瞑想の虚実
Facebook・清水 友邦さん投稿記事 「瞑想の虚実」
毎日瞑想をしたグループは体内のインフルエンザ抗体数が遥かに多いという米ウィスコンシン大学の報告があります。
瞑想をすると、体内のインフルエンザ抗体を増やし免疫力をアップさせるというのです。
瞑想効果の科学的な根拠
https://hotnews8.net/health/benefits-of-meditation
「遺伝子レベル」で免疫システムが向上?
https://forbesjapan.com/articles/detail/13553/1/1/1
マインドフルネス瞑想は企業研修で使われ「今この瞬間の自分の体験に注意を向けて、現実をあるがままに受け入れることである」と説明されています。
マインドフルネス瞑想をすると 心のコントロール・制御ができるようになる
ストレスが軽減されて心が穏やかになる ポジティブ思考になる 集中力が増して、学生の成績がアップ、幸福度がアップと説明されています。
「マインドフルネス瞑想で得られるのはリラックス状態でもなければ、神秘的な超越体験でもありません」と断っている指導者もいます。
瞑想を指導する団体や講師によって瞑想の説明もやり方も違うので混乱すると思います。
瞑想の方法も動く瞑想と動かない瞑想 言葉を唱える瞑想 誘導でイメージをする瞑想
対象に集中する瞑想 集中をせずあるがままに観る瞑想など様々あります。
瞑想法には異なるたくさんの種類があります。
マインドフルネスは仏教用語のヴィパッサナー のことで物事をあるがままに見ることで、常に変化している呼吸を観察して物事の諸行無常を洞察して涅槃に達すると説明されています。
ニルヴァーナ(涅槃)は煩悩が吹き消された状態と説明されています。
仏教の教えは無我なので瞑想してもご利益(ごりやく)なしです。
利益(ごりやく)を得る私はいないのです。
マインドフルネス瞑想もヴィパッサナー瞑想も名前は違いますが元は同じです。
教わる人々と教える人々の意識の段階が違うのでやり方も教え方も異なるのです。
「瞑想」のメディテーションと「薬」のメディスンは似ていて、どちらも真ん中、中心と言う意味のメディがついています。
薬は症状によって処方箋が異なり薬を間違えると症状が悪化し場合には死に至ることもあります。
このように薬は使い方を誤ると毒になったり健康に導くこともできます。
瞑想も同じで探求者のマインドの状態にあった瞑想技法を使用しないとカルト団体に入信した信者のように自我が強くなって苦しんでしまうこともあります。
言葉で語る瞑想は瞑想技法の説明がほとんどで瞑想そのものではありません。
瞑想は言語を超えているので瞑想そのものは説明できないのです。
料理の説明とレシピを読んで想像しているような状態です。
レシピ通りに調理して味わって初めてその料理がなんであるのか理解します。
瞑想は未来に向かって努力する事(doing・すること)ではなく、今ここにあるがままで(being・あること)いることです。
瞑想技法(doing・すること)は瞑想(being・あること)でありません。
瞑想をすることはできないのです。
瞑想(Meditation) 覚醒・自覚・気づき(awareness) 観照(witness) 禅定(dhyana)
光明 (enlightenment) 涅槃(nirvana) 三昧(samadhi) 非非二元(nonduality)
これらの言葉は皆、今ここで起きている事に気がついている私たちの本性を示しています。
日常の思考する心を自我・マインドといいます。
マインドは過去の記憶でできています。マインドは今ここにいられません。
未来を想像したり過去にこだわっています。
マインドは頭が作り出している偽りの世界を真実と思い込んでいます。
ヨガの目的はマインドと一体化して眠っている真我が目覚めることにあります。
マインドは自分が本当の自分ではないことを知りません。
哲学者のデイビッド・ヒュームは人間には真の内なる自己は存在しないと論じました。
デイビッド・ヒュームは自らの内側を探索しましたが、そこにあったのは乱れ舞う大量の思考のみであり、唯一のアイデンティとよべるのは観念や印象が次から次へと生ずることでした。そこには魂などなかったのです。
たしかにデイビッド・ヒュームの言っている事は間違ってはいません。
ですが彼は肝心な事を取り逃がしていたのです。思考や感情(マインド)に同化してしまい気づいている主体である本当の自分(純粋観照者)に気づけなかったのです。
瞑想の初心者は瞑想しても次から次へと思考がわいてきて、こころが静かになりませんと訴えます。頭の中を思考が浮かんでは消えています。マインドは絶え間なくいつも考えています。通俗的な瞑想は段階を踏んで目的に向かうように説明しますが、究極の教えは出発地(煩悩にまみれた凡夫)が目的地(すでに仏である)です。
鏡はすべてのものを映し出しますが、どんな像が鏡に映し出されても鏡自体が汚れることはありません。
この汚れることがない鏡が「本当の自分・真我」です。
本当の自分はあるがままで最初から完璧なので変えたり取り除いたりする必要はありません。
「私はあるがままで完璧だ」「私は光だ」「私は完全な存在なので瞑想もワークも必要がなく、何一つ変える必要はない。」とそう自分に言い聞かせて思い込むことはできます。
しかし、マインドが自分に言い聞かせて、そう思い込んでも、気づきが開花していないと、
自我が危機に陥ってゆらぐと否定的してきたエネルギーが表面化して簡単に奈落の暗黒に落ち込みます。
いくら「宇宙は愛と光で満ちている」「私は完璧だ」と自分を正当化しても、抑圧したエネルギーは無意識にそのまま残されています。
自分自身の問題との直面をさけ現実と向き合うことの逃避に使われてしまうと、あるがままの自分を見ないで自我を強化し防衛してしまいます。
思考を客観的にながめている観察者・観照者が本当の自分です。
しかし本当の自分を説明してしまうと、マインドはどこかに本当の自分がいると考えてしまうので厄介です。
石をなげると水面がゆれるように、思考を使って自己の本性をみようとすると、思考自体が曇りとなって見えなくなります。
ノーマインド(無心)を得ようと努力するとマインドの罠にはまります。マインドは有心なので、いまここにいられません。ほとんどの人々が物心ついてから絶え間のない思考の中にいます。努力して瞑想している間(doing・すること)は思考が動いている状態なのでいまここ(being・あること)にいられません。
瞑想の説明を聞いたり瞑想について考えたりしているうちはマインドの次元をぐるぐる徘徊してしまうのです。
心が静かになって絶え間のない思考に同化することがなくなると、ノーマインド(無心)に入ります。
その時にマインドが自分ではないということに気がつきます。
マインドを使ってマインドに気がつくのが瞑想技法です。
そして、自己の本性を知ってしまえば瞑想をする必要もないことも真実なのです。
自己の状態は本当の自分と思考で理解した自分の二つになっているので再び統合されなければならないのです。
引用参考文献清水友邦「覚醒の真実」
Facebook・長堀 優さん投稿記事
5月25日、ワシントンポスト紙が従来の主張を180度転換し、ウィルスの武漢研究所漏洩説に突然信憑性が出てきた、と報道しました。
これは大きなニュースといえるのではないでしょうか。
https://www.washingtonpost.com/.../timeline-how-wuhan.../
もっと知りたい方は、及川幸久さんが詳しく解説されてます。