の証明ということになるから、それはないのである。特に幕末であれば、本人同士が将来明治政府を支える人物になったり、日本の資本主義の父といわれる人物になるとはわかっていない、一寸先は闇のカオスな世の中に生きているのであるから、当然に、記録に残らない内容で、様々な話があるのではないかと思うのである。
そのような「ロマン」を表現するものとして、なかなか良い「ドラマ」になっている。もちろん、史実はしかkりと歴史書や学者の論文で学んでもらいたいものであり、知ったうえで、学んだうえで見ればより一層面白くなるということではないか。
そう思ってみていただきたい。