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三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】/ 北川美美

2016.05.25 14:45

http://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/mitsuhashi/2012-12-28-11966.html 【三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】56.57./ 北川美美】より

30. 寄港地をいくつ去るべしセロリ抱き

船上従事者としての敏雄の視線が伺える句が4句つづく。

敏雄は戦後、運輸省の練習船事務局長の職に就いていた。幾つもの港に寄ったことだろう。そして数えきれない港を去ったことだろう。

セロリは戦後の食卓で西洋料理が一般化してから普及しはじめた。戦後の日本ではまだ目新しかったころのセロリを寄港地で見たというように受け取れる。

敏雄が清酒「八海山」が好みだったということをよく紫黄から聞いたが、外航生活が長いとはいえ、食べ物、料理の句に遭遇しない。食べることが精一杯だった世代でもある。食を礼賛することは、敏雄の趣味ではなかったようだ。

セロリを抱く。「抱き」の自動詞からセロリを抱いているのは敏雄自身と読める。港に訪れた地元の行商からセロリを買い、甲板から離れていく港の船着場を眺めているように思える。戦前の新興俳句の表現ならば「セルリー」だったかもしれない。戦後の西洋という意味で「セロリ」という表記なのか。山崎まさよし作詞作曲『セロリ』があるくらいなので苦手な食物として挙げる人も多いだろう。女性との苦い思い出を「セロリ」に掛けているのかもしれない。

大阪のガスビル食堂のコース料理につく生セロリは、昭和8年創業当時から続く名物らしい。当時の大阪ガス会長片岡直方は、「本物の西洋料理にセルリー(セロリ)は欠かせない」と種子をカリフォルニアから取り寄せ、栽培したそうだ。秋山徳蔵氏(昭和天皇の料理番)も、その著書『味の散歩』(産経新聞出版局/三樹書房1993年再刊)の中で、ガスビル食堂の生セロリを絶賛している。

やはり「セロリ」は西洋を意識的に表現するものとして捉えるべきだろう。

腿高きグレコは女白き雷   『まぼろしの鱶』

グレコが西洋の女性であればセロリも手足が長い西洋の女性のこととも思える。「セロリ」は碇泊中の女性を示す「隠語」という見方もできるが、敏雄の抱く西洋というものが「セロリ」だったのだろう。

「去るべし」の措辞は、推量・意志・当然・適当・命令・可能と多義であるが、作者自身の一人称と読み、「いくつもの寄港地を去るべきである」という意に読める。やはりセロリを抱いているのは作者本人と解釈する。

新興俳句の特徴でもあった、モダニズムの表現は、敏雄の中で当初より厳選されている。

例えば、

少年ありピカソの靑のなかに病む   『靑の中』

この句の「ピカソ」と掲句の「セロリ」の捉え方は何ら変わっていない。「セロリ」に抱(いだ)くわれわれのモダニズム、西洋への憧れ、ピアスとしての「セロリ」が、俳句の中で如何に融合するのか、それを当初より敏雄は理解していたとしか言いようがない。

敏雄は、俳句として「セロリを抱(だ)いた」ことになるのだろう。

31. 日にいちど入る日は沈み信天翁

「戦後俳句を読む」テーマ:私の戦後感銘句3句をご参照ください。

32. 帆をあげて優しく使ふ帆縫針

帆船の美しさに心酔する。「順風に帆を上げる」という諺がある。追い風のときに帆をあげて出帆する。万事好都合にいくことをいうが、日本の帆船の数奇な歴史に改めて「帆をあげて」という措辞が希望の言葉として読み取れ、胸を打たれる。

敏雄は昭和21年より同47年まで帆船練習船「日本丸」「海王丸」ほかに事務長として歴乗した。どちらも戦争という数奇な運命を辿った帆船である。現在「日本丸」はみなとみならい21に展示保存、「海王丸」は富山新港海王丸パークに一般公開されている。どちらの帆船も太平洋を中心に訓練航海に従事していたが、太平洋戦争が激化した1943年(昭和18年)に帆装が取り外され、石炭などの輸送任務に従事した。戦後は海外在留邦人の復員船として引揚者を輸送。帆装が再取付けされたのは、1952年(昭和27年)であった。数奇な運命を辿った二隻に再び帆が取付けられたということは敏雄のみならず国民にとって感慨ひとしおであったことだろう。

満州北部の佳木(ジャムス)という地で19歳の医学生として終戦を迎え、抑留14か月後の昭和20年10月に引揚船(病院船)にて帰国した五味誠氏(満州国立佳木医科大学第4期生、現・馬込医院医院長)に話を伺った。

「僕は、新京駅から多くの患者たちに付添い、コロ島から引揚船に乗った。米国貸与のリバティ型貨物船だった。引揚者の患者が蚕の寝床のように板状に釣られて横たわっていた。医学生として船中で患者に付添うことが目的だった。蔓延していた結核、発疹チフスの患者たちだ。助からない患者を看取り、水葬するため遺体を海に沈めなければならなかった。辛かった。一学年下の同郷の友人が結核であったため、彼を故郷に連れて帰るという大目的があったが、1週間船に揺られ、さらに博多港の検疫所で1週間。彼は日本の地を踏む事なく息絶えた。あの引揚船でのさまざまな光景は、今もはっきりと憶えている。しかし、思い出すのは嫌だ。いつまでも辛い想いで忘れることはない。」

すでに敗戦後67年が経過してようとしている。壮絶な人の死を見てきた人の心は癒えることがない。敏雄と同世代、生きていくことが精一杯だった人々の底力を感じる。

あえて「やさしく使ふ」と表現しているが、帆縫針を帆を縫うために「やさしく使ふ」のであれば、敏雄の心の中に刻まれた人の死を一針一針鎮魂しているように思えるのだ。

敏雄の辿った多くの航路、昭和の歴史考えながら掲句をみると心が熱くなる。本当は「やさしく」なれない状況だったのだろう。

針のサンプル(広島県針工業協同組合)

33. 行雁や港港に大地ありき

雁の股旅物語。港港に女あり。渡る世間に未練はねぇ。山本紫黄の十八番だった「名月 赤城山」の歌詞(作詞:矢島寵児/歌:東海林太郎)には、「渡る雁がね」と入っている。やはりマドロスも股旅である。港も大地も女性を思わせる。

雁が港にやってくる。そこには、母なる大地が出迎える。命を育む大地があるからこそ、雁は命をつなぎ翼を休ませることができる。大地の恵みを受け取りながら、鋭気を養い、生きながらえて再び目的の地へ向けて北上するのである。

戦後、敏雄が海に逃れていた昭和30年代、日本人船員黄金時代でもあった。船乗りの給与は陸地の平均給与の約3倍といわれる時代であり、当時のドラマやアニメのパパ役は大抵が豪華客船の船長かパイロットという設定。海外航路に従事することは当時の憧れの職業であった。1ドル360円、為替が固定相場だった時代である。

現在は外国人就労者が8割になり、海運国である筈の日本にとっては、深刻な問題でもある。当時の寄港停泊は1週間が当たり前だったらしく、その時間を利用して敏雄は神戸の三鬼館を尋ねたりしている。長期航路の敏雄を三鬼との三鬼門の仲間(大高弘達・葩瑠子、大高敏子・淑子姉妹、山口澄子、山本紫黄)が横浜港に迎え、事務長私室にてオールドパーの封を切り、その後、新橋で宴という私上でも華やかなパーサー時代であったと想像する。

「まだ国際航海は許されていない頃であった。凡そ近海を廻り尽くすうち数年で日本中に知らぬ港はなくなった。港々は荒れていた。沖から見る日本列島は美しかったが、常に波浪に隠れ易く、あわれであった。時に復員船に仕立てられ、中国大陸や台湾にも幾度か在来した。朝鮮戦争では、米軍命令で彼の国の難民輸送にも当たらされた。句材には事欠かぬ筈であったが、志衰え、占領下激動するあらゆる社会現象に対しても、敢えて興味を持とうとはしなかった。幸い私の乗っていた船は航海練習船であったから、航海そのものが目的で、行方には、特に目的地はなかった。全く私は海に逃れていたのである。」

『まぼろしの鱶』後記

「大地ありき」とは、「大地がはじめからあった」「大地がもともとあった」という意味になる。港、船、車が「愛しい人」というニュアンスを含め女性名詞として表現されることがあるが、「大地」も愛しい人である。

大地の愛しい人を期待した旅の絵葉書が敏雄から紫黄へ届く。絵葉書は、南の島の女性が大らかに椰子の実のジュースを飲みほしている写真だ。

「途中ジョンストン島で核爆発(*1)のオレンジ色の余光を1000マイルはなれたところから望見したほか何も見ることなくタヒチに着きました。地上最後の楽園の呼称もいまは地に落ち単なる観光地の様相です。(中略)シコウのためにようやくこのエハガキを入手したので早速送ります。日本が地上最後の楽園かも知れません。オッパイに関する限り」

『弦』23号より(2008.10.1 遠山陽子刊)

絵葉書の文面から港港の字面がオッパイに見えてきた。

34. 捨乳や戦死ざかりの男たち

「チチ」である「捨乳(「すてぢち」…と読むと推測)」。

前回鑑賞句「行雁や港港に大地ありき」の「港港」の字面がオッパイに見えてきたのはそう間違ってはいない。ハワイで生まれたココナッツ酒のカクテル「チチ」は、「粋な」という意味を持つらしいが、「すてぢち」にはお国のために死ぬことが美徳だった時代に対するシニカルな嘆きが感じられる。

「戦死ざかり」の「さかり」の用法は肯定的な事象に対して使われ、物事が一番勢いのよい状態にあること、盛んな時期のことである。しかし「戦死」に「さかり」を組み合わせ、さながら「戦死」が男ざかりの祭のようだ。「戦死ざかり」という「戦死」に花の季節があったかのようだ。死にゆく男たちへ白く濁った酒のように乳を振り撒いているようである。それも「捨乳」。やぶれかぶれの「捨て鉢」と掛けているのか、とんでもない句に思える。

「戦死」という死の祭りということから考えて、今までの『眞神』鑑賞句から生死に対する祭のイメージがある関連句を拾ってみる。

母ぐるみ胎児多しや擬砲音(4句目)

晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ(6句目)

上記に母、父をよみつつ、胎児に響く「擬砲音」、空にばら撒かれる「晩鴉」が祭祀の音響、映像として浮かんでくる。

『眞神』には忘れられた日本の風習、つまりは日本の風土に根差す民俗学的視点で鑑賞することもできるのだが、それは敏雄が読者とのある一つ約束事、季語に替わるものとして、読者との同認識の結果にすぎない。例えば掲句でいえば、どこか郷愁の「祭」である。

本来の「祭」は、超自然的存在への様式化された行為である。祈願、感謝、謝罪、崇敬、帰依、服従の意思を伝え、意義を確認するために行われた。日常と深く関わっていた。村という共同体の中での儀式、儀礼として機能していた。「ハレとケ」のハレの部分である。死ぬことは、超自然的存在への帰依なのである。だから乳をふるまうのだ。それも捨乳で。

「戦死」は軍人が戦争や戦闘により死亡すること。婉曲表現として第二次世界大戦終結まで、仏教用語の「散華」が、また戦死者を美化して「英霊」とも呼んだ。ここに敏雄が、直接的な、「戦死」を選んだことには、「戦死」=国家の為に死ぬということに対しての痛烈な疑問が込められていると受け取る。

そして戦死という無惨な死の祭は、タイトルにもなっている句、

草荒す眞神の祭絶えてなし

へと繋がっていくようだ。

生まれることも死ぬことも選べないということを改めて考える。人の生死は自然の中に必然のようにある。だが戦死は必然とは違う。死んでいった男たちを残されたものが忘れない限り人は生き続ける。敏雄の戦後そのものだったのだろう。

どこか自暴自棄の、残されたものの暴力的な心理を感じる。

『望郷―山口晃展』(2012.02.11-05.13 銀座・メゾンエルメス)に於いて「正しい、しかし間違えている/2012」という床の傾いた部屋様の作品があった。

「通常私たちは、建物の垂直軸と重力方向が等しい環境に居る訳ですが、この二つがズレると目眩や、甚だしい場合は転倒を引きおこします。これは経験による体力維持が、知覚に依る体力維持を阻害する為におこるもので、経験上の正しさが不適合につながった訳です。ー山口晃」

わたしたちの経験、知識の何が正しいかなど当てにならないときがある。掲句は、読者の経験上の「俳句」とのズレを敢て生じさせているのだろうか。不思議な魅力がある。

35. 然(さ)る春の藁人形と木の火筒(ほづつ)

犬神と眞神。はじめて『眞神』の存在を知ったとき、どこかおどろおどろしいタイトル名は死国のイメージがあり『犬神家の一族』(横溝正史)を彷彿した。『犬神家・・・』も昭和の傑作であるし、村、復員兵、戦争、言い伝え、血族、などの共通項目は多い。

藁人形が「菊人形」である方がより近いけれど、掲句は特に『犬神家・・・』のイメージに近い。鉄砲を意味する「木の火筒」は猿蔵(犬神家の下男)が護衛のために持っていてもおかしくない。犬神佐清(すけきよ)、青沼静馬がビルマ出征前の軍事訓練ということも考えられるし、藁人形が佐清と静馬の運命を入れ替えた呪術のものとして登場していることも想像できる。

犬神と眞神・・・確かに一文字違い。犬神から点をとって大神(オオカミ)、山の神聖な神であるオオカミとなる。「大口眞神」のオオカミである。『犬神家の一族』はオオカミを意識しての犬神という姓なのだろうか。

作者の手を離れた後の作品は読者に懸ってくる。

「然る春の」が、漠然としすぎている。それが尚更、「藁人形」と「木の火筒」に物語を与えているように思える。

36. 正午過ぎなほ鶯をきく男

戦後俳句を読む (7 – 1)―「音」を読む―  三橋敏雄の句をご参照ください。

37. 共色の青山草に放(ひ)る子種

「青山草」とは、東京・青山墓地あたりに生えている草、青山・草月会館の隣りの高橋是清公園に生えている草、青山という地に生えている草ということも考えられるが、「青/山草」という切り方で青い山草と読むのがよろしいように思う。山草とは山に生えている草、あるいは裏白(ウラジロ)というシダ科植物の別名である。このウラジロが名前からして妙な雰囲気である。そもそもウラジロとは、正月飾りに使うもので、注連縄、ミカンの下に垂れ下げるのはウラジロと決まっている。その由来は、「裏が白い=共に白髪が生えるまで」という意味だという。そこに子種を放出する。これは、日野草城『ミヤコホテル』に対抗する解釈ができてしまう。いいのだろうか。

驚くことに、後の敏雄夫人の句に

帯どめと同色の草春の園   庄野孝子 (「断崖」昭和36年6月号)

があることを発見した。似ている。巨匠、大いに初学の子女の句と似ている。 いいのだろうか。

労働者の句とも読める。ミレーの『種まく人』のように大地に放出する力強い労働する男の姿。「放る」というだけでとても力強いのだが、それを「共色の青山草」として、「萌え」な柔らかい雰囲気にするところなど、本来、バーのコースターの裏にでも書いてポケットに忍ばせるような句だという気がするのだが、『眞神』に収録されているのだ。

チチハハへのセレモニーだけでなく、野を駆けて放出し、老いていく敏雄がいる。それが次回の句である。

38. うぶすなの藁がちの香よ疲れ勃つ

「ガチ」という言葉が2000年後半から20-30代世代で使われるようになったようだ。「本気/本当」の意味だが、現在ではそれを飛び越えて「超」や「激」と同様の「程度が激しい、出来がいい」という意味合いも持っている。接頭語として使う。しかし、収録作家の年代が30-40代だからか『超新撰』は「ガチ新撰」とは呼ばれていないようだ。接尾語としての「がち」。「勝ち(がち)」であれば、「その傾向が目立つようになるさま」(『三省堂古語辞典』)ということ。

産土神(うぶすながみ、うぶしなのかみ、うぶのかみ)は生まれた土地を領有、守護する神。あるいは本貫(先祖の発祥地)に祀られている神。

では、「うぶすな(産土神)の藁がちの香」とは、私たちの祖先が土地に根付いて生きてきた証のような香り、家畜糞とともに藁などの副資材を混合した堆肥の匂いの中から藁の香りに傾いて薫ってくるということを想像する。いわゆる土の第一印象の香り、トップノートが「藁がち」であるという中でトランス状態となり「疲れ勃つ」。肉体を酷使した男、田園の男、再びミレーの『種まく人』である。伽羅、栴檀などの源氏物語の王朝の香りとは異なる農耕民族の香りである。

そして「疲れ勃つ」っている作者敏雄の目線はあまりに遠い。自己の姿でありながら醒めすぎる目で望遠していると思える。別の「われ」を観察しているように映ってくる。

33句目から38句目までの句を配列順に記す。

行雁や港港に大地ありき

捨乳や戦死ざかりの男たち

然(さ)る春の藁人形と木の火筒(ほづつ)

正午過ぎなほ鶯をきく男

共色の青山草に放(ひ)る子種

うぶすなの藁がちの香よ疲れ勃つ

ただ寡黙に生きることに従い、流されて港へ行き、死にゆく男達を葬り、呪術ともなる道具を回顧し、耳の奥にいつまでも鶯の声がし、野に出て肉体が性的に反応し、脳裏に蘇るさまざまな出来事が反転しているネガフィルムのように、われの中で螺旋を描いている。全ては事実でありながらもうそれは過去という夢に変わったのか。全ては何も無かったということに等しい。ただ、ここにわれが生きるというだけの現在の生という命があるのみである。出会った人も、見たものも、聴いたことも全てはまぼろしだったのではないか。事実と事実の間、瞬間と瞬間の間にただわれがいたというだけなのだろうか。

産土神に導かれるように自分の肉体は興奮し、子種を放出する健康な肉体を持つ。われは孤独な塵でありミトコンドリアと同じ生命体をただ老いていくだけなのである。そして命ある以上、いつかは死ぬのである。今ある個の命を生きている、ただの「われ」が存在することが感じ取れる。

39. 真綿ぐるみのほぞの緒や燃えてなし

桐の箱に入った臍の緒を母から渡された。確かに真綿にくるまっていた。ミイラのような臍の緒がただそこにあった。生体から水がなくなると繊維質だけになる。母と自分を結ぶものであった証、己が人の腹から生れて来たという証である。しかし母と己の関係は今は別の人間として別の時間を生き、生まれたときから別のことを考えている。いつから自分は自分というひとりの人間であることに目覚めたのだろうか。真綿で大切にくるまれたように赤ん坊は祝福され大切な宝のように育てられる。このミイラのような臍の緒がなくなったとしても何の影響もない。戸籍も年金番号も電話番号も今まで通りである。自分が死んだらこの桐の箱は誰が始末しなければならない。燃えてしまえばなくなって何もなかったかのようだ。母と自分がこの管で結ばれていたという事実も過去もなかったことと思うこともできる。

措辞「燃えてなし」ということは、今まではあったものが存在して今、ここにないこと。けれど関係とは目に見えないものである。管は切られてなくなって、それでも縁は切れないもの、母子以外の縁もそうなのだろうか。

40. 夕より白き捨蚕を飼ひにける

「捨乳(すてぢち)」が出てきたが、ここでは「捨蚕(すてご)」である。病気あるいは発育不良の蚕は、野原や川に捨てられる。「捨蚕」と「捨て子」同じ響きであることがどこまでも悲しい。蚕は家畜化された昆虫であり野生に生息しない。またカイコは、野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、人間による管理なしでは生育することができない。人の手により育てられる蚕は人間の赤子のようでもある。

生きながら捨てられているものを飼う。臍の緒が燃えてなくなり、捨て子となったわれのように。生きているものはいつか死ぬ。生きているものだけがこの世にいる。今、生きているものは、この作者と蚕だけのような錯覚にも陥る。他に生きているものはいないのか、という問いでもあるように。

「夕より~飼いにける」という時間経過は何なのだろう。夕べから現在までの時間経過が妙な想像をも働かせる。正確に時制を考えると、夕から現在まで捨蚕を飼い続けているということだが、ではこの先をどうするのかは、何も言っていない。捨蚕を飼うことがはたして慣れない人にできるのか。蚕は野生回帰能力のない動物であり、蚕を桑の葉にとまらせても、ほぼ一昼夜のうちに捕食されるか、地面に落ち、全滅してしまう。幼虫は腹脚が退化しているため樹木に自力で付着し続けることができず、風が吹いたりすると容易に落下してしまうからだ。加えて病気あるいは、発育不良の捨蚕である。

過去から現在進行形で捨蚕を飼っていることがわかるが、この先おそらく長くは生きていられない命であることが伝わってくる。

41. あまたたび絹繭あまた死にゆけり

真綿、捨蚕の次は、絹繭である。敏雄の生れた八王子は絹織物の産地として名高い。蚕の一生はわずか57日ほどで幼虫は桑の葉だけを食べつづけ4回の脱皮を繰り返す。やがて蚕は1,500mほどの糸をおよそ2昼夜吐きつづけ、頭を8字形またはS字形にふりながら、美しい一粒の繭をつくりあげる。蚕は繭の中でサナギとなり、蛾になって繭殻を破って飛び立つ。蛾になる前に殺蛹し、かたちのよい正繭が絹となる。これが「絹繭」ということになる。それが死んでいく状態とは、繭玉の数だけ殺蛹が何度も繰り返えされることを詠んでいるのだと解釈する。

蚕の養蚕は中国で発生し5000年以上の歴史がある。日本では『古事記』『日本書記』にも登場する。幼虫が吐き出したもので生糸ができるということはまさしく不思議な発見だ。絹繭になる蛹は死ぬことが決定づけられることになる。

知らず、生まれ死ぬる人、何方(いづかた)より来たりて何方(いづかた)へか去る『方丈記』

「死にゆけり」という直接的な命の終りを詠うことにより命の行く末を正視しているといえよう。前句「夕より白き捨蚕を飼ひにける」の「飼いにける」と同様、「けり」が過去を抱えた形をとっている。過去も沢山の絹繭が死んでいったが、今も沢山の死んでいく・・・過去を抱えた死であることがわかる。前句の「生」と掲句の「死」の配列であるともに二句にわたり「けり」を使用し、生きていることも死ぬことも過去から現在、そしてその先へ繋がる普遍なき輪廻であることを言わんとしていると読みたい。

42.父母や青杉の幹かくれあふ

「隠れあふ」というのは、青杉が重なり合い、青杉が青杉に隠れているということなのか。杉の木と木の間に父と母の幻影をみたというのだろうか。

ルネ・マグリットの絵画『白紙委任状』(原題- Le Blanc-Seing )を思い浮かべる。まさしく敏雄の俳句の投影のようである。

「目に見えるものはいつも別の見えるものを隠している」

「馬上の女性は木を隠し、木は馬上の女性を隠す。しかし私たちの思考は見えるものと見えないものの両方があることを知覚している。思考を目に見えるものにするために私は絵を利用する」-ルネ・マグリット

見えているようで見えていない世界、思考が螺旋のようになっていく敏雄の俳句。思考は17文字の中から広がり読者の脳裏に絵を描きだす。

父母。42句目にして同時に出て来る父と母。われよりはるか遠いところにいる。そして見えるような見えないような。われの中にあるチチハハ。

ちーちーはーはー。杉林の中で遭難したような気になる。新緑の山に足を踏み入れると杉の香りに誘われて自分のルーツがそこにあるようだ。村はすでに消えた。眞神の山の杉の木は青くそして昏く、奈落という死の淵がいつもその脇にある。鳥の声がする。

43.きなくさき蛾を野霞へ追い落す

2012年3月某日。快晴。

それは北関東、狼信仰の名残りある山。狼の狛犬、カラス天狗を確かめたく車を走らせた。途中には庚申塚や道祖神が山の懐のように路肩から手を伸ばすと届く位置にあった。川の流れる音だけがする。民家が幾つかあり茶畑の手入れをしている人が不思議そうに車を見送っていた。山道は意外にも奥の奥まで舗装され、「熊出没」の立て看板を幾つも通り過ぎた。この先に民家が無いという印のようにとうとう舗装が途切れた。ところどころに落石が散乱する道に突入し、山側には伐採された杉の木がばらばらに横たわり崩れてきそうだった。突然とうっそうとした杉林が道幅を暗くしている。右は谷。奈落は深く明るく落ちて行くにはあまりに晴れていた。その時点で町に引き戻ろうと足をすくめ出直すことにした。あの時、蛾を見なかったことが幸いしたのだろうか。

「きなくさき」という措辞により、物騒なことが起こりそうな気配をもつ蛾である。

日本では、古来、蝶と蛾の区別はなく、かつては、かはひらこ、ひひる、ひむしなどと大和言葉で呼ばれていた。蝶と蛾の区別は、英語圏の博物学の導入により”butterfly”と”moth”の分類法が日本語に導入されたらしいことに依るらしい。蛾類学会の生物学上の分類は、昼間の環境に特化して飛翔力の鋭敏な一群を蝶と呼び、それ以外のものを蛾と呼んでいる。

蝶や蛾は、蛹(さなぎ)から飛び出してくるので、人間の体から抜け出る霊魂と同じように考え、あの世(常世)とこの世(現世)を行き来する吉と不吉との両面から意識されていた。「日本書紀」には虫神として祭られ「常世(とこよ)の神」と表現されている。蛾は特に嫌われ者という扱いではない。

この句で意識するのは、「常世」そして、追い落とすという措辞から「奈落」の世界が考えられる。40句目の「夕より白き捨蚕を飼ひにける」41句目の「あまたたび絹繭あまた死にゆけり」の繋がりを考えると、養蚕の神として「おしら様」と崇められもする蚕が、今度は、蛾となって野霞の奈落へ追いやられ、嫌われもの扱いのように読める。小さな共同体の中のいじめのようにも思える。いわゆる村社会である。

馴染みの人々も老いて死に、かつての家族は都会へ移り住み、村から人が消え廃屋となった家々が残る。どこか時間が止ったような世界は、時間軸のない常世の世界という映り方。再び、阿部公房の『砂の女』の世界へ入ったような、主人公の男も昆虫採集の途中で穴に落ちた。人は、時間軸のない世界へ興味をもつ。

この句の常世と思える世界は、奈落なのである。時間軸のない奈落。

39句目「真綿ぐるみのほぞの緒や燃えてなし」から時間軸が停まったような句が多くなる。

しばらく、読者はその停滞した時空を読者は浮遊していく。

44. 箸の木や伐り倒されて横たはる

「横たはる」と言っているだけで何も主張していない句。しかし読者は何故か、その先に眼をむける。それは書かれていないものを読もうとする俳句だからだろうか。

「伐り倒されて」の受動する措辞。倒されるのは箸の意志ではなく、人の意志がそこにあるということだろう。そして「横たはる」という人を想像させる擬人化に近い表現からだろう。殺されて横たわっている箸の木という生き物。死者が横たわるように描かれているのではないかと読む。

掲句が収録された『眞神』上梓の時代は「エコロジー」という言葉が定着していない時代である。「箸の木」は消費されるために倒される。『眞神』上梓の頃にインドネシアで日本の割り箸の木となる木が伐採されて山が枯れている写真をみた。おそらくその頃から箸をとりまく環境問題が論議されてきたのだと振り返る。現在『眞神』上梓から38年経過した。箸の木の伐採が本当に環境破壊を引き起こしているのかどうかは、論議が繰り広げられる難しい問題となっている。

割り箸から見た環境問題

日本に箸が入ってきたのは、弥生時代の末期。その当時の箸は、「折箸」という、細く削った一本の竹をピンセットのように折り曲げた形であり、一般人の用途ではなく、神様が使う神器、または天皇だけが使うことを許されたものだった。7世紀の初め、中国での箸の使用について遣隋使から報告を受けた聖徳太子が朝廷の人々に箸の食事作法を習わせ日本での食事に箸を使う風習が始まったらしい。「古事記」にも箸が登場する。敏雄の生れ育った八王子・高尾山の飯盛杉は地面に刺された箸が根付いて大木や神木になったとする箸立伝説が残っている。

切り倒され横たわっている箸の木を想像し、お箸の国について考える。いただきますとごちそうさまが言えることに感謝し、箸をもつ指先から箸の木たちの魂を感じ取りたいと思う句だ。

45. さかしまにとまる蝉なし天動く

確かに蝉は逆様には留まらない。コペルニクスは、地球が動くとし、敏雄は天が動くと詠んだ。

ここで俳句の躍動を感じるのは、「なし」といって「動く」となることだろう。このような当たり前の事実に基づく句が好きだ。事実は動かない。けれど、天が動くのである。このような技を身に着けたい。「俳道」という言葉があるのならば、その道に精進したい。

ここでの天動というのはピタと木にとまった蝉を中心に天が動いていく風景が見えてくる。天動説(全ての天体が地球の周りを公転しているとする説)の意味に少し近いようなことも考えるけれど、それはジコチューの世のことも言っているのかとも推察したりする。

「さかしまにとまる蝉」がもしあったとしたら、どうなっているのだろうか。そしたら、「地」が動くのかもしれない。確かに「地」が動いたら、「ビックリハウス」(遊園地にあるアトラクション)になるのかもしれない。そんなことを考える句。地動説(地球が動いている、という学説。)は確かに正しいが、さかしまにとまる蝉は、間違えていると脳が考える。

事実は動かないのである。それは江戸俳諧を身に着けた敏雄ならではの俳技だ。

今迄の鑑賞句を振り返り、三橋敏雄は秀才にして多作。ありとあらゆる方法、全く意外な取り合わせに遭遇するばかりだ。

江戸に花咲き、今も生き残る俳句、現代の俳句として引き継いだ三橋敏雄の功績が賞されることに同意する。

46. 油屋にむかしの油買ひにゆく

油を買いにゆく、それも「むかしの油」。

「むかし」とは「油屋」という名称が日常にあった江戸の頃を想像する。

江戸の風情を買にいく。

油のリフレインの中に人との繋がりが潜む。

江戸のむかし、油は行商人が売りに来た。

そう「油を売る」とは「油売ってんじゃねぇ。」と言われるように「無駄話をして時間を潰し、仕事を怠けること」の意味を持つ。熊さん八っつぁんの江戸情緒、江戸しぐさ(江戸の商人哲学)が伺える。「油売る」のその意味は、「風が吹けば桶屋が儲かる」ほどのかけ離れた因果関係はないが江戸の人の営みが見えてくる。

髪の油、行灯油は当時、粘性が高く、柄杓を使って桶から客の器に移すにも雫が途切れず時間がかかる。商人が、婦女を相手に長々と世間話をしながら、油を売っていたところからその意味に転じ「油を売る」といわれるようになった。

あえて「油屋」が示すことは、すなわち、ゆっくりとした時間を共有していることである。人と人とのコミュニケーションが成立していた時代。「ありがとウサギ/まほうのことばで/たのしい仲間が/ポポポポ~ン」という歌詞が繰り返し流れた2011年のあの時も時間の共有であるが、地球の大きさも時間の長さも当時と微妙な差があるとしても、流れる物事の早さが異なる。その感覚が「むかし」という言葉に因り引き出されているのではないか。それを敢て「買ひにゆく」ことにある。

読者を個々の郷愁に連れ出そうとする『眞神』の時空がそこにある。

47. みぎききのひだりてやすし人さらひ

利き手は何をするにもまず先に出る。

利き手の握力は強い。握力の弱い利き手ではない手で、危険と思うことができない。

人は誰でも弱い部分を持つ。「人さらひ」という鬼畜のような存在がふと見せる人間の穏やかさとしての「やすし」。そこに「人さらひ」の人となりがみえてくる。

左、右を示す表現は多義である。「人」を除く表記がひらがなであることも人のやさしさに対する配慮であると思える。

下五の「人さらひ」の取り合わせが読者の想像力を働かせる。けれど、ヒトサライが右利きであることなど、誘拐に遭遇して気が付くのだろうか。それは、ヒトサライを観察してそこにコミュニケーションが生まれなければ利き手などわからないだろう。「わたしを奪って・・・!!」と懇願されて仕方なくヒトサライになった男狼だろうか。それもひらがなが醸し出す淫靡なマジックだ。

人について考える、人の手について考える。その手には温度があるということだろう。

48. 野を蹴って三尺高し父の琵琶歌

誤読その1.

三尺高いのは父の琵琶歌の声のトーン、あまりに甲高い琵琶歌のため、われは家にいられなくなり心乱れて「野を蹴って」みるが耳の奥にいつまでも父の高音域の琵琶歌が聴こえる。しかし、唄方・杵屋三七郎に尋ねると、邦楽で音階調子を「尺」で表現することはないらしい。

誤読その2.

下図は『三橋敏雄俳句カルタ』(読札:三橋敏雄/イラストレーション:ナムーラミチヨ)の読札と絵札である。

『眞神』の世界観を表す構図があるように思え絵札を凝視する。この絵がこの句の全てなのではないか。読札も絵札も、見る側に寡黙でありつづける。評論や鑑賞などは敏雄にとり無意味なのではないだろうかと無力さに打ちひしがれる。

絵を観て思う。まず、三層の構図。野/空中/琵琶を奏でながらの父の素足。上五・中七・下五の下から上へあがって行く構図。エイヤー!と野を蹴りあげ、ベンベンベン~と琵琶の音色と悲しみが響き渡る野という空間、それを観ている「われ」がいる野、われが感じる空気、音、父の存在・・・句が作りだす空間を絵札から体験した。そして絵札の中心を占めているのは、「空」(くう)、大きな空間であることに気づく。

絵から句に戻る。

野を蹴って

三尺高し

父の琵琶歌

三尺は約90㎝。「三尺去って師の影を踏まず」のことわざがある。三尺高いのは、父の存在そのもの、父と自分(われ)との距離。野という茫茫とした空間にただ茫然と立つわれ。空(くう)に広がる琵琶の低い弦の音、世の無常を歌う父。

なぜ三尺分「高し」なのか。そこに影を踏めない父の存在の高さがある。「高い」という表現に、「高笑い」「高楊枝」「高圧的」など、自分よりも相手が高いという意味合いがあり、そこに昔ながらの家督としての父の威厳が直結してくる。「父」は常に高い位置にいる。その父を表現するに敏雄にとって「琵琶歌」が直結したのだろう。ナムーラさんの描く「野」には父の足の影は全く描かれていない。父という存在の空虚という音に託したのだ。

敏雄の観念が弧を描いているようだ。誰もいない野で見た幻想の世界なのかもしれない。しかし、その観念は「野を蹴る」という力強いリアルな表現を得て、確信を得ている。蹴って飛びあがったからこそ琵琶歌が三尺高いところから聞こえてくるというリアリティ。観念をリアルに変え、原因と結果の相関関係がまさに弧を描いてみえる。

野にでれば、父がいる。

晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ

 

野に打込まれた杭に父を投影する。父が登場するわれの立ち位置は野である。『眞神』における父の存在。

更に何故、字余りにしてまで「父の琵琶歌」を書いたのか。

鐘消えて花の香は撞く夕べかな 芭蕉

 The temple bell stops -

 but the sound keeps coming

 out of the flowers.

         BASHO (translated by Robert Bly)

芭蕉句はアメリカ人ピアニスト、グレン・グールドの関連書籍の扉に引用されていた。

(『グレン・グールドは語る』グレン・グールド/ジョナサン・コット/ちくま学芸文庫)

漱石自身が俳句的小説と評する『草枕』に心酔した音楽家・グレン・グルードの眼を通し、上記の芭蕉の句が音を奏でる哲学的意味をもつように読める。音はせずとも鳴り続く、耳の奥で。搗きつづけるのは、空虚そのものであり、音は心の中にあるもの、というように読める。テーマ「音」の論考ですでに敏雄句から実際の音が聴こえてこないこと、音がミュートになっていることを述べたが、芭蕉に通じていることを改めて思う。この芭蕉句は、敏雄の「野を蹴って」の句そのものではないだろうか。何もない野に「父の琵琶歌」が響き渡る。荒涼とした野に広がるものは、まさに空(=空虚)であり、父の琵琶歌が心の空虚をつき続けているということというように読めてくる。「父の琵琶歌」でなければ、つけない空虚なのである。

敏雄直筆の読札に掌を置き、様々に位置を変えながら読んでみる。

「野」-「琵琶歌」/野に出てこそ聴こえる琵琶歌

「蹴る」-「高し」/蹴ったので高い 原因と結果

「三尺」―「父」/ 常に三尺高い父の存在

「父」-「琵琶歌」/父だけが歌う琵琶歌

「野」-「父」/ 野に出れば父がいる

実際の言葉があらゆる相関性をもちこの句が躍動的に廻っているように見えてくる。読札から不思議な空転体験をしているようだ。

敏雄の父親は実際に琵琶歌を歌い、その歌声は高い音程であったと敏雄が話していたと伺ったことがある。「父の琵琶歌」のキーが高いと感じた第一印象はそう外れていない。それは敏雄の句作の動機付が作者に伝わったということだろう。

敏雄の句は、回転する。まるでそれは、コンセプチャルアートのインスタレーションの中にいるような、「言葉の世界の体感」を感じ得ることができる。

絵を描くこと、言葉を紡ぐこと、詩を書くこと・・・何かを作ろうとする作り手の動機と、実際のリアルであることの誤差を幾重にも頭の中で線を引きなおし描きなおしていく。読者に解ってもらうことなどどうでもよく(読者に迎合する意味)、言葉がぐるぐると繋がりを持ち、手を結んでいた。

ナムーラさんが実際に48枚の絵札を描きあげた制作期間はたった半年だったという。おそるべき集中力。この句が48句目であることも何かの縁のように思えた。まさに48句目にして、ようやく登山道入口に辿いたところだろうか。この地点から未だ『眞神』の山は、高く険しく崖のように聳え立ってみえる。

『眞神』神社にて入山の禊の御払いをし息を落ち着かせたい。

56.花火の夜暗くやさしき肌つかひ

花火の句が2句つづく。

花火は夏の季語。エロティックな句である。花火は夜に打ち上げるものだが、敢て「花火の夜」としていることで「特別な夜」の意味合いを感じる。

女との逢引に花火の日を選んだ。はじめからその女を抱きたいと思い、その夜を選んだと空想が走る。大輪の花火の明るさと、特別な夜、「肌つかひ」から「息遣い」を連想させ、読者を大人の世界へ連れて行く。俳句は大人の遊びである。

「暗く」と「やさしき」が並列されていることに不思議さがある。肌をすべる指の動きを形容しているのならば、その「暗さ」はその人の過去とも想像が働いていく。やさしくて暗いということに魅力を感じる人がこの句に感銘を受けるだろう。

そして、敏雄の師、三鬼に花火の句がある。

暗く暑く大群衆と花火待つ   三鬼

敏雄は師である三鬼の花火の句の続きを詠んだのかもしれない。

57.しらじらと消ゆ大いなる花火の血

花火の句二句目。

明るさの中で弾けて行く花火、その零れる発光を「花火の血」としていると解釈する。

「花火の血」とは何だろうか。

不意に指を切り、ポトポトと滴れる血は表面張力のある円となる。勢いがなければ花火のようにはならない。「返り血」というものを実際見たことが無いが、劇画での「返り血」は不定形に飛び散るもので、円形に開く花火というより爆発のイメージに近い。

溢れて噴出している空に映る光を「血」とした。

敏雄が見た「血」と「花火」。そこから「戦火」を想像するのは短絡ではない気がする。「戦火」と「花火」どちらも火薬でできている。爆発するものの閃光を想像する。

消えて行くのは光であり命でもある。花火から連想される命という儚さ。花火が川開きに打ち上げられるのは死者の霊を弔うということがはじまりらしい。精霊も花火と血とともに流れて消えてゆく。命とは光のようなもの、噴き出して爆発する光。命の象徴を「血」としたのだろうか。

花火は戦後、GHQにより火薬製造が禁じられたが、1948年に両国川開きの花火大会が復活した。平和な時代を象徴するかのような花火にどこか冷めた眼で閃光をとらえている世代がいたことを思う句である。