沖縄の方からの素晴らしい投稿です。皆さん、どうぞごゆっくりとお読みください。
Takao Higaさんからの投稿です。
家内が婦人の主張大会で県知事賞を数年前頂いた時の原稿です。
[原文]
私は、今言葉を話しています。それは、私を支えてきてくれた方々のお陰です。
私が母のお腹にいた頃、風疹が流行し聾唖の赤ちゃんが約400名生まれました。
その中の一人です。私の耳はまったく聞こえず補聴器をつければ音は聞こえますが、高低音が聞こえません。
3歳から聾学校に通い唇の動きから話を読みとる訓練、舌が丸くならないように皿を舐める練習、顎に風船をくっつけた時の喉の振動で[音とは何か]教えてくれました。
健康な赤ちゃんは自然に言葉を増やしていきますが、私にはできません。
母は[ミルク]の単語を教えるために、私がミルクと言えるまで与えてくれませんでした。周りから虐待しているように見えたのか[かわいそうにそれでも親か]と言われました。
私が6歳の頃母がいつの日か待っていた言葉[お母さん]が言えるようになったのです。
普通の小学校へ入学しましたが、耳の障害のためにいじめられました。
父の仕事が失敗し生活が苦しくなりました。 心配した母の友人は桜が冬の間耐えて春になるときれいな花を咲かせる、人生も負けなければ[冬は必ず春となる]と激励してくれました。
その言葉は母を奮い立たせ一生懸命働きました。
私がいじめに耐える事ができたのは、貧乏に負けず働く母の姿があったからです。
ある日、先生は[なぜ、私の耳が聞こえないのか]授業で話してくれました。
すると信じられない事が起きました。 同級生が次々と謝ってくれたのです。 嬉しかったです。
中学校では、友達の会話の中に入る事ができず孤独でした。
そんな私に近所のお姉さんが[夢を持つこと]の素晴らしさを教えてくれました。
私の夢は学校の先生になること。
幼い頃口に入れて舌の使い方を教えてくれた先生の音に報いたかったからです。
お姉さんは難聴の私が先生になれるわけがないとの思いに打ち勝つ勇気を与えてくれました。
教科書を毎日何回も読み返しました。
成績は学年で一番ビリから少しずつ上がり希望の高校へ合格できました。
高校ではNHK杯青年の主張大会に出場する事になりました。
私は自分の声が聞こえないので、正しいアクセントが分かりません。
不安な私に先生はヘレンケラーの話をして激励してくれました。
大会では力の限り話しました。先生は泣いていました。
私がどれだけの勇気を振り絞って舞台に立っているのか、わかってくれていました。
「これからの人生悔しいことが一杯あるだろう。目の前の厳しさから逃げないで乗越えてほしいよく頑張った」と喜んでくれました。
最優秀賞の発表に驚きました。 私の名前が呼ばれたのです。
言葉はどんなに努力して健常者に追いつくことは無いと思っていました。
先生の恩かみ締めました。
大学に合格しましたが「前例がない。耳の不自由な生徒では、先生は無理諦めなさい」と言われました。 それでもやってみなければわからない」と何度もお願いし大学は一切援助はしないとの条件で認めてくれました。
大学では黒板に字を書きながら講義が進められます。
先生の唇が読めず授業についていけません。 耳が聞こえる人を羨んでも仕方ありません。
耳が聞こえない現実を受け入れるしかないと分かっていても「耳さえ聞こえれば」と愚痴が出て悔し涙がでました。そんな時、先輩の激励で自分はベストを尽くしていない事に気づきました。
教授は分かるまで筆談で教えてくれました。
教授の誠意のお陰で卒業論文が学科最優秀賞の評価を頂き、難聴者として初めて教員免許を取得し卒業できたのです。
その後、臨時教員をしながら本採用を目指したのですが、集団面接で落ちました。
私には他の受験者の意見を聞き取ることは困難で頑張り抜いた教員には悔いはありません。
新たな気持ちで仕事を探しましたが電話の応対が出来ないので断られました。
そんな時、定時制高校の生徒達の姿が心の支えになりました。
昼間の仕事の疲れに負けず勉強に打ち込む生徒、戦後の貧しさから勉強できなかった年配の生徒さんが繰り返し教科書を読む姿を思い浮かべ、私も負けないと勉強し平成10年県職員の採用試験に合格しました。
人生の素晴らしさは人と人の出会い支えあう事です。
その中で人生のパートナーにめぐり合いやがて長男が生まれました。
息子にミルクを上げている時思うのは母の事です。
泣き叫ぶわが子にミルクと言えるまでミルクを与えなかった母、胸が張り裂けるような毎日だったと思います。
母のお陰で皆さんの前で話をしている自分がいます。
最近母を東北旅行に招待しました。
日本一の露天風呂で孫を抱きながら 「 かわいい、かわいい、こんな幸せがくると思っても見なかった」と喜んでくれました。
娘の耳が聞こえないと分かった時の驚き、これからどうやって育てていけばいいのか迷いながら、わが子だけの幸せを願い無我夢中で人生を駆け抜けてきた母に一児の母になった今、感謝の思いが湧いてきます。
母の喜ぶ姿に幼い頃教えてもらった「冬は必ず春となる」との言葉が重なり幸せをかみ締めました。
主人の亡き父母は村の老人会長、民生委員として地域に貢献してきました。
今度は私たちの出番です。
現在主人は体協理事、私は婦人会活動を通して父母の村を愛する心を受け継ぎ、婦人会の先輩から村を誇りとする心を教えてもらいました。
これからもめぐる季節のように【感謝」の気持ちを結いまーるにして人生を楽しみたいと思います。