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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

2019年7月15日記事から、【ショパン2週間の空白とサンドの秘密】をお届けします

2021.05.29 22:00

1880年頃のサンドの娘ソランジュの写真から


11月13日にロゼールにパリに直ぐに行きますと伝えた後、ショパの行動は消息不明期間が約2週間あり27日にパリに来ていた計算になる。

ショパンはノアンを離れる時、通常は3日程前に事前にパリの親しい人にパリの到着日時を連絡し、必ず予定通りの3日後にパリに到着して、直ぐにサンドに到着したという報告をノアンに送っていた。

しかし、この時は、空白の2週間後の27日頃にパリに着き、サンドから手紙が来ていたことに気が付き、慌ててノアンにまだいるサンドにショパンは到着日時の報告はあえてしないで、サンドに意味深なことを細かく書いて送った。

パリは大雪になっていた。馬車も思うように走らないため、交通機関はストップ状態だから、パリに来ないようにとサンドに伝えているショパンだった。

1844年もあと1か月になりパリの冬は暗くて寒いのだ。12月に入り、とうとう大雪が続いていた。

そして、1844年のパリの情勢は、1830年からの7月国民の王と名乗っていたルイ・フィリップ王が、1814年のプロイセンとロシアによるパリ侵攻の二の舞を避けるために、パリの首都の周囲に城壁の構築を1841年に計画して以来、城壁建設に国の予算が割り当てられ、構築が進められていた。しかし、それは、国民の王国への抵抗が暴動につながることを恐れていたフィリップ王がパリの人々を脅かすためであった。そのことで、城壁はフランスを防御するためのものではないと、国内政治に反発する左派の抵抗を更に呼び起こしていた。その、城壁の工事が終わり完成されたのが1844年であった。

ショパンはルイフィリップのことを快く思っていなかったため、この政策をどう見ていたか不明であるが暗い気持ちになっていたことは確かであろう。

ショパンはベルリンでメンデルスゾーンに会えたのであろうか、あくまで推測であるが、

メンデルスゾーンがフランショームからショパンの情報を聞き出していたことや、精神的に狂っていたことは確かであろう。

ショパンは気を取り直しで、サンドに空白の時間の埋め合わせの便りを直ぐに書いた。

サンドの機嫌を損ねたら、それはそれで厄介なことになるからである。

「お元気ですか? 私はあなたのすばらしい手紙を受け取ったばかりです。

 それは、雪がひどく降っているので、あなたがパリへ来る道中でないことをとても嬉しく思います。

あなたがパリまで駅馬車を使って来る方法を私があなたに提案したことは、この大雪に見舞われてしまい、私の想定外でした。

こんな天気の中では、 荒れた湿地帯であるソローニュ地域はすでに悪い状態にあるに違いありません。」ソローニュには中世から伝わるラ・フェルテ・インボール城がある。そこを含む地方は、フィリップ国王の領地である。ノアンからお城までは約95kimである。馬車で約5時間程だ。ショパンは唐突にソローニュ地域の話をサンドに意味ありげにした。

「昨日の朝から雪が降っています。

私は、あなたが数日ノアンを出発するのを待つのは賢明だったと思います。そして、パリのアパルトマンのあなたの部屋を暖めておくための時間を与えることに繋がりました。

重要なことは、このような困難な天候の時は出発しないことです。

ヤン(ショパンのパリでの使用人)は、あなたの鉢植えの花を台所へ入れておきました。

  あなたのパリのアパルトマンの小さな庭は雪玉、円錐の砂糖で覆われています。

白鳥の羽毛、クリームチーズ、そして、ソランジュの手のように白く、または、それは

モーリスの歯のようです。

 煙突掃除はちょうどされたところです。私は、彼らが来る前に大きい暖炉には火を灯しませんでした。」

ショパンは、サンドが不在のパリのアパルトマンの様子をつぶさに描写するかのように説明して、パリに居たふりをした。

そして、続けた、

「あなたが注文したドレスは最高品質の黒の綾織物のシルク生地です。

あなたが注文した通りにように選んでおきました。

仕立て屋にあなたの指示書を渡しておきました。(サンドのサイズはいつも仕立てているので仕立て屋はわかっている。指示書とはサンドが書いたデザイン画を渡したのであろう)

 仕立て屋の彼女はそのデザインを見て、生地がとても美しく、シンプルだからデザインと合うであろうと言っていました。

 私はあなたがそれに満足するだろうと思います。」

ショパン、これくらいで留めておけばよさそうなのだが、ショパンは続けて話した。

「その仕立て屋の女性ははとても頭がいいようでした。私は、いくつかの彼女の選択の仲から生地を選びました。」

仕立て屋の女性に選んでもらったことをサンドに伝え、もしも、サンドが気に入らなかった場合の責任を回避するショパン…。

「それは1ヤードあたり9フランの費用がかかるので、あなたはそれが最高品質のものであり、素晴らしく気に入ると思います。

仕立て屋さんの彼女は、あなたを喜ばせるために頑張ると言っていますよ。」

サンドは、なぜ黒のドレスが必要だったのか謎であるが、恐らくは、高級な生地で最高のドレスということは、サンドの大事な社交に使うのであろう…。

サンドは小説家であったが、当時、文学では黒はロマン主義の支配的テーマの色であった。フランスでは、ジャンヌ・ダルク(15世)が黒の甲冑を身にまとっていた。革命後は黒は憂鬱の象徴の色でもあり、1840年代頃は男性は黒が格が高いとされて流行した。この年の1844年のは、サンドは、ジャンヌ・ダルクを題材にした「ジャンヌ」を発表していた。

そのほか、黒は格調が高い一方で、当時は黒を好んで着た女性は高級娼婦でもあった。サンドも黒いドレスを若い頃から好んで着ていた。

「あなたにはたくさんの手紙があります。私はあなたが必要なら送ります 。

ガルシアのお母さん(歌手ポーリーヌのことで1841年に母になっている)から1通来ています。それから、あなたの離婚前の旧姓デュドヴァン夫人 宛てでベルリンの植民地からあなたに何か郵便が来ていますよ。

それほど大きくない荷物ならば私がノアンへ送りますよ。(大きいということだ)

あなたが好きならそれらをあなたは持てるでしょう。

新聞の山があります(アトリエ、Bien Public and the Diable)、およびいくつかの本と名刺、マーティン氏からも手紙が来ています。」

ショパンはサンドの留守中に、あれこれとサンドの郵便物やサンドの部屋を物色した。ショパンとサンドは、郵便が一緒にならないように同じ建物のアパルトマンの別々の住所に住んでいた。そして、サンドはお金がないはずなのに3種類も新聞を取っていた。

それに、ショパンは歌手ポーリーヌのことは友人として知っているにしても、そのほか、離婚前の名前でドイツの植民地から小包が来ていたり、マーティン氏とは誰なのか…。それを、サンドに詳しくショパンがあれこれ書くことなど今までなかったのだ。

「昨日、フランショームと食事をしました。

私は悪天候のため4時に家を出ました。 私は今日、ルルーと一緒にマルㇾニア夫人のところで夕食をすることになっている。マルㇾニア夫人が言うには、

今日、ルルーの兄弟の訴訟が早く終わるそうです。

私の風邪は別として、マルㇾニア夫人は非常に健康が良い状態です。

昨日は日曜日だったので、今日雪が少しでも止めばグシマーワとプレイエルに会いに行くつもりだった。自分を大切にしてください。荷物の準備で疲れないでください。

よろしければ明日また書きます。

あなたのお年寄りはこれまでになく、とても、とても、信じられないほど年老いています。ショパン 」

ショパンはサンドがパリに居ない間に何かサンドの秘密を知ったのかもしれない…。