おばあちゃんと火の玉
河越彰彦
まだ小学校に入って間がないとき、祖母から何回も聞かされた火の玉の話がある。戦後間もない頃らしい。
鳥取市の中心部に世界館という劇場があって、そこでの観劇を終えた帰路の出来事である。祖母は次男の運転する自転車の後部荷台に腰掛けて、世界館を出て自宅を目指して東に向かった。季節は春で夜風も心地よく自転車は難なく黄昏の旧道(市内立川四丁目と若桜橋詰を結ぶ道)を東進する。ふと西の空に目をやった祖母は通り過ぎた家々の屋根の上に大きな火の玉が自分を追いかけてくるのに驚いた。次男に「春慶、火の玉が追いかけてくる」と叫んだそうだ。運転する次男の春慶さん(私の叔父)はちらっと運転しながら振り返るが何も見えない。
「お母さん、火の玉なんて見えりゃせんでぇ」と返事。でも祖母の目にはくっきりと火の玉が屋根の上を這うように追いかけてくるのが見えるのだった。何回も祖母が叫ぶものだから春慶さんは自転車を止めて振り返るものの火の玉は見えない。祖母に「どこにもおらんがな」といって自転車を漕ぎ出した。すると屋根に隠れていた火の玉がまた現れてこちらに向かってきた。「火の玉だ、もっと速く漕げっ」と騒いでいた祖母も袋川にかかる橋を渡った頃から火の玉が屋根の向こうに消えたので「春慶、火の玉がもう追いかけてこん。助かった」と安心したそうだ。
天文に興味を持って暫くしてこの火の玉は夕空低く見えた彗星ではなかったかと思うようになった。いまさらながら検証してみたい。
時期は当時の祖母の自宅(筆者は生まれてないし、父母も未婚)や叔父の状況からして戦後間もない1945~1949年春だと推定。
時刻は夕方7時台。旧道はほぼ東に立川町へと伸びる。即ち、日周運動する天体が速く西没する位置関係である。彗星の位置は、おうし座のスバル付近かさらに低い西空と推定。
発見してから消滅するまでの移動距離は長くても500m。自転車は速くても10km/h(毎分167m)とすれば、見ていた時間は、500÷167=3分。日周運動にして0.75度に相当。但し、昔の実用自転車で後ろに人が乗っていれば時速10km/hは無理。その半分としたら6分。日周運動にして1.5度が妥当なところ。東進しているからこれより早く西没する。
高層ビルなどない時代で、沿道は二階家屋。遠く西空の屋根は仰角20度もないだろう。屋根上の彗星もわりと早いうちに家影に消えるだろう。実際にも早く西没している。
彗星の明るさは、当時の夜空と街の灯火を考慮すると、今で言う肉眼彗星ほど明るくなくても見えよう。3等級でも宵の澄んだ空には鮮明に見ることができるが、仰角が低いので多くの鳥取市民が目撃したという話は聞いたことがない。
該当の期間に発見された周期彗星は19個。非周期の放物線軌道彗星は20個。軌道要素から時期を入れれば見える位置は計算できる。但し、筆者の実力では困難なので条件を絞ることで推定したい。
【条件1】近日点距離が1天文単位以内のもの。太陽に近いほど明るくなり、
尾が出る傾向があるから。
これで絞ると周期彗星3個、非周期彗星7個になる。
【条件2】近日点通過が春頃。周期彗星1個、非周期彗星4個に絞られる。
これらを一覧する。
こうして見ると、非周期放物線軌道のベスター彗星か、ホンダ・ベルナスコニー彗星の可能性が高い。特にホンダ・ベルナスコニー彗星は近日点通過日と目撃日も近い上に、近日点距離が0.21天文単位なので立派な尾もあったと想像できる。断定はできないものの、祖母の見た恐怖の火の玉の正体はこれらの彗星のどちらかであったと思われる。しかしどちらにせよ二度と太陽系には戻らない放物線軌道の彗星である。
祖母はすでに亡く、叔父は祖母より早く他界した。従ってこの話の詳細を聴取するのは難しい。鳥取天文協会の会員さんのどなたか類似の伝説をご存知ならばご一報願いたい。
尚、世界館は1970年代に廃業している。1960年頃まで映画のみならず、演劇などの興業もあって、祖母の楽しみのひとつであった。蛇足ながら明治10年代(水根村、現・河原町)生まれの祖母は無学だったので科学的知識は全くなく、天文に及んでは畏敬の対象であった。しかし、筆者の祖母への感謝は枚挙にいとまがない。以上。