平家起つ 2.平治の乱前夜
保元三(一一五八)年二月三日、鳥羽法皇の第二皇女である統子内親王が後白河天皇の准母として皇后に立后された。准母とは、天皇の実の母ではない女性が天皇の母に擬されること、また、そうした女性への称号である。実母である待賢門院藤原璋子を一三年前に亡くしている後白河天皇が誰かを准母に指名することは不合理なことでは無かったが、准母として選ばれた統子内親王の素性を考えると異例であった。統子内親王は後白河天皇の一歳上の実姉なのである。
すでに述べてきたように、この時点で近衛天皇中宮の藤原呈子が皇后であり、近衛天皇皇后藤原多子の姉である藤原忻子が後白河天皇の中宮に、近衛天皇妃の藤原多子が皇太后である。ここに統子内親王が入り込むため、皇后藤原呈子が皇太后に、皇太后藤原多子が太皇太后へとスライドしたのがこのときの人事であった。
この時代の人は女性の間で起こったこのときのスライドに大いに注目していたが、同日に起こった別の人事についてはほとんど無関心であった。
この日、源義朝の三男で、この時点で一二歳の源頼朝が皇后宮少進に任命され、皇后統子内親王のもとで働くようになったのである。一二歳の少年が皇族の女性の周囲を警護する役目に選ばれたというのは、貴族の一員でもある武士の子の官界デビューとしては特筆すべきことではない。実際、長兄の源義平については不明であるが、次兄の源朝長もまた皇后統子内親王のもとで働く一人となっている。特筆すべき点があるとすれば、源頼朝は二人の兄と違って尾張国の熱田神宮の宮司の娘である由良御前が実母であり、由良御前自身も新たに皇后となった統子内親王のもとに仕える女性の一人になっていたこと、すなわち、母の勤める職場で働くようになったという点があるが、それとて、珍しくないとは言えないが、前代未聞というほどのことでもない。
しかし、皇后統子内親王のもとに身を置いていたことは源頼朝の生涯を大きく左右することとなる。
保元三(一一五八)年二月の人事でもう一人着目すべき人物が一人いる。藤原信頼がその人である。平治物語では悪評を一身に浴びている人物であり、平治物語などでは、文でも武でも無能なのに出世したのは後白河天皇との男色関係があったからだとまで評されているが、この言葉を文字通りに受け取るわけにはいかない。周囲を感嘆させるほどの優秀さとは言わないが、キャリアを追いかける限りではこの時代の有力者の子弟としてごく普通の段階を登っていて、順当なステップアップをしていたと評するしかないのが藤原信頼である。
藤原信頼の祖先を辿ると藤原道長の兄である藤原道隆に行き着く。ゆえに、藤原北家の一員ではあるが本流から外れた貴族とみなされていた。ただし、本流から外されてはいても順調な出世は遂げており、藤原信頼の父も、藤原信頼の祖父も、重要な役職に就くことはなかったものの公卿補任にその名を残すところまでは出世を遂げている。
藤原信頼の父である藤原忠隆は、公卿補任に名を残すぐらいの位階を手にした身であると同時に、かなり早い段階から鳥羽法皇の院近臣でもあった。院の中でここまでの血筋となると一目置かれるようになるし、築き上げることのできた資産もかなりのものとなるが、藤原信頼にはもう一つ特筆すべき存在があった。それは、異母兄の藤原基成である。およそ一〇年に亘って陸奥守兼鎮守府将軍を務め、かつ、その藤原基成の娘が後に奥州藤原氏の三代目当主となる藤原秀衡の妻となるなど、藤原信頼は奥州藤原氏とのつながりも持っていたのである。奥州藤原氏はこの時代で群を抜く富裕者だ。
こうなると、藤原信頼は血筋と財力の双方で鳥羽法皇の強い推薦を獲得することに成功できる。鳥羽法皇の知行国の国司を若くして歴任し、保元の乱の前年である久寿二(一一五五)年には位階を従四位下まで進めた上に、既に述べたように、武蔵守に任ぜられることによって奥州藤原氏とのつながりをより強固なものとすることにも成功していたのだ。
とは言え、藤原北家の一員であっても、摂政や関白に就くことは夢物語の世界であるという血筋でもある。父が選んだ院近臣という世界は、院政においては一発逆転を狙える社会的地位を獲得することを意味していたが、それとて摂政や関白を狙える地位への出世を期待できるほどではない。その代わりに利用したのが、生まれたときにはもう手にできていた資産である。
金持ちの家に生まれた者が、ケチにケチを重ねて周囲から憎まれたり、それとは逆に、資産を手にする手段を学ばずに無駄遣いを重ねて破産したりするというのは古今東西さまざまな場所で目にする光景であるが、藤原信頼はその例に該当しなかった。資産を単に増やしただけでなく、資産を使って自らの権勢を強めることに成功したのである。カネの使い方がうまいというのはこういう人を言うのであろう。
まず、奥州藤原氏に対してであるが、奥州藤原氏にしてみれば、院近臣の息子にして陸奥守兼鎮守府将軍の異母弟であり、奥州藤原氏の次期当主の母方の叔父でもある武蔵国司は、警戒よりも親近感を抱かせる存在である。この親近感を抱かせる武蔵国司が奥州藤原氏に要請したのは、奥州産の武器と馬の売買であった。奥州産の武器や奥州産の馬はこの時代の武士におけるステータスシンボルであり、奥州産の武具や馬をどれだけ抱えているかが武士としての力量を示す指標にもなっていたのがこの時代である。当然ながら高く付くが、藤原信頼はその高額な武具や馬をかなりの金額で買ったのである。これにより、奥州藤原氏からは、親戚というだけでなく安心できる取り引き相手であるとの評価を獲得することに成功した。
藤原信頼は奥州藤原氏から手に入れた武具や馬を惜しげもなく清和源氏に譲った。関東地方に勢力を築き上げつつあった清和源氏にとって藤原信頼からの武具や馬の提供は歓迎すべきことであり、また、従来からの藤原摂関家と清和源氏との関係を踏まえても、見返りに藤原信頼のために協力することを躊躇させなくする効果も持っていた。藤原道長以降、清和源氏は藤原摂関家の通力者と接近することで武士でもある貴族としての勢力を作り上げてきていた。また、その勢力も年々増してきており、裕福さという点でも清和源氏は年々伸長してきてはいた。ただ、過去と比較すれば裕福になってきているという話であり、同時代の他の貴族と比べるとどうしても見劣りする。要は、貧しい。その貧しい清和源氏にとって藤原信頼から優秀かつ高価な武具や馬が提供されたことは、藤原信頼に恩義を感じさせるに充分なことであった。
さらに恩義を積み重ねることとなったのは大蔵合戦における武蔵国司としての応対である。
大蔵合戦において源義朝の長男の源義平は無罪となったが、実は、源義平を無罪とする最終決定を下したのは武蔵国司としての藤原信頼である。
大蔵合戦の時点で清和源氏の間で内部分裂が起こっていることは周知の事実であったが、保元の乱で最終決着がつくまで父の源為義と息子の源義朝の間でどちらが勝者になるかは不明瞭であった。ただし、源為義が藤原頼長に臣従したことは広まっていたため、源為義に加担することは藤原頼長に接近することを意味していた。保元の乱までは藤原頼長の時代がそう簡単に終わるとは思われていなかったものの、藤原頼長の不人気は周知の事実であった。そして、藤原信頼は藤原頼長より若い。藤原頼長に頭を下げて政治生命を続けたとしても、そして、藤原頼長が失脚することなく老年を迎えたとしても、藤原頼長の後の時代における藤原頼長派への非難は目に見えていたし、その非難は晩節を汚すものになることも容易に推定できていた。
政略の問題もあるが、政策の問題もある。藤原信頼はどうしても藤原頼長の掲げる急進的なまでの律令制回帰に同調できなかったし、藤原頼長の政策が日本国を貧しくさせたことを理解していた。それに、東北地方と関東地方の安定を考えたとき、相模国鎌倉に拠点を持って関東地方を制圧しようとしている源義朝の側に立つ方ことが、関東地方の安定、そして、関東地方の北に広がる奥州藤原氏の勢力が強い東北地方の安定、すなわち、東日本全域の安定につながるという結論に至る。この状況で源為義ではなく源義朝を選ぶことはむしろ合理的な選択といえよう。
対立している父子関係があり、かつ、現時点でどちらが勝者になるかわからない状況下で子の側に肩入れすることは危険な賭けではないか、仮に父が勝とうものならこの安定が崩れ去ってしまうから危険な賭けではないかと思うかもしれないが、これは賭けと考えるからいけない。投資なのである。投資とは、自らの意志の関与が許されないギャンブルと違い、賭けた側が勝者となるように援助することが許される、いや、許されるどころか推奨されるのが投資というものだ。投資すればするほど投資相手に口出しすることが許されることを、受ける側からすれば口出しされることが増えることを意味するが、受ける投資が多い方が自分の勝利を手にする可能性が高まるのだから、口出しを拒否する代わりに投資も拒否するか、投資を受け入れた上で多少の口出しも受け入れるかを天秤に乗せれば、投資を受け入れることのほうを選ぶのはごく自然な流れだ。さらに言えば、その投資者は有力者になる未来が見えている若者なのだから、口出しされるという関係であろうと親しくしておいて損はない。
藤原信頼の立場に立つと、奥州藤原氏に対するにも、また、清和源氏に対するにも、引き受けた出費は決して安いものではない。しかし、手にした価値は応じた出費をはるかに超えるものがあった。奥州藤原氏にとってはありがたい取り引き相手であり、清和源氏、特に源義朝にとっての藤原信頼は貴重な投資者だ。そして、東日本を安定させたという政治家としての実績も手に入るとあっては、一石二鳥どころの話ではない。ローリスクとは言えないもののハイリターンが見込める魅力的な投資だった。
一方で、資産を利用した人間関係を構築することができないのが、平清盛率いる伊勢平氏であった。
彼らは金持ちだった。
ただし、閉じた金持ちだった。
どんなに強欲な政治家でも、庶民が貧しくなることを考えて政策を立てて実践する政治家はいない。どんなに失敗に終わろうと、庶民の暮らしは以前よりも良くなるはずだと考えて計画するし、その結果が失敗であったとしても、貧しくなったとは容易に認めないものである。それは平清盛も、そして伊勢平氏も例外ではなかったのだが、だからといって、自らの思い描く政策がより成功に近づくために、他の金持ちとの協力、具体的には有力貴族や有力寺社との協力という概念を伊勢平氏たちは持ち合わせておらず、それどころか敵視してさえいる。政治家としての平清盛は、自分の推し進める重商主義の自由貿易をベースとした国民生活の向上を望んでおり、重農主義の保護貿易を基軸とする既存の貴族や寺社と政策において相入れることはなかったと、現在でいうと、そもそも志向が違う別政党が手を取り合わずに別々に行動しているのと同じであったと考えれば、だいたい一致する。
また、政策の違いだけでなく、平清盛にしてみれば父である平忠盛の受けた屈辱があり、祇園闘乱事件という過去があり、それらの歴史を無視してまで有力貴族や有力寺社と手を組もうというつもりにはなれなかった。有力貴族や有力寺社が没落することを願うとまではいかないが、彼らの協力を仰いで自分の思い描く政策をより強固にするのと、協力を仰がない代わりに思い描く政策の遂行が時間を要するものとなるのとを選ばなければならないとすれば、迷わず後者を選ぶのが平清盛であり伊勢平氏たちであったのだ。
厄介なことに、伊勢平氏自身の持つ財力は、伊勢平氏だけで政策をどうにかできるだけのものがあった。これがもっと貧しいなら政策のために敵対視する面々と妥協することも躊躇わなかったであろうが、妥協しなくてもやっていけるだけの財力を持っていたために、伊勢平氏の面々は既存勢力との妥協が不要になったのだ。
藤原信頼は、清和源氏の武力を期待できるようになったがために伊勢平氏の武力を必要としなくなっていた。とは言え、伊勢平氏は敵に回すと厄介なのも事実だ。また、藤原信頼自身は藤原氏の一員であっても、藤原信頼の父の藤原忠隆は、貴族にしては珍しく鷹狩りや馬術といった趣味を持っており、こうした趣味を通じて平忠盛をはじめとする武士たちと交流を持っていた。藤原信頼は父の趣味を引き継いだとは言えないが、父の趣味を理解しており、そのことは平清盛も理解していた。完全に信頼するとは言えないにせよ、他の有力貴族たちよりはまだ父の平忠盛と自分のことを理解している人として捉えていたのだ。この関係を利用して藤原信頼が選んだのが婚姻である。平清盛の娘と、藤原信頼の子である藤原信親との縁談に成功したのである。もっとも、将来の婚姻を約束しただけであり実際に婚姻となったわけではない。
実はこの藤原信頼、保元の乱時点で数え年だと二四歳、満年齢にすると二三歳である。貴族としてのキャリアを現在の学齢で記すと、中学二年生で貴族デビューし、高校一年で最初の国司経験となる土佐守、高校三年で人生を決定づけることとなる武蔵守に就任し、ここで奥州藤原氏と商取引をして武具と馬を買って清和源氏に譲渡している。奥州藤原氏も、清和源氏も、それまで全く無名であった大人がいきなり目の前に登場したのではなく、これまで親や兄を通じて接点を持っていた藤原摂関家の若者が、成長し、国司となり、一八歳にして信用できる相手となって登場したと把握したのだ。いかに初婚年齢が早いこの時代であっても、一八歳の若者の息子が何歳なのかは容易に想像がつくし、その幼児と将来の婚姻を結んだ平清盛の娘が何歳なのかも容易に想像がつく。それでも、人脈作りは人脈作りである。
これによって取り敢えずの人脈作りに成功したところで迎えたのが保元の乱である。
保元の乱において藤原信頼が後白河天皇の側に身を寄せたのも、賭けというより投資の一つであった。これまでに費やした投資を無に帰させることなく、さらに強化させる手段であった。自分の投資してきた相手が後白河天皇側に立ち、武装して、崇徳上皇側に武器を向けている。その武器は誰からどのように調達したのかを調べたなら、藤原信頼が奥州藤原氏から購入して源義朝に渡したという記録が出てくる。この状況において藤原信頼に突きつけられた現実は四つのうちのいずれか。戦いそのものが、崇徳上皇側が勝つか、後白河天皇側が勝つか。そして、藤原信頼が、崇徳上皇側に立つか、後白河天皇側に立つか。この二種類掛ける二種類の合計四種類の現実が藤原信頼に突きつけられたのである。囚人のディレンマではないが、既に源義朝が後白河天皇の側に立っている以上、後白河天皇側に立って後白河天皇が勝利すれば何の問題も無く終わる。後白河天皇が敗れたとしても仲間とともに行動したということで筋は通る。崇徳上皇側に立ったら、崇徳上皇が勝ったとしても敗者に通じていた裏切り者と扱われ、崇徳上皇が敗れれば裏切った上に敗れ去った愚か者となる。後白河天皇側に立って、最良の結果となる後白河天皇側の勝利を掴み取る以外に選択肢は無かったのだ。
そして、藤原信頼は投資を結実させた。後白河天皇側に立ち、これまで自分が投資してきた源義朝が活躍して、これ以上ない鮮やかな勝利を掴み取ったのだ。
もっとも、この時点での藤原信頼は藤原氏の若き貴族のうちの一人というだけであり、特筆すべきポイントは無い。公卿補任を見ても保元三(一一五八)年にようやく参議の一人として名を連ねる二六歳の若き貴族として記されているだけである。
保元の乱で勝者となった藤原氏には、藤原信頼以上のキーパーソンである藤原氏が一人いる。
関白藤原忠通がその人だ。保元の乱当時で六〇歳。ところが、後継者となると、後に近衛基実と呼ばれることとなる一四歳の藤原基実となってしまう。もとからして自身に子がいないがために弟である藤原頼長を養子とし後継者としていたのが藤原忠通であるが、弟が後継者では無く対立する存在となり、ようやくもうけることのできた我が子の藤原基実を、三歳という若さで後継者として披露する状況を生み出すに至っていた。
三歳にして後継者というのは無責任な話であるが、当時の藤原忠通はまだ五〇歳にもなっていない。いかに平均寿命が現在より若い時代であっても、五〇歳にもなっていないならば、このあと二〇年は時代が続くことを普通に考えるし、その間も自分が摂政関白の地位にあり続けることも考える。何もかも上手くいくという都合のいい考え方ではあるが、その考えを実現させれば藤原基実も二三歳になる。藤原摂関家の男児であれば、二三歳の時点で議政官の一員として数年のキャリアを積んでいるのも普通だ。それでもさすがに若すぎるし経験も浅いという難点もあるが、そのときでも藤原摂関家の権力継承だけを考えれば最悪なケースを防ぐことはできる。望ましいケースではないが、藤原頼長をあくまでも藤原摂関家の中継ぎとして、藤原基実が藤氏長者になるまで暫定的に摂政関白に就かせるという手も考えの一つにはあったのだ。
もっとも、藤原頼長が兄の考えに従うつもりは全く無く、藤原頼長は兄の子よりも先に自分の子を出世させている。年齢を考えても藤原頼長の子のほうが年長であり、より広い範囲での権力継承を考えても、藤原頼長の子がある程度の地位にまで上り詰めているほうがスムーズである。少なくとも藤原摂関家の権力継承そのものは成功する。
権力継承そのものに成功はするが、藤原頼長が手にする権力は中継ぎとしての一時的なものではなくなり、権力をおとなしく甥に譲るわけがなくなる。藤原頼長は最期まで摂政関白に就くことができずにいたが、自分こそ関白に相応しいと考えていたし、自分の子供達が摂政や関白に就くべきであるとも考えていた。
そうでなくとも兄弟間の対立に父の藤原忠実も加わって混沌としていたのである。藤原忠実にしてみれば藤原氏の地位と権勢が継承できるなら長男でも次男でもかまわないわけであり、何かにつけて父と争うことのある藤原忠通ではなく、評判は多々あろうと少なくとも結果は出している藤原頼長を次世代の藤氏長者とし、藤原頼長の子の誰かをその次の代の藤氏長者にするのでも問題なかったというのが本心だ。
実際、藤原忠通の子は何かと冷遇されていた。藤原基実の元服の儀そのものは予定通り開催されたものの、元服の儀において本来あるべき饗宴は結局執り行われず、元服当日を予定していた叙任も六日後に延期されたほどである。いかに関白の子であっても、次世代の期待がなされていないとなると、関白の子でありながら摂関家の後継者として本来あるべき道は用意されなくなるというところか。
ところが、藤原忠通の子を冷遇する流れが保元の乱で一変した。
藤原頼長は亡くなり、藤原頼長の子らは流刑に処され、藤原忠実は事実上の政界引退に追い込まれた結果、藤原摂関家のトップの地位が藤原忠通の手に転がり込んできたのだ。藤原忠通の手に藤原氏のトップであることを示す朱器台盤が渡り、名実ともに関白藤原忠通が藤氏長者の地位に返り咲くと、関白の子としての藤原基実に対する周囲の扱いも一変した。次期摂政関白は藤原基実のもとにあることが明白になり、年齢に相応しからぬ急激な出世が舞い込んできたのだ。何しろ一五歳にして正二位右大臣というのだから急激のほどがしれよう。
ただし、冷ややかな目で眺める向きも多かった。藤原摂関家の権勢そのものの停滞を捉える向きである。元からして院政開始以後の藤原摂関家の権勢は下がって来ているというのは明白な事実であった。藤原道長と藤原頼通の二代が藤原摂関家のピークで、後三条天皇以後は藤原摂関家の勢力が落ちてきているのは誰の目にも明らかであり、藤原摂関家に代わって勢力を手にしたのが上皇であるというのはもはや共通認識となっていた。藤原摂関政治の最盛期は、いかに摂政や関白、あるいは藤原道長のように左大臣として圧倒的な権勢を握っていても、日本国のトップは天皇であり、治天の君という名称は一般的ではなかった。治天の君という名称を知っている人がいたとしても、その名称の示すのは無条件で天皇のことであり、摂政も関白も天皇に仕える臣下の一人であること以上の意味を持たなかった。ところが、白河法皇以後は、治天の君とは上皇のことになり、上皇の家政を司るはずの院という組織が朝廷と密接につながりながら、同時に、院という組織が朝廷と独立した組織でもあり続けることで、莫大な権威と資産を手にするようになったのである。
更に厄介なのが、鳥羽法皇の逝去により鳥羽院という組織が消滅し、保元の乱と同時に権力が全て朝廷に帰したことである。信西は天皇親政を考えていたようであるが、多くの人は院政復活を時間の問題と考えていた。後白河天皇が院政を開始するかどうかはともかく、もともと後白河天皇は中継ぎの天皇と考えられてきた人であり、近衛天皇の逝去後、本来ならば後白河天皇の子である守仁親王に帝位を譲るべきところであったのだが、その時点では守仁親王に帝位を譲れないために、一時的に守仁親王の父である後白河天皇に帝位に就いてもらい、そのあとで父から子への禅譲として守仁親王に即位してもらうというのがあるべき姿であったのだ。
となると、待っているのは後白河天皇、いや、あるべき姿を迎えた未来の時点での名を考えれば後白河上皇と呼ぶべき人物の手による第三の院政である。
後白河院政が成立したとき、実権を握るのは誰か? 過去二回の院政では上皇ないしは法皇が実権を握り、院に仕える者が権勢を謳歌した。無論、この国の体制を覆したわけではない。天皇の下に貴族が仕え、貴族の下に役人がいるというシステムは継続している。そして、院に仕える者も朝廷の仕組みだけで捉えると決して高い地位ではない。位階も低く役職も低い。左大臣藤原頼長が鳥羽院の院司であったのは極めて限られた例外である。院司の権力も、議政官においてときに過半数に達し、ときに過半数に達しないにせよ無視できぬ勢力を築き上げたが、それでも、一党独裁をなしとげたわけでも、ましてや議政官を支配する強力な大臣を推戴したのでもなく、律令に則った権力の行使としている。
一つ一つは律令の想定する権力なのである。
ただ、一つ一つは想定内でも、結集すると律令の想定を超える権威を生み出すのが院という仕組みであった。
実際、院の権威は強力だった。朝廷から一定の距離を置いているがために自由が利き、莫大な資産を有するがゆえに思い通りに振る舞うことができた。白河法皇や鳥羽法皇の出した指令である院宣は、今すぐではなくとも近い未来に法制化されることが明白であることから、事実上の勅令としての効力を有したほどだ。
そして、この頃の後白河天皇の周囲の人達は、同じことを思い描いていた。
後白河天皇が上皇となり院宣を出すことが可能となったとき、かなりの可能性で自分の思い通りの院宣を生み出せるはずだと。なぜなら、後白河天皇は権力欲こそ強いが、統治者としての素養は高いものではないから。後白河院政となったならば院司が上皇の権威を利用してかなりの権勢を振るえるようになると誰もが考えたのだ。
その中の一人が参議藤原信頼であった。より正確に言えば藤原信頼の部下がそうであった。
同意はできなくとも理解はできる話である。
自分の仕える藤原信頼が近い未来に権勢を築くことは近い未来に起こること間違いないことであったし、現時点で藤原信頼の上に立って覇者として君臨している藤原忠通やその子が近い未来に衰退することも目に見えていたのである。貴族自身の上下関係は従者間の上下関係にも反映される。議政官の末尾にようやく登場したばかりの藤原信頼と、関白という圧倒的存在である藤原忠通とでは、本来であればようやく向かい合って話ができることが許されるようになったかどうかという関係である。この関係は、藤原忠通の家臣と藤原信頼の家臣との関係にもつながっていて、藤原信頼の家臣は藤原忠通の家臣と対等に渡り合うことも許されなかったほどなのだが、未来が見えてくるとなると事情は変わる。
保元三(一一五八)年四月二〇日の賀茂祭において、賀茂祭使の行列を見物していた藤原忠通の牛車の前を、藤原信頼の牛車が通り過ぎるという事態が起こった。現代人からしてみれば前を通り過ぎるだけのことではないかとなるが、この時代、関白の乗る牛車を参議の乗る牛車が通り過ぎるなど言語道断の話であり、やむを得ず通り過ぎなければならないときは、当人が牛車から降りて、関白から直接許可を得た上で歩いて前を通り過ぎるのがマナーであったのだが、藤原信頼とその家臣はマナーを無視して通り過ぎた。
藤原忠通の家臣は藤原信頼の家臣に対し無礼を咎めたが回答は無視された。
するとどうなるか?
雅(みやび)なイメージのある平安貴族であるが、実際にはかなり血の気が多い。貴族本人の血の気も多いが、貴族の従者の血の気はもっと多い。少なくとも無礼があれば石を投げるぐらいはする。現在であれば石を投げてケガ人が出たとなったら大問題になるが、この時代は石を投げて死者が出てもあやふやにされてしまう時代である。それどころか、マナー違反のあったときに格上のほうが石を延々と投げ続け、格下がじっと黙って耐えていることが、マナー違反をしてしまった格下に許された唯一の方法であったほどだ。
このようなマナーに直面した貴族の一人に藤原道長がいる。時代は遡るが、永延元(九八七)年四月一七日、兄の藤原道綱とともに賀茂祭の見物に来た若き藤原道長は、時の右大臣藤原為光の前を牛車に乗ったまま通り過ぎてしまったために石を容赦なく投げつけられたものの、藤原道長の父である摂政藤原兼家からの救いの手は全く無く、牛車の前を通り過ぎたほうが悪いとして扱われて終わっている。いかにまだ若き頃の暴走であったとしても、この時代の藤原氏たちが何かにつけて前例としてきた藤原道長ですらこうだったのにかかわらず、藤原信頼は耐えるどころか抵抗した。
藤原信頼の従者の側に立つと、まず、原理原則に従えば、いかに関白であろうと目の前を通り過ぎただけで石を投げつけるなど許される話では無い。また、未来は自分の主人の手にあり、目の前にいるのは衰退するだけの存在である。後白河院政が成立したらついこの間までの鳥羽院政期のように、あるいはそれよりも冷遇される関白になるであろうという現実が待っている藤原忠通なのに、無礼を咎めて石を投げつけるというのは納得できる話では無い。さらに言えば、藤原信頼相手に藤原道長の前例は通用しない。藤原信頼の祖先をたどると藤原道長の兄の藤原道隆に行き着く。本来であれば自分のほうこそ摂政関白を相続する家系であったのに、それを藤原道長が奪い取ってしまったのではないかという考えがある。いかに関白でも本来は傍流で、近い未来に本来の立場である傍流に戻る藤原忠通と、本来は本流で近い未来に摂政関白の地位を取り戻す藤原信頼とでは、藤原信頼のほうが格上だという思いがある。
この二つの意見がぶつかった結果は、乱闘騒ぎ。
多勢に無勢なこともあって藤原信頼の乗った牛車が藤原忠通の家臣達の手によって破壊されたことで四月二〇日の騒動はひとまず収束したが、翌日、世情の人が耳を疑う命令が発せられたのである。
後白河天皇の命令によって出されたのは、藤原忠通に対する処罰であった。原理原則に立ち返れば後白河天皇の命令のほうが正しいのである。いかに慣例であろうと、また、いかに関白であろうと、牛車の前を通り過ぎたという理由だけで石を投げつけただけでなく、石を投げつけられたことに対して抵抗を見せると人数に物を言わせて相手の牛車を破壊したのであるから、これは許される話では無い。これまで見逃されてきたことであろうと、法に従えば藤原忠通は処罰されるに値するだけのことをしたのである。後白河天皇は藤原信頼の牛車を破壊したことの責任をとらせるとして、藤原忠通の家臣である平信範と藤原邦綱の二名を殿上から追放し、関白藤原忠通も自宅である東三条殿での謹慎処分とすると発表したのである。
これに驚きを隠せなかったのが藤原忠通であるが、法に従えば後白河天皇の命令は正しく、藤原忠通には命令に従うしか手段が残されていなかった。
保元の乱の勝者は後白河天皇側である。ただし、後白河天皇の政治理念に共鳴した面々が一つの勢力を構築して敵対する勢力と対決した争いではない。皇室の、藤原氏の、源氏の、平氏の、各々の勢力が内部対立によって二分されていたのが、相手があちらに味方するなら自分はこちらに味方するというような、そのときの政略によって後白河天皇側と崇徳上皇側とに分かれて争った戦いである。
言うなれば、個々の政党の内部における党首争いが存在していたのが、保元の乱で党首争いに決着がついたということである。
保元の乱の勝利は党派内の争いを解消する効果を持っていたが、党派外の争いを解決することを意味してはいなかった。それどころか、かつて存在していた党派外の争いをより強固なものへとする効果を持っていた。それまでであれば自身と対立する存在が組織の内と外の双方とで存在しており、誰もが二方面作戦を余儀無くされていたのであるが、保元の乱の結果、内部で対立する相手が消滅したことで組織内の争いが消滅し、二方面作戦が不要となったことで組織外への攻撃に専念できるようになったのだ。
これまでに何度か、平安時代の藤原氏を現在の自民党に模してきたことがある。自民党は外に対しては一枚岩であるが内部では様々な派閥が存在し、派閥内の争いに勝ち抜いた者が外に対する代表としての総裁になり総理大臣となるという仕組みの政党である。藤原氏も本来はこのような形式であったのだが、時代とともに派閥間の争いが乏しくなり、派閥の間での権力推移が消滅した。
藤原信頼は、その権力推移を取り戻そうとしたのである。奥州藤原氏とのつながりに裏付けられた資産と、清和源氏の当主となった源義朝の武力があれば、貴族界の中で異彩を放つことが可能だ。その上、後白河天皇が院政を始めたならば真っ先に院司になること間違いなしと自他ともに認める未来が存在すれば、藤原信頼は摂関家に対抗しうる藤原氏内部の一つの勢力を築くことも可能だ。
だが、本当に可能なのだろか?
たしかに資産の使い方や、奥州藤原氏との関係、武力の確保は並大抵の貴族ではないことを伺わせる。伺わせるが、同時に、経験も浅すぎるし役職も低すぎるとも実感させられる。年齢相応といえばその通りであるが、摂政関白たる地位を手にするにはまだまだ足りない。これから勢力を積み上げていったときに藤原忠通に代わって朝廷における有力者になることはあるだろうが、それは今すぐではなくやがていつかは手にするであろうという話である。
ところが、別の人物に視点を向けると全てが合致する。
信西だ。
日本国は天皇を国家元首とする国であり、藤原氏は天皇に仕える庶民のうちの一氏族でしかない。その庶民のうちの一氏族であるはずの藤原氏が朝廷において莫大な権力を持つようになったのは、国外では渤海の滅亡、新羅の滅亡、唐の滅亡という混迷があり、国内では平将門と藤原純友の反乱が起こったからである。国外で見られたような混迷を日本で起こさせないようにするためには、政権の劣化があろうと政権の安定を考える必要があった。多くの土地で、多くの組織で、多くの国で、現時点の権力の劣化を訴えることは頻繁に見られるが、劣化に対する反発として権力を打破して新しい権力を作ることと、以前より優れた素晴らしい権力が生まれることとは必ずしも一致しない。平成の日本も、自民党政権への劣化を訴えた末に民主党政権を誕生させてしまい、失業と倒産を絶望的なレベルで増やして、取り返しのつかない事態を招いたという二度と繰り返してはならない歴史を持っている。それを考えれば藤原氏の政権が続くことは充分に許容できる話である。
ただし、問題が一つある。私は過去に何度も平安時代の藤原氏と現代日本の自民党とを対比てきたが、自民党のほうが圧倒的に優れている点が一つある。自民党は新しい人を次々と受け入れる組織であるという点である。藤原氏の一員として権力を手にするためには藤原氏に生まれなければならない。しかも、藤原氏に生まれたというだけではダメで藤原北家に生まれなければならない。藤原北家なだけではダメで、藤原冬嗣の、藤原忠平の、藤原道長の子孫として生まれなければならない。これらの鉄則は国を滅ぼさないための臨時措置としては極めて有効に働いたし、政権の連続性という点でも優れた効果を発揮したが、生まれという本人にはどうにもならない理由で、いかに才能があろうと、さらには、いかに藤原氏の政策に共鳴していようと、権力にはたどり着かないという大問題を隠せなかった。
かつては様々な姓が公卿補任に並んでいたが、気がつけばほとんどが藤原氏でごく一部に源氏、極めて稀に平氏がいるだけという状況になってしまった。一時期、源氏が議政官における最大勢力になったこともあるが、それも保元三(一一五八)年から見れば過去の珍しい出来事でしかない。ついでに言えば、源氏にしろ、平氏にしろ、長くても数百年ほど前、短い場合は数十年前に皇室から分かれ出た特別な家系であって、他の貴族と等しく扱うわけにはいかない。
優秀な人が優秀さを発揮できるようにするにはどうすべきかを考えるならば、藤原氏の勢力が弱まるのはむしろ歓迎すべきことだ。特に、信西のように藤原氏に生まれたものの藤原北家ではなく、高階氏に養子に出されたために藤原氏でもなくなり、出家を宣言したら慌てて藤原氏に戻されたという過去を持つ者にとって、藤原氏が特権を持った特別な一族ではなく、多くの貴族のうちの一氏族になることはメリットこそあれデメリットのある話ではない。そのために藤原氏の勢力が弱まることは受け入れることのできる話であるし、一時的に弱まった末に再び勃興するようになったとしても、勃興した後の藤原氏が現在の藤原氏より優れた結果を出す政治家集団になっているなら、それもまたメリットのある話である。
愚管抄や平治物語の伝える藤原信頼の姿は、実にみっともない愚人である。政治家としての能力はおろか、一人の人間として軽蔑するしかない人物像である。だが、保元三(一一五八)年までの藤原信頼にそのような姿をみることはできない。経済に関しては異彩を放っているし、充分な実務能力も兼ね揃えていたことは間違いない。特に後者は、他に候補がいたにもかかわらず、保元三(一一五八)年二月の除目でただ一人正四位下の参議に就任している。このときの抜擢を後白河天皇の男色の相手だったからというのが藤原信頼を無能に描いている平治物語や愚管抄の主張であるが、この時期の後白河天皇政権において人事を担っていたのは信西である。先に関白藤原忠通と参議藤原信頼が賀茂祭で衝突した際に後白河天皇の命令によって関白藤原忠通に対する謹慎処分が下ったと書いたが、この命令の起草も信西であり、後白河天皇が自分でゼロから命令を記したわけではない。
信西は藤原信頼に対し、愚管抄や平治物語にあるような愚人という扱いはしていない。ただし、藤原信頼自身の考えているような扱い、すなわち、次期摂政関白たる人物とまでは考えていない。藤原氏内部の争いのきっかけにするには都合のいい存在という認識である。
保元三(一一五八)年八月一〇日、何の前触れも無く、平清盛が安芸国に対する知行国の権利を失った。
普通に考えれば容認できぬことではあるが、平清盛はこの権利剥奪を受け入れている。
納得できる見返りがあったからだ。
一つは平清盛自身が太宰大弐に就任したということ。本来であれば太宰府のトップは太宰帥(だざいのそち)、ないしは太宰権帥(だざいごんのそち)であるが、何れも議政官を務めた、あるいは現在進行形で努めている貴族の就く役職であり、近い未来に議政官入りするであろうことが有望視されていようと参議の経験もない平清盛には就く資格は無い。しかし、事務方のトップである太宰大弐であれば平清盛でも就任可能であった。そして、太宰大弐は太宰府における貿易の最高責任者でもあった。父の代から継続して宋との貿易に乗り出している平清盛にとっては、これ以上ない最高の地位に就任したということを意味する。
それでも安芸国に対する知行国の権利を失ったことは大きな損失であったが、安芸国に代わる新たな知行国が手に入るとあれば話は別だ。安芸国に代わって手に入れた知行国は遠江国、現在の静岡県西部である。安芸国という瀬戸内海の海路の要衝を失うのは痛手であるが、太宰大弐として瀬戸内海の海路の入り口を手に入れることに成功し、かつ、海外貿易を一手に担う役職も手に入ったのだから納得は行く。それに、安芸国の生産と比べて遠江国の生産性も悪くはない。また、平清盛自身は太宰大弐なので遠江国に赴任することはできないだけでなく就任することもできないが、長男の平重盛を遠江国司に就かせることは可能となる。満年齢で二〇歳、数えで二一歳の若き貴族のキャリアを考えても悪くない話だ。
さらに同日、平清盛の弟である平頼盛が常陸国司に再任されたことで、伊勢平氏に与えられている権利の変更はあっても剥奪はないということが明言された。ここまで来ると安芸国に対する知行国の権利を失ったこと自体が、平清盛があまりにも大量の報償を得たことに対するカモフラージュになるほどだ。
それにしてもなぜ、八月一〇日という中途半端なタイミングでの発表となったのか? その理由は翌日判明することとなる。
保元三(一一五八)年八月一一日、後白河天皇が退位を表明したのだ。かねて予期されていたように、新しく帝位に就いたのは守仁親王、第七八代二条天皇である。もとからして後白河天皇は二条天皇が即位するまでの中継ぎの天皇であり、これによって鳥羽法皇の意思が実現したこととなる。
これに対し悲痛な思いを隠せなかったのが関白藤原忠通である。後白河天皇からは事前相談が無かったのみならず、退位を匂わせる様子すらなかったのだ。関白は本来、天皇の相談役である。その関白に後白河天皇が何の相談もすることなく退位するというのは異常事態であるが、裏で信西が絡んでいるとなると話は単純ではなくなる。
そもそも関白は律令に明記された役職ではない。
摂政ならわかる。天皇が幼少である、あるいは病気やケガなどの理由で政務を遂行できないときに摂政が職務を補佐し代行することは律令で定められているとおりである。だが、元服もしているし病気もケガもしていない天皇には、補佐役も、職務代行も、必要不可欠な存在ではない。実際、過去に何度か関白なき政務が実現したことがある。何より、この時代の人たちが何かと先例として持ち上げてきた藤原道長が人生で一度も関白に就任したことがないというのは、それだけで関白不要論の論拠とできるほどだ。
後白河天皇退位と二条天皇即位をスムーズに進めるなら関白藤原忠通にも話を通しておくべきであったろうが、何しろ相手は信西だ。関白という職務の必要性を感じていない。儀礼的な意味での関白が必要なときは藤原忠通の登場を求めるが、政治の立案と遂行においての藤原忠通の登場は求めていない。
強引なのは理解していたが、信西は強引であるという反発を抑えることに成功していた。平清盛率いる伊勢平氏たちの武力を期待できたのだ。何のことはない。前日の発表はこのための準備だったのである。
藤原忠通はこの決定を諦念とともに迎え入れた。ただ「仏と仏の評定」、すなわち、信西と、美福門院藤原得子とがこの譲位を決定したと記したのみである。
ただし、最後の意地を見せることには成功した。藤原忠通が関白を辞任しただけでなく。息子の右大臣藤原基実を関白として指名することに成功したのである。その上で、藤氏長者としての地位を藤原基実に譲ると宣言した。正式な関白就任は二条天皇の裁可が必要であるが、藤氏長者の地位は藤原忠通の指名で可能だ。藤原忠通が藤氏長者に就任できたのは保元の乱によってであり、後白河天皇の命令によってであったとは言え、藤氏長者の地位が天皇の命令によるというのは本来であれば異例であり、このときの藤原忠通のように藤原氏内部での決定のほうが本来あるべき姿である。関白に対して信西があるべき姿での対処をするなら、藤原忠通が藤氏長者に対してあるべき姿での対処をするのも問題はないということか。
これに反発を見せたのが藤原信頼である。これが摂政就任ならばまだわかった。摂政は天皇の近親者の務める職務であり、問われるのは血縁である。だが、関白となるとそうとは言えなくなる。あくまでも天皇の相談役であり血縁関係は本来であれば重要ではない。実際には摂政と関白とが一続きになっているから血縁関係が問われる世界ではあるから血縁関係の薄い者が関白就任するのは現実的ではないが、信西の考えのように捉えれば本来あるべき姿ではない。
藤原信頼の問題視したのは、藤原基実に近衛大将の経験のないことである。左近衛大将にしろ、右近衛大将にしろ、いかに名目上の職務になってしまっているとは言え武官の最高位として武力を統率する経験の無いまま国政を担うことは危険だというのが藤原信頼の主張した問題点である。たしかに、これまでの大臣や摂政関白は、それが名義的なものであろうと近衛大将の経験を持っている。就任して数日で辞職したにしても、経験は経験だ。
しかも、保元の乱という武力の争いが存在してからわずかに二年しか経過していない。武力の意味するところが京都内外の市民の目に知れ渡っている状況で武人統率の経験のない執政者の登場に不安を感じるのは自然な感情である。
ここまではわかる。
ただし、藤原信頼の意味するところは何かを考えると話は変わる。藤原信頼は清和源氏のトップとなった源義朝とつながりを持っている上に、奥州藤原氏とのつながりまで手にしている。しかも、右兵衛佐、右近衛権中将の経験を持っていて、現在も左兵衛督を兼職としている。これだけでも武人の統率として充分なキャリアであるし、現時点でも武人へのある程度の指揮命令権を有している。将来の大臣職への昇格を考えても年齢相応の順調なステップアップであり、武人への指揮命令経験という意味では藤原信頼のほうが通常であって、新しく関白になる予定の藤原基実のほうが異例なのだ。
藤原基実だって名目上ではあるが武官経験を持ってはいる。実際、元服と同時に左近衛少将に就き、左近衛中将を経て、左衛門督を経ている。ただ、その上が無い状態で右大臣になったのだ。一方、藤原信頼はまだ参議であるが、このままいけば左右どちらか、あるいはその両方の近衛大将を経験することとなる。参議から、中納言、大納言へとキャリアを進めたとき、藤原信頼は保元の乱を経験したこの時代にあって数少ない武力を統率できる有力貴族となること間違いない。
さらに言えば、藤原信頼は摂政や関白に就くのが無謀とは言い切れない家系だ。これは藤原基実の強力なライバルとなること間違いない。藤原摂関家はこれまで清和源氏との個人的なつながりを私的に動員できる武力として計算できたのだが、保元の乱で清和源氏の武力は源義朝のものとなり、源義朝は藤原忠通でも藤原基実でもなく、藤原信頼とのつながりを持つようになったのだ。さすがに次期関白間違いなしという藤原基実の命令を拒むことはないであろうが、藤原基実と藤原信頼とが各々権威と権力を持ち、相互に相反する指令を出したとき、法に従うなら、源義朝は議政官の官職ではなく武官の官職においてより上位にある人物からの命令に従わねばならない。そして、藤原基実は武官への指揮命令権を合法的に手にするチャンスを逸している。左近衛大将は内大臣藤原公教の、右近衛大将は権大納言藤原公能の兼職であり、既に右大臣にある者が新しく近衛大将となろうとした場合、自分より議政官における席次で格下にある者から兼職を取り上げて自らが就任するしかないが、それは許されない話である。ゆえに、既に右大臣である藤原基実が合法的に武力を行使するとしたら、議政官での議決によって内大臣藤原公教か、あるいは権大納言藤原公能に対して武力の発動を要請するか、あるいは、検非違使別当である権中納言源雅通に警察権力の発動を要請するしかない。
保元の乱の前であればこれでも問題なかったであろうが、保元の乱という目に見える形での武力衝突を経験した現在、文官としての出世を遂げているがためにシビリアンコントロールができなくなっているというのは極めて大きな失策であった。
藤原忠通は、息子の迎えることとなる境遇を打破するために、藤原信頼に対して強硬姿勢と妥協姿勢の両方を見せた。まずは妥協姿勢のほうであるが、藤原基実の妻として、藤原信頼の妹を迎え入れた。右大臣であり、まもなく関白になろうかという人物の妻として、藤原信頼の妹、すなわち、各地の国司を点々として位階こそ従三位まで進めたものの、議政官経験も持つことのないまま生涯を終えた藤原忠隆の娘を迎え入れるというのは、家格を考えるこの時代にあって、藤原摂関家にとっては屈辱この上ない話であった。藤原信頼にしてみれば、自分こそ摂政関白に就く家格であって、妹が右大臣の元に嫁ぐことは何の問題も無いことと考えたようであるが、そのような藤原信頼の心境など考慮に値しないことであった。
次に強硬姿勢のほうであるが、藤原忠通は早くも息子の後継者を決めたのだ。藤原基実の弟で、保元の乱の年に貴族デビューをしたばかりの、後の松殿基房こと藤原基房である。このとき、数えで一五歳、満年齢はまだ一四歳。つまり、藤原基実と一歳しか違わない。普通、後継者とは、その人の子供、ないしは一世代下の年齢の者が指名されるものであり、一歳しか違わない者が後継者に指名されるのは異例中の異例だ。藤原頼通が辞任したあとの関白に弟の藤原教通が就いたという事例は確かにあるが、後三条天皇即位という藤原摂関政治の根幹を揺るがす大事件があったのに加え、藤原頼通が関白を辞職したのは七七歳、後を継いだ藤原教通は七三歳。高齢を難点として挙げることもできるが、経験、実績ともに申し分ない人物が就いたという捉え方もできる。これは一五歳の後継者が一四歳であるのと同列に語って良い話では無い。
藤原忠通の硬軟双方の対応に対し、藤原信頼は硬については黙り込むこととし、軟を受け入れることとした。と言っても、藤原基房の後継者指名に積極的に賛成したのではない。いかに後継者として定めようと、保元の乱という先例がある以上、未来は未確定である。それに一歳差の後継者争いというのは協力関係になるより敵対関係になる可能性が高い。今はまだ表出化していなくとも、後継者争いが現実味を見せれば不穏な空気を醸し出すこともあろう。そして、不穏な空気を見せたときに藤原基房に代わる後継者として名が挙がるはずの人こそ、これから藤原信頼の妹が産むはずの藤原基実の息子だ。
息子に帝位を譲った後白河上皇は既定路線に従ったと言える。もとからして皇位継承者として見なされていなかったのだが、二条天皇を帝位に就けるにあたり、父が皇位に就いたことがないのに息子が就くのは不条理であるとして、二条天皇の即位までの中継ぎとして帝位に就いたのが後白河天皇だ。退位するところまでは既定路線であり、あとは上皇として二条天皇の政務を見届けるだけでよい、はずであった。
しかし、権力欲の強い後白河上皇が自身の迎えることとなる余生を黙って受け入れるはずはなかった。そうでなくとも、白河法皇、鳥羽法皇と二代の院政を経た結果が保元三(一一五八)年の日本国であり、院政無き政権の構築を模索しているのが保元三(一一五八)年時点の朝廷だ。
ここで後白河上皇が院政を始めれば、院政無き政権の構築が不要となり、白河法皇、鳥羽法皇の二代の政治システムの遺産をそのまま継承できる。
後白河天皇は本来であれば退位後の住まいとして三条殿が与えられることとなっていたが、三条殿が消失していたために暫定措置として高松殿を住まいとすることとした。上皇の院号は通常、住まいとした建物の名、あるいは建物のある土地の名から名付けられる。ただし、既に同じ名の院号が過去に存在していれば、三条院に対する後三条院のように、二人目には「後」が語頭に付される。そこで疑問に持つ人がいるかもしれない。既に二人の院号が存在しているとき、三人目の院号はどうなるのか、と。その答えであるが、そもそもそういう例がないというのが答えである。ここで三条殿に住まいを構えたなら日本史上初の三人目の院号となっていたところであるが、後白河上皇が三条院に住まいを構えなかったところから三人目の院号という概念を検討する必要はなくなった。
院政を始めるにあたり後白河上皇の直面することとなったのは、自らの権勢の現実である。保元の乱の勝者であることが後白河上皇の立場を構築していたが、立場の正当性は、単に戦乱の勝者であることのみならず、既定路線である二条天皇への譲位が完了したこともまた意味を持つ。すなわち、あるべき姿は二条天皇の帝位であって、後白河天皇が後白河上皇となるのはあるべき姿を構築する途上で誕生するやむをえぬことというのが位置付けであった。いかに白河法皇と鳥羽法皇の二代の政治システムの遺産を継承できるとは言え、継承できるのは政治システムの遺産であって、権力の遺産でも、資産の遺産でもない。後白河上皇は求められた役割を終えた人物であり、あとはついこの前までのように皇位継承と関わり合いを持たない皇族としての生涯を過ごすことが求められたのである。
それを唯々諾々として受け入れる後白河上皇ではなかった。権力を掴むことへの意欲を隠すことのない後白河上皇は白河法皇や鳥羽法皇のように院政を始めるようしたのである。もっとも、院政を始めようという意欲を見せるところまでは後白河上皇の自由だが、後白河上皇は肝心の院政の正当性を得ていなかった。白河法皇も、鳥羽法皇も、全くのゼロから権力を構築したのではなく、退位した身に与えられる権利を利用して権力を構築したのだから、後白河上皇に与えられる権利を利用して院政を名乗るところまでは後白河上皇の自由でも、後白河上皇の発揮できる権力には限界があったのだ。何しろ鳥羽院政の継承者たる崇徳上皇を配流し天皇親政を実現させたのは他ならぬ後白河天皇だ。その後白河天皇が退位したからと言って、かつての白河法皇や鳥羽法皇のような院政を復活させるというのは理屈に合わない。
また、鳥羽法皇の資産を相続したのは美福門院藤原得子であり、院政の勢力の一つである資産の面で後白河上皇は充分な資を得ていない。上皇たるに相応しい資産は国家予算から計上されるが、院政を敷くほどの資産ではない。白河法皇のように自らの手で荘園を獲得すれば資産を築けるかもしれないが、白河法皇が莫大な荘園を手にできたのは既に存在する農地のうちまだ荘園になっていなかった土地を自らの荘園とすることが可能であったからであり、美福門院藤原得子が権勢を発揮できたのは、白河法皇が築き、鳥羽法皇が受け継いだ院の荘園を相続できたからである。今から後白河上皇が白河法皇のように荘園によって資産を獲得しようとしても、荘園とできる土地はもう存在しなかった。
さらに、退位直後の後白河上皇には自身と行動をともにする仲間もいなかった。二条天皇の即位は既定路線であり、貴族たちが今後の政治生命を考えるなら、後白河天皇から二条天皇への譲位と同時に後白河天皇ではなく二条天皇に臣従を誓うのは当然であった。天皇に臣従するのが貴族の役割であり、退位と同時に上皇への臣従となるのは朝廷のあるべき姿としては許されないことである。白河法皇や鳥羽法皇の例は権勢を掴んだゆえの例外であり、本来であればあってはならないことである。仮に後白河上皇が政治家として高い資質を持ち、現時点で後白河上皇が権勢を手にしていなくとも、今のうちから後白河上皇のもとに身を寄せれば、後白河上皇の手によって将来の安泰と繁栄が期待できるというならば、二条天皇のもとを去って後白河上皇のもとに身を寄せる貴族が現れることもあり得ようが、後白河上皇からはそのような資質など全く期待できない。しいて挙げるとすれば、退位後の後白河上皇の院司になった貴族がいるが、それは律令が規定している朝廷の職務の一環であり、院個人の魅力によってではなく朝廷の人事政策の結果でしかない。
これは、後白河天皇の育ての父とも言うべき信西も例外ではない。
退位前は信西を頼れたが、二条天皇の即位とともに信西は二条天皇のブレインへと移っていたのである。これは何も信西が裏切ったからではない。信西は天皇親政をあるべき政治システムの姿であると考えたがゆえに後白河天皇の参謀となったのであり、信西がいかに後白河天皇の育ての父であるかのような立場であろうと、後白河上皇の院政を簡単に受け入れるわけはないのである。信西とて個人の情実は存在するが、どんな人でも受け入れることのできない一点というのがある。それが信西にとっては院政の復活であった。
この状況下で後白河上皇の周囲に侍る者を探すとなると難しいものがある。朝廷の職務の一環としての院司ならともかく、自らの意思で後白河上皇の院司を務めるとなると、後白河上皇に個人的に心酔している人か、あるいは二条天皇親政で権力を失う者の打算しかありえないのである。白河法皇も鳥羽法皇も莫大な資産と朝廷官職とのつながりというメリットを用意できたが、後白河上皇にはその両方が無い。白河法皇の資産は孫である鳥羽上皇が相続できたが、鳥羽法皇の資産は美福門院藤原得子が相続しており後白河上皇のもとには渡っていない。また、院の強い推薦を朝廷に持ちかけることでの朝廷官職の斡旋も、信西がいる以上、極めて難しい。信西の評判は決して高いとは言えないが、信西自身の子の抜擢を除けば公平公正な人事を展開しているし、信西自身の子供達の貴族や役人としての能力も決して低くはない。つまり、相応の能力のある者に相応の役職を割り振っているのが信西の人事だ。後白河天皇の頃はある程度の地位を掴めてはいたが二条天皇の時代になって地位を失った者がいるならば後白河上皇のもとに侍るのもあり得る話になったであろうが、信西は後白河天皇の頃から人事に介在している。すなわち、後白河天皇の頃に地位を掴めていた者はそのまま二条天皇の時代となっても地位を掴み続けているか、あるいは、後白河天皇の頃の実績が評価されてより高い地位に昇っているのが現状だ。
こうなると、現政権への不満を自らの権力の源泉とするしかない。
保元の乱から一年間の後白河天皇親政は、増税無き積極財政によって景気の向上が見られた。庶民の暮らしに目を移したとき、過半数とはない言わないものの多くの者がこれまでより良い暮らしを手にしたのである。
しかし、格差是正には常にディレンマが存在する。自分が自分より恵まれた人と同じ生活水準を得ることに文句を言う人はいないが、自分より恵まれていない人が自分と同列に並ぶのはどうしても我慢ならないのが人間の本性というものだ。今までの暮らしが、自分よりも苦しい日常を過ごしている人の犠牲の上で成り立っていることを理解せず、格差是正のためであるとしても、自分よりも苦しい日常を過ごしている人の生活を向上させた結果、自分の生活が不便になることを受け入れる人はそうはいない。
トマ・ピケティの「21世紀の資本」が全世界を席巻したあと、格差問題に対する現実を記す論文が多々公表された。そこで突きつけられた現実とは、差別を前提とした社会の存在である。人種差別であったり、性別による差別であったり、正規雇用か非正規かの差別であったりと差別の種類は多々あれども、それらは全て一点に収斂される。他ならぬ庶民自身が差別の加害者として社会の多数派を構成し、自分が差別していることの意識も持たず、そして、差別されている人にそれが差別であると気づかせぬまま苦しい暮らしを強要して、社会の多数を占める庶民が被差別者の犠牲の上で生活をしているという現実である。恵まれた一パーセントと恵まれない九九パーセントという実にわかりやすい対立図式ではなく、自分で自分のことを庶民と認めながら差別社会の勝利者である五〇パーセントに属しているのに対し、庶民であると認められることすらなく差別を受ける五〇パーセントの人達がいるという図式である。比率は五〇対五〇ではなく、状況によって六〇対四〇になったり、七〇対三〇になったりするが、自分で自分のことを恵まれない庶民であると考えている側のほうが、格差社会における勝利者の側として、しかも、充分にマジョリティとして計算できる比率で存在している。自分で自分のことを苦しい生活であると考えている庶民自身が格差社会の勝利者として君臨しながら、自分より苦しい暮らしをしている人を差別して平然としている。それが格差社会の大問題なところだ。
格差は良くないと誰もが考えるし、格差是正を実現させたときは多くの人が拍手喝采する。しかし、自分が格差の負け組ではなく格差の勝ち組であることを突きつけられただけでなく、その後でやってくる被差別者を前提とした経済の崩壊を受け入れられることは極めて難しい。今までの自分の暮らしが誰かの犠牲で成り立っていたことを、そして、その犠牲を受け入れる誰かはもう存在しないことを受け入れられず、崩壊した経済の理由を時代の執政者に求めるのは歴史上何度も繰り返されてきたことだ。
ただ、ここで執政者を打倒したところで得られるものは何もない。ようやく差別されないで済む暮らしを手にした人達に対して、今回の格差是正は無かったことにして少し前までように差別されろと命令できるわけはない。中には相変わらず差別し続ける人もいるが、多くの人はそれまでの差別を二度と繰り返さないことを考える。たしかに、人権をまるっきり無視して経済をただちに元に戻すこと“だけ”を考えるならば、差別を復活させれば経済の即時復活も可能といえば可能だ。差別ありきで構築されてきた経済から差別を無くしたらこれまでの生産システムが成り立たなくなる。差別を無くした新しい生産システムを再構築するのは時間がかかるものなのだから。
ただし、差別を無くした新しい生産システムによる経済は、これまでより高い生産性を持った豊かな暮らしをもたらす。差別は緩やかな衰退を伴ったこれまでの経済の生き残り策であり、差別撤廃とは、時間はかかるものの長期的には豊かな暮らしをもたらす経済政策でもある。古今東西どこにでも目にできることであるが、差別を利用した経済というのは、極めて非効率なものである。まず、差別があると人件費を減らせるから、頭の悪い経営者でもそれなりの売り上げを残すことができる。競争相手が登場したとき、頭が悪いのでアイデアを出せず、仕方無しに値下げで対抗しようとしたときに真っ先に減らせると考えるのは人件費だ。セス・ゴーディンの言葉ではないが、値下げというのは他にアイデアを生み出せない無能なマーケティングの行き着く先であり、その先に存在するのは転落と崩壊である。たしかに人件費を削っただけ売値を減らせば値下げをアピールできるから一時的な生き残りは可能だが、その削った分は直ちに自分のところに跳ね返る。人件費とは生産者の給与であると同時に消費者の資産でもある。消費者の資産が減ってもなお、今まで通りの売り上げを記録することはできない。だからさらなる値下げをして売り上げを図ろうとする者もいるが、それでも限界はある。
値下げの財源として真っ先に思いつくのも人件費削減であるが、もっとも難しいのも人件費の削減である。何しろ生活がかかった話であり、人命がかかった話である。存続のために人件費削減を求めたり解雇したりするのは同意を得づらい話になる。ところが、ここに差別が絡むと話は変わる。いともたやすく人件費は削られるし、いともたやすく解雇される。差別されるということは働く場所が限られることを意味するから、辞めたら生きていけないという脅しをかけることも可能だ。差別している人にとって、差別されている人の生活が苦しくなろうが知ったことではないし、生活の苦しさを訴えても自己責任の一言で片付けて終わりだ。
ただし、いかに差別による人件費の削減を図っても、差別される人自身が減ったならば人件費の切り詰めも限界を生じさせる。差別される人の絶対数が少なくなれば雇用者の元に置いておくことのできる被差別者の数にも限界が生まれる。あの手この手で辞めさせずに自らの手元に留め置かせ、安い報酬で長時間働かせて現在の生産を維持させようとしても限界はある。健康を永遠に手にし続けることのできる人はいないし、老いと無縁でいられる人もいない。そして、働かされ続けながら次世代を産み育てることができる人も、また、いない。
森鴎外の小説でも有名な山椒太夫はこうした差別を利用したこの時代の雇用者の典型的な姿として描かれた存在だ。北朝鮮であるかのように人を拉致し、死も当たり前という事実上の奴隷労働を課して徹底的にこき使うことで塩を生み出し、塩を安く売りさばく。塩の値段が下がって喜ぶ消費者は多いが、塩がどのように作られているかを知ったら憤慨する消費者も多い。そして、たくさんの人が差別され奴隷労働を課されていると知ったならば、多くの消費者はそのような働かせ方をする山椒太夫への怒りを見せ、差別も奴隷労働も直ちに禁じることを求める。ただし、塩の値段の安さは差別を利用した奴隷労働の成果であり、それらを無くしたなら、奴隷労働に頼らない塩の生産方法が確立されるまでは塩の値段が上がる。値上がりに憤慨しない消費者は、ゼロとは言い切れないが、少ない。怒りを見せる人が求めるのは奴隷労働をなくした上で現在と同じ価格での供給が続くことであるが、そんなものは無い。
塩の生産を例として挙げたが、消費財や生産材のうち、差別を利用した過酷な労働を前提として生み出されたものが多々存在して、庶民の日々の暮らしを、特に首都平安京の庶民の暮らしを成り立たせているのである。この状況下で、信西は律令に定められた通りの規定を適用し、国民の義務としての労働である雑徭(ぞうよう)を課した。法で定められた義務であるから勝手に拒否することはできない。拒否する方法もあるにはあるが、そのためには拒否する代わりの税を支払わねばならない。本人に支払い能力がなくても、働かせている人を雑徭に取られたら困るというなら雇用者のほうが本人に代わって税を払うという方法もとれるが、ただでさえ過酷な勤労義務を課している雇用者だ。まともに税を払うわけなどないし、それ以前に経営者として失敗しているから手元にまともな資産など残っていない。命令を無視して払わずにいようものなら逮捕されるが、だからと言って税を払ってしまったら採算は取れない。こうなると待っている運命は二つしかない。一つは収益の大幅な悪化、もう一つは倒産だ。企業という存在が認知されていなくとも企業という概念はこの時代にも存在する。そして、収益の悪化という概念も、企業の倒産という概念も存在する。企業の収益が悪化し、あるいは倒産という運命を迎える代わりに、働かされていた人たちはこれまでより良い待遇の暮らしが待っている。
奴隷労働をさせていた雇用者が破滅するという気分爽快な物語とともに展開された格差の是正であるが、一瞬にして経済を好転させるとは限らない。何しろ市場に出回る生産材や消費財が減るのだ。生産システムが破壊されたのだから当然であるが、物不足が起こって物価が上がらないとすればそのほうがおかしい。物価を上げさせないとすればただでさえ不足している商品は直ちに市場から消え失せる。需要はあるのだから奴隷労働に頼らないイノベーションを起こせば市場のシェアを占めることに成功するが、イノベーションは一瞬で完成するものではない。市場の需要はイノベーション創出の七条件のうちの三番目の条件である。イノベーションが誕生し、生産システムが確立され、これまで以上の庶民生活が見られるようになれば格差是正と経済の好転は両立するが、それまでの間は経済の好転が見られず庶民生活は苦しい状態となる。
このような社会情勢は一つの現象を生み出す。現状に不満を持つ人が集まりやすいという現象である。特に、若き二条天皇の背後に控えた信西が、それも、正式な階梯を経ずに権勢を掴んだ信西が、二条天皇を操り朝廷を操っているという構図は実にわかりやすいものがあった。おまけに、経過はどうあれ経歴だけであれば文句なしのキャリアを積み重ねてきた藤原忠通は関白を辞し、藤原忠通の子で一六歳の若き右大臣である藤原基実が次期関白になることがほぼ決まっているとなると、信西に対する不平不満は一気に集まる。それは信西の公正な人事評価を受けている者も例外ではない。いや、公正な人事評価であるからこそ例外ではなくなる。自分はもっと高い地位を、自分はもっと良い境遇を得られるはずなのに、それがどんなに第三者的には適正かあるいは分不相応な厚遇であっても、本人としては納得できない冷遇となる。それに、信西の子が役職に就いているというのも、客観的には実力通りの正当な待遇であっても、主観的には信西の身内優遇に映る。若き天皇と若き次期関白を操る謎の僧侶というのは批判を集めやすい。
その批判の中心となったのが藤原信頼だ。藤原信頼自身、保元三(一一五八)年二月二一日に正四位上で参議に就任し、五月六日に従三位に昇級、八月一〇日に権中納言に昇格と信西の評価を獲得して出世を果たしていたのだが、藤原信頼の納得いく出世ではなかった。
保元三(一一五八)年八月一一日の二条天皇の治世開始直後の議政官の構成を、年齢に注目して見ていただきたい。
藤原信頼は、奥州藤原氏とのコネクション、清和源氏を統括する源義朝とのコネクション、そして、自身の持つ資産だけがアピールポイントであったわけではない。二六歳という若さもアピールポイントであったのだ。
藤原信頼は自分の若さを信じていた。次世代のトップランナーは自分だと信じていた。しかし、藤原忠通の子というこれ以上ない次世代が登場しただけでなくその後継者も登場し、さらには自分と同世代の若者も議政官に姿を見せるようになった。
自分より歳上が自分より格下にいるではないかという慰めの言葉には何の価値もない。自分より歳下が自分より格上にいて、次世代のトップに立つのもこうした若者であって自分ではないという焦りが藤原信頼を支配するようになっていた。
批判の感情を抱いた者は藤原信頼一人ではなく複数名存在している。そして、彼らには一つの共通点がある。実力が正しく評価されている、いや、評価されてしまっているという点である。彼らの自己評価とは第三者の客観的な評価と比べれば著しく高く、現実とは大きな乖離がある。その理由を彼らは、自己の実力不足ではなく、二条天皇を操る信西の不正に求めたのだ。無論、自己評価に見合わぬ位階と役職であることを信西批判の理由に挙げたりはしない。彼らの挙げたのは現在の経済状況である。格差是正そのものには触れず、生活が苦しくなっている人が多くなっていることを以て信西の失政と断じているのだ。
その上で彼らが考えたこと、それは後白河上皇の院政である。
高松殿で院政を始めたばかりの後白河天皇は確かに周囲の人員に苦労していた。何しろ絶対数が少ない。朝廷が官職として派遣する院司以外にいなかったと言い切れるのだが、スタート直後は少なかったはずの後白河上皇の周囲の人員がだんだんと増えてきたのだ。それだけを見れば喜べることではあるのだが、内容に問題があった。後白河上皇への敬意から集ってきているのではなく、後白河上皇を利用するために集ってきていることがあまりにも明白であったからである。
そもそも彼らは、後白河上皇の院政を求めて高松殿の後白河上皇のもとに集ってきているのではない。信西が主導する二条天皇の朝廷に対する不満から、政権に対する反発の唯一の選択肢として後白河上皇のもとに参じたのである。後白河上皇の政策に同意を示したわけではなく、求めているのは分不相応の地位だ。
白河法皇も、鳥羽法皇も、自らの近臣を抜擢する人事をした。それも朝廷と密接に結びついた人事をした。朝廷の中で信西がいかに実力に見合った人事を展開したとしても、ここで後白河上皇が院司を優遇する人事を展開し朝廷と密接に結びつくことができれば、自らの現在の境遇を一気に逆転させることも可能だ。そのようなことを信西は許さないと思うかもしれないが、しかし、まさにその信西こそが後白河天皇の乳母の夫という地位を利用し、しかも出家を利用して階梯を経ずに出世をし、権勢を手にした人物だ。いかに公平な人事を展開しようと、公正では無い方法で権勢を手にした人物とあっては説得力もなくなるというものだ。
ここで高松殿の後白河上皇のもとに集った面々は、不平不満を信西への非難に置き換えた。本来であれば現状への不満であるのだが、政権批判をしようと選挙によって権力への参加が認められている現在と違い、この時代の政権批判とは、イコール権力喪失である。少し前なら流刑であるし、保元の乱で信西が復活させた律令の規定によれば死罪だ。源為義も、平忠正も、戦争の敗者だから処刑されたのではない。現在では言論の自由として認められている政権への反抗が、律令に定められた死罪該当の犯罪の一種である謀反(=天皇殺害)、謀大逆(=皇居や陵墓の損壊)、謀叛(=国家に対する反乱)に該当するために処刑されたのである。崇徳上皇のもとに集ったことも、そこには左大臣藤原頼長がいたことも、刑罰の減免の理由にはならない。理論上は後白河天皇とその住まい、そして日本国に逆らったことが死罪の理由となったのである。藤原頼長の子は流罪であって死罪ではなかったではないかという疑念を抱くかもしれないし、養老律によれば謀反も謀叛も貴族であっても減免措置の対象とはならない犯罪ではないかと考えるかもしれないが、その後の律令の補正、特に延喜式によれば、藤原頼長の子らが流罪に留まり、武士たちが死罪になるというのも、間違った話ではない。
後白河上皇のもとに集った面々はこのことを知っている。だから信西への批判に終始するしかなかった。信西への批判であれば咎められることはなかったのだ。
集団が一つにまとまっているときというのは、絶大な力を発揮する反面、恐ろしいものがある。集団の方向性を是正する動きが見られないのだ。空気を読めない人という評価をされる人がいるが、そのような人は集団の空気を読まないのではなく、集団の動きを冷静に観察し現実的な視点で物事を申す人でもある。後白河上皇のもとに集って信西への罵詈雑言を繰り返す面々は、自らの境遇に対する不平不満という本音を隠すように信西批判という表向きの命題を掲げていた。二・二六事件でクーデタの首謀者となった青年将校達が題目として掲げた言葉に「君側(くんそく)の奸(かん)を討(う)つ」という語がある。これは、天皇の周囲にいる者、二・二六事件当時であるから昭和天皇の周囲にいる者を排除することで、不況や格差拡大といった二・二六事件当時の日本の社会情勢が解決できるとした青年将校達の主張である。このとき後白河上皇の周囲に集まって信西への不平不満を述べた貴族達も、二・二六事件の青年将校達と似た考えであった。そしてもう一つ、その考えの甘さと見通しの浅さを指摘する人がいないという点でも似ていた。君側の奸を排除すれば全て上手くいくという考えと、信西を排除すれば全て上手くいくという考えとの間に本質的な違いは無い。
このとき後白河上皇の周囲に集まった貴族をまとめてみるとこうなる。
まず筆頭格となるのが二六歳の権中納言藤原信頼である。平治物語などでは無能なのに後白河上皇との男色関係があったから出世したのだとまで記されているが、血筋と年齢とキャリアとを考えると妥当なところであり、信西の人事で参議になった上に権中納言にまで昇っているのだから、この人を無能と言い切ることは難しい。しかも、藤原信頼は奥州藤原氏の財力と清和源氏の武力を計算できた人物でもある。特に、源義朝の事実上のスポンサーであり、いざとなれば源義朝の武力を期待できるという点は、他の貴族が後白河上皇のもとに集うときの重要な後押しとなっていた。
役職で言うと、藤原信頼よりも上に来る四一歳の権大納言藤原経宗も忘れてはならない。藤原経宗の父である藤原経実は藤原師通の弟であり、藤原経宗の妹は二条天皇の実母である。既に元服している二条天皇に摂政は不要であるが、仮に血筋を理由として摂政を選ぶとすれば、一六歳の藤原基実ではなく、四一歳の藤原経宗という選択肢も現実的にありえた。また、保元の乱のあと、藤原忠実が招いて次期執政者たるべき存在と見込んで政務のノウハウを教えたのもこの藤原経宗である。ところが、この人は出世が遅かった。摂政になってもおかしくない血縁関係の人物が四一歳で権大納言というのは遅すぎる。それには理由があり、藤原経宗の父である藤原経実は素行が悪く、大酒を飲んでは自宅に招いた荒くれ者とともに騒ぎまくり、周辺の邸宅に石礫(いしつぶて)を投げつけるなど近所迷惑な人間であったのだ。息子が親のことに責任を負うというのは現在であれば大問題であるが、父が誰で父がどのようなキャリアを過ごしてきたかがその人のキャリア構築に大きな意味を持つこの時代では、父の素行不良は大きなハンデである。藤原経宗は父に似ず、朝廷の政務に精勤し事務処理能力も高いという評判を得ていたし、信西は藤原経宗の事務処理能力を高く買ってはいたが、摂政も夢ではない身としては不満の残るところであった。ただし、藤原経宗はあくまでも二条天皇親政があるべき姿であると考えており、後白河上皇のもとに足を運んだのも信西打倒という目的のための妥協であって、後白河上皇の院政成立には反対している。二条天皇に子供が産まれその子が即位したなら摂政となるのは誰であるかと考えれば、後白河上皇院政を否定する理由も理解できるし、後述する藤原惟方と違って、信西打倒についての妥協はするがその妥協に藤原信頼と手を組むという妥協は含まれていない。
三人目に挙げるべきは参議に就任したばかりの三四歳の藤原惟方である。この人は鳥羽法皇が守仁親王に近侍するよう命じた人物で、後白河天皇即位と同時に蔵人に、守仁親王が二条天皇として即位したと同時に蔵人頭に、次いで参議に昇格している。この人も藤原経宗と同様に後白河上皇の院政には反対しており、あくまで二条天皇の親政があるべき姿であって信西が実権を握っていることが問題であると考えていたが、同じ考えである藤原経宗とは違い、藤原惟方は信西打倒という同一目標のためとして藤原信頼と協調することを選んでいる。もっとも、二条天皇親政を主張する藤原惟方と、後白河上皇の院政を求める藤原信頼との間での主張の違いは最後まで埋まることがなかった。
四人目に挙げるべきは、四三歳の参議である源師仲である。この人は藤原惟方とは逆に後白河上皇の院政を積極的に推し進めることを訴えてきた。最終目標と目の前の目標の双方とが合致することから藤原信頼と早い段階から協力関係にあり、伏見の地にある自領を藤原信頼に武芸訓練用の土地として提供するなど良好な関係にあった。なお、この提供が後に大問題となるのであるが、この時点ではまだその大問題が見えていない。
信西批判の面々の中にカウントされる武士として、藤原信頼がスポンサーである源義朝を考える人は多いかもしれないが、意外なことに源義朝自身は後白河上皇のもとに集って信西批判を繰り返す貴族の一人にカウントされてはいない。より正確に言えば、信西批判という政治的意識を表現することすら許されていない。確かに源義朝は保元の乱の功績によって下野守の地位を得続けながら左馬頭に就くという、前例がないわけではないが異例ではある褒賞を受けた立場であり、位階を見ても役職を見ても貴族として充分通用する地位を得てはいるが、議政官入りにはほど遠かった。この時点での源義朝は、藤原信頼との関係から後白河上皇のもとに集う貴族の一人ということになってはいたが、実際には信西批判の面々が計算できる武人という立場であった。平清盛に対するライバル心はあったろうが、他の貴族たちにとって源義朝のそうした思いは、さほど重要視されるものではなかったのだ。
源義朝とは逆に、貴族の一員として信西批判に積極的に加わる武士もいた。位階だけで言えば源義朝より上の位になる源光保がその人である。鳥羽法皇の北面の武士の一人であったことから院昇殿が許されるようになり、保元元年時点では正四位下にまで位階を進めており、順当に行けばもう少しで議政官入りというところまで来ていた。ところが、源光保の出世はそこで終わってしまった。鳥羽法皇の逝去後に守仁親王の側近へとスライドし、守仁親王が二条天皇として即位したことで自身の将来の展望も見えてきたのに何もないというのは、人事権を手にする信西への怒りを募らせるに充分であった。
こうした面々と一線を画す立場ではあるが、信西への反発という点で無視できない存在であったのが、六六歳の左大臣藤原伊通である。久安六(一一五〇)年に近衛天皇に入内した藤原呈子は藤原忠通の養女としての入内であったが、藤原呈子の実父はこの藤原伊通である。関白藤原忠通や美福門院藤原得子からの信任も厚く、この時点で左大臣として議政官を取り仕切る立場となっている。ただし、順調に出世を重ねてきたかというと、そんなことはない。もともと毒舌家である上に自尊心が高く、自分よりあとに参議になった者が自分より先に権中納言に昇格したことに腹を立てて政務をボイコットした結果、懲罰として二年間の追放処分を食らったという過去もある。さすがに年齢を重ねたことで若い頃の暴走はなくなってはきていたが、それでも毒舌癖と攻撃的な姿勢は変わることなく、この時点の議政官にあって信西に平然と楯突く数少ない貴族の一人であった。ただし、藤原惟方のように藤原信頼と妥協するのではなく、信西批判という点で協調姿勢を見せることはあっても、藤原経宗と同様、藤原信頼と手を結ぶということはなかった。
信西が自分への反発に気づいていなかったとは思えない。ただし、それが具体的な行動になると考えていなかったとも思われる。と言うのも、平清盛の軍勢が信西のもとに存在していたからである。クーデタの可能性を考えたとき、未然に防ぐにはどうすべきかを考えたときの答えは、理屈ではなく武力である。
保元の乱という武力と武力のぶつかり合いが目に見える形で展開されたのは記憶に新しい。これでもなお、信西批判という名目の政権批判を展開するというのは危険極まりない。いかに源義朝が武力として計算できようと、平清盛と真正面から衝突しようものなら無事では済まない。大内裏再建工事は伊勢平氏と清和源氏の財力の差を見せつけることにもなったが、財力の差はそのまま武力の差にもつながる。いかに個人的なつながりを掲げて兵を動員しようと、動員できる兵の質と量は財力に比例する。伊勢平氏とて清和源氏と真正面からぶつかろうものなら無事では済まないが、それでも最終的には伊勢平氏のほうが勝つと予想される。危惧すべきは藤原信頼がその財力で奥州藤原氏から購入した馬や武具を源義朝に提供していることであるが、それでもまだ、清和源氏の軍勢を総結集させたところで伊勢平氏には敵わないというのが信西の見立てであった。
のちの源平合戦の結果を知っているなら信西の見立ての誤りにも気付くであろうが、忘れてはならないのは、保元の乱によって源為義をはじめとする清和源氏の主だった武将がことごとく、信西の命令のもと、他ならぬ源義朝の手によって斬首されていることである。この結果、清和源氏を指揮できるのは源義朝ただ一人だけとなったのだ。源義朝の長男である源義平は既に名を知られていたものの未だ二十歳にならぬ若者、後世の覇者となる源頼朝はたしかに皇后宮少進という公的地位を得てはいたものの、この時点ではまだ一二歳の男児である。平清盛は弟たちを指揮官として期待できるため多方面作戦を展開できるが、清和源氏は源義朝しか指揮官がいない以上、清和源氏全体で一団となった行動はできても多方面作戦の展開はできない。裏を返せば清和源氏を一箇所に留めておくことに成功さえすれば、清和源氏の武力の発動は不可能となるのである。
また、藤原信頼は信西への不平不満を募らせていたが、信西は藤原信頼を客観的に評価していた。その証拠に参議に就任した年に早くも権中納言に昇格させている。また、藤原信頼への評価だけが理由ではないであろうが、保元三(一一五八)年一一月八日に藤原信頼は検非違使別当に就任し、同月二六日には右衛門督を兼任している。双方とも公的な武力の発動が認められる職務であり、特に前者は武力を警察権力として常時発動させ続けなければならない職務である。そして、藤原信頼の発動する武力となると、それは源義朝の軍勢を意味する。多方面作戦を展開できない軍勢が朝廷の命令による職務に就いているならば、他のこと、すなわち、信西打倒の具体的な武力発動は不可能となる。
保元三(一一五八)年一二月五日、右大臣藤原基実が正式に関白に就任した。近衛家の始祖であり、当作品でも後に藤原基実ではなく近衛基実と記すが、この時点ではまだ近衛家という概念が誕生しておらず、同時代史料上の名も藤原基実であり、この時代の人たちも近衛家の人間の関白就任ではなく藤原摂関家の若者が予定通りに関白に就いたという感覚しかなかった。ゆえに、この時点では藤原基実と記す。
一六歳の若者が関白に就任したことに対する危惧は当然ながらあったが、その危惧はだんだんと薄れてきていた。父の藤原忠通が関白を辞したのは同年八月二一日。それからおよそ三ヶ月半の空白の間、藤原基実は次期関白を約束された若者として合格点としてもよい結果を出していたとするしかない。ただし、それは一六歳の若者だからであり、これが経験豊富な政治家であったら合格点とはならなかったであろうが。
政治に求められるのはただ一つ、庶民生活の目に見える向上である。信西の改革によって差別を前提とした強制労働が破綻し、生産システムが破壊されたことで庶民生活がかえって悪化した。その穴埋めを藤原基実はしようとしたのである。所領から納められる年貢を市場に回すことで品不足を解消しようとしたのだ。ただ、藤原頼通の頃ならまだしも、この時代になると藤氏長者であろうとそこまでの資産を得ているわけではない。荘園整理で保有する荘園が減ったというのもあるが、家督の分割で相続できた荘園そのものが少ないことのほうが大きい。そのため、藤原基実がいかに相続した資産を市場に流したところで、アピールにはなっても根本解決にはならなかった。それでも「新しい関白が自分たち庶民のために身を削っている」と思わせることは世情の安定に寄与することにはなった。
さらに、予算の厳しい状況であっても教育予算の削減に手を付けなかったことはさらに大きなアピールとなった。特に、大学寮の再建予算は何としても捻出し、予算削減の意見を頑として拒否し続けたことは評判となった。貴族達の中には大学寮を無用のものと見なし、庶民の中からも「そのようなことを学んで何の役に立つのか」という意見もあったが、大学寮を本来あるべき姿に戻し、どのような身分に生まれようと教育の機会を用意し、教育によって実力が認められた者に中央政界への道を用意しようという点での妥協は一切見せなかったのである。たしかに狭き道ではあるが、どのような家に生まれようと、それこそ貴族ではなく一般庶民の生まれであっても、将来の栄達への機会があるというのは称賛されこそすれ非難される筋合いではない。
これは予想外とするしかなかった。
即位して間もない二条天皇と、就任して間もない関白藤原基実と、ともに一六歳の若き二人の組み合わせが、庶民のために苦心し、未来のこの国を担う若者達のために苦心しているまさにその姿が、現在の苦境に耐えうるシンボルとなったのである。生活の悪化に対する不平不満はあったが、それが二条天皇の政権への批判、特に、その背後に控える信西への批判にはつながらないどころか、かえって支持を伸ばしたのだ。
この状況下で院政復活を目指す後白河上皇にどれだけの支持が集まるであろうか? 後白河上皇の元に集うことは、政局を考えれば得策であっても、政権獲得を考えれば得策ではなくなったのだ。
年が明けて保元四(一一五九)年。二条天皇が後白河上皇への歩み寄りを見せた。一月二日に後白河上皇のもとへ行幸したのである。あくまでも子が父の元を訪問するという形式であり、院政期に限らず、藤原摂関家全盛期であっても特に珍しいことではなく、後白河上皇も古式に則って息子を迎え入れている。
ただし、この行幸に二条天皇が褒賞を与えたとなると話は変わる。権中納言藤原基房、権中納言藤原忠雅、参議藤原公光、参議藤原顕長、参議藤原惟方の五人が行幸に尽力したことで褒賞対象となり、五人とも位階が一つ上がったのである。その裏には信西がいたが、信西がいるいないにかかわらず、功績が評価され二条天皇の名でわかりやすい形で褒賞が与えられるとなったら、それまでの不信感は払拭され、不支持は支持に変わる。
さらに、二条天皇は武力の懐柔を図る。
まず、平清盛の四男である平知盛が一月七日に蔵人となった。満年齢で七歳、数えで八歳というのはあまりにも幼すぎるように見えるが、伊勢平氏の懐柔という視点だけで考えれば不可解な話ではない。また、一月二一日には平知盛に従五位下の位階が与えられたことで正式に貴族の一員となった。
次なる懐柔は源義朝である。皇后宮少進として公的地位を獲得していた三男の源頼朝を右近衛将監兼任とさせたのである。あくまでも名目ではあるが、源義朝以外の者が清和源氏の武力を率いることの許される公的なお墨付きを得たのである。
源頼朝の母は源頼朝の兄二人と違い尾張国熱田神宮の宮司の娘である。源義朝の三男を優遇することは、清和源氏の懐柔だけでなく宗教界への懐柔にもつながる話である。この優遇は、後白河上皇の姉である統子内親王が院号宣下を受け上西門院となったときにさらに鮮明化し、源頼朝は右近衛将監の地位はそのままとして皇后宮少進から上西門院の蔵人になっている。
いくら母が違うとは言え、弟が優遇されているのを見て愉快になる兄はそうはいない。無論、二条天皇はそのことも考えている。源義朝の次男である源朝長は中宮少進だが、ただの中宮少進ではない。従五位下の位階を持った、すなわち貴族の一員に列せられた上での役職就任である。なお、本人は中宮少進ではなく「中宮大夫進」と称するようになった。公的に認められた称号ではないが、この自称は、弟より先に貴族になったものの弟と違って軍事指揮権は得られずにいることを少しでも隠そうとした結果であろうとして受け入れられはした。
なお、源頼朝の実母である由良御前は、この年の三月一日に亡くなっている。源頼朝の同母弟である源希義はこのとき八歳であり、母を亡くした源希義は母方の伯父である藤原範忠の住む駿河国に身を寄せることとなったというが、史料によっては、駿河国に向かったのは翌年のことで、このときはまだ京都にいたとする説もある。つまり、はっきりしない。はっきりしているのは、このときの源希義は何の公的地位も持たぬ男児としか認識されていなかったという点だけである。
二条天皇の背後に控える信西は公平な人事を展開した。実力通りの評価で位階と役職が決まっていたのである。それがここに来て、公平ではなくパワーバランスを考えた人事になってきていた。世の中の平穏を考えるのであればパワーバランスを考えた人事が正解であろうが、パワーバランスの考慮の結果として人事政策から除外された人にとっては、実力通りの人事ということでこれまで実力を発揮し実績を積み上げてきながら、ここに来て実力と実績ではなく派閥間のパワーバランスで人事が決まるようになったのだから、容認しづらい状況である。
この状態で、保元年号の終わりを迎える。
保元四(一一五九)年四月二〇日、平治に改元。現在は天皇の代替わりだけが改元であり、また、代替わりと同時に改元することとなっているが、この時代は新たな天皇が即位してもしばらくは以前の元号を使い続けることが普通に見られた。それは二条天皇も例外ではなく、二条天皇が即位してからこの日まで、後白河天皇の定めた元号である保元が使われてきたのである。
この日を最後に名実ともに後白河天皇の時代は終わりを迎えた。後白河上皇は高松殿を住まいとする実権無き上皇であることが求められたのである。
高松殿の後白河上皇のもとに集う面々の数は減少に転じてきていたが、先鋭化してもきていた。無理もない。信西が相手側の懐柔を考えて人事を展開し、出世した者や昇格した者が数多くいるのである。その状況下で自分の位階や役職が以前と変わらないとなったら、自分はパワーバランスの構成者と認識されない、すなわち、実力者ではないと判断されたと同じである。これは怒りを呼び起こすに充分であった。
さらに複雑な思いを抱かせることとなったのが、平治元(一一五九)年の社会情勢が安定してきていたことである。格差を強制的に除外したことで庶民生活はかえって悪化してきていたのだが、需要があればイノベーションも起こる。差別に頼った安価な労働力を用いた生産ではなく、差別を無くし相応の対価を払った労働力を用いた生産システムが徐々に生まれつつあり、市場から消えつつあった物品が少しずつ戻りはじめていたのだ。いや、戻ると言うより以前より良い状態で市場に流通するようになったというべきであろう。安価で、大量に、しかも高品質になったのだから。
自らの境遇を悲観して政権に対する不平不満を述べるとき、庶民生活の悪化を題目として挙げるのは常套手段であるが、庶民生活の悪化のほうが改善されると、政権に対する不平不満のほうが理論として成立しなくなる。それでもなお不平不満を述べるとするなら、自らの行動をどうにかして正当化しようとする。彼らにとっては二条天皇の背後に仕える信西への批判がそれで、信西への不平不満を述べる以外に自らの存在価値を見出せなくなり、先鋭化してきていたのがこの時点でのアンチ信西の状況だ。
もはやこれ以上ついていけないと離脱する者もいたが、そうした者は裏切り者として信西以上に批判の対象とされた。このあたりは現在でもよく見られることで、反原発を唱える集団が最も非難するのは、最初から原発を容認する人たちではなく、最初は反原発を唱えながら科学の視点から反原発を捉えた結果、科学のほうが正しく反原発のほうが間違いであると気づいた人たちである。
平治元(一一五九)年八月一六日、後白河上皇の仮の御所となっていた高松殿が火災に遭った。これまで平穏無事な社会情勢が続いていた平治元年に発生した最初の大事件としてもいい。
後白河上皇は三条烏丸殿を一時的な住まいとすることとした。高松殿はかつて後白河天皇が里内裏としていたとは言え、そこまでのこだわりのある建物ではなかった。だからか、後白河上皇はさほどの落胆も見せずに三条烏丸殿に移っている。もっとも、後述する用に意図した火災である可能性もあるが。
破綻した生産システムも時間が経てばイノベーションにより復旧し、復興し、以前を上回る生産を見せる。その回答は市場に現れ、庶民の生活水準の向上が現実のものとなってきていた。若き二条天皇と、若き関白藤原基実、そして、二人の背後に控える信西に対する支持が目に見えて向上してきていたのである。
それがかえって信西に対して反発を見せる貴族の思いを強くすることになった、と同時に、自分がこれまで築いてきた生産システムが破壊され、収入の道が途絶えたために生活苦に陥った元雇用者の不満も強くなった。それがテロリズムを招いたのだ。爆弾もガソリンも無いこの時代、最悪のテロリズムであったのは放火である。高松殿は放火されたのだ。
ところが、放火ではなく火災であると扱われたことからテロリズムはそのまま放置され、一一月二六日、テロは最悪の形で出現した。この日、平等寺因幡堂、六条院、河原院、崇信院、祇園御旅所といった、平安京南東部、鴨川を挟めば六波羅や、信西の邸宅が存在するエリアで次々と火災が起こったのである。それが一箇所での火災であるならば一つの火災が周囲に燃え広がったのだと言えるが、それぞれの建物の間には距離がある。つまり、同時に複数地点で放火が発生したということである。
では、誰がこのテロリズムを引き起こしたのか?
有力な説として、後白河上皇も計画を把握した上での、後白河院政を企てる面々の手によるテロリズムという説がある。このときの火災はあくまでも後日に発生する出来事の予行演習であったとすれば辻褄が合う。無論、状況証拠のみで物的証拠は無いために推量ではあるが、このときの火災とその前の高松殿の火災で誰がどこにどう避難したかを踏まえるとこの説は無視できなくなる。
治安を守るべき検非違使のトップである検非違使別当は、この年のスタート時点では権中納言藤原信頼であったが、三月二七日に権中納言藤原光頼に、一〇月一〇日に参議藤原惟方へとたらい回しとなっていた。これが平安京の警察権力の停滞を生む。藤原信頼が検非違使別当であった頃はまだ清和源氏の武力を検非違使として発動できる武力として期待できたが、検非違使別当の地位のたらい回しの末に、清和源氏の武力を検非違使の武力として期待することが難しくなっていた。
その穴をどうにか埋めていたのが平清盛率いる伊勢平氏である。鴨川の東、清水寺のふもとの六波羅の地に大規模な邸宅を構え、人馬を常備することで平安京に対し無言の圧力を掛けることで治安を構築していたのである。さらに、平安京の外に大規模な威圧感を持った設備を整えることで、東や南から来ることの多い寺社勢力のデモに対しても威圧感を示して動きを制することができるようになっている。ただし、その平氏もまた、散発的な放火を災害としか見ていなかった、あるいは、そもそも自らの武力の警察権の役割を軽く見ていたとするしかなかったのである。そうでなければ平清盛のこのあとの行動の意味がわからない。
このときの平清盛の行動は不可解、あるいは軽率である。
平治元(一一五九)年一二月四日、平清盛が、嫡男平重盛をはじめ、平氏の主立った郎党五〇名ほどを率いて熊野詣に出たのである。予定では熊野で年を越し京都に戻ってくるのは年明けとなる。この時代の交通インフラで熊野詣のために京都を出発してから、参詣を終えて京都に戻ってくるまではおよそ一ヶ月。熊野で年越しをするのはこの時代の貴族や富裕層のよくある余暇の過ごし方であった。
一族揃って熊野に向かったわけではなく、六波羅にはある程度の軍勢が待機している。もっとも、常に武装を整えて待機しているわけではなく、年末ということで休暇を与えているためフル軍勢というわけではない。平清盛が息子らを連れて熊野詣に出かけるのも、冬季休暇の一環で、現在の企業の感覚でいう家族旅行や社員旅行ということになろうか。熊野詣も、この時代の京都で働く者の立場で捉えると適度な距離のあるリフレッシュの旅行と考えれば納得は行く。このタイミングで、この規模で、京都を留守にするべきであろうかという疑念は湧くが。
平家物語は平清盛がこのタイミングで熊野詣でに出かけたことを直接は語っていない。平治物語でも熊野詣に出かけたことを語るのみである。ただし、平家物語の冒頭に、平清盛が熊野詣に出かけるのはこのときが初回でないことは記している。平清盛がまだ安芸守であった頃、伊勢国の沿岸を海路で熊野へ参詣する途中、船の中に大きな鱸(すずき)が飛び込んできたというエピソードが載っている。熊野詣の先導のために同じ船に同乗していた修験者はこれを熊野権現の御利益であるから急いで食べるように言い、本来であれば熊野詣に備えて殺生を禁じているところではあるが、史記の中にある周の武王の故事に倣って鱸を調理して食べたとある。本当に鱸を食べたのか、あるいは平家物語の作成する過程で史記のエピソードを創出したのか、それはわからない。確実に言えるのは、このときの平清盛はこれまで何度か体験したのと同様に息子らとともに純粋に休暇を楽しんでいたということだけである。
このタイミングが狙われた。何しろ一ヶ月以上にわたって伊勢平氏の武力が弱まるのだ。
平清盛が熊野詣に出かけてから五日後の深夜、権大納言藤原信頼が源義朝を呼び出し信西の逮捕への協力を命じた。逮捕について生死は問われず、殺害してその首を差し出したとしても任務遂行となるという命令である。源義朝に命令するだけ命令して自分は安全なところに避難するというのではなく、藤原信頼自身も信西逮捕の軍勢に参加するというのであるから、最悪の卑怯というわけではない。
また、信西逮捕の命令の根拠も、二条天皇を背後で操り、自らの権勢を利用して自分の子らを優遇する一方でその他の貴族をないがしろにし、国政を乱れさせ国民を貧しくさせたというのがその理由であるが、権大納言であると同時に右衛門督でもある藤原信頼には軍勢に対する指揮命令権が存在する。平治物語では右衛門督よりさらに上の近衛大将の地位を望んだ藤原信頼に対し、藤原信頼には相応の実績が無いとして信西が批判したことから藤原信頼が反発を見せたことが信西逮捕を命じた理由であるとしており、たしかにそれは理由の一つであるかもしれないが、それだけが理由ではない。おそらく藤原信頼は、そして、藤原信頼の背後にいる人達は、かなり前から平清盛の不在のタイミングを狙って信西逮捕を画策していたと思われる。と言うのも、源義朝に対し奥州藤原氏から取り寄せた馬を二頭、新品の馬具とともに提供しているのである。それもただの馬具ではない。金銀で細工を施した、誰が見ても一目でわかる最高級の馬具である。作成期間もかかるし、奥州平泉から京都に運び込むまでの時間も考えるとこれは即座に用意できるものではない。
そしてもう一点、ここで考えなければならないのが、奥州から馬具を取り寄せるのは藤原信頼が独断でできることでもないという点。いかに藤原信頼が後白河上皇と親しい側近であろうと、また、いかに裕福な身であろうと、一貴族がそう簡単に用意できるものではない。馬はわかる。藤原信頼はこれまで何度も奥州藤原氏から馬を取り寄せ清和源氏に与えていた。今回もそれだとすれば理解はできる。だが、馬具はわからない。たしかに奥州藤原氏の本拠地である平泉は優秀な馬だけでなく馬具も生みだしている。だから、平泉から購入した馬具がこのとき提供されたのだと考えれば理解できなくもないが、それにしても手際が良すぎる。
だが、平泉から購入したのでないとすればどうなるか?
これほどの馬と馬具を用意できるのはかなりの上位の貴族、あるいは皇族ということになる。そして、藤原信頼の背後にいるのは後白河上皇であることは容易に想像できる。
源義朝は意味するところがわかった。これは謀叛であると。謀反(=天皇殺害)ではないが謀叛(=国家反逆)ではあると、それも、後白河上皇も一枚噛んでいる謀叛であると。
反信西の面々が減ってきてはいるものの、同時に彼らの中での反信西の風潮がさらに強まっていることは知っていた。それは後白河上皇の院政を求める者だけでなく、二条天皇親政を求める者の間からも反信西の風潮が強まっていることは誰の目にも明らかであった。
そして、このタイミングでの信西逮捕命令。信西が育ての父であり、信西を政策の拠り所としていた後白河上皇ですら、今となっては信西と離れたところに身を置いているようになっている。藤原信頼が右衛門督として逮捕命令を出すのは理論上可能であると言っても、後ろ盾なしに信西逮捕命令を出すのは容易なことではない。だが、後ろ盾に後白河上皇がいるとなれば話は変わる。後白河上皇の院政を成立させるための第一歩として信西逮捕を後白河上皇が命じたならば、あるいは、後白河上皇は何も知らないという姿勢を崩さないでおいて藤原信頼を操っていたとするなら、この一連の流れは成立する。
源義朝には選択の余地などなかった。ここで拒否したとして清和源氏の命運が好転することはない。既に伊勢平氏との差は埋めがたいものがあり、このまま時代が進んだところで伊勢平氏の後追いをする以外に清和源氏の未来はない。だが、ここで信西逮捕の功績を残せば、表向きは藤原信頼の手によって、上手くいけば後白河上皇の手によって、地位を掴める可能性がある。
平治元(一一五九)年一二月九日の丑刻、現在の時制にすると午前二時頃、名目上は藤原信頼の率いる、実際には源義朝の率いるおよそ五〇〇騎からなる軍勢が、後白河上皇の仮の御所となっている三条烏丸殿を包囲した。
ここに平治の乱が始まったのである。