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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 109 (31/05/21) 旧真和志村 (7) Hantagawa Hamlet 繁多川集落 (1)

2021.06.02 09:49

旧真和志村 繁多川集落 (はんたがわ)

繁多川誌には150もの文化財が紹介されているので、一日では回り切れない。今日は繁多川が始まったころの集落中心に巡ることにする。今日も徒歩にての散策。



旧真和志村 繁多川集落 (はんたがわ)

繁多川集落のある識名台地は不透水層の上に琉球石灰岩の透水層の地形で、この二つの層の間に水が溜まり、地表に湧き出って来るので、人が生活に必要な水の確保が容易であった。識名台地には14もの古代の遺跡が発見されていることもあり、古くから小規模の集落があったと考えられている。尚真王時代に各地の按司が首里に強制的に住まわされた後に、首里近辺にも住み始め、繁多川にも士族が住んでいた。琉球王統末期、18世紀初頭に、首里の士族が王府の帰農政策により、現在の繁多川の前道 (メーミチ) 周辺に移住してきて屋取集落を形成した。ここを中心に集落は拡大していき、1909年 (明治42年) には識名集落の人口の3分の一を占めるまでなり、識名から分離し独立行政区となった。「はんたがわ」の「はんた」は端の意味、「がわ」はもともと「カー」(井泉)で、「はんたがわ」とは「高い近くの端の井泉」のことで、地形に由来しており、繁多川という漢字が当てられていた。

1909年 (明治42年) に識名から分離し独立行政区となった当時は人口500人程だった。それ以降、戦前まではほとんど人口も増えなかったのだが、戦後急激に人口が増えている。那覇が米軍に接収され他地域ができなかったことにより、那覇に近い繁多川に多くの人が住み始めたことによる。その後、1974年 (昭和49年) 頃までは増え続け、それ以降は微増微減を繰り返し、現在では1974年 (昭和49年) 当時に人口とほぼ同じとなっている。現在では旧真和志村の中では国場についで人口の多い地域となっている。

1919年の地図では民家は水色で示した真珠道と識名宮への後道周辺にしかないのだが、それ以降は墓地以外はほとんど民家になっている。人口は1975年には現在の人口とほぼ同じにまで増加している。その後、人口増加は小康状態となるが、民家はコンスタントに増えていっている。沖縄伝統の多世代大家族から、核家族化が進んでいる。

今日も徒歩にてかつては識名村の一部だった繁多川地区を巡る。繁多川の文化財は2019年夏に、有名なところは巡っているのだが、今回はもっと深く突っ込んでみることにする。繁多川自治会が「繁多川誌」を発行しており、そこには多くの文化財が掲載されている。街角にも文化財案内板が置かれ、150以上もの文化財が紹介されている。中には文化財としては少しかけ離れたものも含まれているのだが、繁多川の歴史を後世に残すという意味では、貴重な取り組みと思われる。ここまで多くの文化財をまとめている自治会は繁多川が一番だ。その努力には頭が下がる。文化財に対して理解のあるリーダーがいるのだろう。ただ、文化財の所在地が特定できるほどの詳しい地図ではないので、どれだけ見つけることができるだろうか?


今日、徒歩にて巡った文化財のログ


繁多川集落は識名台地の北部にあるので、国場から真珠道のナンチチャービラ (おこげ坂) を通り、上間集落、識名集落の西側を進む。



豊見城殿内 (ティミグシクドゥンチ) の墓

真珠道を進み識名集落と繁多川集落の境付近に識名霊園入り口がある。この入口を入ると、左手に木々の茂った小山がある。繁多川では一番高い標高97mで豊見城森 (ティミグシクムイ) とか勢頭山 (シードゥヤマ) 呼ばれている。ここは首里寒川町豊見城家所有の土地で、そこに豊見城家の立派な亀甲墓がある。

豊見城家とは五大姓 (五大名門) の一つで、沖縄で歴史上偉人の中で尚巴志に次いで人気の高い護佐丸 (毛国鼎、中城按司護佐丸盛春) を始祖とする毛氏豊見城殿内 (ティミグシクドゥンチ) の本家で、護佐丸の直系七世までは中城の護佐丸の募に葬られているが、八世から後はこの墓へ葬られている。この後、集落内で、護佐丸の子孫の墓を幾つか見つけることになる。


鄭迵謝名親方利山の墓 (ていどう じゃな りざん)

識名霊園の墓の中を歩いている時に偶然に謝名親方 (ジャナウェーカタ) の墓があった。

この 謝名親方の事はNHKの大河ドラマ「琉球の風」で江守徹が演じていたので知っていた。久米三十六姓の末裔の一人。尚寧王の時代の三士官で、1609年の薩摩侵攻の際、最後まで薩摩に抵抗し、降伏後、薩摩に100名程の人質の一人として送られ、二年後の1611年に無条件で未来永劫薩摩に忠誠を尽くすという起請文への署名を拒絶し、鹿児島に送られ斬首となった人物。明治政府はこの文書を琉球が日本の領土であったとの根拠としている。謝名親方についての資料はあまりないのだが、久米村出身で初めて三士官になったほどなので相当政治的手腕はあっただろう。三士官になった経緯については、1605年に、謝名は法司官であった城間親方盛久を讒言して百姓の身分に貶め、翌年、自らこれに成り代わったとあり、政治的策略でのし上がったようだ。謝名親方は終始、反薩摩の立場で徹底抗戦を貫いていた。薩摩が派遣した使節を何度となく屈辱し追い返したとある。これが皮肉にも薩摩侵攻の口実の一部にもなっている。最後まで抵抗した唯一の人物として、沖縄では人気の高い歴上の人物だ。


金城和信村長の墓

鄭迵謝名親方利山の墓の裏側に金城和信村長の沖縄k形式ではなく日本本土形式の墓がある。金城和信は戦前は沖縄県の小学校長などを歴任し、戦後は真和志村の住民は米軍の都合から帰村を認められなかったことにより、米軍の指示により真和志村の住民4,337人が捕虜収容地から摩文仁米須に移動し、真和志村の初代の村長に任命された。その後も真和志村住民が移動してきて、8270人に膨れ上がっていた。1946年 (昭和21年) 2月に就任と同時に真和志村民は周辺の遺骨収集を開始し、山野に野ざらしにされた道骨収集を始め、魂魄之塔を建立し慰霊を行った。金城和信の二人の娘もひめゆり学徒隊として出陣していたが、消息が分からず、夫婦で遺骨を探していたという。ひめゆり学徒隊の足跡をたどり各地で遺骨を回収し、4月には、ひめゆりの塔や健児之塔などを建立した。金城和信の妻である金城ふみが二人の娘を詠んだ歌をひめゆりの塔に捧げている。


識名高射砲陣地跡

識名と繁多川の境の高台には沖縄戦当時、日本軍の高射砲陣地があった。識名台地は日本軍の本部があった首里城の南側の防衛のためには重要な拠点で、この高台に高射砲陣地を置いたのも理解できる。識名霊園内のシーマヌ御嶽の石穴の窪地に、この地域の人やひめゆり学徒も動員し構築されていた。現在では戦争遺構などは残っていない。この識名霊園入り口辺りは勢頭 (シードゥ) と呼ばれている。この北西は疫病で亡くなった人を埋葬したウヮーウクイモー (豚葬毛) と称されていた。今は識名霊園の一部になっている。この識名台地には多くの軍事拠点が置かれていた。首里が近いので、首里防衛拠点として重要視されていたと思われる。


勢頭坂 (シードビラ)

識名霊園入り口から、北側にある繁多川集落へは下り坂になる。勢頭坂 (シードビラ) といわれている坂だ。緩やかな坂なのだが、戦前は幅3mの急坂だったそうだ。


村小 (ムラグヮー)

勢頭坂 (シードビラ) を下ると右にも道が伸びている。こちらがかつての真珠道だ。このすぐ先が、かつては識名村と呼ばれていた村小 (ムラグヮー) があった場所。識名集落が現在地に移住する前に村を形成していたと考えられている場所だ。琉球王統時代には繁多川には民家はほとんどなく、この村小 (ムラグヮー) に10軒ほどの家があっただけだ。村小 (ムラグヮー) の人たちは現在の識名集落の拝所を御願していた。1909年 (明治42年) に繁多川地区が識名地区から独立した際も、繁多川ではなく識名に属し、識名村の飛び地となり下識名と呼ばれていた。戦後1943年 (昭和18年) に繁多川に編入された。


村小洞窟 (ムラグヮーガマ)

村小には村小洞窟 (ムラグヮーガマ) と呼ばれた自然洞窟があり、沖縄戦前はパナマ帽子クマー (編み) が利用し、戦時中は住民の避難壕として、入り口付近は日本軍の炊事場として利用されたていた。(炊事係は地元の主婦が駆り出されていた)民家の敷地内にあるので見ることはできないのだが、現在は入り口は塞がれているそうだ。洞窟はこの道路の下を東に伸びており、空気穴は今でも残っており、洞窟への入り口になっている。

繁多川集落には大きな自然壕がいくつかあったので、その10か所程を住民の避難場として住民含め600人程が使用していた。この村小洞窟 (ムラグヮーガマ) もその一つだった。昼間の時間帯は住民も日本兵も壕の中で意ををひそめ、日の出前と日没前の一時間は米軍の攻撃が止んだので、人々は畑でイモや野菜を収穫し、飲み水を汲み、洗濯をし、食事を済ませていた。空襲の激しくなった三月中旬頃から数カ所に分かれて防空壕で避難生活をし、米軍上陸後、しばらくの昼は壕の中、夜は家に帰って生活をしていたという。繁多川住民の戦死者は352人と記録されている。1945年の沖縄戦の前年1944年の繁多川の人口は728人とあったので、同じ人口が続いていたとすると、48%の住民が犠牲になった事になる。この比率は他の集落に比べてもかなり高いものだ。一般的に言われているのが、この辺りには避難に適した自然壕がいくつもあり、それが住民が他の地域への疎開の機会を逃し、戦争終盤には避難壕は日本軍に占領され壕を追い出され、戦地をさまよい多く人が犠牲になったとされている。



作戦道路 (繁多川大通り)

村小 (ムラグヮー) を通っている真珠道は現在の繁多川大通りを渡り、首里に通じるのだが、この繁多川大通りは、この付近では一番広い道路で、識名園に伸びている。沖縄戦当時に、日本軍が建設し始めた道で、作戦道路と呼ばれていた。ユクイダキ (休憩岳) 付近からクシミチー (後道) を横切り、ウフ井を通り、松川方面に至る計画であったが、識名宮付近まで完成したところで未完成となった。

沖縄戦当時、米軍の航空写真が残っている。写真左下が1945年1月3日に撮られたものだが、まだ作戦同道路は移っていない。写真右下は同年4月2日に撮られたもので、作戦道路がはっきりと見える。3か月でここまで建設していた。この時期は米軍の沖縄上陸直前で、これ以降、米軍の攻撃は激しくなり、首里城の陸軍本部の防衛で、道路建設の余裕はなくなったのだろう。


大川 (ウフカー)

繁多川大通りを渡ると真珠道は繁多川集落の前道 (メーミチー) となり、この道が始まるところに大川 (ウフカー) がある。この前道 (メーミチー) つまり真珠道沿いに繁多川集落が形成されていた。この古い井泉は集落の人達の飲料水、生活用水として大切にされ、かつ神聖視されてきた。首里王府時代に作成された真和志間切針図 (1737-50年) には、識名川となっている。識名発祥といわれている村小 (ムラグヮー) のムラガー (共同井戸) であったのではないかと考えられている。戦前、戦後を通じ正月のワカウビー (若御水) を汲む井泉として利用されてきた。1962年 (昭和37年) に簡易水道が敷設されたときには、このウフカーが源泉と使用され、繁多川の各世帯に水が供給された。かつてはンマアミシークムイ (馬浴小堀) があったが、埋め立てられ宅地となっている。この繁多川集落では井戸の事は他の集落と同じようにカー、ガ-と呼ぶのだが、それには「川」の字を当てている。他の集落では、「井」とか「井泉」の字を当てていたが、「川」でカーと読ませているのは初めてだ。


前道 (メーミチー)

先程にも述べたが、前道 (メーミチー) は石畳の真珠道で那覇港から首里城への道だ。他の集落を巡るとほとんどの集落の前道 (メーミチー) は集落の前に通っており、集落と耕作地の境に当たっている。通常集落は丘喉の斜面に南向きに形成されているので、前道は南側で東西に走っていることが多い。繁多川集落はこれが当てはまらない。地形も北側に緩やかに傾斜しており、前身にも南北に走っている。この理由については調べたが見つからなかった。個人的な推測では、人通りの多い真珠道を中心に住居が広がっていったのだろう。


坊主川 (ボージガー)

前道 (メーミチー) を大川 (ウフカー) から、少し進んだところに別の井泉がある。この近くに神応寺や識名宮があったので坊主川 (ボージガー) と呼ばれていた。琉球国由来記には御穀泉 (オコクガー) と記されており、「乳のような泉、善い泉」という意味だったそうだ。坊主川 (ボージガー) の水は、非常に美味しく、繁多川豆腐造りには大いに利用されていた。

琉球王朝時代、城下町首里で消費される島豆腐の90%以上は繁多川島豆腐だった。水が豊富だった繁多川地域には戦後は54店舗の島豆腐店があったのだが、スーパーなど時代の変化とともに現在は3軒まで減ってしまった。本土復帰前までの豆腐の材料は、繁多川地産の「青ヒグ(オーヒグー)」という在来の大豆なのだが、ここでは栽培もされなくなっていた。繁多川自治会でこれを復活しようという活動を始め、毎年12月を「豆腐の月」と定め、新たに育てた大豆 (タカアンダー、青ヒグー) と国産大豆で豆腐づくり活動を行ている。


神村酒造跡、前道石垣跡

前道 (メーミチー) 沿いに石垣が残っている。の中ほどに神村酒造発祥の地で、明治15年に創業している。当時の石垣の一部が残っている。戦前からの、琉球石灰岩を加工して布積みで上が丸みを帯びた造りの石垣だ。この造りはこの石垣を造った泡盛の神村酒造所独得のもので「ボーンター積み」というそうで、ニクプク (むしろ) を乾かす作業に便利なように工夫がされている。


繁多川 (ハンタガー)

更に真珠道を進み丘陵の北の端に近い所に繁多川 (ハンタガー) がある。これで真珠道沿いノ三つ目の井戸だ。それほどの距離ではない区間で三つもある。この周りに集落が栄えていたことがわかる。どれも石積みの立派な井戸になっている。繁多川 (ハンタガー) とは元々、ハンタ (端) にあるカー (井泉) を意味したとされ、「繁多川」の字が当てられ地域の名称になったと言われている。この集落を見学する前には、「繁多川」という川が流れているので繁多川と思っていたが、これですっきりした。繁多川 (ハンタガー) はシチナンダスカー (識名平の井泉) とも呼ばれ、繁多川集落の人々の飲料水や生活用水に利用されてきた。昔は旧歴の6月26日になると、前道 (メーミチー) 沿いの三つの井泉ともカーヒラシー (井泉浚い) が行われた。中の水を汲みだすと、タナゲー (エビ) やカニが取れ、こどもたちの楽しみの一つだったという。


後道 (クシミチー)

繁多川 (ハンタガー) がある場所は、四差路になっており、北へは真珠道が続き識名平 (シチナンダ) の急な下り坂になる。西にはヌージャミチ、南東へは後道 (クシミチー) が始まる。後道 (クシミチー) は、前道 (メーミチー) とともに、昔から繁多川の中心的な道で、識名園へ王族が訪れる際に通った道だ。明治時代の地図を見ると、集落の大部分が、真珠道である前道 (メーミチー) とこの後道 (クシミチー) のあいだにあり、後道 (クシミチー) は集落の後ろを通っていたことがわかる。後道 (クシミチー) の外側は墓が多くあるので、この道が集落の端だったのだろう。次はこの後道 (クシミチー) を歩き、かつての繁多川主落内にあった文化財を巡る。

かつての集落はこの後道 (クシミチー) と前道 (メーミチ) の間にあった。区画整理が行われているような造りではなく、この二つのメインストリートの間には自動者が通れる道はなく、写真にあるような人が一人通れるくらいの道が三本あるのみだ。筋小 (スージグヮー) と呼ばれ。北の方から 北筋、中筋、南筋が後道 (クシミチー) と前道 (メーミチ) を直接結んでいる。以前は北筋と中筋はメーミチーからもクシミチーからも袋小路になっていてシチナンダのカジマヤー (十字路) 経由で行き来して大変不便だった。両筋とも1944年 (昭和19年) 十・十空襲前後に避難路として開通してからは大変便利になった。南筋は避難路としての新設された道路だ。


識名馬場跡 (シチナンマイー)、馬場の尾 (ンマイーヌチビ)

後道 (クシミチー) をそのまま東へ進むと、途中、馬場の尾 (ンマイーヌチビ) と呼ばれる道の分岐点になる。大門前 (ウフジョーヌメー) とも呼ばれている。まっすぐ道を進むと、識名園方面、左の道がかつての識名馬場 (シチナンマイー) で松並木のある低い土手に囲まれた全長300m、幅30mにも及ぶかなりの大きさだった。

集落を巡ると多くに馬場跡があるが、ほとんどは集落住民の馬場で、村の行事や原山勝負 (ハルヤマスーブ) などで琉球競馬が行われていた。この識名馬場は少し性格が異なり、集落所有の馬場ではなく、琉球王統の尚家の専用馬場で、王家以外は許可なくは使用できなかった。松並木は沖縄戦で首里城の軍本部の建設資材に伐採されてしまい、馬場跡は戦後、住宅地になり、今は当時の面影はなくなってしまった。


休憩岳平 (ユクイダキビラ)、休憩岳 (ユクイダキ)

後道 (クシミチー) を大門前 (ウフジョーヌメー) から識名方面に進むと作戦道路といわれた繁多川大通りに出る。この道を越えて細い坂道が識名霊園の中に走っている。この坂が琉球国王が識名園に向くと時に通ったシンカヌチャー道があるユクイダキビラ (休憩岳平) だ。昔は石畳の道だったが今は失われている。坂道を登り切った所がユクイダキ (休憩岳) で、近くに龕屋があったことからガンヤーヌメー (龕屋の前) とも呼ばれていた。尚真王の時代 (1477-1526年) の三司官だった花城親方の葬儀の際に尚真王は恩義のあった花城観方へ最後の別れをすべく、王命で首里城から見通しできるこの場所に龕をしばらくとどめさせ、首里城のアザナ (物見台) から焼香をして、最後のお別れをしたと伝わる。龕をしばらくとどめたことから、その後は、ユクイダキ (休憩岳) と呼ばれるようになったという。


歴史散歩道休憩所

休憩岳平 (ユクイダキビラ) を過ぎるとシンカチャヌは左に曲がり、下り坂になる。すぐ下に歴史散歩道休憩所がある。小さな広場だが、休憩岳平 (ユクイダキビラ) にあった休息所をmして造られている。


識名宮

繁多川集落に戻る。集落の中心に識名宮がある。久々に神社らしきものを見た。沖縄でこのような神社を見ることは珍しい。この識名宮の起源についての伝承がある。尚元王 (1556-1572 在位) の時代、夜々、光り輝くものが識名の原から夜空に射していた。大阿母志良礼という巫女が、ひそかにそれを見に行き、どこから光が射しているかを探ってみると、一つの洞があった。その中に人ってみると、ビンズル  (霊石) があり、これを御神体とし、拝み祀るようになった。同じ頃、尚元王の長男の具志川王子朝通が病気にかかった。大阿母はそれを聞いて、識名のビンズルを尊信すれば病気は治ると申し上げた。王子はそれを聞いて祈願したところ、霊験があり健康を取り戻した。具志川王子は私財をもって宮と寺を建て、傍らに大阿母を住まわせて宮を守らせたとある。以後、首里王府の篤い信仰を承け、王府管轄の琉球八社と呼ばれた社の一つとなった。祭神は伊弉冉尊 (イザナミノミコト)、速玉男尊 (ハヤタマノヲノミコト)、事解男尊 (コトサカノオノミコト)、識名権現と午方角 (ウマヌファヌカン) 神とあり、和琉混在になっている。

沖縄戦で破壊されたが1968年 (昭和43年) に地域住民により復興されている。かなり立派な社殿があり、内部も本土の神社と遜色がない。この神社は沖縄では珍しく地域住民との繋がりが深いようだ。

社殿の前には四個の柱頭に掲げられた鬼の面があったが、沖縄戦で消失している。その写真が資料に載っていた。


識名宮洞窟 (シキナグウヌガマ)

識名宮境内の社殿裏に、ビンズル (霊石) を見つけた琉球石灰岩の自然洞窟(ガマ) があり、お宮ヌガマと呼ばれている。沖縄戦前は、パナマ帽子クマー (編み) の女性たちが作業場として利用、戦時中は地域住民が避難壕として利用したが、最後は日本軍が使用していた。毎月1日と15日に開錠されて内部に入れるのだが、今日は31日で一日違いで中には入れなかった。神社の社殿はこの洞内にあったが、湿気がひどく腐朽し、康煕19年 (1680年) に洞外に移築して、瓦葺の社殿となっていた。識名宮洞窟 (シキナグウヌガマ) のすぐ近く、神応寺後方に寺後洞窟 (ティラヌクシーヌガマ) があるそうだ。これも自然洞窟で、全長約40mで沖縄戦中は、この二つの壕に近隣集落の住民も避難しており200名にもなっていたという。ここも最後は日本兵が使用することになり、住民は壕から追い出されることになった。

沖縄には神社は宗教法人として登録されたものが13社あるそうだ。そのうち8社は琉球八社と呼ばれているもので、その幾つかは訪れたことがある。その創建年代を見ると、思っていた以上に古く、特に波上宮は観光客も多く訪れている。ただ、沖縄の神社は本土の神社と異なっている。まずは氏子がいないことがある。琉球王朝から明治までは政府の直轄で資金は支給されていたが、宗教法人となった後は経営が苦しく、朽ち果ててしまった神社も多い。次に、住民の神社の神に対する概念が本土とは異なっている。沖縄固有の宗教の聖地の御嶽と神社とはほぼ同じものと考え、特に神道を意識して神社をお参りするのではなく。他の御嶽と同様に御願している。ただこれを異質と考えるのは正しくない思われる。日本の古代神道は沖縄神道の御嶽と同じ形態であったので、沖縄ではその形が続いており、日本が神社の形を変えていったといったほうが良いだろう。下の琉球八社は琉球王統直轄の神社で、神社の創建と前後して仏教寺院も併設されている。日本の仏は神道の神の権現とする神仏習合の思想があらわれている。この時代から日本の影響が大きかったことがわかる。那覇には当時は日本人村があり多くの博多商人が住んでいたという。沖縄で神社や寺院が少ないのは、琉球王統時代は、これは国の行事の実を行い、一般庶民の為ではなかったことと、檀家、氏子がないので存続が難しいこと、庶民にとって日本新党、仏教は古来の琉球の宗教と特に変わることがなく、それまでの御嶽や拝所の御願の一部と考えていたことがあるだろう。沖縄戦の数年前から「一村一社」の計画があり一部は進められていたが、沖縄戦、敗戦で頓挫してしまった。集落を巡ると、村に「宮」と称して鳥居が立っている拝所を見かけるが、これはその「一村一社」の流れで、その計画で造られたものや、戦後住民が宮を造ったものなどがあるが、鳥居がある以外、実態は他の拝所と変わらない。


神応寺跡

識名宮の隣には識名宮を守る神応寺があった。神応寺の創建年代は明確ではないが、識名宮とほぼ同じ時期、16世紀に、首里王府時代に建立されたと考えられている。識名の寺とも称されていた。

神応寺は当時の他の寺院と同様に、もともとは臨済宗の禅宗の寺として始まったが、1671年に護国寺が真言宗に改宗したことにより、神応寺も護国寺の末寺として真言宗に改宗し、山号は姑射山と称し、本尊は千手観音、阿弥陀如来とした。本瓦葺きの堂宇は、1945年 (昭和20年) の沖縄戦で破壊されたが、それ以降再建されず、1981年 (昭和56年) に廃寺となった。寺を囲む石垣と入り口の石の階段は綺麗な形で残っている。


繁多川公民館

神応寺跡地は平成3年に那覇市に寄贈され、そこには繁多川公民館が建っている。

公民館の前は広場になっており、子供たちの遊び場になっている。広場の片隅には、集落の住民が、戦前戦後に生活で使っていた石たらい (ンムドーニー  芋たらい) と豚便所 (ウヮーフール) の便座に当たるトゥーシーヌミーが展示されていた。この豚便所 (ウヮーフール) は中国発祥との説もあるが、戦前戦後まで使用していたのは沖縄だけで、中国では既に使用されていなかったので、沖縄文化独特のものと考えてよいだろう。 


寺後道 (ティラヌクシーヌミチ)

坊主川 (ボージガー) の前から四丁目のあそび場 (三角公圜) までの道路で、沖縄戦前までは、前道 (メーミチー) と後道 (クシミチー) をつなぐ准一の道であった。神応寺と識名宮の背後を通る道であり、聖域ということで、戦前は式の行列は通ってはいけない慣わしであった。


神道

識名宮の前の繁多川大通り (作戦道路) を渡った自治会事務所の前庭の東境界線あたりは、昔、神や神に仕える神女 (祝女) たちが祭紀の時に通った道と伝わっている。一人がやっと通れるくらいの狭い道で、祭祀の期間中は村人たちがこの道を通ることは禁じられていた。この細い道は、すぐ近くにある火の神 (ヒヌカン) に通じている。


火の神 (ヒヌカン)

神道は現在は行き止まりになっているので、別の道を通って、その先まで行くと火の神の入り口の表示があり、多分この細い道も神道の一部であったと思われる。この道を進むと、小さな丘の麓に拝所がある。

その中にコンクリート造りの祠が建っている。ここが繁多川集落の火の神を祀っているところだ。綺麗に掃除がされてあり、地元の信仰は厚く、繁多川の各家底のカマドの上 (現在では台所の棚) に祀られている火災避け、盗難避け、家内安全をつかさどる神の元締めにあたる。祠内にある4つの香炉の左側のものがそれにあたる。


タキグサイ (嶽鎖)

火の神 (ヒヌカン) の後方には、地域の人々を守する土地の神が祀られているタキグサイがある。初御願 (ハチウガン) や師走拝み (シワーシウガミ) の際には、繁多川集落の人々は住んでいる土地の神への感謝の為ここを参拝している。


ウビー川 (ガ-)

広場の入り口付近、火の神とタキグサイの前には小さな石積みの井戸跡が残っている。ウビー川 (ガ-) と呼ばれ、若水 (ワカミジ) や産湯を汲む村落の産井 (ウブガー) であったと考えられている。各家庭で行う水撫で (ミジナディー) などに使われていた。


安里大親 (アサトゥウフヤ) の墓

火の神 (ヒヌカン) のすぐ近くに安里大親 (アサトゥウフヤ) の墓がある。

安里大親 (アサトゥウフヤ) は護佐丸の兄で、唐名を毛興文、名乗を清信と称した。沖縄で子供たちが歴史で教えられるのは、安里大親の住まいは今の崇元寺跡にあり、御物城御鎖之側 (おものぐすく、おさすのそば) の役職についていた金丸は、職務で泊港と首里を行き来することが多く、その道筋に安里大親の住まいがあり、安里村を通っていた。或る日、釣りを楽しんでいた安里大親は、通りかかった馬上の金丸を見て天下取りの相であることを霊知し、尚円王の誕生を予言したと云う。尚徳王の死後、次期王を誰にするかで、安里大親が金丸を推して、他の重臣もこれに同調して、内間村に隠遁していた金丸を王として迎えたとある。この金丸が尚円王として即位する経緯については、色々な説がある。金丸と安里大親が共謀してクーデターを起こしたとかいろいろだ。ただ、安里大親にとっては尚巴志時代から忠臣として仕えていた弟の護佐丸が晩年は尚氏から遠ざけられ、謀反人として討たれたことに対しては尚氏に対しては反感があっただろう。何らかの形で尚円王の即位に係わっていたとは思われる。


小禄家の墓

火の神 (ヒヌカン) の側にもう一つ墓がある。五大姓 (五大名門) の一つである浦添親方良憲を元祖とする馬氏小禄殿内 (ばうじ おろくどぅんち) の祖先を祀る墓地で、1846年 (尚育12年) 11世馬允中小禄親方良綱 (のちに良恭) によって建てられた。墓はもと那覇市上之屋にあったが、戦後米軍用地となり、この地に移築されている。墓の前には碑文が建っており、墓地の風水について述べている。


簡易水道水タンク跡

火の神 (ヒヌカン) の背後の小高い丘は上の広場の意味の上門 (イージョー) と呼ばれ、小禄家の墓の横の階段を上った場所に簡易水道水タンクが残っている。1962年 (昭和37年) に地元の人たちが各家庭への大川 (ウフカー) と坊主川 (ボージガー) からこのタンクまで水を引き、ここから各家庭に供水していた。1971年 (昭和46年)、上識名配水池後はこの簡易水道は廃止となり、今は使用してないタンクだけが残っている。この上門 (イージョー) は出征兵士や出稼ぎに行く人達を那覇港までは見送りに行けないので、この丘から那覇港から出港する船を見送った場所だったそうだ。


今度は集落の後道 (クシミチ) の外側、かつての集落から外に出た所を散策する。現在は一部は住宅街になっているのだが、ほとんどは墓地が丘陵の北斜面いっぱいに広がっている。 



識名平 (シチナンダ)

後道 (クシミチ) と真珠道 (前道 メーミチ) が合流するところは識名平 (シチナンダ) と呼ばれる。識名坂 (シチナンダビラ) を首里方面から登りつめたところで、かつての繁多川集落の北の端に当たる。ここは標高約66mで平地になっているので識名平 (シチナンダ) と名が付いている。ここから急な識名坂 (シチナンダビラ) が安里川まで伸び、首里金城集落に入ることになる。この坂より下は、次回訪問に残しておく。

坂の上に、真珠道の石畳の一部が残っている。この道路工事の際に見つかり、このように一部を歩道に見えるようにしている。


新壕 (ミーゴウ)、軽機関銃陣地跡

後道 (クシミチー) の中筋と南筋の中間地点から集落の北の道 (なごやか通りと呼ばれている) を入ると自然洞窟の新壕 (ミーゴウ) がある。1944年 (昭和19年) の十・十空襲後に地元の子どもたちによって偶然発見されたので、新壕と呼んでいる。壕の一部は真和志村役場と那覇警察署が共同で追加構築さえている。壕の中にはドーナツ状の広場があり、西へ伸びる坑道は覇警察署が使用し、北に伸びる坑道は真和志村役場が使用していた。島田県知事も真地の県庁警察部壕に移る前の一時期 (昭和20年4月4日~4月25日) ここに避難していた。当時は真和志村職員、地元住民など150人くらいが避難していたが、5月10日頃日本軍によって追い出された。現在、新壕 (ミーゴウ) は金網で囲まれ、近くまでは池に用になっている。新壕の東側にある当真家の墓が軽機関銃陣地として使われ、墓の中は弾薬置場や食糧庫として使用されていた。


沢岻親方 (タクシウェーカタ) の墓

後道 (クシミチ) 後方の墓地の中に幾つかの琉球史に名を残している人物の墓がある。まずは沢岻親方 (タクシウェーカタ) の墓を見学した。この墓は嘉陽墓、上里墓、トートーメー墓とも呼ばれている。沢岻親方盛里は護佐丸の孫で、毛氏上里殿内の祖に当たる。尚真王代 (1477-1526年) の三司官を務め、1522年に明の皇帝が即位した祝いの慶賀使となり、鳳凰轎 (王様の乗り物) と首里城瑞泉 (龍樋) に据えられた吐水口の龍頭を持ち婦り、その他、国王をよく補佐したなどの功績により生存中にこの墓を拝領した。この墓は、尚真王代に創建されたといわれ、尚維衡朝満が頂載すべきを尚清王は兄王子尚維衡が未だ壮健であるという理由で沢岻親方に下賜された。

墓の外観はほかでは見ることのない貴重もので、墓の周囲の石垣は、琉球石灰岩をあいかた積みにし、墓の前面は布積みにされ、屋根の軒には垂木が彫りだされ、石造りでありながら木造のように見せている。現在、第二の入り口と墓庭が残っているが、以前はその前 (現在、住宅地) に第一の入り口と墓庭があった。また内部のつくりは凝っており、まずシルヒラシの部屋があり、その奥に第二室があり、石棺が三基並んでいる。さらにその奥は三つの小さな部屋が並び、その上には左昭 (さしょう)、中正 (ちゅうじょう)、右穆 (うぼく) と刻んだ石版がはめ込まれている。それらの部屋の石扉を開けると、そこは骨をまとめて葬る所 (合葬納骨室) となっているそうだ。

沖縄戦当時、那覇警察署がこの墓を食料貯蔵庫として利用していた。


津波古親方政正 (東氏) の墓

津波古政正 (1816~1877) は、1840年尚育王時代中国留学をした政治家で、約6年間勉強を終えて帰国、要職を歴任し最後の国王尚泰の国師となった。留学体験で得た豊かな国際感覚と学問に支えられ、また性格も中正穏健であり、王の側近として絶えず適切な助言をしたと言われている。明治初期、支配層が頑固党、開化党に大きく分裂した状況においても中立的立場を堅持して、尚泰王の政治的決定の変更をくいとめた第一級の知識人であった。

津波古親方政正 (東氏) の墓の近くには立派な亀甲墓がいくつもあある。


島我那覇の墓

琉球王国第一尚氏王統時代の士族であった泊宗重 (唐名は呉弘肇、童名を真徳) を祖とした我那覇一族 (呉氏 我那覇殿内) の墓がある。琉球国由来記にはこの家にナーバ (茸) に似た怪石があり、やがて村ができ、奈波というようになり、のちに奈波を那覇に改字したという。(漁場を意味する「なーば」に由来するとの説もある)墓はもとは那覇の楚辺にあったが沖縄戦後、松川へ移転、さらに現在地へ移転した。


比嘉秀平主席の墓

比嘉秀平は教員のバックグラウンドを持ち、和歌山で20年間教員を務めた後、沖縄に帰り、教員を続けた。沖縄戦では学徒隊を率いていた。沖縄戦後、1950年に米軍により設けられた臨時琉球諮詢委員会委員長を務め、その後1951年に琉球臨時中央政府行政主席に就任し、1952年に琉球政府が成立すると、その初代行政主席に就任した。琉球民主党初代総裁でもあった。


力ーマ之殿 (トゥン)、カーマ之御嶽 (未訪問)

島我那覇の墓と比嘉秀平主席の墓の近くに力ーマ之殿 (トゥン) があるようなのだが、墓地の中にあるので、場所ははっきりと記載されておらず、写真もなく、結局探しても見つからなかった。力ーマ之殿 (トゥン) は赤バンタ之殿とも呼ばれ、識名集落住民の拝所でウチンジー (天と地) の神を祀っている。力ーマ之殿 (トゥン) の近くにはカーマ之御嶽もあると記されていたが、これは写真が載っていた。ミルクユガフーヌウタキとも呼ばれていたそうで、かつては識名から御願に来ていたというが、「識名誌」には集落の拝所としては載っていなかった。写真を頼りに墓地内を探すが、これも見つからなかった。繁多川で御嶽、殿として掲載されているのはここだけで、なおかつ繁多川集落の拝所ではない。繁多川が屋取集落として始まった事から、古くからの御嶽など拝所を軸とした集落形成の過程とは異なり、帰農士族としての屋取集落の特徴である御嶽や殿が不在の集落であることがわかる。



駕籠墓 (カグバカ)

墓地の中に少し変わった形の墓がある。首里崎山町の多和田家の墓で、駕籠墓 (カグバカ) と呼ばれており、屋根が駕籠のようかまばこ型に丸くなって、左右が担く棒の端のように見えるのでそう呼ばれている。


これで繁多川集落の中心地の周りは大体見終わった。次回は識名台地の北の端から金城ダム付近までを散策する予定。


参考文献