「しあわせ」・・・みたいなもの
「し・あ・わ・せ」
飼い葉桶の中の幼な子のイエス=キリスト、
それを囲むマリアとヨセフの「3人の親子」
の像をじっと見つめながら3歳の娘が言った。
自分が三歳のとき、わたしは、
「しあわせ」という言葉を使った覚えが、ない。
愛、希望、そして、幸せ。
そうした“抽象的”な表現を、
ひとは、いつ、どのようにして、
覚えるのだろうか、と、不思議に思った。
思い返せば、わたしの娘は、
一歳から「しあわせ」という言葉を使っていた。
大抵、彼女が「パイ」(授乳)をしている時だ。
きっと、わたしが授乳中に、
(幸せだなぁ〜〜。)と感じ、
「しあわせ。」と、呟いていたのだと思う。
娘が最初に「しあわせ」という音を聴いた時に、
「しあわせ」という“言葉”は、
単なる “記号”でしかなかったはずだ。
何度か同じ“記号”を、
同じシチュエーションで繰り返し聴いたので、
似たようなシチュエーションの時、
その“記号”を繰り返した、
それが言語習得のプロセスなのかもしれない。
目に見えるものは、
センチ、寸、あるいはインチでもいい、
そういう風に、“定量化”できる。
“定量化”できないことを、
ひとつの“記号”に当てはめようとした時、
常に曖昧さと不確実さを含んでいる。
わたしが最初にそれを知ったのは、
音楽を通してだった。
わたしは小学校で「音楽同好会」なるものに
所属していた。我が校の「音楽同好会」は
結構なもので、NHKの全国小学校音楽大会で、
全国2位になったほどだった。
小学校6年生の夏、わたしたちは「ある愛の詩」
(1970年ライアン・オニール主演のアメリカ映画)のテーマ曲を、練習していた。
悩ましげでドラマチックな曲調に、
チェロ担当のわたしは、
かなり陶酔しながら練習していたのだけど、
顧問の言葉で、ガーンと来たのを覚えている。
「君たちに、この音楽はムリだ。
まだ、○○(思い出せない)を知らないので、
この音楽の深みを出すことが、出来ない。」
音譜は読めるし、
その楽譜を“正しく”演奏することは出来る。
しかしながら、その“○○”を知らないので、
“それ”の深みを、表現することは、出来ない。
小学生のわたしは、ほぞを噛んだ。
悲恋、を、小学生は、知らない。
あぁ、早く、深みのある音楽を奏でたい。
“深み”とは、“体験”または“体感”があるからこそ、
出来るものだ、と思うのは言い過ぎだろうか。
ひとが、もっとも欲しいものは、
定量化されているものでも、
ラベル化が出来てしまう“記号”でもなく、
常に“曖昧さ”と“不確実さ”を含んでいる、
抽象的なものなのだ。
たとえば、「し・あ・わ・せ」というような。
今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。
クリスマスツリーが「しあわせ」っぽいというのも、実は記号だ。