デカルト 超えるバリ 神々と祭りによって
http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/kokoronomirai/pdf/vol6/vol6_p28-33.pdf 【デカルト 超えるバリ 神々と祭りによって】より
デカルト的二元論の限界を超えるバリ島の精神世界
よく知られているように、ルネ・デカルトは、意識すなわち自覚できるこころの働きを第一の確実な実体とし、延長すなわち意識で捉えることができ三次元的に計測可能な物体の空間的拡がりを第二の確実な実体とした。そして、意識を精神の本性、延長を物質の本性とし、物質と精神すなわちものとこころとを互いに独立して操作する二元論をうちたてた。この二元論は、西欧近代科学の礎となり、物質世界の解明と制御に驚異的な発展をもたらした。それは、西欧近代文明を、これまでのあらゆる文明と一線を画する水準に到達させる原動力となってきたことを否定できない。しかし一方で、精神世界の解明と制御については、物質世界で発揮したような効力を現したとは、到底いえないのではないだろうか。ここに観られるものとこころとの間の極端なアンバランスについて、バリ島文化という光を当てて、考えてみたい。
デカルトに発する近代科学の正統的方法論は、言語や記号を要素にしてつくられる不連続的、離散的情報に対して圧倒的に明晰な操作力をもっている。それに較べると、人間の情報処理活動のなかで、もしかするとより大きな比重を占めているかもしれない非言語性の非離散的、連続的情報を認識し処理する活性は、著しく限定されているように見受けられる。言語や記号に変換できない高度で複雑な水準にある事象は、デカルト的知識構造の枠組みの中では事実上捨象され、忘却されてきたのではないだろうか。とりわけ、意識できない超知覚現象へのアプローチが、辺境に追いやられてきたことに注意を促したい。このことが、現代社会を覆い尽くす未曽有の精神世界の荒廃の大きな原因のひとつとなっている疑いが濃いからである。
一方、この地球上には、西欧近代文明とは対照的に、知覚情報とともに超知覚情報の存在を十分に認知し、それを活かしつつ自然・社会環境を構築し運営してきた社会もある。たとえばバリ島の伝統社会は、デカルト的二元論の深刻な影響下にある西欧社会と、この点で鮮やかな対照を見せる。
バリ島社会には、スカラ(SEKALA)とニスカラ(NISKALA)という概念がある。前者は見えるものすなわち知覚世界、後者は見えないものすなわち超知覚世界をいう。このことばの組み合わせが示すように、バリ島社会は伝統的に、知覚情報と超知覚情報を対等に位置づけるだけでなく、むしろ超知覚情報をより重要視してきた。そして、ニスカラの世界を確かに感知して体系化し、共同体の構成員全員に共通する世界像とすることを実現している。それは、きわめて理性的、客観的かつ忠実な脳内世界像の構成を可能にし、人間が制御することを許されているものとそうでないものとの境界を適切に認8識させ、自己およびそれが属する環境に対するきわめてエコロジカルで調和的な視座と態度を現実のものとする基盤となっている。
神々と祭りによって葛藤を制御する
神々と祭りの島といわれるバリ島社会は、土着のアニミズム(祖霊信仰)に仏教やヒンドゥー教が混淆したヒンドゥー・バリといわれる独特の信仰体系を持ち、人々は信仰に篤く、日々、神々への供物と祈りを絶やすことがない。伝統的共同体構成員の1人が祭りや儀式に参加する頻度は、少なく見積もっても年間100日を超える。バリ島の人々は祭りのために生きているといわれる所ゆ え ん以である(写真1)。
バリ島社会は、生業として、古くから水田農耕を営んできた。起伏の複雑な傾斜地を利用した棚田は、みごとな景観を実現している(写真2)。しかし、このかたちの水田農耕社会は、「我田引水」ということばに象徴されるように水をめぐる葛藤がつきもので、水争いはしばしば致命的といえるほど深刻な社会問題となる。バリ島社会では、水を制御分配する水利集団と神々そして寺院を祀る信仰集団とを一体化させることによって、水争いを巧みに制御する社会技術を培ってきた。その詳細については別論文*1を参照していただくとして、ここではその骨子を述べる。
まず、バリ島の水利システムのハードウェアを見ると、地上ならびに地下に及ぶ水路や大小さまざまな水の分配施設をあらゆる地点に配備したきわめて高度なシステムを千年以上前から構築してきた。しかし、いかに高度な水利施設があっても、水分配を適切に行うためには、それを運営する水利システムのソフトウェアが十分優れていなければならない。これについて、バリ島社会では、申し合わせ形式の優れたソフトウェアをもって運営される伝統的水利組合スバック(SUBAK)というものを構成し、高い効果を挙げている。
バリ島では、単位水系の用水を利用するすべての農民が参加してスバックを組織し、潜在的に葛藤が存在する水の分配地点に水や稲の神々を祀る寺院を置き、スバック構成員が全員、それらの寺院の信徒になる。
写真1 共同体の構成員を結集させる祭り
写真2 バリ島の棚田の美しい造形パターン
つまりスバックの人々は、水系の管理運営とともに寺院の管理と祭りの執行を一丸となって行う祭り仲間でもある。確かに、実際のスバックの活動は、水利組合というより、むしろ祭り仲間といった色合いが濃い。
水をめぐって互いに利害が対立する人々が共同して神々を祀り、高い頻度で壮麗な祭りを行うことで、我田引水を慎み、葛藤が顕在化することを抑止する効果が働く。バリ島社会で過去の水争いの例を徹底的に調べても、本格的な事例を確認することはできなかった。事実上それは皆無に近いのかもしれない。社会を疲弊させる紛争のリスクが高いからこそ、それを回避する効果の高い仕組みを編み出しえたのかもしれない。
神々と祭りを活用したその葛藤制御の仕組みは、法や懲罰に依存した近代的社会制御のやり方とは違った、人間の自然なこころ=脳の働きを巧みに活かす社会技術であり、叡智のたまものといえよう。
トランス̶知覚世界と超知覚世界を結ぶ
人間のこころ、すなわち脳の働きを巧みに活かした、もうひとつの、バリ島独特の社会技術を紹介する。
ニスカラを特に重要視するバリ島の人々は、儀礼の中で脳の位相を転換させる超知覚情報刺激を意図的に造成し、人間の心理・生理状態を制御してきた。
バリ島社会の多くの儀礼で、クラウハン(KELAUHAN)といわれるトランス(意識変容)現象が惹き起こされる。それは、少なくとも数百年規模に及ぶ長期にわたってバリ島社会で受け継がれ、今日なお健在である。私たちの研究グループでは、超知覚情報刺激の受容によって日常世界から非日常世界へと意識の境界を越えるトランス現象について、その生理的な仕組みを解明する試みを、バリ島をフィールドとして二十年以上にわたって取り組んできた。
バリ島の村落社会の基本単位は、デサ(DESA)と呼ばれるきわめて自立性の高い地縁共同体である。デサという社会集団を運営する規律は、基本的にほぼ同一の原理のもとにあり、細部は個々のデサごとにカスタマイズされた形で存在している。デサごとに独自の行政・司法・治安の規則とその執行体制を備え、それらと緊密に一体化した状態で儀礼や祝祭を自己完結的に遂行するシステムを構成している。こうしたデサの催す祝祭や儀礼に共通して横断的に、クラウハンがみられる。それらのもつトランスを誘起するプロトコルには、共通するところが多い。
それらは、伝統的ソフトテクノロジーとして極めつくされ、高い確率でトランスを惹起させることに成功している。その状態を現代科学の知見に照らしてみると、バリ島の人びとは、人間の脳の仕組みを直観的にあたかも脳科学者のごとく察知して、生物学的合理性を十分にふまえつつトランスを誘起するプロトコルを開発してきたかに観える。そこでは共通性の高い生理的態様がデサの違いを越えて横断的に出現している。その状態は、それらのプロトコルが人間の脳の普遍的な情報処理の仕組みと高度に合致している証といえるのではないだろうか。
共通する生理現象
クラウハンの態様
クラウハンの典型例は、バリ島のデサに必ずあるプラ・ダレム(死者の寺)のオダラン(バリ島固有の二百十日を一巡とする伝統暦ウク暦の1年ごとに巡ってくる寺の剏立記念日)に奉納される、チャロナランという劇的儀礼に見られる。それは演劇として開始されるものの、途中から不特定多数の演技者および観客が次々に忘我陶酔の意識変容状態に入り、しばしば失神するほど強烈なトランスを集団的に発生しつつ混沌の裡に終わるという形式をもつ(写真3 奉納劇チャロナランでトランス状態に入った演者)。
その態様は、一人が引き金となり、不特定多数に連鎖反応的に波及する生理状態の不連続な転換、意識変容の集団発生である。その特徴は、当事者の意識の狭窄、被暗示性の亢進、過覚醒・興奮状態、恍惚状態、自動的・常動的動作、痛覚減弱、筋硬直、痙攣などである。トランスからの回復方法にも共通のプロトコルがあり、聖水散布、体性感覚刺激、高濃度アルコール飲料の経口投与などにより、数分以内に常態に復帰する。
トランス体験者は事後健忘を呈し、多幸感、爽快感、疲労感などを訴えるという一般的傾向を示す。
トランス誘起情報̶
知覚を超える音の効果
人間の脳がある種の情報によって、トランスという特異的な状態を呈するのは、なぜであろうか。
それを誘起する祝祭情報、すなわち知覚情報だけでなく超知覚情報を含むそれらは、しばしば、ある種の薬物投与よりも大きい効果を発生させる。地球上の伝統民族儀礼のおよそ90% になんらかのトランス現象が、必ずしも薬物に依存しない状態で存在している* 2。祝祭・儀礼情報刺激が誘起するトランスは、人類共通の生物学的現象といえよう。
バリ島社会は、トランスを誘導する情報刺激として、知覚できない音響情報をとりわけ巧みに活用していた。私たちの研究グループが近年発見したハイパーソニック・エフェクト* 3
(図1)という現象の原理を、はるか昔から活用していたのである。ハイパーソニック・エフェクトとは、人間に音として知覚できる周波数の上限を超える聴こえない高周波数成分を含んだ音が、基幹脳の領域脳血流を増大させ、脳波α波を増強し、血中の生理活性物質濃度を変化させ、音をより美しく快く感じさせるとともに、免疫力の上昇など体をより健やかにする作用をもたらす効果である。バリ島の人々は、脳の状態をトランスの方向に移行させるための重要な快感誘起情報刺激のひとつとして、ハイパーソニック・エフェクトを強力に発揮する音世界を積極的に構築していることを私たちは見出した* 4。
儀式の庭に放たれる
超知覚情報刺激
トランスを導く祭りの庭では、青銅の交響楽と呼ばれる大規模な打楽器アンサンブル、ガムランや、竹管を堅木のバチで激しく叩く打楽器群テクテカンなど、超高周波を豊かに発生する音楽が必須の要因として奏でられている。ガムランは、約 20人の男性が演奏するアンサンブルで、特に主力となる鍵盤楽器では金を含有した青銅器が木製のバチで強力に打ち鳴らされ、おそらく地球上でもっとも強力な高周波音を紡ぎだす* 5
図1 ガムランとさまざまな楽器音の周波数スペクトル
図2 知覚できない超高周波を豊かに含むガムラン音楽を聴いているときのハイパーソニック・エフェクト
テクテカンは数十人の上半身裸の男性が竹管を1個ずつもって密集して座り、いくつかのリズムパタンを組み合わせて強烈な 16 ビートを叩きだす。竹を叩く激しい破裂音が重層化することによって、超高周波を造り出す。これらの楽器奏者たちは、演奏中相互に超高周波を含む音を至近距離から浴びることで、しばしばトランス状態に入る。
トランスの生理状態のフィールド計測
私たちは、奉納劇チャロナランの演技者たちの生理状態を、独自に開発した多チャンネルテレメトリー脳波計による脳波の変化、および血中生理活性物質の濃度変化を指標に追跡することを企て、手法の開発等に十数年を費やして、世界で初めて、実際の儀式における計測を成功させた。以後、継続的に実験を実施し、その間蓄積された計測データから、奉納劇の演技者たちが、脳の活性を平常とは大きく異なる快感のモードに移行させていることを明らかにした。
トランス状態に入った演技者たちでは、同様の演技を行っていながらトランス状態に入らなかった統制群の被験者たちに比べて、脳波α波、θ波、そして血中のβエンドルフィン、ドーパミン、ノルアドレナリンの各指標の値が、統計的有意に増大していた(図3*6、図47)。これらの各指標の値の劇的な変化は、クラウハンという態様の生理的背景として矛盾するところがなく、トランスの快感、興奮、陶酔の境地を裏付ける実証的データを得ることができたといえる。
トランスの着火装置̶バリ島社会の究極的叡智
クラウハンの発現には、人から人への連鎖反応的な伝播構造が見られる。その場合、聴覚情報だけでなく視覚情報、嗅覚情報など祝祭空間を構成するさまざまな情報刺激の集積によってトランスに入る臨界条件が脳の内部に整ったところで、引き金になる刺激が与えられて一気に反応が進行する。その最初の引き金は、「誰か1人がトランスに入る」という現象で、これを契機に演技者、演奏者、観客の中に次々にトランス状態が波及し、集団トランスに至る。この引き金を引くのが、バロン(BARONG)と呼ばれる2人立ちの獅子舞の前肢となる獅子頭の振り手であるケースが特異的に多い。
バリ島の人々が、バロンの頭かしらの振り手をトランス誘導の着火装置に位置づけてきたことをうかがわせる驚くべき事実がある。そもそも、仮面をつけた演技者が視野と呼吸の制限によりトランス状態に入りやすいことは、アジア、アフリカでは共通の現象として多くの事例がみられ、互いによく似た生理状態を呈する* 8
図3 帯域別脳波の時間変化の典型例
図4 神経活性物質の血漿濃度の増加の比較
写真4 バロンの裏側に仕込まれた鈴
バロンの頭の振り手にこれらの仮面の効果をはじめとするあらゆるトランス誘起情報刺激を集中させ、その発火力を強化し、効果的に集団トランスを惹き起こす導火線にしようという意図が看てとれる。その決め手として、バリ島社会が伝統知として熟知している超高周波を含む音の脳に及ぼす影響を巧みに利用してきたと考える。
この推論には、それをほとんど否定できないものとする材料がある。
それは、バロンの獅子頭の裏側に仕込まれた鈴である(写真4)。その鈴は、青銅や真鍮のインゴット(地金)を削りだして造った重く強固なもので、それらを十数個密集させ、鋭く豊かな超高周波成分をバロンの頭の内側に盛大に発生させる。しかし、この鈴は獅子頭の内側に装備されているため、観客には見えない。
それが発する音も、ガムランやテクテカンが轟く儀式の庭においては、獅子頭の振り手以外にはまったく聴きとれるものではない。つまり、この鈴の音は、他の演技者や観客に及ぼす演出効果はゼロに等しく、表現装置としてはほとんど貢献していない。ではなぜこの鈴が仕込まれているのだろうか。それは、獅子頭の振り手の顔面と裸の上半身に超高周波を強力に浴びさせる仕掛け以外のなにものでもない。
バロンの内側にいる振り手が受容する鈴音の周波数分布を実際に測定してみると、驚くべき超高周波を含むことが見出された。さらにバロンの演技中しばしば行われる面の上下の歯を打ち合わせる音が加算されると、超高周波成分がより増強される(図5)。このバロンの鈴音の発現させるであろうハイパーソニック・エフェクトは、振り手の生理的状態をトランスに誘導する大きな要因になっているに違いない。事実、バロンの頭の振り手が集団トランス発生の引き金になる頻度が、偶然に起こる確率をはるかに上回っていることは疑いない。このような生理的メカニズムを日常の体験の中から発見したバリ島の人々の直観知とそれを合理的に活用してきた伝統知は瞠目すべき水準に達しているといえよう。
ハイパーソニック・エフェクトをはじめとする超知覚情報の効果をバリ島の人々が体験知として知り尽くしていたであろうことを裏付ける具体的事実は、枚挙にいとまがない。それらが現実の社会で優れた社会技術として活かされていることも確かである。
バリ島社会における人間のこころ= 脳の働きに関する理解と制御の態度は、決して情緒的なものでなくきわめて合理的・科学的であることに注目すべきである。知覚できない情報に反応するこころ = 脳の機能を、本来人間に備わった生命現象として直観に頼りながらも客観的に捉え、社会の生存戦略として、それらを活用した祝祭や儀礼を営んでいる。グローバリゼーションの波に乗りながらも、伝統知をゆるぎなく保持し活用して豊かな精神世界を堅持するその姿は、閉塞し荒廃した西欧近代文明社会のこころを制御する力の限界を解明し、新しいこころの未来を切り拓くアプローチに展望を与えてくれるに違いない。
参考文献
1 河合徳枝・大橋力「バリ島の水系制御とまつり」『民族藝術』Vol.17, 42-55, 2001.
2 A framework for the comparative of altered states of consciousness. Bourguignon E, In:
Bourguignon E, ed. Religion, Altered States of Consciousness, and Social Change. Columbus:Ohio State University Press: 3-38, 1973.
3 Inaudible high-frequency sounds affectbrain activity, A hypersonic eff ect, Oohashi T,
Nishina E, Honda M, Yonekura Y, Fuwamoto Y,Kawai N, Maekawa T, Nakamura S, Fukuyama
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4 大橋力『音と文明』岩波書店, 2003.
5 大橋力「インドネシアの打楽器オーケストラ “ガムラン”」『日本音響学会誌』54巻9
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8 SHISHI AND BARONG ︲ A Humanbiological
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図5 バロンの演者が浴びる超高周波