浦島伝説の三つの謎 ①
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7791839 【パンドラの箱】
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6925922 【浦島伝説】
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7100649 【不死の仙薬・丹薬:即身仏のために】
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2006/urashima-legend-three-riddles/ 【浦島伝説の三つの謎】 より
浦島太郎の物語は有名であるが、それが何を伝えようとしているのかははっきりしない。竜宮という理想的異界は、なぜ天の上ではなくて、海の中にあるのか。竜が登場しないのになぜ竜宮なのか。竜宮から出て、玉手箱を開けるとたちまち年をとってしまったことは何を意味しているのか。これら三つの問いに答えることで、浦島伝説の本来の意義を解き明かしたい。
松木東江「ほうらひの島」in 松木平吉『教育昔話 浦島太郎』1899.
1. 浦島伝説に対する問題提起
1.1. 浦島伝説の起源は何か
日本人なら誰でも浦島太郎の物語を知っている。しかし、「浦島太郎」は、主人公の本来の名前ではない。そこで、以下「浦島太郎物語」を「浦島伝説」と呼ぶことにしたい。
浦島伝説は、室町時代に成立した『御伽草子』にもあるが、八世紀の文献[1]である『日本書紀』や『丹後国風土記』の逸文「筒川嶼子 水江浦嶼子」に登場するものが最も古い。この他『万葉集』巻九掲載の高橋虫麻呂作の長歌「詠水江浦嶋子一首」にも同様の話がある。しかし、『万葉集』は、八世紀半ば以降に成立しているので、最古とは言い難い。『日本書紀』では、ごく簡単な言及があるにすぎないのに対して、『丹後国風土記』の逸文には、もっと詳細なストーリーが記載されている。そのあらすじは、以下のとおりである。
丹後の与謝郡日置(ひおき)里に筒川村があった。ここの人夫(たみ)に、日下部首(くさかべのおびと)等の先祖である筒川島子という容姿の優れた男がいて、これが所謂水江浦島子であった。伊預部馬養連(いよべのうまかいむらじ)の記したところによると、雄略天皇の治世に、浦島子は小舟に乗って釣りに出た。三日三晩の間一匹の魚も釣れなかったが、五色の亀だけ得た。浦島子は奇異に思ったが、亀を船の中に置いて、眠っている間に、亀は比類なき美麗な乙女となった。
「ここは人里から離れた海原だというのに、どこから来たのか」と浦島子が尋ねると、乙女は微笑みながら、「風流の士であるあなたと親しく話をしたいと思い、天上仙家から風雲に乗って会いにきた」と言い、海の彼方にある蓬莱山(とこよのくに)へ浦島子を誘った。浦島子は、誘惑に負けて、一緒に行くことにした。浦島子が寝て、目覚めると、海中の大きな島に至っていた。そこで、光り輝く楼閣、きれいな宮殿といった、これまでに見たことがないすばらしい景色を目にした。
二人が手を取り合って歩んでいくと、一軒の立派な屋敷の門の前に着き、乙女はここで待つように言って中に入った。門の前で待っていると、七人の童子が迎えに来て、「この人は亀姫様のお婿さんになる人だ」と言い、さらに八人の童子が迎えに来て同じことを言う。しばらくして、乙女(亀姫)が出てきて、七人の童子は昴星(すばるぼし=プレアデス)で、八人の童子は畢星(あめふりぼし=ヒヤデス)だと説明して、門の中へ浦島子を案内した。浦島子は、亀姫の父母に迎えられ、人界と仙都の別を教わる。
浦島子は亀姫と結婚して、何不自由ない楽しい日々をすごしたが、三年目にして故郷へ帰りたくなった。浦島子が亀姫にそのことを話すと、彼女は悲しみ、「永遠の誓いをしたのに、あなたは私一人を残して帰ってしまうのか」と言って涙を流す。しかしついに「私を忘れずに、また会いたいと思うなら、決してこれの蓋を開けてはなりません」と言って玉匣(たまくしげ)を渡す。浦島子は、亀姫の両親に別れを告げ、船に乗って目を閉じると、故郷の筒川村に着いた。
ところが、そこにはかつての村はなく、景色は一変していた。郷の者に聞くと、「今から三百年前に海に出たまま帰ってこなかったという話を年寄りから聞いたことがある」と言われる。浦島子は途方にくれ、約東を忘れて玉匣の蓋を開けてしまった。すると美しかった彼の容色が、風と雲に乗って大空に飛び去ってしまった。浦島子は、自分が約東を破ったことに気付き、泣きながらあたりを歩き回ったが、時すでに遅く、亀姫には再会できなくなってしまった。
『丹後国風土記』の逸文では、「浦島太郎」は「(水江)浦嶋子」、「竜宮城」は「蓬莱山」、「玉手箱」は「玉匣(化粧箱)」と呼ばれている。名称の違いもさることながら、ストーリーも現代の浦島太郎物語と少し異なっている。
現代の浦島太郎物語では、子供たちにいじめられているところを助けてくれた礼として、亀は浦島太郎を竜宮城に招くことになっている。こうした類の動物報恩譚は、『丹後国風土記』、『日本書紀』、『古事記』にはないが、室町時代の頃に成立した『御伽草子』には見られる。『御伽草子』では、浦島が、亀を釣り上げた際に、「汝生あるものの中にも、鶴は千年龜は萬年とて、いのち久しきものなり、忽ちこゝにて命をたたむ事、いたはしければ助くるなり、常には此の恩を思ひいだすべし」と言って、もとの海に返したことになっている。
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亀を助ける浦島[2]。1590年~1620年頃の絵巻物。オックスフォード大学ボドリアン図書館所蔵。
そして、乙姫は、この恩を返すべく、浦島を竜宮城に連れていくという筋立てになっている。
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竜宮城で乙姫にもてなされる浦島太郎[3]。藤山覚三画。
また、浦島太郎は両親を養う親孝行な青年とされ、竜宮城で三年過ごした後、残してきた両親が心配という理由で帰国を申し出ている。戻ってみると七百年[4]が経っていたことに気付き、絶望して玉手箱を開けると、煙が立ち昇り、たちまち老人になったが、その後、太郎は鶴になり蓬莱山へと飛び去り、乙姫も亀になって蓬莱山へ向かい、太郎と乙姫は再開して、夫婦ともに丹後の明神となったというハッピー・エンドで終わっている。
現代の浦島太郎物語では、『御伽草子』にあるようなハッピー・エンドがない。そのため、「苛められている亀を救うという浦島太郎の善行は、結果的に自身が不幸に陥いることになり、お伽噺として不合理な教訓をもたらすことになっている[5]」と評する向きもあるが、もともと恩返しの物語ではない以上、何らかの教訓を与える寓話として浦島伝説を扱うこと自体が不適切である。本来の浦島伝説は、美男子だった浦島子に亀姫が一目惚れし、熱烈に求愛して、蓬莱山へと誘惑するという恋物語だった。それが道徳的色彩の強い話に改作されるようになったのは、後世の父権宗教の影響による。
1.2. 浦島太郎は実在の人物か
八世紀に書かれた浦島伝説は、七世紀末の日本の文人、伊預部馬養による創作と考える人がいる一方、実在の人物の実体験に基づく伝説だと主張する人もいる。フジテレビの番組「奇跡体験!アンビリーバボー」は、2000年9月14日に、浦島伝説は、日本から南東へ三千七百キロメートル離れたところにあるミクロネシアのポナペ島に潮流で漂着して、そこから帰還した漁師の体験が元になった話だという説を放送した。
この番組によると、ポナペ島南東の海底に、「聖なる都市」という意味のカーニムエイソという海域があり、そこでは、強い磁気のおかげで時間の感覚がなくなってしまうとのことである。この強い磁場を取り囲むように、高さ5mほどの丸い石柱十九本が海底に建てられており、さながら海底都市の遺跡のような外観を呈している。さらに、この地域には、次のような伝説がある。
昔、ある男が、海を泳いでいると亀に出会い、泳いで付いて行くとカーニムエイソの海底都市を見つけた。彼は、カーニムエイソでの体験を絶対話してはいけないと言われたにもかかわらず、地上に戻ると、周りの人たちにこのことを話してしまった。すると、その瞬間、男は死んでしまった。
口を開けて秘密を外に漏らしたことが、玉手箱を開けてしまったことに相当するというのである[6]。
1.3. 浦島伝説の起源は琉球か
もっとも、ポナペ島は日本から遠すぎて、『丹後国風土記』の逸文が伝えるように、三日では漂着できない。日本にもっと近いところでは、琉球諸島(特に、八重山列島)が伝説発祥の地として有力視されている。折口信夫によると、海の彼方あるいは海底に「ニライカナイ」という異郷の浄土があって、そこから神(まれびと)が現れ、現世の地上の人々を訪れるという信仰が琉球諸島にある[7]。
この信仰のためなのか、琉球諸島では、浜辺を訪れる亀は神として大切にされている。「ニライカナイ」は、本土の言葉で言えば、常世(とこよ)に相当する、時間を超越した理想郷であり、竜宮城の条件を満たしている。そして、1995年には、竜宮城にふさわしいように見える海底遺跡(図3)が与那国島近海で発見された。
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与那国島近くの海底にある「亀の岩」と呼ばれる地形[8]
グラハム・ハンコックによれば、与那国海底遺跡は、1万年以上前に存在した超古代文明によって造られ、氷河時代の終わりに世界を襲った大洪水で水没し、遺棄された巨石建築物である[9]。本当に人間が作ったものかどうかは別として、あの幻想的な石造物が宮殿のように見えることは確かであり、たまたまこれを水中で見つけた昔の琉球の人が、その神秘的な体験からニライカナイ伝説を作り出したという仮説を考えることもできる。
1.4. 浦島伝説は世界中にある
以上のミクロネシア起源説と琉球諸島起源説は、どちらも、浦島の話が日本特有であり、日本人のある実体験に基づいているはずだという前提の下で出されている。ところが、実は、浦島伝説とそっくりの民話が中国にもある[10]。いろいろなバリエーションがあるが、一番日本のものと近いのは、「洞庭湖の竜女」と呼ばれている長江流域に伝わる話で、概略は以下のとおりである。
昔、若い漁夫が、ある乙女を助けたところ、その乙女は、実は竜女だった。彼女の招待で、漁夫は洞庭湖の湖底にある竜宮城に行くことができた。漁夫は、竜宮城で湖の生き物たちに歓待され、ついには竜女と結婚して幸せに暮らした。楽しい日々が続いたが、漁夫はふと、故郷の母親を思い出し、故郷に帰りたいと言うと、竜女は「私に会いたくなったら、いつでもこの箱に向かって私の名を呼びなさい。でも、この手箱を開けてはいけません」と言って、宝の手箱を渡した。
漁夫が故郷に帰ってきてみると、村の様子はすっかり変わり、自分の家は無く、村人たちも知らない人ばかりだった。村の年寄りに聞くと、「子供の頃に聞いた話だが、この辺りに、出て行ったきり帰らぬせがれを待つ婆様が住んでいたということだが、もうとうの昔に亡くなったということじゃ」と言われた。気が動転した漁夫は、竜女に説明を求めようと、思わず手箱を開けてしまった。すると、一筋の白い煙が立ち上がり、若かった漁夫は白髪の老人に変わり、湖のほとりにばったりと倒れて死んだ。
この話は、六朝時代に編集された『拾遺記』にある。『拾遺記』は、その原本が東晋の時代(5世紀以前)に書かれたのだから、『日本書紀』や『丹後国風土記』よりもずっと古い。だから、中国南部にあった民間伝承が日本に伝わり、それを伊預部馬養が日本風にアレンジして、史実であるかのように書き記したと考えることができる。実際、『日本書紀』や『丹後国風土記』に書かれている浦島伝説には、「蓬莱山」、「仙都」、「神仙の堺」など、中国の神仙説話から影響を受けたことを示す言葉が使われている。
では、浦島伝説発祥の地は、中国なのか。そう断定することはできない。なぜなら、浦島伝説と類似の竜宮伝説は世界の他の地域にも見られ、かつその起源は相当に古いからだ。
竜宮の信仰は必ずしも日本や中国だけのものではない。インドのナーガ神の宮殿も地下か海底にあって、当然、憂いを知らない楽園である。いや、アーサー王物語のモルガンや湖の夫人の宮殿も水底の妖精世界である。グラエランやギンガモールが訪れた妖精の国もある。こちらは必ずしも水底とは言われないが、たいていは川を渡った彼方にあり、妖精も水の妖精の性格が強い。[11]
全部紹介しきれないので、ここでは、アイルランドに伝わるオシーン(オシアン)の伝説を代表として取り上げることにする。これは、簡単にまとめると、次のような話である。
騎士オシーン(Oisin)が父や仲間の騎士たちと狩に出かけると、美しい乙女が馬に乗って現れた。彼女は常若の国(Tir na nOg ティル・ナ・ノグ)の王女でニアヴ(Niamh)といい、オシーンと結婚するために来たと言った。オシーンはニアヴに魅了され、彼女と共に行くことを承知した。オシーンは、馬にまたがってニアヴと共に霧に覆われた海の上を駆けて行った。霧が晴れると、常若の国が現れた。オシーンは、王と王妃に迎えられ、素晴らしい祝宴が何日も続いた。三年が経つのは瞬く間のことだった。(臨死体験を連想します)
やがて、オシーンは父や仲間が恋しくなり、一度帰ろうと思い立った。ニアヴにそれを告げると、彼女は「この馬から降りてはいけません」と言って馬を用意した。オシーンは決して馬から降りないと約束し、それに乗って、常若の国を後にし、懐かしい故郷に帰った。ところが、目にする光景は、何もかも変わっていて、愕然とする。途中、オシーンは、大勢の小人たちが大きな石の水槽を動かそうとしているのに出会い、彼らを助けようと馬の上から身をかがめて片手で岩を持ったところ、馬から転落した。そして、オシーンは、両足が土に触れると、皺だらけの老人になってしまった。白馬はいなないて駆け去り、二度と戻らなかった。(転生を連想します)
この神話の起源は3世紀まで遡ると言われている[12]。つまり、この話は、キリスト教が伝来する前から存在したケルト人たちの土着的な伝説なのである。
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ティル・ナ・ノグを目指して、ニアヴと共に馬に乗って海上を駆けていくオシーン[13]。手前で乙女が金のリンゴをオシーンに見せている。トーマス・ウェントワース・ハギンソンによる19世紀の御伽噺の挿絵。
これは、中国の竜宮伝説ほど浦島伝説には似ていないが、後で示すように、このオシーンの伝説も浦島伝説と等価である。これらを浦島型異郷訪問譚と呼ぶことにしたい。
1.5. 浦島伝説は何を伝えているのか
起源の問題を別としても、浦島伝説をはじめとする世界各地の異郷訪問譚には、多くの謎がある。
なぜ竜宮は、理想郷であるにもかかわらず、天の上ではなくて、海や湖といった水の中にあるのか。竜宮伝説の中には、竜宮が、島や洞窟の中にある場合があるが、これはなぜか。
なぜ日本の浦島伝説には、竜が出てこないのに、竜宮が出てくるのか。なぜ浦島を竜宮に連れて行ったのは亀だったのか。なぜニアヴは馬に跨っていたのか。
なぜ、竜宮では時間の流れが遅いのか。なぜ浦島は、玉手箱を開けたとたん年を取ってしまったのか。なぜオシーンは、足を地に着けたとたんに老人になってしまったのか。
これらの謎を解くことで、私たちは、人類の精神史の初期に光を当てることができる。自分自身の過去を思い出しながら、忘れ去られた人類の過去の記憶を呼び覚まそう。
2. なぜ竜宮は水の中にあるのか
キリスト教やイスラーム教や仏教などの世界宗教においては、天国や極楽浄土といった理想的異界は、天の上あるいは天の彼方にあると信じられ、地面の下にある異界は、地獄として否定的に位置付けられている。しかし、浦島伝説では、理想的異界は海の中にある。どちらの異界観のほうが古いのだろうか。
2.1. 理想的異界はどこにあるのか
私たち人類は、古くから、この世に対するあの世、現世(うつしよ)に対する常世(とこよ)、俗界に対する異界(あるいは他界や霊界)、此岸に対する彼岸、つまり今住んでいるこの世界とは別に、死んだらそこに行くと思念されている理想郷を想定してきた。
日本における理想的異界に関して、折口信夫は次のように言っている。
私は日本民族の成立・日本民族の沿革・日本民族の移動などに対する推測から、海の他界観まづ起り、有力になり、後、天空世界が有力になり替つたものと見てゐる。[14]
結論としては、折口に賛成なのだが、問題は、なぜかつては、理想的異界が海の中にあったのか、その理由である。日本人が南の海から渡ってきたというのは理由にはならない。これは、日本人に限らず、世界に広く見られる異界観の変遷なのだから。
浦島伝説以外の日本の異郷訪問譚、例えば「鼠の浄土」では、理想郷は土の中にある。中国でも、竜宮が洞窟の中にある場合がある。冒頭で紹介した『拾遺記』に記録されている竜宮伝説の舞台は、もともとは、洞庭湖ではなくて洞庭山で、竜宮は洞窟の中にあった。さらに、『拾遺記』よりも前の3世紀頃に、晋の干宝が書いたと伝えられる『捜神記』には、次のような「袋の中の鳥」という話がある。
会稽に、袁相(えんしょう)と根碩(こんせき)という二人の男が住んでいた。ある時、二人は狩をするために山奥に入り、ヤギを追ったが、ヤギは一つの石橋を渡っていった。二人も石橋を渡り、ジグザグの小道を登っていくと、洞窟がある。中に入ると、いい匂いがするので、そのまま進んでいくと、一軒の家があった。二人が家を訪ねると、そこには十五、六歳で、非常に麗しい容貌をしている、青い服を着た二人の乙女が住んでいて、二人を家の中に迎え入れた。二人の乙女は袁相と根碩を手厚くもてなして、その妻になってしまった。
二人の男は夢のような心地で毎日をすごしていたが、そのうち故郷が恋しくてたまらなくなり、故郷に帰ることにした。すると、乙女たちは、「どんなことがあっても、この袋を開けてはなりません」と言って、それぞれ一つの袋をわたした。男たちは約束を守って、決して袋を開けなかった。ところが、ある日、根碩の妻が、好奇心から、夫の留守中に袋の口を開けてしまった。中には青い小鳥が入っていて、そのまま飛び去ってしまった。その後、外で働いている根碩に妻が弁当を持っていくと、夫は既に死んでいた。夫の体から魂が飛び去って、もぬけの殻になっていたのである。
ここでは、水中の代わりに洞窟の中が理想郷となっている。世界宗教では、土の中は、地獄であり、理想郷とは対極的な世界である。しかし、例えば、記紀に描かれている黄泉の国あるいは根の国(根堅州国)には、決してそのような否定的なイメージはない。
中国では、黃泉(コウセン)は地中の水という意味で、転じて死者の世界という意味でも使われる[15]。日本では、黄泉(よみ)と訓じられていた。「よみ」は「やみ」の母音交代形[16]であるから、黄泉の国は闇の国である。イザナミを見るために、イザナギが火を灯したぐらいだから、闇の国であったことは確かである。
スサノヲは、根の国および黄泉の国のことを「妣の国」と呼んでいる。「妣」は、死んだ母のことである[17]から、イザナミのことを指していると解釈できる。しかし「妣の国」という名称には、たまたまその時イザナミがいたという以上の意味がある。
日本神話は、天つ神と国つ神、高天原と黄泉の国、父性と母性、陽と陰、明と暗、支配者と被支配者という弥生文化と縄文文化の対立に起源を持つ二元論によって構築されていて、イザナギとイザナミもこの二項対立に組み込まれている。イザナミが別名黄泉津大神であることからわかるように、黄泉に属することは、イザナミにとって本質的なことである。
これは日本に限ったことではない。世界宗教が登場するまで、人類は≪母なる大地≫を地母神として崇拝していた。産まれて間もない乳幼児が、父よりも母を頼るように、初期の人類は、父なる天よりも母なる大地にすがっていたのである。
2.2. 竜宮は地母神の子宮だった
旧石器時代のヨーロッパの遺跡からは、男性の偶像よりも、ふくよかな体をした女性の偶像が多数見つかっている。また、この時代には、ラスコー洞窟に代表される壁画遺跡がたくさんあるが、宗教的な絵が洞窟の中に描かれるのは、この時代の宗教が地母神崇拝であることと関係がある。すなわち、洞穴の中は、母なる大地の子宮の内部として表象されていて、そこに豊穣を願う絵が描かれていたということだ。
フランスとスペインの国境付近にあるニオー洞窟は、床が粘土で、その上には小さな足型がたくさん残っていることから、ここで成人式が行われたと推測されている。胎児が子宮の中から出てきて産まれるように、子供たちは、地母神の「子宮」の中から、狭い通路を通って出てくることで、成人式という第二の出産の通過儀礼を行ったと考えられる。
子宮の中は羊水で満たされているので、海の中にあると考えられている竜宮も地母神の子宮 であると言うことができる。漢字の「海」の旁「毎」は「髪飾りの付いた母」である。日本語の「うみ」は、「産む」に通じる。ラテン語でも、母(mater)は海(mare)と語源的に近い[18]。
異界は、海の中や土の中以外にも存在することがある。『丹後国風土記』の逸文にある「蓬莱山」は、海中の宮殿ではなく、海に浮かぶ島であった。また、異界が川の対岸、つまり彼岸として表象されることもある。これらの場所は、物理的空間としては同じでないかもしれないが、神話の象徴空間内では、どれもみな地母神の子宮を象徴しているという点で同じである。異界は、羊水に囲まれた胎児の世界として表象されているからだ。
文明以前の時代に地母神崇拝があったことは、屈葬の習慣からも伺える。屈葬とは、手足を屈折させて葬る葬法のことで、日本では縄文時代に盛んに行われた。旧石器時代の埋葬には、遺体を浅鉢や甕の中へ入れる屈葬ことが多い。
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ミシシッピーの石箱に屈葬された遺体[19]
また、遺体には、血の象徴である赤色顔料がしばしば塗られる。このように遺体を産まれた時の様子を再現して埋葬する習慣は、自分たちが胎内から産まれ、そして死後、再び胎内へと帰っていくと人々が信じていたからだと説明することができる。
2.3. 縄文時代の異界はどこにあったのか
浦島伝説で、理想郷としてのあの世が海の中にあったということは、日本人もかつては、地母神を崇拝していたということである。『日本書紀』が編集されたころには、母なる大地よりも父なる天のほうが優位にある。それは、天つ神が国つ神を支配する様々なエピソードに表れている。では、いつから、母なる大地に対する父なる天の優位が始まったのだろうか。私は、縄文時代から弥生時代への変遷の中で、この転換がなされたと考えている。
もっとも、今となっては、縄文人の心の中を知る直接の手掛かりはないのだが、間接的な手掛かりならある。一つは、縄文時代の遺跡からの出土品であり、もう一つは、縄文文化を本土人以上に忠実に受け継いでいる琉球人とアイヌ人の民俗である。
かつて、本土に住む日本人は、琉球人やアイヌ人を異民族扱いしたことがあったが、現在では、琉球人とアイヌ人の方が原日本人ともいうべき縄文人に近く、これに対して、本土の日本人は、原日本人と朝鮮半島から来た大陸系のモンゴロイドとの混血、すなわち弥生人であることが遺伝学的分析によって実証されるようになった。
宝来聡(ほうらいさとし)らの研究[20]によると、父系が縄文の血統かどうかは、“Y-haplogroups D-M55/D-M125”という日本人にしか見られないY染色体上の遺伝子の有無によって調べることができるのだが、この遺伝子の保有率は、本土人よりもアイヌ人の方が高い。ミトコンドリアDNAを用いた母系の血統の調査でも、同様の結論が出ている。それゆえ、アイヌ人や琉球人に伝わる風習や伝承は、縄文人の思想を知る上で参考になる[21]。
では、縄文人にとっての異界はどこにあったのだろうか。縄文文化の著名な研究者である梅原猛は、縄文文化を知るための手がかりとしてアイヌ文化を重視しているのだが、仏教の影響を受けているためなのか、生前の行いが正しければ死者の魂は天に昇るが、悪いことをすれば地獄に落ちるという仏教的な信仰が縄文時代にも成り立つはずだと確信している。
古代人は他世界の強い信者であったと私は思う。天には神がいて、そこには先祖たちもいて、人間が死ねば、その天にある先祖たちの国に帰るのであろう。しかし、他世界はただ天のみではない。もう一つ、地の底にも他世界があり、それは黄泉の国である。いったんそこに落ちたら、絶対そこからもう出てこられない。人間は、死んで天の国に行くことを願い、地の底の黄泉の国に行くことを恐れる。[22]
もしも、縄文人が天国へ行くことに憧れているならば、空を飛ぶ鳥(またはその人格化である天使)への信仰が主であってもよさそうなのだが、縄文時代の遺跡からの出土品には、弥生時代の遺跡からの出土品とは異なって、鳥の絵が描かれていない。むしろ、縄文時代の土器や土偶には、縄で模った蛇の紋様が多く用いられている。縄文土偶は、ほぼすべて、女の像なのだが、髪が蛇で表されたメデューサのような像もある。だから、地母神崇拝の方が強かったと考えることができる。
https://ameblo.jp/minamiyoko3734/entry-12676401495.html 【再生と超越 ①】
https://ameblo.jp/minamiyoko3734/entry-12676396162.html 【再生と超越 ②】
梅原は、しかしながら、蛇崇拝にはあまり注目しない。縄文人は、むしろ蛇を危険な存在として、嫌っていたと考えているようだ。
洞窟は、石器時代の人間にとってかっこうの住処であった。それは夏は涼しいし、冬は暖かい。そして獣に襲われる危険もない。ただ唯一の侵入者は蛇であろう。蛇がどうしてあれほど多くの神話や昔話に出てくるか。それは、穴居生活のもっとも大きい障害者が蛇であるということを考えれば、おのずから明らかであるように思われる。[23]
これに対して、鳥信仰は、縄文時代にも、弥生時代と同様に、あるいはそれ以上に強くあったと梅原は主張する。その根拠は、アイヌの神事に用いられるイナウである。イナウとは、柳やミズキなどの棒に切り込みを入れたり、削りかけをつけたりした木製の幣束(へいそく)で、その役割は日本の祭壇に立てられる幣(ぬさ)に似ている。
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左はイナウの写真[24]。右の写真は、アイヌの祭壇、ヌササンで、イナウが使われていることがわかる[25]。
梅原によれば、イナウは、鳥の羽の形に似ている。
イナウが鳥であり、このイナウに古い縄文時代の宗教の名残があるとするならば、既に弥生時代以前に鳥の信仰があったと考えざるをえない。そう考えた方がごく自然である。なぜなら、死んで人間が天へ行くという信仰が農耕とともに始まったとは考えにくいからであり、それは何万年前、あるいは何十万年前に狩猟採取文明の中で発明された思想にちがいない。狩猟採取民は動物と大変密接な関係を営んできて、当然鳥をこの霊界の使いと考えたにちがいない。その鳥の信仰がもし弥生時代にもたらされたとすれば、それ以前の日本人はどのような宗教の中で生きていたのか。まさか縄文時代の日本人が、死後の国をまったく信じない現代人のような合理主義者であったとはいえないであろう。縄文遺跡は、縄文の文明が最高に宗教的な文明であったことを明らかにしている。そこでは鳥が、弥生文明以上に強い役割を果たしたと考えられる。[26]
天国がないならあの世もないというここでの議論は、先ほど引用した文と矛盾しているようにも見えるが、要は、梅原は、地下にある黄泉の国が死後の理想郷であるということは全く思いつきもしなかったということである。
では、本当に縄文人は、死後魂が天国にいくと考えていたのだろうか。アイヌ人の伝承をもとに考えよう。ここで、梅原がアイヌ研究の師と仰ぐ藤村久和の見解を分析してみることにしたい。藤村は、アイヌの老人と生活をともにしながら、臨死体験をした人の証言に基づく、あの世に関する伝承を採取した。
そこでは、自分の正体を見ることができるのはイヌだけである。イヌだけが自分に吠えかかる。そうするとそこで暮らしている人たちは、何かおかしなものが来たというわけで、自分に灰などいろいろなものを投げつける。それが体中にペタペタくっついてとれない。いくら手で払っても離れない。生死をさまよった人の話だと、これらのものは、そこから戻ってくる時、先ほどのトンネルのいちばん狭いところ、ようやく体が通れるところを通った時に、全部体から落ちてしまうという。この世のイヌも、人間には見えない魔物がくるとわんわんと吠える。すると人々は、そこへ向かって灰を投げたりするのだが、そのときに魔物の霊についた灰も、魔物が逆にこの世からあの世へ戻る時には同様に取れてしまうということになるのだろう。[27]
藤村によれば、以下の図に描いたように、霊は、「準備場所」にある一番高い山の頂点まで行き、そこから天空を越えてあの世の山へ行く。しかし、この「あの世へ旅立つための準備場所」は、「そこを指すアイヌ語から訳したものではなく、勝手に私がそう呼んでいるにすぎない[28]」、つまり、藤村の仮説に基づいて考え出された概念に過ぎない。
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藤村久和が描くアイヌ人にとってのあの世[29]の図を元に作成
もしも洞窟が「あの世の入り口」だとするならば、トンネルの向こうに広がる世界こそ「あの世」ではないのか。イヌと灰の話を見ても、トンネルを挟む二つの世界が対称的に語られている。
アニメ映画『千と千尋の神隠し』には、千尋の家族が、トンネルを潜り抜けて、八百万(やおよろず)の神々が住むあの世へと迷い込むというシーンがあるが、アイヌの異界観もこれと同じと考えて差し支えない。あの映画でも、千尋は、空の上にある別世界に行ったりはしない。トンネルの向こうが、そのまま神の世界なのだ。
藤村が、アイヌの老人が言うあの世をあの世と認めず、「準備場所」と考えたのは、梅原同様に、「あの世は天の上にあるはずであって、地面の下などにあるはずがない」という父権宗教の先入見から脱していないからである。私は、この先入見を捨てて、以下の図で描いたように、アイヌ人にとってのあの世を地下に位置付けた。
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私が描くアイヌ人にとってのあの世
アイヌ人が語る「洞窟」は子宮、「長いトンネル」は膣、「非常に狭苦しいところ」は子宮膣部に相当する。こう考えるなら、この世からあの世へ生まれ変わる時、この世に生まれる時と同じプロセスをたどることになる。「非常に狭苦しいところ」を出る時に「灰のようなもの」が取れるのは、イザナキノミコトが黄泉の国からこの世に戻る時に行った祓(はらえ=払え)と禊(みそぎ=身削ぎ)に相当し、そしてそれは、実際の出産において、赤ちゃんが毳毛(ぜいもう=産毛)やへその緒を削ぎ落とすことをモデルにしている。
禊と祓は、蛇の脱皮をもモデルにしている。多くの蛇信仰の研究者は、脱皮する蛇は永遠の生命の象徴であるから、世界的に蛇は神として崇められると説明する。だが、脱皮する動物は蛇だけではない。他の爬虫類や両生類や節足動物も脱皮する。蛇の脱皮は全身のつながった抜け殻を残すことで有名だが、昆虫も同様の抜け殻を残す。だからと言って、そうした昆虫がすべて永遠の生命を持った神として崇拝されるわけではない。むしろ、セミの抜け殻を意味する「空蝉(うつせみ)」に儚(はかな)いという意味があるなど、逆の場合すらある。蛇信仰の根拠を考える時には、蛇ならではの属性に注目しなければならない。脱皮という属性は、蛇信仰の根拠の一つにしか過ぎない。
母権宗教が蛇を神の使者として崇めた理由の一つとして、蛇が、子宮へと通じる長いトンネルの形をしていることを挙げることができる。蛇が地を這う様子は、川が大地を流れる様とよく似ている。
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地面を這う蛇は川のように見える[30]。
川の流れに身を任せれば、海に入ることができる。川は胎内回帰のための案内人であり、案内人としての役を果たす巫女は、蛇と自己同一する。
母権宗教が蛇を神の使者として崇めるのは、蛇が臍の緒の形に似ているからでもある。私たちは、臍の緒が切れることでこの世に生まれた。あの世からこの世に生まれるプロセスをこの世からあの世に行くプロセスの逆と考えるなら、臍の緒が復活することは、あの世に戻る導きの糸が得られることである。だから蛇は、あの世に行く時に迎えに来てくれた神の使者ということになるのだ。
アイヌの人たちにとって、この世からあの世に行くプロセスがあの世からこの世に生まれるプロセスと逆である (あの世とこの世は逆渦のイメージ)
私のモデルなら、このあべこべ関係を容易に説明できる。日本から見て、地球の裏側のことを考えてほしい。「こちらが冬であれば、むこうは夏」であり、「こちらが昼の時は、むこうは夜である」。藤村モデルのように、この世とあの世が天で接していると考えるなら、この世が昼の時、あの世も昼ということになってしまう。
もとより、縄文人が地球球体説を信じていたということではない。琉球人は、地面は平らで、太陽(てだ)は東の地面にある太陽の穴(てだがあな)から出てきて、西の地面にある太陽の崖(てだばんだ)に沈むと考えていた。アイヌ人も地球平面説的なコスモロジーを有していたので、縄文人もそうだったことだろう。それでも、太陽が一方にあるなら他方にはないのだから、同じようなことが言える。
ただし、地球の裏側とは違って、地面の下にあるあの世は、この世とは質的に異なる世界である。この世の一日があの世の六日にあたるのも、あの世がこの世とは異質の世界であることを物語っている。この時間経過の異常は、浦島伝説の謎の一つに対応しているのだが、ここでは取り上げずに、第四節でまた改めて考えたい。
私は、アイヌ神話の分析から、縄文時代のあの世が地下にあったと判断した。では、縄文文化のもう一つの末裔である琉球文化ではどうか。梅原は、ここでもまた、鳥信仰の痕跡を探し求める。そして、1978年まで久高(くだか)島で行われていた儀式、イザイホーにそれを見出した。
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1954年に行われたイザイホー[32]。朝日新聞社『アサヒ写真ブック15』1954年。
イザイホーとは、久高島の女たちが神女(なんちゅ)になるための通過儀礼で、彼女たちは、三晩、イザイ山の仮小屋に篭り、四日間にわたって、歌や踊りを伴う神事を行う。梅原は、最初の日の夕方に行われる「七つ橋」を渡る儀式を、女が鳥になるための儀式だと主張する。
鳥になるために女たちは髪を乱して「七つ橋」を渡る。命を懸けて渡る。そして「エーファイ、エーファイ」とまるで鶴の鳴き声のごとき悲鳴を上げるのである。そのとき、女たちは既に鳥になっている。[33]
七つ橋とはこの世とあの世(ニライカナイ)との間に架けられた橋であり、この橋を渡ることで、神女となる。
男たちは死ぬと海の向こうの遠い国、ニライカナイに行ってしまい、いつ帰ってくるかわからない。しかし、神となった、鳥となった女は死んでニライカナイにいってもすぐ、彼女たちがそこで生まれそこで神となった、祖先の霊のいるウタキに舞い戻り、そこに永久にとどまって末永く故郷の島の子孫たちを守るのである。[34]
女が鳥になるのは、あの世が天の上にあるからだろうか。問題は、あの世である「ニライカナイ」がどこにあるかである。