兄様のココアエッセンス
ろくな灯りすらなく薄汚れた空間に見合わない、清潔で高級感ある衣服を着こなす彼には既にモリアーティ家の次期当主たる風格があった。
その性質は捉えようにも捉えられず、だからこそごくごくたまにこの場所にやってくる姿がにわかには信じ難い。
「みんなには内緒だよ」
彼はそう言って独特の香りを漂わせる甘い液体を幼い兄弟に差し入れる。
異物でも入っているのかと警戒する弟を安心させるため、兄は率先して得体の知れないそれを飲んだ。
その様子に驚いて肩を跳ねさせたルイスをよそに、彼は痺れるほどの甘味を感じて思わず目を見開いてしまった。
アルバートはそんな二人の姿を見て、出来る限り威圧感を与えないよう微笑んでいる。
「ココアを飲むのは初めてかな?」
「ココア…これがココアエッセンスなんですね」
「ここあ?」
「ルイスも飲んでみて。とても甘くて美味しいよ」
口にしてもらえて安心したように表情を綻ばせる次期当主と、滅多に食べることのない甘味に興奮を隠しきれない兄。
だいすきな兄が自分に勧めてくるのだから悪いものではないのだろう。
ルイスは向けられる二人分の視線に戸惑いながらカップを両手に取り、温かく湯気の立つ液体に小さく息を吹きかけてから口を付けた。
火傷しないように少しずつ舌で味わえば、兄の言ったことが嘘ではないことがすぐに分かる。
「…美味しい」
「口に合ったのなら良かった。たくさんお飲み」
「ありがとうございます、アルバート様」
「…ありがとうございます」
ルイスは今まで菓子といった類の甘いものを食べる機会などほとんどなかった。
兄とともに稼いだ金はあれど自分達二人だけが菓子を食べるわけにもいかず、かといって院にいる全員に与えられるほどたくさんの菓子を用意することも出来ない。
必然的に支援者の人間がたまに持ち寄ってくれる焼き菓子を摘むことしか出来なかったし、それも大半は自分よりも幼い子供達に分けてしまっていたのだ。
モリアーティ家の引き取られてからも、外に出ていた兄がお土産を持ち帰ってくれるときにしか甘味を口にしたことはない。
ましてこのココアエッセンスという、今までに食べた何よりも強烈な甘味を持つ飲み物など初めて飲んだ。
ルイスは夢中になって、けれども火傷しないようふうふうと息を吹きかけながらカップを傾けていく。
あっという間になくなってしまったココアを残念に思いつつ、くすんだカップの底を大きな瞳で名残惜しげに見つめてしまう。
「また持ってきてあげよう。お休み、二人とも」
「お休みなさい、アルバート様」
「…お休みなさい」
内緒と言ったのだからこれは使用人に作らせたのではなく、アルバート自らが用意したのだろう。
貴族なのに変わった人だと、ルイスは飲み干したカップをもう一度じっと見つめてから隣に座る兄を見上げる。
その顔は温かいココアのおかげか、頬が赤らんでいるように見えた。
美味しかったね、と明るい声で同意を求める言葉にルイスは頷くことで返事をする。
「ココアエッセンスはね、カカオペーストから抽出したパウダーを使って作った飲み物のことなんだよ」
「チョコレータのことですか?」
「似たようなものかな。チョコレータよりも上質で作るのが難しいと読んだことがあるから、きっと高級なものなんだろうね」
「ココアエッセンス…」
噂には聞いたことがあるけれど、貴族はカカオ豆から作る飲み物を愛飲しているらしい。
物知りな兄に尊敬の眼差しを送りつつ、口に残る風味に思わず喉を鳴らす。
温かくて甘くて初めて味わった風味なのにとても美味しく感じた、香り豊かなショコラ色の液体。
高級だろうその飲み物を用意してきてくれたアルバートの意図はどこにあるのだろうか。
兄は思案しながらも顔を綻ばせており、弟は警戒するように眉を寄せている。
それでも強烈な甘味の魅力には抗えなくて、以降も気まぐれにアルバートが差し入れてくれるココアはいつしか二人の好物になっていた。
「ココアエッセンスをひと瓶、用意出来ますか?」
「かしこまりました。いつもありがとうございます、モリアーティ様」
ロンドンにある顔馴染みの店へ立ち寄り、愛用している銘柄のココアエッセンスを注文する。
出された瓶の蓋を開けて香りを確かめ、申し分ないそれへ合格を出すように頷いては包装を依頼した。
整った顔立ちのまま表情を変えずにいるルイスを見ても店主は気を悪くすることなく、贔屓にしてくれている伯爵家の人間に対し友好的に接している。
「モリアーティ様、ここまで足を運ぶのは大変でしょう?ご注文いただければいつでもお屋敷に届けますが…」
「…この店に立ち寄るのは私の楽しみでもあります。今後とも立ち寄らせていただけると嬉しいのですが」
「これはこれは…!嬉しいお言葉をありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします、モリアーティ様!」
儚げに微笑むルイスを見ていたく感動した店主は、恭しくココアエッセンスの入った袋を掲げて頭を下げる。
その姿に苦笑しながら袋を手に取ったルイスは店を出て行き、一人静かに道を歩いた。
貴族であれば大抵のものは屋敷に届けさせるこの社会において、使用人のいないモリアーティ家といえどルイスが街に出ることは滅多にない。
ダラムのように小さな町ならばともかく、ロンドンの一等地に屋敷を構えるモリアーティ伯爵家なのだ。
実際モリアーティ家では食材から日用品、洗濯に至るまでほとんどのことを業者に委託している。
その理由は貴族としての常識が半分、兄によるルイスへの気遣いと過保護が半分といったところだろう。
基本的にウィリアムもアルバートもルイスを一人で屋敷の外に出すことを良しとしていない。
ルイスにはその理由を詳しく伝えてはいないが、彼は「貴族なのだからそういうものなのだろう」と自己判断で解釈しているのだから敢えて言及することもなかった。
そんなルイスが一人でロンドンの街に出るのは急な使いを頼まれたときか、もしくはこのココアエッセンスを買いに行くときだけである。
「ただいま帰りました」
「お帰り、ルイス」
「変わりなかったかい?」
「はい」
ココアエッセンスの入った袋を持ち、慣れた道を歩いて重厚な扉を開ければ二人の兄が出迎えてくれる。
ウィリアムとアルバートにそんな真似をさせることに抵抗がないとは言わないが、帰宅一番に二人の顔を見ることが出来るのはとても嬉しい。
ルイスは他所行き用に作っていた表情を緩め、足早に二人の元へと駆け寄っていった。
「目当てのものは買えたかい?」
「はい。いつものココアエッセンスを買えました」
「無くなるたびに買いに行くのは手間だろう?今後は定期的に届けてもらってはどうだい?」
「アルバート兄様、これは僕が買いに行きたいのです」
大事そうにココアエッセンスの入った袋を抱きしめて、ルイスはアルバートを見上げてその言葉を拒否するように首を振った。
ウィリアムもルイスの気持ちが理解出来るように頷いては甘さたっぷりに表情を変えている。
店の主人が言っていたように、頃合いを見て届けてもらうのはモリアーティの名があれば簡単なことだ。
けれどルイスは、このココアエッセンスだけは自分の足で買いに行きたかった。
初めてアルバートに貰った、大切な思い出を表す物なのだから。
あの頃はまだ家族にも兄弟にもなれていなかったはずなのに、特にルイスはアルバートに対して警戒と猜疑しか向けていなかったはずなのに、それでもアルバートはわざわざ甘いココアを自ら用意してくれた。
きっとあれはアルバートがウィリアムを引き込むための計画で、ルイス含めて二人を懐柔するための手段だったのだろう。
始めはそんな打算があったに違いない。
けれどそれだけではなく、薄汚れた場所に追いやられている哀れな兄弟への思いやりの意味もあったはずだ。
表立って贔屓にしては後々他の人間に目を付けられるから、秘密裏に幼い兄弟へ慈愛の手を差し伸べてくれていたのだろう。
そこには確実にアルバートからの優しさが感じられる。
あの頃のルイスはアルバートから差し入れられるココアの甘さに絆されまいと気を引き締めていたが、こうして目的を同じにして本当の兄弟となった今、なんと愚かな日々を過ごしていたのだろうかと後悔すらしていた。
どんな計算があろうとも、アルバートがくれるココアは彼が持つ優しさそのものだったのだから。
とても甘くてとても温かい、香り高く高貴な飲み物。
まさしくアルバートの御心そのものだと、ルイスは思う。
だからこそ、ルイスはこのココアエッセンスだけは自分の足で買いに行きたいと考えているのだ。
手にするまでの時間も手に取ってから屋敷に帰るまでの時間も、アルバートの優しさに浸ることが出来るような気がしている。
ウィリアムはそんなルイスの気持ちに寄り添うように細い肩を抱き、アルバートを見上げて微笑んだ。
「良いじゃありませんか。僕もルイスが買ってくるココアエッセンスで作るココアが一番好きですし、たまにはルイスも街に出て情勢を把握しておいてもらわないといけませんから」
「ウィリアムがそう言うのなら構わないが…」
アルバート以上にルイスを表に出したがらないウィリアムが容認しているのだからこれが最善なのだろう。
だが腑には落ちないなと感じながら、アルバートはルイスの腕の中にある袋を見た。
続けてルイスの顔とウィリアムの顔を見れば、弟達は揃って同じように期待に満ちた視線をアルバートに送っている。
「何だい?私の顔に何か付いているかな」
「アルバート兄様、今お時間はありますか?」
「あぁ。急ぎの用はないし、このままお茶にしようと思っていたところだったから」
「それは良かった」
ルイスの言葉を引き継いでウィリアムが返事をする。
そうしてルイスの腕の中から袋を持ち上げ、中にあるココアエッセンスの瓶を取り出した。
ショコラ色に煌めく透明感あるその液体を揺らしてみれば、蓋を開けていないのに甘い香りが漂ってきそうな気配が感じられる。
満足げに瓶を見たウィリアムはそのままアルバートの手を取って、大きな手のひらに収まるそれを乗せてみせた。
「久しぶりにアルバート兄さん特製のココアを飲みたいです。お願い出来ますか?」
「もちろん、ミルクと砂糖の用意もあります」
「…なるほど。可愛い弟達の頼みだ、作らないわけにはいかないな」
「ありがとうございます、兄さん」
「兄様、僕がお手伝いします。早く行きましょう」
嬉しそうにアルバートの腕を取って厨房へと向かうルイスの顔は期待以上に甘えに満ちている。
ウィリアムも似たような顔をしているのだから、彼らの兄であるアルバートとしてはこの上なく気分が良かった。
定期的にルイスがココアエッセンスを買いに出かけていることは知っていたが、思えばこの屋敷に移り住んだ頃はそれを使ってよくココアを作ってあげていた。
作る手間はさほどかからないのに心地良く甘い飲み物は、飲み慣れた紅茶とは別の意味で気持ちを癒してくれるのだ。
ウィリアムもルイスもアルバートが作るそれを気に入ってくれていることは知っていたが、各々忙しくなってからはめっきり作ることがなくなってしまった。
今では寝る前のホットティー代わりとしてルイスが用意してくれるときでしか、ココアを飲む機会はない。
アルバートはさして気にしていなかったが今の二人を見るに、弟達はきっとずっとアルバートが作ってくれる機会を窺っていたのだろう。
可愛い弟達の浮き足立つような姿に、アルバートの心はココアを飲む前から甘ったるく癒されていた。
(さぁ今日から三人だけの生活だ。お互い助け合って生きていこう)
(はい。よろしくお願いします、アルバート兄さん)
(たくさん頑張ります)
(せっかくの夜だから、二人の好物でも用意しようか。ウィリアム、ルイス、君達は何が食べたい?)
(…何でも良いのですか?)
(もちろん)
(……兄さん、僕あれが飲みたいです)
(ルイスもかい?僕と同じだね)
(飲みたいものがあるのかい?紅茶の銘柄かな?)
(いえ、そうではなく…)
(…アルバート兄様が作ってくださるココアが飲みたいです)
(ココア?)
(以前、アルバート兄さんが僕達に作ってくれたでしょう?あれが飲みたいのです)
(構わないが…そんなもので良いのかい?)
(兄様の作るココアが良いんです。ありがとうございます、兄様。とても嬉しいです!)
(楽しみにしていますね、兄さん)