チベット死者の書
http://www.joyu.jp/hikarinowa/shrine/ 【仏教思想】より抜粋
チベット死者の書:死から再生までの中間状態での救済を説く経典
チベットには、『バルド・トドル』(チベット死者の書)という死から次の生への再生までのプロセスが記された経典があります。成立は14世紀頃で、バルドとは、死から次の生に再生するまでの間の中間状態のことで、中(ちゅう)有(う)・中(ちゅう)陰(いん)とも言い、最長49日間で転生していくとされます。
『バルド・トドル』とは「バルドにおいて聴くことによって解脱する」という意味であり、死者にこの経典を読み聞かせることで、迷いの世界に転生せず、解脱するように導くためのものです。中間状態のありさまが描写されており、死を解脱のチャンスととらえています。すなわち、バルドは、再びこの世に転生するか、解脱するかの分かれ道です。なお、聴覚は、死後も機能し続け、死体の中の意識に大きな影響を与えると考えています。
死者の書によると、死後のバルド(中有)は3つあります。それは、①「死の瞬間のバルド」(チカエ・バルド)、②「存在本来の姿のバルド」(チョエニ・バルド)、③「再生に向かう迷いのバルド」(シパ・バルド)です。
「死の瞬間のバルド」(チカエ・バルド)
【第一の光明の体験】
息を引き取って間もなく現れるバルドで、まばゆいばかりに透明な光が現われてきます。この光こそ、生命の大本である原初の光・根源の光であり、私たちの「心の本性」です。その光は、実体も、色も、形も、汚れもなく、空であり、輝きに満ちています。その光に飛び込み、溶け合えば、解脱するといいます。
しかし、そのことを死者に呼びかけますが、ほとんどの魂は、このチャンスを生かすことができません。まず、ほとんどの人々は、死後に、この根源の光明を認識できずに、気絶したままであり、その気絶は、3日半~4日半続くと記載されています。
気絶していなくても、光明が現れる時間の問題があります。生前に修行・善行を積んだか、悪行をなしたかで光明の現れる時間は大きく異なります。瞑想の訓練で、気道(ナーディ)を清めた人には、この光はいつまでも見えるのですが、そうしていない大部分の人々には、指を鳴らす瞬間で終わったり、数十分しか続かなかったりするといわれています。
さらに、大半の人々は、生存中に光明を認識する方法(修行)に馴染んでおらず、光明が現れても、それに対して強い恐怖を感じ、溶け込むことができないといいます。
【第二の光明の体験】
第一の光明である根源の光に溶け込めなかった者の前には、第二の光明が現われます。この際、死者は自分が死んでいるのか、死んでいないのかわかりません。しかし、家族のことは見えるし、彼らが悲しんでいる声も聞こえます。ここでも死者に対する導きの呼びかけをしますが、気絶していてこの状態を認識できない死者も多く、この光にも、溶け込める者は少ないといいます。
「存在本来の姿のバルド」(チョエニ・バルド)
続いて【第三の光明】が現れます。この時期、死者は、親族たちを見ることができますが、親族たちは、死者を見ることはできません。そして、第三の光明は、すさまじい音響と色彩とともに現れ、死者は恐怖と戦慄と驚愕によって失神してしまいます。
『バルド・トドル』では、このバルドの初めに「バルドにおけるヴィジョンは自分の心(意識)の現われである」と死者に語りかけます。第三の光明も、その後の神仏も自分の心の現われであるので、怖れることはないと説きます。
4日後には、死者は失神から覚めます。このバルドは、光と波動、イメージの世界であり、光が様々な大きさ、色、形の仏や菩薩の形をとって現われます。48の寂(じゃく)静(じょう)尊(そん)と58の忿(ふん)怒(ぬ)尊(そん)がたち現われます。これは、心の本性に蓄えられていたいろいろなもののうち、最も純粋で、輪廻の世界の力に染まっていないイメージが出現したものです。それらに溶け込めば六道から脱却できます。
寂静尊とは、穏やかな仏陀や菩薩方。忿怒尊とは怒りの表情をした神仏。日本でいえば不動明王などの怖い形相の神仏と似ています。忿怒の相でも、人を解脱に導く神仏です。しかし、ここでも、溶け込むことはできず、解脱できない者の方が多く、その者たちは、次のバルドへと向かいます。
「再生に向かう迷いのバルド」(シパ・バルド)
シパ・バルドでは、生前における業(カルマン)がイメージやヴィジョンとしてはっきりと表面化します。生前、善い行ないが多ければ、至福と幸福感が入り混じったものになり、生前、他人を害したり傷つけたりする行為が多ければ、恐怖や苦渋に満ちたものになります。そして、これも自己の心の投影であると説かれます。
また、物理的には、私たちの意識は、カルマンが作る激しい風に追い立てられ、恐怖に呑みつくされ、タンポポの綿毛が風に翻弄されるように、薄暗がりの中で為すすべもなくさまようといいます。
さらに、有名な閻魔様による裁きは、このバルドで行われ、自分の生前の業に応じて六道のどれかに生まれ変わっていくということです。
心理学者ユングによる『チベット死者の書』の解説
著名な心理学者のユングは、人間の深層心理に関する自らの理論と『チベット死者の書』との類似点に驚愕しました。そして、同書は、人間の魂を神性の光であるとし、死者に自分の本来の価値を気づかせる深い意義を持っているとして高く評価しました。また、死後のバルドは、人間が生まれた時から見失っていた自分の「魂の神性」を回復する試練のプロセスであるといいました。
そこでまず、人間の深層心理に関するユングの理論を説明します。ユングは、意識を階層構造でとらえましたたが、それを図で表すと以下のようになります。
ここで、表層意識とは、通常私たちが自覚している意識です。意識全体の5~7%くらいといわれています。
個人的無意識とは、私たちが自覚していない、忘却している意識です。人生で経験した全情報が蓄積されています。忘れていたことを思い出すのは、その情報が、ここから表層意識に上っていくことということです。
集合的無意識とは、人類が共通して持っている無意識であす。ユングは世界中の宗教的象徴、神話、昔話、芸術の研究により、人間の無意識に人類共通の象徴が存在することを見出しました。
元型とは、集合的無意識の内容・中身であり、人類共通の原初的な普遍的な思考形態・感情・生来の行動の様式のひな形です。元型がイメージ化したものが「元型イメージ」ですが、このイメージ自体を元型という場合も多くあります。
例として、母性は、元型の一つであり、他者を大きく優しく包み育む心の働きですが、これをユングは「グレートマザー」と名づけました。日本語では、慈母・聖母といったイメージでしょうか。また、「賢い老人」も元型の一つで、白い髭の仙人のようなイメージです。
そして、「自己」とは、後に詳しく述べますが、「私」という意味ではなく、ユング心理学の特別な用語です。それは、全ての元型を包括する元型の精髄であり、意識と無意識の双方を含んだ心全体の中心であって、人の持つ神性の象徴、内なる神のような存在です。
ユングによるバルドの解釈:シパ・バルドは個人的無意識の作る世界
次に、ユング心理学の理論と『チベット死者の書』のバルドの類似点について述べます。まず、ユングは、「再生に向かう迷いのバルド」(シパ・バルド)は、個人的無意識の世界を表しているとしました。
通常私たちは、自分をいい人であると思いたいために、自分の汚い部分、強欲さや自分勝手なところは、表層意識から閉め出して、この個人的無意識の中に押し込め、見なくてすむようにして忘れてしまっています。そのため、個人的無意識には、修行で浄化しない限りは、エゴの心から生じる汚れた要素がたくさん存在しています。
このエゴの心は、先に述べた通り、六道に生まれ変わる心であり、シパ・バルドは、個人的無意識が作る世界であるといえます。具体的にいえば、個人的無意識の中にある六道に生まれ変わるエゴの心の働きが、バルドにおいて幻影のヴィジョンとして現れ、それをきっかけとして六道に転生するという仕組みです。
なお、個人的無意識の理論を打ち立てたのは、フロイトという著名な精神科医・心理学者です。精神的な病を負った患者を診ることで、人間の無意識領域には、反道徳的な欲求や感情、自分勝手なエゴの心が押し込められていると考えました。
そして、『チベット死者の書』のシパ・バルドの記載には、フロイトの主張した無意識の中に存在する「エディプス・コンプレックス」と非常によく似た記載があります。エディプス・コンプレックスとは、人間は、乳幼児から性愛衝動を持っており、無意識に異性の親の愛情を得ようとし、同性の親に嫉妬する衝動のことをいいます。この衝動は抑圧されており、個人的無意識の中にあります。
一方、『チベット死者の書』においても、人が「もしも男性として生まれる時は、自分自身が男性であるとの思いが現れる。そして交歓する父母の父に対しては激しい敵意を生じ、母に対しては嫉妬と愛着を生ずる思いを持つであろう。もしも女性として生まれる時は、自分自身が女性であるとの思いが現れる。そして交歓する父母の母に対して激しい羨望と嫉妬を生じ、父に対しては激しい愛着と渇仰の気持ちが生ずるであろう。」と説かれています(『原典版 チベットの死者の書』川崎信定訳 筑摩書房)。
チョエニ・バルドは、集合的無意識が作る世界
前に述べたように、集合的無意識は、人類(ないしは、ある民族全体)に共通するモチーフがイメージとして現れる世界です。チョエニ・バルドで現れる寂静尊・忿怒尊は、死者に共通に現れるヴィジョン(イメージ)であることから、集合的無意識の領域ということができます。
チョエニ・バルドでは、五色の光、および五つの仏が現れる。チベット仏教では、この五仏を中央と東西南北の四方に配置したマンダラを描き、瞑想に用います(金剛界五仏のマンダラ)。そして、この五色の光は、死者本人から発しているものとされ、五仏は、自身の魂(心の本性)の投影されたイメージと説かれています。
これは、チベット仏教の特徴です。すなわち、様々な仏陀をイメージする瞑想と、心の本性は仏陀という教えです。よって、このチョエニ・バルドは、チベット仏教の中心部分と関係すると、ユングは述べています。
このマンダラの語源には、「丸い」という意味があり、円には完全・円満という意味があります。仏教のマンダラは、仏陀・菩薩が円形(ないし方形)に集(しゅう)会(え)する様子を表す図像です。そして、ユングは、このマンダラを「自己」の象徴ととらえました。
この「自己」とは、先ほど述べたように、意識と無意識の総体(=心の全体)の中心ですが、相反するものを統合する働き、意識・魂が分裂することを防いで統合させる働きがあります。
実際にユング自身が、自分の師であったフロイトと決別し、その影響などもあって、統合失調症的な精神状態の際に、繰り返し円形の図画=マンダラを書いて、精神の統合を図ったという経験があり、彼の患者にも同じ行動が見られたといいます。こうして、マンダラは、統合作用を持つ自己の象徴なのです。
なお、「自己」は、前に述べたように、「自分」という意味ではありません。普通の意味の「自分」=自我は、表層意識の中心です。しかし、「自己」は、表層意識と無意識の総体(=心の全体)の中心です。
通常私たちは、自分という場合、表層意識(=意識)の部分だけを自分と思っています。この状態を、表層意識と無意識の分裂といいます。過去の出来事などは、表層意識にはなくても、無意識に記憶として留まっています。よって、自分とは、表層意識に限定されたものではありません。しかし、表層意識を自分だと限定してしまっているのです。
そして、これを超えて、真の自分(自分の全体)を認識すること、意識と無意識の統合された状態=「自己」に立ち返ることこそが、人間の成長の最高段階であり、人生の意味であるとユングは考えました。これは、仏教の悟りと同じか類似したものと考えられます。
さらに、この「自己」は、その最高の成長に導く働きがあるとユングは考えました。すなわち、私たちの根源である「自己」は、「自己」に至らせようとする働きがあるというのです。いわば、内なる神のお導きのようなものです。
そして、その「自己」の象徴であるマンダラは、チベット仏教の悟りのための瞑想修行のイメージに使われるものです。この意味でも、ユングの「自己」の実現と、仏教の悟りは同じか類似したものと考えられます。
チカエ・バルドの光明は「自己」そのもの:光は神仏・神性の象徴
チカエ・バルドは、前に述べた通り、私たちの意識の根源・心の本性の世界であり、それは、色も形もない純粋な透明な光明です。ユングは、この光明を彼の説く「自己」そのものであり、私たちの魂は、光り輝く神性そのものであるといいます。
ここで、なぜユングは、人間の根源・原初の意識(=「自己」)を光としたのでしょうか。それは、東洋思想に傾斜した彼の瞑想体験もあったのかもしれませんが、そもそも、自己が、内なる神の性質を持つとすれば、神仏を光で象徴することは、人類に共通しています。
古来、光は、様々な思想や宗教において、超越的存在者・神・仏を示すものとされてきました。古くから宗教には、光が登場しており、より具体的には、太陽と結びつけられることも多かったです(太陽神)。古代エジプトの神、アメン・ラーなどはその一例です。
哲学においても、プラトンが、光の源である太陽と、最高原理「善のイデア」とを結びつけています。それは、新プラトン主義にも引き継がれ、魔術、ヘルメス思想、グノーシス思想にまで影響を及ぼしたといいます。
新約聖書でも、イエスが「私は、世にいる間、世の光である」(ヨハネ福音書 9:5)と語っており、キリスト教の神学では、父なる神が光源で、光がイエスという解釈があるといいます。
仏教でも、光は、しばしば仏や菩薩などの智慧や慈悲を象徴するものとされます。智慧の智は見ての通り、日を含んでいます。対極的に煩悩の根本である無智は無明(明かりがないこと)と表現されました。大乗仏教の中心の仏は大日如来(太陽の仏)であり、奈良の大仏(毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ))もそうです。また、日本の神道の神の総帥も天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)(太陽の女神)です。
また、キリスト教と仏教の絵画の双方で、神・イエスや仏・菩薩の後ろに、いわゆる後光(輪の形の光)が描かれることが多くあります。前に述べた通り、仏教では、極楽浄土に導くという阿弥陀仏は、無量の光の仏陀(無量光仏)という別名を持ちます。
そして、実際に、ユングは、世界の諸民族の文化・宗教・神話・昔話・芸術などの調査・研究をして、人類全体に共通する神聖なシンボルとして、光や、円・輪・環があると考えるに至っています。この点に関しては別に詳しく述べますが、ここで、円・輪・環は、チョエニ・バルドの解釈において、ユングが「自己」のもう一つの象徴としたマンダラ(原意は丸い・円)に通じるものです。
後光の光の輪や、大乗仏教の輪の形のマンダラに限らず、仏陀・仏法の最初期からの象徴である「法輪」、禅宗の悟りや真理の象徴である「円相」、さらには、道教の円形の太極図や、古代遺跡のストーンサークルなど、輪は、普遍的な神聖なシンボルとなっています。
こうして、人の心の中心に、内なる神のような存在(「自己」)が存在すると考えたユングは、その根源的な象徴を神性の光と考えたのでしょう。
最後に、最初に述べた仏教の三界と涅槃と三つのバルドの対応関係に言及しておきます。しかし、これは確定・確信できない部分もあるので、注意していただきたい。
まず、欲界は、すでに述べた通り、シパ・バルドに対応します。次に、色界は、チョエニ・バルドに対応します。すなわち、第三の光明(様々な色・音響を伴う光)や、その後に現れる仏(寂静尊・憤怒尊)に溶け込めば、色界に転生すると思われます。
無色界は、疑問もありますが、チカエ・バルドの第二の光明に溶け込んだ場合に転生する世界ではないかと思われます。この第二の光明には詳しい記載がありませんが、第一の光明と異なって、透明光ではないと思われます。
最後に、涅槃は、チカエ・バルドの第一の光明(透明光・クリアーライト)に対応すると思われます。すなわち、涅槃=意識の根源・心の本性=色も形もない純粋透明な光の世界=「自己」です。そして、これは、ヨーガの真我や、大乗仏教が説く空とも同じ状態だと思われます。
死後世界・転生に関する基本的な考え方
さて、最初に戻って、科学的には、死後世界・転生は、通常の科学の基準では、十分な証明もなければ、その可能性を否定する十分な反証もないという事実に基づいて、私たちが、死・死後世界・転生に関して、どのように考えることができるかについて述べます。
第一に、死後の世界があろうとなかろうと、死ぬ十分前に、死の過程や死後世界についてよく調べて、自分なりに十分に考えることはメリットが多く、賢明なことではないかと思われます。
というのは、死ぬ直前に慌てて考える場合は、臨死体験の研究でも有名なキューブラー・ロス博士が提唱したように、末期患者には5段階の苦痛があります。
具体的には、
① 否定: 死ぬことが信じられず否定する
② 怒り: なぜ自分が死ななければならないかと怒る
③ 取引: 善をなすから生き続けたいという無理な願いを持つ
④ 絶望: 死は避けられないと知って絶望する
⑤ 抵抗の停止: 絶望状態によって酷く消耗して思考停止
しかし、死ぬ十分前から、突然に死の宣告を受けたらこうした苦しみを経験することになるとあらかじめ知っておけば、それに対して自分なりに考え、備えることができるでしょう。
第二に、死後の世界があるか否か、科学的に結論が出ない中で、死後世界の可能性を無視するか、死後の世界がある場合に備えて、一種の保険をかけるかという視点・選択があると思われます。
人は、災害・病気・事故など、必ず起こるわけではないことに関しても、起こる可能性があれば、保険などをかけて、それに備えようとする場合と、その可能性を無視する場合があります。
そして、備えない(保険をかけない)場合とは、可能性が乏しく重大ではないと考えたり、備え・保険のコストがあまりに高かったりする場合でしょう。一方、可能性をある程度感じ、それが重大であって、備え・保険の負担はなんとか賄えると考えるならば、保険をかけるでしょう。