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平家起つ 3.平治の乱

2021.06.01 10:20

 藤原信頼は三条烏丸殿の外から後白河上皇に向けて宣告した。平治物語では、これまで朝廷に仕えてきたのに信西の讒言で誅せられようとしているので東国へ逃れることにすると馬上から宣告したという。しかし、三条烏丸殿の外におよそ五〇〇騎の軍勢がいてこちらを向いているのである。これは逃れようとする者のとる行動ではない。おまけに、三条烏丸殿の人達は門の外から早く火を掛けるよう促す声まで聞こえてきているのだから、これで冷静でいられる人がいたらそのほうがおかしい。

 後白河上皇のもとに権中納言源師仲が駆け寄り、ここは危険なので御車に乗って避難するべきと主張し、後白河上皇と上西門院統子内親王が源師仲の言葉に促されて御車に乗りこんだ。御車に乗った後白河上皇と上西門院統子内親王は、藤原信頼と源義朝をはじめとする軍勢に守られながら内裏へと向かい、内裏の中でももっとも安全とされた一本御書所に留まるよう促された。

 内裏には既に、前関白藤原忠通と、関白右大臣藤原基実の二人が到着していたのをはじめ、太政大臣藤原宗輔、左大臣藤原伊通といった主な貴族が集結していた。藤原信頼の今回の動きを前もって知っていた者も、今回になってはじめて知った者もいたが、今回の蛮行に対して不満を述べる者はいても、今回の蛮行を命懸けで食い止めようとする者はいなかった。そこにいたのは、二条天皇と後白河上皇の身の安全の確保と、いかにして自分の身を守るかを考える者だけであった。

 そうした彼らを安堵させたのは、二条天皇が既に避難を終えていること、後白河上皇も間もなく一本御書所に到着することの二つの情報であった。

 一本御書所は既に二条天皇が避難をしていた場所であり、たしかに内裏の中でもっとも安全な場所であった。建物そのものも安全であったが、一本御書所の外を式部大夫源重成と周防判官源季実が武装して警護しているのであるから、さらに安全度は高まる。

 しかし、二条天皇は最初から、後白河上皇はここにいたってはじめて、自分が囚われの身になったことを知った。藤原信頼を側近としていた後白河上皇であるが、藤原信頼の行動は後白河上皇の想像の範囲を超えていたのだ。安全な建物に避難して警護されているのではなく、監禁され見張られるのは異常事態である。後白河上皇は実感した。二条天皇の親政とか後白河上皇の院政構築とかの話をしていられる状況ではないのだと。

 それでも三条烏丸殿から御車に乗って内裏に避難できただけマシだと言える。と言うのも、三条烏丸殿では地獄の光景が繰り広げられていたのだから。

 炎に包まれた三条烏丸殿から逃れようとしても、信西を逮捕するためとして武士達が立ちふさがって外に出ることができないでいる。信西の長男で三条烏丸殿にいた藤原俊憲が三条烏丸殿にいる人達の身代わりになるとして武士達の前に歩み寄ったものの、捕縛されただけで安全確保のための身代わりとはならなかった。藤原俊憲は、父信西はここにはいないと言ったが、その言葉も武士たちには届かなかった。

 炎から無理して出ようとすると信西の身内の者である可能性があるとして弓矢のターゲットとされた。弓矢をかいくぐって武士達のもとに来ることのできた者だけが捕縛され、そうでなければ炎か弓矢のどちらかで損害を被った。炎から逃れようと多くの者が井戸に身を投じたが、井戸は既に人で埋まっており、早いうちに井戸に逃れた人は上からやって来る人達の重量をはねのけることができずに溺死し、あとから井戸に逃れてきた人は井戸水に触れることができずに焼死した。

 左兵衛尉大江家仲と右衛門尉平康忠の二人は命を賭けてこの建物の人達を守るとして防戦に挑むも、多勢に無勢では勝ち目などなく討ち取られ、信西をかくまうことは犯罪であるという名目で二人の首は切り落とされ、長刀の先に掲げられた。

 信西は三条烏丸殿にはおらず、姉小路西洞院のある信西の自宅にいるという知らせは、被害を増やすだけで三条烏丸殿の悲劇を減らす効果を持たなかった。三条烏丸殿にいる者は信西の協力者であるために有罪であり脱出を許される理由にはならないのである。姉小路西洞院でも三条烏丸殿で繰り広げられた悲劇が繰り返され、姉小路西洞院でもやはり信西の関係者であるという理由で、運が良ければ捕縛、そうでなければ炎と弓矢からなる殺戮という光景が繰り返された。

 ところが、肝心の信西の姿がどこにも見つからなかった。そして、捕縛された藤原俊憲以外に信西の家族が見つかることもなかった。生き残った者を尋問すると、信西は騒ぎを聞きつけてすぐに邸宅を脱出したこと、また、藤原俊憲を除く信西の子供達もそれぞれ脱出したこと、そのうち藤原成憲は平清盛の娘と婚約している縁を頼って六波羅に避難したらしいこと、その他の者は行方不明となっていることが判明した。

 この知らせを受け、ただちに信西を捜索するための部隊が出動した。


 一方の六波羅では、平清盛不在の状況下で議論が繰り広げられていた。早々に決定したのは、この事件の情報を熊野詣に出かけている平清盛に届けるために、六波羅から熊野へ向かっている途中の平清盛に対して早馬を差し向けることだけである。早馬で掴んでいる情報は、藤原信頼と源義朝が謀叛を起こし、二条天皇と後白河上皇が事実上の監禁状態になっていること、そして、信西が行方不明となっているというものであり、このあとの平清盛の行動を考えると、平清盛は事態の途中経過の情報を行動材料としていることがわかる。

 早馬で情報を知った平清盛は早々に京都へと戻ってくるであろうが、それまでの間、全くの無為無策でいるのは納得いくことではなかった。とは言え、六波羅に留まる伊勢平氏たちに何かできるわけでもなかった。

 六波羅に逃れてきた藤原成憲の処遇が最初の問題であった。事実上はともかく、法制上は犯罪者である信西の息子であり、犯罪者個人だけでなくその子も有罪となるこの時代の法に従えば、有罪者をかくまうことそのものが犯罪になる。かといって、藤原信頼の繰り広げているこの蛮行に乗るわけにもいかない。そもそも平清盛がいないタイミングを狙って展開されたクーデタなのである。藤原成憲をかくまっていないと示し、藤原成憲を捕縛して藤原信頼に差し出したとしても、そもそも源義朝を重用してクーデタを起こした藤原信頼が六波羅の伊勢平氏たちにこれまでの処遇を与えるとは夢にも思えない。

 かといって、ここで六波羅に留まっている伊勢平氏の武力を集めてクーデタに対抗しようものなら京都が戦乱に包まれることとなる。武力衝突だけを考えても勝敗の可能性は五分五分、しかも、藤原信頼は二条天皇と後白河上皇を、実際には軟禁状態であっても、理論上は保護していることになっている。ここで藤原信頼に刃向かうことは、二条天皇と後白河上皇に刃向かうことを意味する。これでは二〇〇年前の平将門と同じだ。

 六波羅に留まる伊勢平氏たちは、武力を整えつつ平清盛の帰還を待つことに決めた。平清盛がどうにかしてくれるという期待感より、平清盛の指揮下で何かをするというのであれば自分たちが直面しているプレッシャーから逃れることができるという思いからである。

 先に伊勢平氏は多方面作戦ができるだけの指揮官がいると書いたが、多方面作戦ができることと、トップの意向を伺うことなく行動することとは違う。多方面作戦とは、全体の戦略ができあがっている状況下で各人が個々の戦術を繰り広げることを意味する。このときの六波羅は、全体の戦略を立てられる者がいないときの混迷を如実に示していた。

 炎と弓矢の悲劇が二つの邸宅の間で繰り広げられている間も信西の姿は見つからず、炎から何とか逃れた人は、その人が女性であっても信西が女装をして逃れようとしているかもしれないという理由で脱出を許されなかった。女性であるかどうかの確認をする手間も惜しいとして問答無用で斬り殺されたのである。

 この火災は邸宅だけに留まらず周辺の民家も襲い、多くの庶民は焼け落ちた住まいを呆然と眺めるしかできなかった。これで藤原信頼が庶民の支持を得られるとしたら、そのほうがおかしい。


 翌一二月一〇日、藤原信頼は源義朝ら清和源氏の武力を背景に太政大臣藤原宗輔をはじめとする主立った貴族に招集をかけ、この時点で信西の息子である、藤原俊憲、藤原貞憲、藤原成憲、藤原脩憲の四名の身柄が拘束されていることを告げた上で、この四名の解官を求めた。六波羅に逃れた藤原成憲の身柄が拘束されたのは六波羅に対して後白河上皇の名で出頭するよう院宣があったためである。

 このときの院宣で、六波羅の伊勢平氏たちの間に、このクーデタには反信西だけでなく二条天皇親政と後白河上皇院政との対立も含まれていることを悟った。

 六波羅は院宣に従うべきか否かで議論が紛糾したが、六波羅に避難した藤原成憲が、自分一人が院宣に従うことで時間稼ぎになるならと内裏に出頭すると述べたことで議論は収束を見せる。二条天皇にも後白河上皇にも逆らう意思がないことは藤原成憲の出頭で成立する。ただし、六波羅としてはあくまで藤原信頼への抵抗を見せる。二条天皇や後白河上皇の命令がない限り藤原信頼の命令に従うことはせず、現状のまま、まずは平清盛の帰還を待つことにするというのが、このときの六波羅に留まった伊勢平氏たちの結論である。そのため、早馬の第二陣をただちに送り込むこととした。平清盛の早期帰還を促すための早馬である。

 早馬の派遣は、六波羅に避難した藤原成憲をはじめとする信西の息子達の身柄が拘束されたこと、そして、藤原信頼が二条天皇と後白河上皇を軟禁下に置いて事実上の独裁政権を打ち立てているという情報を平清盛の元に届けることを意味した。実際に藤原信頼の独裁政権が始まるのは一二月一四日のことなので事実を伝えていないこととなるが、情報の信頼性よりも、未確認情報であると記した上でこのような情報があると記して伝達するほうが、一分一秒を争っているときには有効な情報となる。

 早馬の第二陣が六波羅を出発した頃、前日に出発した早馬が熊野詣の途中の平清盛のもとに到着した。一二月四日に京都を出発した一行はこのとき紀伊国切部宿に滞在しており、これから熊野詣に出かけようとしていたところであったが、この知らせを聞き慌てて京都へ引き返すこととなった。

 ただし、単純に引き返すわけにはいかなかった。まず、二条天皇と後白河上皇が軟禁状態に置かれている以上、ここで京都に引き返すことは朝廷への謀反を示すこととなる。謀叛であれば国家反逆罪であるが、謀反となると天皇殺害計画となる。謀叛だけなら未遂であればまだどうにか言い繕うことができるが、律令によると、天皇殺害の罪である謀反は、実行するだけでなく、未遂であろうと、さらには計画しただけでも問答無用で死罪となる犯罪だ。おまけに、熊野詣の途中であるため武器も防具も持っていない。そして何より、自分たちを追って藤原信頼が追っ手を差し向けているであろうことは想像できる。ここで引き返すのは多勢に無勢であり、勝利どころか生きて六波羅にたどり着ける保証もなかった。また、行方不明となっている信西が自分を頼ってくるであろうことも想定できた。ここで信西を救出し、庶民の支持を集めてきている信西を前面に立てることに成功すれば、武力ではなく寺社のデモのように群衆として京都に押し寄せるという方法を選ぶこともできたのである。

 その中で平清盛がもっとも頭を悩ませたのが自分たちの武力であった。信西によって豊かな暮らしを手にした人達を集めてデモを繰り出せば一気に京都に突入することもできるが、そのためにはどうしても信西を必要とする。信西がいないならどうしても武力衝突となってしまうが、そのための武器もなければ武力も無い。

 平清盛はここで、海路九州に渡り、太宰大弐としての権限を発揮して九州で武力を集めて京都に攻め寄せることを考えたが、平清盛の息子の平重盛はこの意見に反対した。二条天皇と後白河上皇が藤原信頼のもとに軟禁されている以上、いかに不正な手段で手にした権威であろうと、正当な宣旨が、あるいは院宣が全国に向けて発令されることとなる。いかに太宰大弐として九州に向かっても、向かった先に宣旨が届いていたら太宰大弐としての権限を振るうどころか犯罪者として九州の地で処罰される。そのような目に遭うくらいなら、ここで京都へと戻るほうがまだマシだ。それに、六波羅には自分たちの仲間が留まっている。ここで京都から遠ざかるのは仲間を見捨てることになる。

 平清盛は息子の意見に反対した。今ここで京都に戻っても、武器もなければ防具もない。自分がもし藤原信頼の立場であれば、源義朝か、あるいは源義朝の長男である源義平に命じて軍勢を派遣しているはずであり、このまま京都に戻ると武装した軍勢の前で敗れ去るのは目に見えている。

 平重盛は武器や防具ならあると主張した。

 平清盛は自分の息子がいったい何を言っているのかと訝しんだが、ここで意外な人物が平清盛に秘密を打ち明けた。

 平清盛の随身の一人である平家貞は、これまで平清盛が遠出するたびに長櫃を持参させていた。長櫃(ながびつ)とは衣服や日用品などを入れた大きな箱で、通常は二人一組となって運ぶものである。それだけの大きさと重さの箱なのだから遠出先で使う大切なものが入っているのだろうと誰もが思っていたが、出発してから帰宅するまで一度も開封されないのがいつものことであり、今回もそうだろうと誰もが思っていたのである。平家貞が運ばせる長櫃は一人につき一つであることは知られており、今回は五〇もの長櫃を運ばせていた。いつもより総量は多くなるが、五〇名での行動であることを考えるといつも通りであった。

 平重盛に促されてこの長櫃がついに開封された。

 長櫃の中に入っていたのは、一人につき一人分の武器と防具であった。それも、全てが充分に手入れされており、今すぐ身にまとい、今すぐ手にできる状態にあった。平清盛は自分の生まれる前から仕えていたこの随身の配慮にこれまで気づいていなかったが、平重盛は父が長櫃の中身を知らなかったことのほうに衝撃を受けた。

 武具を身にまとっても、それでも五〇名の武士である。長櫃を運ばせた家臣も含め、ともに行動している全員に武装をさせたところで二〇〇名は超えない。一団となって行動することで強行突破は可能だが、仮に平清盛討伐のための軍勢が京都から差し向けられていたら簡単に討ち取られる規模である。

 平重盛は躊躇する人がいるのを確認した上で、このまま進めば阿倍野の地で清和源氏の軍勢相手に討ち死にすることとなるが、それでも自分は父とともに京都へ戻る決意であること、戦場での敗走は清和源氏にさらなる勲章を与えることとなるから躊躇いのある者はこのままここに留まるよう伝え、京都へと戻ることとした。父を差し置いての平重盛の言葉に促されなかった者はおらず、熊野詣の一行はそのまま京都へ向かう小規模な軍勢へと変わった。


 突然のクーデタに恐れおののいた京都の庶民達は様々な噂を繰り広げた。特に、信西がどこにいるのかという噂は様々なバリエーションで、庶民の願望を込めた形で広まった。平清盛のもとに逃れ、平清盛の軍勢とともに京都に戻ってくるというものもあった。それは、庶民が藤原信頼ではなく信西を支持していること、そして、今回のクーデタに対して怒りを抱いていることを示していた。

 結果としては庶民の噂に応える形となるが、この時点の平清盛はまだ京都へ戻る途中である。熊野詣への道の逆を通り、和泉国と紀伊国の境となる小野山へと到着した頃に、六波羅からの早馬の第二陣と平清盛の一行は出会った。

 早馬の使者は、六波羅に滞在する伊勢平氏に対して内裏へ出向くようにとの院宣が届いたこと、すなわち後白河上皇が院政を始めようとしていること、この院宣によって藤原成憲が内裏に出頭し身柄が拘束されたこと、藤原信頼が独裁政権を始めようとしていることを伝えた。また、平清盛の危惧していた平清盛討伐のための軍勢については、準備がはじまったばかりであること、阿倍野に陣を構えようとしているところであること、その軍勢を指揮するのは源義平と思われるが肝心の源義平の姿はまだ見えないことが伝えられた。

 一方、藤原信頼への反発を示す面々が武装して平清盛のもとに終結しつつあることも示された。そのほとんどは伊勢国在住の伊勢平氏の武士達である。その軍勢はおよそ三〇〇騎。武士だけでは五〇名、随心も含めてようやく二〇〇名という平清盛の軍勢において、この三〇〇騎ほどの援軍はこれ以上なく心強いものであった。

 なお、この時点でもまだ信西の消息は不明である。

 信西は庶民の噂と全く違う行動をとっていた。

 信西が逃れたのは山城国田原荘の大道寺である。山城国田原荘は、三年前の保元の乱までは藤原頼長の保有する荘園であったが、保元の乱で没収となっていた。寺院の持つ荘園に対しても荘園整理を断行した信西である。この三年間は荘園としての特権を失っていたと推測されており、後白河上皇の所有する荘園となったことは確認できるが、平治元(一一五九)年の段階で後白河上皇の手元にあったかどうかは不明である。

 信西は大道寺に逃れたが、建物に逃れたのではない。自分とともに逃れてきた四名の者に命じて敷地の中腹に穴を掘らせて自分を埋めさせたのである。窒息せぬよう息継ぎのための筒は差し込まれているものの、これは逃れるためではなく、自らの遺体を藤原信頼の手に渡さぬようにするための方策であったという。

 四名ともこれを期に出家をすると申し出たため、信西は穴を掘ってくれた四名にそれぞれ法名を与えた。平治物語はここで、右衞門尉成景を西景、右衞門尉師実は西実、修理進師親は西親、前武者所師清は西清と、四名ともに西の字を添えた名を付けたこと、また、信西の側近の一人でこのときは京都にいた左衛門尉藤原師光は後日、この話を聞いて、出家する際に西光という法名を名乗るようになったことを書き記す。後に後白河法皇の側近となって出世をしたものの、反平氏の一員として鹿ヶ谷事件で平清盛に殺害されることとなる西光のことである。

 信西が穴に籠もったのは一二月一一日。それから信西の次の記録までのタイムラグを調べると、信西は最低でも三日間は穴に籠もったこととなる。

 その間、信西捜索部隊は何の成果も残すことができずにいた。


 後世の視点から判断すれば源義朝は何とも愚かな行動をしたと考えるところではあるが、少し深く掘り下げると必ずしも源義朝にとって勝算の無い話ではないことがわかる。

 まず、源義朝は信西逮捕を命じられたのであって二条天皇や後白河上皇に対して叛旗を翻したわけではない。それどころか、正当な階梯を経ていない信西が、最初は後白河天皇の、現在は二条天皇の後ろに控えて国政を操っている現状のほうがおかしいのであり、信西なき朝廷を取り戻すという大義名分は存在する。

 大義名分に疑念を抱いたとしても、信西逮捕命令は右衛門督藤原信頼から左馬頭源義朝に対して下された指揮命令系統に則っての正式な命令であり、この命令に背くのは職務放棄として扱われる。命令であればいかに理不尽な命令でも従うべきであるか否かという問題はあるが、少なくとも大義名分が存在する正当な手順での命令に従っただけという捉えかたは可能である。おまけに、藤原信頼が暴走しているとは言え、いちおうは藤原信頼の後ろに後白河上皇がいる。後白河上皇が院政を成立させることに成功すれば全ての問題が解決する。

 命令遂行の是非はともかく、清和源氏の軍勢のみで行動を起こすのは危険ではないか、特に六波羅に構える伊勢平氏たちの軍事力と対峙する可能性がある以上、伊勢平氏と全面衝突になる可能性があるのではないかという疑念もあるが、六波羅に留まる伊勢平氏の軍勢は平清盛の配下にあると言っても朝廷の指揮命令に従う義務が存在する。信西を排除したあとで二条天皇が伊勢平氏に対し、平清盛を飛び越えて軍事命令を直接発動すれば平清盛ではなく二条天皇に従わなければならなくなる。また、二条天皇からの命令でないとしても後白河上皇からの院宣があれば二条天皇からの命令と同様の効力を持つ。ここで清和源氏に対抗するよう行動を起こそうものなら六波羅の伊勢平氏たちは天皇の命令に、あるいは上皇の命令に背く国賊ということになり、謀反(=天皇殺害)ではなくとも謀叛(=国家反逆罪)に該当することとなる。律令に従えば死罪になる罪だ。しかも、二条天皇や後白河上皇が六波羅の伊勢平氏たちに対して源義朝を指揮官とする軍勢に加わることを命じられたら、彼らには命令に従う義務が発生する。

 この指揮命令は京都を離れている平清盛に対しても適用される。京都に戻ってきた平清盛が六波羅の伊勢平氏たちに軍勢の発動を命令したとしても、それが二条天皇や後白河上皇の命令に違反する命令であるとしたら、六波羅の伊勢平氏たちは平清盛ではなく二条天皇や後白河上皇の命令に従う義務が発生する。

 ここで重要となるのは、藤原信頼が二条天皇と後白河上皇を擁しているという点である。それこそが源義朝の行動の正当性を裏付けるものであり、その点を喪失した瞬間に源義朝の正当性は喪失する。裏を返せば、その点が守られ続けている限り、源義朝の行動は正当性を伴い、勝算を得続けることができるのである。

 ただし、ここに世論の支持という視点は完全に欠けている。


 藤原信頼は世論の支持を全く得なかった。

 後白河上皇を擁した院政の構築を目指し、後白河上皇の院宣を手にしての藤原信頼の権力構築も進んできてはいたが、藤原信頼の思い描いていた形にはなっていなかった。

 信西逮捕はまだ成し遂げていないが、一二月一四日に藤原信頼自身が主催した臨時除目で、あくまでも二条天皇の命令であるという前提で人事を断行した。それが二条天皇の命令でないことは誰の目にも明らかであった。何しろ、その場の思いつきで藤原信頼自身の口から人事発表がなされるのである。

 平治物語ではこのときの除目で藤原信頼が自分で自分に対し近衛大将の地位を与えたとあるが、平治物語以外にその話は見えない。このときの除目の多くは武士達に対する恩賞であり、最大の功労者である源義朝は播磨守に、源重成は信濃守に、源頼範は摂津守に任命された。現時点で下野国司である源義朝にとっては国司としてのグレードアップであり、国司経験の無い源重成と源頼範はここで国司就任という貴族のステップアップを果たしたこととなる。その他の武士たちにもそれぞれ武官の官職が与えられ、あるいは武官としてのステップアップが用意された。その中には右兵衛権佐に昇格した源頼朝もいる。

 また、藤原信頼から、源義朝の長男である源義平に対して望みの官職はないかと訊ねたところ、官職は信西と平清盛の両名を打倒してからであり、それよりも先に平清盛を倒す軍勢の派遣をすべきと述べたといい、必要とあれば自分が軍勢を率いて阿倍野まで出向くとも進言したと平治物語にはある。平清盛が事前に公表していた熊野詣のルートは、京都から淀川を下って大阪湾に出て、紀伊半島を反時計回りに海路を航行して向かうというものであったため、京都に戻るとするならばその逆のルートを通ると予想された。阿倍野に陣を構えて平清盛に向かい合うというのは戦略として間違ってはいない。

 しかし、源義朝が息子のこの意見に反対した。平清盛を迎え撃つために阿倍野に陣を敷くとあっては、ただでさえ乏しい軍勢を裂かねばならない上に軍勢の疲弊も甚だしいこととなる。それよりも平清盛が六波羅に戻るところを迎え撃つほうが疲弊も軽減された上に軍勢も整うというのである。もっとも、源義平はこの進言をする前に自分の家臣を何名か既に阿倍野に派遣しており、陣営設立の準備をさせている。平清盛のもとに到着した早馬の第二陣が目撃した阿倍野の陣営設立の準備とはこれである。

 こうした武士達への大盤振る舞いに対し、左大臣藤原伊通は嫌味を述べている。内裏で武士達は何もしていないのに、藤原信頼のそのときの思いつきで勝手気ままに官職と官位を与えている。武士達が多くの人を殺したことを官位の理由とするなら、いちばん多くの人を殺した三条烏丸殿の井戸に官位を与えるべきなのではないか、と。


 まさに藤原信頼の主導する臨時除目が開催されている最中に、一つのニュースが内裏に飛び込んできた。

 信西発見。

 藤原信頼はただちに、信西の首を切って運んでくるように命じた。

 信西発見の経緯は以下の通りである。

 平治元(一一五九)年一二月一四日、山城国田原荘の大道寺で信西が発見された。なお、源光保が信西を発見したときの情景としては、発見したときはもう信西が自死をしていたというものと、発見された後に信西が自死したという二種類があり、源為義や平忠正のように生きたまま斬首されたわけではない。

 平治物語によれば、細工の施された鞍が備えられた馬を舎人が泣きながら引いているのを見つけた源光保が見つけたことから信西の隠れた穴が発見されたとある。舎人(とねり)とは皇族や貴族に仕えて警備や雑用をこなす者で、仕事の上で馬に乗ることがあったとしてもこのような華麗な馬に乗ることはない。舎人が馬を引くとしたら馬上には仕えている貴族自身が乗っていなければならない。今回の場合はどう見ても貴族が乗るに相応しい見事な馬を、しかも誰も乗っていない馬を舎人が引いて歩いているのである。これは、馬の持ち主である貴族に何があった場合しかあり得ない。源光保がその舎人に問い詰めたところ、その馬の持ち主は信西であり、今は信西の馬を京へ連れ戻しているところであるとのことであった。舎人の供述の通りに大道寺に行ってみると掘り出されて間もない土の盛り上がりがあり、掘り出してみると信西の遺体が埋まっていたという。源光保は、内裏からの指示に基づいて信西の遺体から首を切り落とした。

 ところが、ここで平治物語の記述に不可解な食い違いが見られる。まず、信西が発見されたのが一二月一四日、そして、臨時除目も一二月一四日である。さらに、臨時除目の場に伝えられた第一報は信西発見であり、信西の生死については述べられていない。藤原信頼は信西の首を切って持ってくるように命じたとあるが、生者の斬首ならば保元の乱以降通例とはなっていても、遺体から首を切り落とせと命じるのは異例である。いかに藤原信頼を悪しく扱う人であっても、それは無礼に過ぎる。

 信西発見の直後に早馬を走らせて内裏に信西発見の第一報を伝えたにしても早すぎるのであるが、納得できなくはない。ところが、それなら藤原信頼の元に届いたのは信西の死の報告でなければならない。

 ゆえに、平治物語の記述は間違いで、実際にはこうであったとするならば納得いく。

 信西が発見されたのは一二月一四日よりも前、もしくは、一二月一四日未明のことであり、発見時点で信西はまだ生きていた。信西発見の報が内裏に届いたのが一二月一四日であり、藤原信頼はここで信西の斬首を命じて使者を大道寺に派遣するが、使者が到着するまでの間に信西は自死を遂げていた。源光保は内裏の命令に従って信西の首を切り落とした、と。


 平治元(一一五九)年一二月一六日、記録には卯刻とあるからそろそろ太陽が昇ろうかとする頃、大炊御門方面より出火しているのが目に入った。大炊御門は郁芳門から東へと向かう大炊御門大路、また、大炊御門大路に面した邸宅に付けられることの多い名であると同時に、大炊御門大路はそのまままっすぐ東に行くと白河に行き着く。

 ここで内裏の貴族達は一つのことに気づかされた

 六波羅の伊勢平氏の反乱は危惧していた。

 しかし、白河の地の寺社の反乱は全く想定していなかった。

 ここに来て白河法皇、鳥羽法皇の残した遺産が藤原信頼の暴走を食い止めに来たのかという疑念が内裏の中に沸き起こり、冬季ゆえに起こる火災であったと判明してようやく落ち着きを取り戻したが、クーデタの首謀者である藤原信頼の慌てふためく姿は内裏の中の人をさらなる失望に誘い、藤原信頼が進めようとしてきた後白河上皇院政そのものに対する失望へと変わった。

 その頃、平清盛ら一行は京都に戻りつつあった。なお、和泉国と紀伊国の境で六波羅からの早馬と出会ったことは判明しているので、熊野詣からの帰路として紀伊半島を時計回りにめぐった後に京都へと帰還したことまでは想像できるが、その旅程の詳細はわからない。何しろ平清盛を迎え撃つために清和源氏の軍勢が待ち構えていると考えていたのであるのだから、可能な限り出くわさないようなルートを通って、すなわち、想定しえないルートを通って移動すると考えるのが通例である。

 もっとも、平清盛の一行は一度も清和源氏の軍勢に出会うことなく一二月一七日に無事に六波羅に戻った。これは何も迎え撃つ軍勢を回避して京都に戻ることに成功したのではなく、迎え撃つ軍勢そのものが存在しなかったのである。それでも、淀川を下れば一気に大阪湾に出ることができる往路と違い、陸路に頼らざるを得ない復路には時間を要する。おそらく、一二月一六日はまだ京都へ戻る途中であったはずである。

 京都に到着した平清盛のもとに飛び込んできたのは、信西の首が獄門、現在で言う刑務所に晒されているという情報であった。

 平清盛が京都に到着する少し前、信西の首を切り落として持参したという報告を受けた藤原信頼は、藤原惟方とともに牛車に乗って鴨川の東の神楽岡、現在の住所でいうと京都大学吉田キャンパスの東の辺りに向かい、信西の首であるか否かを確認させ、間違いなく信西の首であることを確認してはじめて笑顔を見せたという。その上で、最大級の犯罪者に対する処遇として、首を獄門に晒すこととした。鴨川の大炊御門河原まで信西の首を運ばせた後、源資経をはじめとする検非違使達に命じて、信西の首を高く掲げさせて都大路を歩き、大内裏の東にある牢獄の門前に植えられている樗(おうち)の木に吊して晒しものにしたのである。

 平清盛の元に届いたのは、信西の首が切り落とされて晒しものになっていることと、晒しものになるまでの経緯、多くの人が非業の死を遂げた信西への追悼の念を捧げていること、信西の死を命じた藤原信頼への怒りが京都中に満ちているという知らせであった。

 平清盛帰還の一報は平安京を駆け巡った。

 クーデタに参加しなかったという一点で、平清盛はこの混迷の中におけるただ一人の希望となっていた。このクーデタがどのような方向に進むかはまだわからないが、それが二条天皇親政であろうと、後白河上皇院政であろうと、藤原信頼の暴走を食い止めることができていない時点で期待を抱ける政治体制にはなっていなかった。クーデタに関係しなかったという消去法によって平清盛は消極的支持を集めるようになったのである。と同時に、平清盛は内裏の面々における最大の脅威ともなっていた。純粋な軍事力だけで判断すれば、内裏の動員できる軍事力より六波羅の伊勢平氏たちの軍事力のほうが上だ。おまけに、平清盛が戻る前であれば、伊勢平氏がいかに多方面作戦を展開できると言っても全体戦略を有さない個々の軍事行動に留まっていたが、平清盛が戻った後となれば伊勢平氏が全体戦略を立てた上で複数の軍事行動を取ることができる。

 それでも内裏には正統性があった。二条天皇と後白河上皇を擁しているという点である。ここで藤原信頼相手に軍事行動を起こそうというのは、藤原信頼ではなく朝廷に刃を向けることを意味する。いかに実際上は藤原信頼の命令であるとしても、名目上は後白河上皇の院宣なのである。

 そう、院宣なのである。

 議政官で議論を尽くした末に法案が上奏され二条天皇の裁可を得て、法として発令されたわけではないのだ。藤原信頼は議政官を支配しておらず、その地位は権中納言である。太政大臣も、左大臣も、右大臣もみな健在であり、議政官の議決を得ようとしても藤原信頼が議決の過半数を占めるのは難しい。藤原信頼が議決の過半数を得ることができたのは反信西の一点のみであり、それ以外の政策については藤原信頼の思い通りにはいかなかったのである。悪の独裁者さえ倒せば上手くいくという思考は単純明快ゆえに同意を得やすいが、現実はそこまで単純明快ではなく、悪の独裁者を倒してもなお無数の問題が存在することを知らなかったというのは愚かに過ぎるが、これについては二一世紀の日本国民も笑える話ではない。

 後白河上皇の院宣ならばどうにかなっていた藤原信頼であるが、正式な法的根拠を操るには信西打倒だけでは不充分なのだと気づいたときは、もう遅かった。藤原信頼のできるのは現在の状況を続けることだけであったのだ。

 内裏に集った貴族達はもう見抜いていた。藤原信頼の無能さを。

 その無能さを見抜いたのは貴族達だけではない。後白河上皇も見抜いていた。藤原信頼をたきつけてクーデタを起こさせ、自分の院政を掴み取ろうとしたら、想像以上に藤原信頼が暴走し、もはや後白河上皇でも制御できる存在ではなくなっていたというのが実際のところだ。

 平治物語の書き記す藤原信頼への罵倒は容赦ないものがあるが、実際にはそこまで悪しきものではない。人脈構築にしろ、ビジネスセンスにしろ、平治物語に記されているような愚かな人間のできるものではない。だが、藤原信頼が時代の執政者として君臨するに相応しい資質の持ち主であるか否かとなると、それも否となる。こう記せばわかるであろうか。平治物語は一〇〇点満点で〇点と記すが藤原信頼の成績はそこまで悪くはない。少なくとも五〇点はある。ただし、その試験の合格点は六〇点である、と。

 六波羅に到着した平清盛は、自らの行使できる軍事力を把握したが、自らの置かれた法的根拠の薄さも把握した。ここで藤原信頼への叛旗を見せればその瞬間に賊軍決定になるのだ。

 平治元(一一五九)年一二月一七日、すなわち平清盛が六波羅に到着したその日、六波羅から内裏に対し名簿が提出された。名簿(みょうぶ)とは、本来であれば官位と姓名を書き記した一覧のことであるが、時代とともに官職と姓名だけでなく、これまでの官暦や系図といった、この時代の就職において必要となる書類のことを示すようになり、現在の履歴書のような役割を果たした。ただし、複数の就職希望先に対して履歴書を提出することも珍しくない現在と違い、この時代、名簿を提出することと、提出先への無条件の臣従を誓うこととが同じ意味を有する。そのため、複数の名簿は基本的に存在しない。

 ここで平清盛が内裏に提出したのは太宰大弐平清盛をはじめ六波羅に集っている伊勢平氏たちの氏名と官職の一覧であり、名簿の提出によって平清盛は藤原信頼率いる内裏に対して一族揃って臣従すると誓ったと内外に示したのである。

 ただし、藤原信頼がそれを喜んでいられたのは一日だけであった。翌一二月一八日、藤原信頼の息子で平清盛の娘婿となっていた藤原信親が内裏に派遣されたのである。藤原信頼の息子と言うが、平治元(一一五九)年時点でまだ二七歳である藤原信頼の息子が何歳かを考えれば、その幼さも容易に想像できる。藤原信親は平清盛の娘婿であると言ってもまだ五歳だ。藤原信頼にしてみれば、自分の息子と平清盛の娘とを結婚させることで親族関係を築き、清和源氏だけでなく伊勢平氏とも良好な関係を構築しようとしていたのであるが、この瞬間に伊勢平氏と藤原信頼との関係が完全に途切れたのである。


 平治元(一一五九)年一二月一九日、内裏の中における藤原信頼の地位が如実に示される出来事が起こった。

 内裏の中は源義朝率いる清和源氏の軍勢が埋め尽くしている。良く言えば、彼らが二条天皇や後白河上皇、そして内裏の貴族達を警護しているということになるのだが、実際には彼らの武力が無言の圧力となっている。

 清涼殿での席座は通常であれば議政官の中での最上位者がもっとも上座に座るが、議案の内容によっては発議者が上座に座る。クーデタ発生以後は藤原信頼が上座に座るようになっていたが、これも解釈次第によってはおかしなこととは言えない。繰り返すが、この時点の藤原信頼は権中納言兼右衛門督であり、文官としても武官としても最上位者ではないものの、権中納言はともかく右衛門督となると警察権力の発揮も可能となる。実際、信西逮捕の根拠となったのは右衛門督としての権力である。その警察権力の行使に関連する議案の発案者として上座に座るのは、理論上はおかしな話ではない。

 ところが、一二月一七日を最後に右衛門督としての権力を発動しての上座への着席の根拠も失っていた。信西逮捕後は六波羅の伊勢平氏たちの反乱の恐れという危惧があったが、名簿の提出によってその危惧も焼失したのである。これにより警察権力発動を要請する議案自体に意味が無くなった。

 それでも翌一二月一八日は当たり前のように藤原信頼は上座に座った。

 この光景を目の当たりにした一人の貴族が一二月一九日に行動を起こしたのである。

 権大納言兼左衛門督の藤原光頼が、蒔絵の施された儀仗用の細身の太刀を腰に差し、数名の身の回りの者を連れただけで内裏にやってきたのだ。清和源氏の武士達のあふれる中をほとんど丸腰で歩いて清涼殿に赴き、藤原信頼が上座に座っているのを確認し、末席に座っていた参議兼左大弁藤原顕時に座席の乱れがみっともないと苦言を述べ、上座に歩み寄って藤原信頼のさらに後ろ、すなわち、藤原信頼のさらに上座に座った。

 藤原信頼が右衛門督として座を仕切っていることは、この場は衛門府が発議者となった議案の場であることを意味する。

 同じ権大納言であっても、衛門府の中においては右衛門督の藤原信頼より左衛門督である藤原光頼のほうが上司となる。

 その上で藤原光頼は、内裏に参内しなければ死罪に処すとのことなので参内したが今日の議事は一体何なのか藤原信頼に質問した。藤原信頼は無言のまま俯いていた。他の貴族に目を向けても、ほとんどの貴族は目をそらし、全ての貴族が質問に答えることができなかった。

 誰も質問に答えなかったことから、藤原光頼は、今日は議題がないということなので帰ると宣告して立ち去った。

 藤原光頼のこの様子を、清和源氏の武士達は黙って見ていた。そして、藤原光頼が立ち去ったのちに噂しあった。かつて源頼光という源氏の大将がいて、光頼という名は頼光の剛勇さにあやかろうと文字をひっくり返して付けられた名であると。同じく源氏の大将であった源頼信の剛勇さにあやかっているはずなのに、藤原信頼はなんと臆病なのかと。清和源氏の武士達の噂話は小声であったが、それでも内裏の中には届いていた。藤原信頼は屈辱に満ちたが、何もできなかった。

 人目のつく場でパフォーマンスを演じた藤原光頼であるが、人目のつかないところで、弟でもある参議兼検非違使別当の藤原惟方に苦言を述べている。藤原信頼が信西の首実検のために藤原惟方と同乗したことについてである。藤原信頼は近衛大将となり、藤原惟方は一〇月一〇日から検非違使別当である。どちらもただでさえ他者の牛車に同乗することは許されない職務であるが、よりによって信西の首実検のために平安京を離れるというのは、許されないという段階を超え、恥辱としか評することのできない話である、と。藤原惟方は兄の問い詰めに二条天皇の命令に従っただけと言い訳をしたが、その物言いは弱々しいものがあった。

 この物言いに兄は激怒した。

 平治物語に記されている激怒の内容は以下の通りである。

 二条天皇の命令であろうと悪事に手を染めて良いわけではない。祖先を遡れば醍醐天皇にお仕えするところから一九代の帝(みかど)に仕え、自分たちの家系は一一代を数える。これまでの政治は全て庶民のためを考えた政治であり、一度も悪事を働いたことはない。たしかに我が家系は一人も英雄を生みだしていないが、一度として後ろ指を指されることはしてこなかった。それがはじめて悪事に手を染める者を生みだしてしまった。既に平清盛は熊野詣を切り上げて京都に戻ってきている。藤原信頼の率いることのできる軍勢はどれほどなのか。伊勢平氏の武力が押し寄せてくるのはいつ頃なのか。相手が火を放ってくるなら大内裏は灰燼に帰すこととなる。もしものことがあれば皇室が途絶えてしまうとわかっているのか。今は何よりも二条天皇と後白河上皇の安全を図ることを優先するべきだ、と。

 その後で藤原光頼は弟から、二条天皇が黒戸の御所、すなわち清涼殿と弘徽殿の間にある廊下の部屋にいること、後白河上皇は避難したときのまま一品御書所にいること、三種の神器のうち八咫鏡は温明殿に、残る二つは夜の御殿にあることを聞き出したのち、本来なら天皇が食事をするための部屋である朝餉の方(あさがれひのかた)に人の気配がある理由を問いただした。

 藤原惟方は、朝餉の方の方を藤原信頼が右衛門督の執務室として使っているのでその人の女房の気配であろうと応えたが、言い切らないうちに藤原光頼が嘆いた。天皇のための部屋を右衛門督が使い、天皇が廊下に押しやられているなど前代未聞の出来事だと。臣下が皇室を乗っ取るのは他国では存在していても日本では存在しなかった。神々がこの様子を見たらどう思うか、自分は前世でどんな悪行を詰んでこんな時代に生まれこんな出来事に直面しなければならないのか、そう嘆きながら弟の前で大声をあげて泣き崩れた。


 平治元年一二月二〇日、信西の子らへの判決が下った。

 本来は前日に議論すべきところであったが、藤原光頼の迫力の前に議論どころではなくなり一日ずれたのである。

 通常であれば参加しないこととなっている前関白藤原忠通、関白藤原基実、太政大臣藤原宗輔も参加しての議決であるが、律令に基づいて左大臣藤原伊通が議長となっていた。藤原信頼も参加はしたがあくまでも権中納言の一人であり、その議決は一票以上の価値を有するものではない。

 信西の子らへの判決は、本来であれば死罪であるが死罪一等を減じての遠流となった。これは信西の前に戻ったこととなる。

 まず、出家していない五名は以下の通りとなった。藤原俊範、出雲国。藤原成憲、下野国。藤原定憲、土佐国。藤原修憲、隠岐国。藤原惟憲、佐渡国。

 出家している七名については以下の通りとなった。靜憲、安房国。観敏、上総国。勝憲、安芸国。憲耀、陸奥国。覚憲、伊豫国。明遍、越後国。澄憲、信濃国。

 なお、このとき、藤原成憲と平清盛の娘との婚約が解消された。

 内裏で議論が進んでいる間も大内裏に詰めている武士達はいつ六波羅から軍勢が攻め込んでくるかわからず戦々兢々としていた。かなりの緊張を強いられているため一触即発の状態が続いており、少しの物音で殺気立つ状況が続いていた。

 この武士達を統率しなければならない源義朝も、播磨守に任命されたとは言え播磨国司としての報償を得ることもなく、ただただ過酷な任務に直面させられ続けていたのである。いつ暴発してもおかしく雰囲気が清和源氏の武士達の間に蔓延するようになっていたが、源義朝にできたのはその暴発を後回しすることであり、無くすことはできなかった。

 一二月九日から続いている出動はもう一〇日以上経過している。

 平治元(一一五九)年一二月二三日に、大内裏に詰めかけている清和源氏の武士達の間で六波羅から伊勢平氏の軍勢が攻め寄せてくるという噂が広まった。武士達は兜の緒を締め、いつでも戦闘に打って出る準備をして待っていたが、結局は噂のままであり何も起こらなかった。

 平安京の内外は厭戦気分に満ちていた。

 もう年末だというのに、これでは落ち着いて年越しをすることもできない。

 結果はどうなってもいいから、とにかく事件が収束してほしいというのがこのときの平安京内外の人達に共通した思いであった。

 ただ、当事者にそうした思いを抱くという贅沢は存在しない。いかにして自分にとって最良の結果を得るかが最優先事項であり、事件そのものの収束は最優先では無い。事件の収束が最良の結果と異なるというのならば、事件は収束せず現状のまま続くほうがまだマシなのだ。

 おまけに、当事者のほぼ全員が保元の乱の勝利者だ。保元の乱は短時間で鮮やかに勝利を掴んだ戦いであり、勝者にとってはまさにこれ以上無い最良の結果を得た戦いであった。さらに言えば、多くの者にとって戦乱と言えばその最良の結果のことである。関東で戦乱を経験した武士にとっては保元の乱はむしろ例外なことを知っているが、当事者はそのことを知らない。戦乱とは保元の乱のように短時間で明瞭な結果を獲得し、その結果は自分にとって最良のものとなることを意味するのである。

 この厭戦気分の中でも指揮官達は冷静に状況を見つめていた。その状況は日に日に源義朝より平清盛のほうが優勢になってきていた。

 何しろ平清盛のもとには内裏の中の様子が伝わっていたのだ。内裏のどこに二条天皇が、どこに後白河上皇が幽閉され、どこに三種の神器が保管されているのかの情報が伝わっていたのだ。

 平清盛の立場を悪くしているのは、藤原信頼の側に二条天皇と後白河上皇がいて、さらに三種の神器も藤原信頼の管理下に置かれていることにある。裏を返せば、二条天皇と後白河上皇を、三種の神器とともに連れ出すことに成功すれば、藤原信頼ではなく平清盛のほうが官軍となる。

 問題は、いつ、どうやって連れ出すかである。


 平治元(一一五九)年一二月二六日、一人の老人が内裏のもとを訪問した。

 貴族の中には建物の外に出た者もいるが、誰がどのように内裏の外に出たか、誰を随身としたか、牛車の中には誰がいるかが全て検査されている。また、内裏の外に出た者は全て内裏に戻ってきていることも確認できている。そして、内裏から出た者と内裏の外から戻ってきた者の人数は一致しており、この老人は内裏の外に出た者に含まれていない。貴族当人にも、その随身にも、このような老人はいない。

 老人は言った。自分は去る貴族に仕える身であり、本来であれば自分も主君に従って内裏に来るはずであったが、自分の娘が出産を控えていたので内裏に来ることができなかった、と。また、自分の娘が無事に出産を終え、産後の様子も健康であることから予定通り内裏に赴くことができた、と。この時代のルールによれば、いかなる緊急事態であろうと出産とあれば出産に立ち会うほうが優先される。出産に立ち会わなければ非常識として蔑まれ、自分の家臣を出産に立ち会わせなければそれだけで有罪となり、全財産没収の上で追放処分となる。

 さらに、女性や子供を人質として抱えておくこと、ましてや戦場になりそうな場所に留め置くことも許されざるマナー違反であった。とはいうものの、中宮姝子内親王をはじめ多くの女性が大内裏の中にいたのも事実である。藤原信頼は彼女たちの脱出を許さなかったが、脱出させることは不可能では無かった。ただ、中宮姝子内親王は二条天皇とともに居続けると宣言したために避難させることはできずにいたのである。

 老人が内裏の中に入ることができたことで、少なくとも内裏を警護する武士達にこの時代の常識が通用したことが判明した上で、老人は二条天皇のもとに足を運んだ。

 老人が伝えたのは、平清盛の考案した二条天皇脱出プランである。

 二条天皇を女装させ、中宮姝子内親王に同行する女官の外出ということにして脱出させるのだ。

 二条天皇はこのとき一七歳。天皇であることを知らぬ人が二条天皇を目にしたとしたら、女性と見紛うばかりの絶世の美少年というのが二条天皇の外見に対する評判である。二条天皇自身はその評判を苦々しく思い、さらにはコンプレックスにさえ感じていたのだが、このタイミングで自身の外見がコンプレックスではなく武器となった。女性の着物を身にまとい、カツラを着けると女性にしか見えなくなるのである。ただし、あからさまに飾り立てるとかえって目立ってしまう。二条天皇の見た目は中宮姝子内親王に仕える女官の一人でなければならないのだ。

 中宮姝子内親王の牛車が内裏の北にある朔平門に用意され、二条天皇と中宮姝子内親王が牛車に乗り込んで、牛車は大内裏の中を東に進んだ。

 牛車の周囲を権大納言藤原経宗と参議藤原惟方が歩いて警護するという異例としか言いようのない牛車は、上東門から外へと出ようとした。上東門(じょうとうもん)とは大内裏の東にある門で、門を出ると土御門大路に出る。土御門大路の周辺は貴族の邸宅街であるし、平安京の東端まで出て鴨川を渡れば白河の地も六波羅の地も目と鼻の先だ。本来ならかなりの重要警備拠点とすべきところであるはずなのだが、既に戦闘状態に入ってから一七日目を数えている。ここまで日数が経過するといかに厳重な警備を命じても警備が甘くなってくる。実際、この日の上東門を警護しているのは源義朝の家臣である金子家忠と平山季重の二人だけであった。

 上東門を通ろうとしているのは明らかに怪しい牛車であるが、検非違使別当でもある参議藤原惟方が、検非違使別当でもある自分が警護するだけでなく権大納言藤原経宗とともに行動するほどの高貴な女性であると訴え、怪しいと思うなら牛車の中を調べれば良かろうと主張。警護の武士達が牛車の中を調べるとたしかに高貴な身分に仕えているであろうと思われる女性しか乗っていない。さらにその背後に女性が乗っているが、その女性が中宮姝子内親王だと気づくと警護の武士達は理解した。間もなく大内裏は戦乱に包まれるのがわかっているから、中宮姝子内親王が女官と一緒に待避しようとしているのだ。だとすれば、権大納言藤原経宗と参議藤原惟方が歩いて警護するのはおかしな話ではなく、むしろ当然である。それどころか、中宮姝子内親王の身分検査までしようとしたのだから処罰ものだ。

 武士達は、慌てて牛車は問題なしとし、さらには見なかったこととした。その結果、牛車は上東門から内裏の外に脱出できた。


 中宮姝子内親王が牛車に乗って脱出したことは、警護の武士達の間に、間もなく戦乱が起こること、戦乱が起こる前に女性達の脱出が続くことをニュースとして広めることとなった。そして、実際に複数の牛車が通例ならざる警護を伴って大内裏から脱出することを黙認することにつながった。

 その中の一つ、上東門と対をなす上西門から脱出し、平安京の北西の仁和寺へと向かった牛車に乗っていたのは、女性ではなく女装した後白河上皇であることに気づかれることもなかった。後白河上皇はここに来て藤原信頼を見捨てた、いや、見捨てることに成功したのである。後白河院政成立の野望は最悪の形で終わりを迎え、後には混沌が残されることとなった。

 一方、二条天皇の救出に成功したとの第一報が六波羅に届くと、平清盛は息子の平重盛らに命じてただちに牛車の警備に向かわせた。その数およそ三〇〇騎。平重盛は土御門東の洞院で二条天皇の牛車と合流し、ここではじめて二条天皇は安堵の表情を見せた。

 平重盛らに護衛されたまま二条天皇の乗った牛車が六波羅に到着してはじめて、平清盛は二条天皇の救出成功を宣言した。

 右少弁藤原成頼を通じて平清盛から、六波羅を新しい皇居とすること、朝敵になりたくない者はただちに六波羅に来ることという宣言が下った。この宣言はただちに内裏に響き渡り、前関白藤原忠通、関白藤原基実、太政大臣藤原宗輔をはじめとする主立った貴族がこぞって内裏を脱出し六波羅へと向かった。もはや内裏を警備する清和源氏たちに貴族の脱出の流れを食い止めることはできなかった。

 六波羅に押し寄せる人の波の多さは、六波羅にある伊勢平氏の邸宅の中に入りきらなかったほどで、邸宅の敷地をはみ出て鴨川東岸にまで人の群れが連なるほどであったという。

 平治物語は藤原信頼の無能を語る書でもあるのでどこまで本当かわからないが、平治物語によると藤原信頼はこの騒ぎに気づくことなく酔いつぶれて寝ていたという。

 平治元(一一五九)年一二月二七日早朝、藤原成親に叩き起こされた藤原信頼の目の当たりにしたのは静まりかえった内裏であった。藤原成親は、二条天皇も後白河上皇も既に内裏を脱出し、主立った貴族もことごとく内裏を出て六波羅に向かっていることを伝えたが、藤原信頼はそれを信じなかった。藤原経宗と藤原惟方の二人に警護を命じているはずだ、と。だが、藤原経宗も藤原惟方も内裏にはいなかった。これまで院宣を発してくれた、そして今回の黒幕であり続けてくれた後白河上皇のいる一本御書所に足を運ぶも、後白河上皇はもういなくなっていた。黒戸の御所に足を運ぶも二条天皇も既にいなくなっていた。藤原信頼は藤原成親の耳元でこのことを誰にも話さぬよう内密にしておくようにとささやくが、藤原成親からの答えは、源義朝をはじめとする内裏の中の全ての武士はもうとっくに知っているというものであった。


 賊軍となった大内裏の武士達に残されていたのは、間もなく攻め込んで来るであろう伊勢平氏の軍勢と立ち向かうことだけであった。

 忘れてはならないのは、今回のクーデタの直前に用意された馬具はともかく、かねてから藤原信頼は奥州藤原氏から武具や馬を定期的に購入してきた人物であるという点であり、武士として最前線での戦闘経験こそないものの、武具の扱いも馬の扱いも熟知しており、フル装備のその姿は軍勢を率いる総大将として似合っていたということである。このとき二七歳であるから、何も知らぬ人が見たら軍勢を率いる若き総大将に見えなくもなく、武具への熟知も手伝って軍勢を立て直す効果もあった。

 内裏を脱出することなく藤原信頼と供に行動している藤原成親はこのとき二四歳。彼の身に付けている装備は藤原信頼の用意したもので、何も知らない人が見たら総大将藤原信頼の側で軍勢指揮を補佐する副官に見えたであろう。

 ただし、この軍勢を指揮するのは総大将と副官に見える二人ではなく、源義朝である。源義朝の身につけている武具もまた藤原信頼が奥州藤原氏から購入した高級品であるが、グレードで言うと藤原信頼の身につけている装備より一段階劣るが、これまでの清和源氏の身につけていた鎧や兜に比べものにならない美しさと機能を備えており、不利になった状況であっても対抗できるのではないかと思わせるものがあった。

 六波羅の側では、大内裏に攻め込むのではなく、大内裏から軍勢をおびき出して討ち取るべしという意見で一致した。信西が復旧させた大内裏を再び炎に巻き込むことがあればその損害は甚だしく、また、二条天皇の身の安全と後白河上皇の脱出の確認はできたものの三種の神器は未だ大内裏に存在するのは無視できぬことであったのだ。

 平清盛は最前線の指揮とならず、伊勢平氏の軍勢を三つに分けて三名に指揮させることとした。左衛門佐平重盛二二歳、三河守平頼盛二八歳、常陸守平経盛二六歳の三名である。三人の後ろに平清盛が総指揮官として六波羅に留まって第四の軍勢を指揮することとなる。総大将が前線にいないのは無責任に思うかもしれないが、軍勢が出払っている隙に清和源氏の軍勢が押し寄せてきて二条天皇を取り戻しに来ないとは限らない。現時点で最優先にすべきは二条天皇の身の安全であり、そのために平清盛自身が警護にあたっていると示すのは清和源氏に対する圧力という点でかなり強力に発揮する。それに、平清盛が六波羅に留まって、伊勢平氏の軍勢の指揮を、平重盛をはじめとする若手に任せるのは一つのワナなのである。既に述べたように、大内裏に攻め込むのではなく、大内裏から軍勢をおびき出して討ち取るというのが作戦であり、平清盛が前線に赴かないというのは作戦を実現させるためのワナなのである。

 ワナとなるために鴨川の東に終結した三〇〇〇騎を前に、平重盛は一つの演説をした。

 年号は平治、都は平安京、我らは平氏。この三つが重なるのである。この戦いに負けるなどあり得ない、と。

 演説で湧き上がった軍勢は、鴨川を東から西へ渡り、近衛大路と中御門大路を西へ進んで、近衛大路を進んだ軍勢は陽明門に、中御門大路を進んだ軍勢は待賢門に直面した。陽明門は開いていた。待賢門も開いていた。さらに待賢門の南にある郁芳門まで開いていた。大内裏の中をのぞき込むと内裏の門である建礼門まで開いていた。覗き込んだ中は軍勢がひしめいていた。

 平重盛は内裏に直面する武士たちに命令を下した。自分たちはあくまで内裏の中にいる軍勢をおびき寄せるために行動しているのであり、内裏で暴れてはならない。内裏の中でひしめく軍勢が内裏の外に出たなら敵陣を六波羅まで誘い出すと同時に我々が内裏を守る側になるのだ、と。


 内裏の中に鎮座する武士たちは、藤原信頼と藤原成親が名目上の指揮官であるとはいえ、実際には源義朝が指揮をする軍勢である。

 忘れてはならないのは、源義朝は父親と弟たちを信西の命令で斬首させられていることである。ゆえに、清和源氏を率いるのは源義朝一人しかおらず、源義朝に代わって作戦行動を執ることのできる人間が一人もいないということである。平清盛も伊勢平氏の軍勢を一手に握っているが、平清盛は戦略のグランドデザインを描いて各部隊に対し戦術の発揮を求める多方面作戦が展開できるのに対し、源義朝は戦略のグランドデザインを描いただけでなく個々の部隊の戦術まで一人で練らなければならないということだ。

 それでも源義朝の子供達、一九歳の源義平、一六歳の中宮大夫源朝長、一二歳の兵衛佐源頼朝ならいる。また、源義朝にこれまで付き従ってきた武士たちも健在である。平治物語はそうした武士たちを列挙する。源義詮、源義盛、源義隆、源義信といった源姓で呼ばれる面々だけでなく、苗字で呼ばれる鎌田正清、三浦義澄、山内俊通、山内俊綱、長井実盛、片切景重、上総介広常、佐々木秀義といった武士たちの名を連ねている。平治物語における清和源氏方の武士たちの名と、吾妻鏡における清和源氏方の武士たちの名とでは食い違いが多々あり、実際に参加したかどうかは怪しい。ただし、苗字で呼ばれる面々が平治元(一一五九)年時点で既に清和源氏の武力の軸を担っていることに注意していただきたい。このことが後の源平合戦において大きな意味を持ってくる。もっとも、意味を持ってくるのは後の時代のことで、このときはまだ強い意味を持ち合わせてはいない。

 この時点での純然たる清和源氏の軍勢となると二〇〇騎あるかないかという軍勢である。ただし、全体で二〇〇騎の軍勢というわけではない。平重盛は清和源氏の軍勢が内裏にひしめいていると捉えたが、いかに内裏の中ではスペースが限られるとは言えそこまで狭くはない。狭い場所にうごめいていたという情景ではなく、それなりの広さがあって、かつ、それなりの数の軍勢がいたと推測されるのである。

 内裏の中には清和源氏以外の軍勢も存在しており、その中には藤原信頼自身が集めた軍勢も含まれる。藤原信頼自身が三〇〇騎ほどの軍勢を率いて待賢門を固めたという記録があるのだ。純然たる清和源氏だけで二〇〇騎なのに藤原信頼が三〇〇騎を率いたということは最低でも清和源氏以外の軍勢が一〇〇騎はいなければならないが、実際には一〇〇騎で済むわけがない。と言うのも、陽明門を固める軍勢としても三〇〇騎が記録されており、かつ、そこに清和源氏の名は無いのだ。源義朝は郁芳門を固める軍勢を指揮するとして名が残っており、詳細は不明であるが清和源氏の二〇〇騎の全てが源義朝と行動をともにしたのではないことも推測されるのである。


 戦闘状態に突入したのは平治元(一一五九)年一二月二七日の巳刻、現在の時勢に直して午前一〇時頃。平重盛は藤原信頼の守る待賢門、平頼盛は源義朝の守る郁芳門、平経盛は陽明門に向かって軍勢を進め、互いに向かい合って弓矢の応酬を繰り返した。各門に対し五〇〇騎ずつ、さらに一五〇〇騎が余剰戦力として控えている。

 およそ二時間に亘る弓矢の応酬の末、平重盛率いる軍勢が待賢門を突破。藤原信頼は敗走し、平重盛率いるおよそ五〇〇騎の軍勢は藤原信頼を追いかけて内裏の大庭まで突入した。平治物語によれば、待賢門が突破されたのを見た源義朝は長男の源義平に命じて平重盛に対抗するよう命じたというが、復元模型を見る限り、郁芳門を警護する源義朝から待賢門の様子は見えない。平治物語の記す通りに源義朝が息子を待賢門に派遣したとすれば、待賢門突破を目の当たりにしたからではなく、待賢門突破の知らせを受けたからであろう。

 なお、源義平と行動をともにすることが許されたのはわずかに一七騎である。普通に考えれば五〇〇騎対一七騎なのだから勝算などあるはずないのだが、源義平に命じられたのは、平重盛率いる五〇〇騎と対抗することではなく平重盛一人を討ち取ることである。

 名乗りを上げたあと、源義平率いる一七騎が一団となって平重盛に向かって突入していった。平重盛はいったん自分の率いる五〇〇騎を引き連れて内裏の外へと退却した。それが平清盛の練った作戦なのだが、真正面から自分をターゲットに狙いを定めてきた者がいて、しかも圧倒的大差で自分たちが優勢なのに引かざるを得ないことでプライドが傷ついていた。その上、余剰戦力一五〇〇騎が無傷でいる。

 平重盛は待機していた一五〇〇騎を率いて再び待賢門から大内裏に突入した。ここで数の力に任せて源義平を討ち取ればこの後の作戦も有利に展開する。うまくいかなかったとしても、待機していた一五〇〇騎に一度は攻撃に参加したという実績を相手方に覚えこませるという目的を果たせる。三〇〇〇騎を率いておきながら一五〇〇騎しか戦闘に投入させずに六波羅に引き返したとあればワナであると気づかれる可能性は高まるが、段階的な投入であるにせよ三〇〇〇騎の全てを突入させた後の敗走となればワナと気づかれる可能性が減る。なお、いかに大内裏が広いと言っても一つの門から一五〇〇騎の軍勢が突入するのは困難である。おまけに、平氏の武士たちは大内裏を無傷とするよう命じられている。弓矢が飛び交った末についた傷は許容できるが、門が狭いからと門の周囲の壁を壊そうものなら懲罰ものだ。そのため、一五〇〇騎の突入ではあったが、後方の五〇〇騎ほどは大内裏に入ることもできずにいたのは計算違いであった。

 源義平がどこまで平清盛の立てた作戦を把握していたかはわからない。ただし、通常ではない動きであるとは察知していたようで、待賢門で構えている軍勢に対し、一五〇〇騎全体ではなく、平重盛ただ一人に狙いを定めよ、平重盛本人ではなく平重盛の乗っている馬の足に狙いを定めよと命じて攻撃を始めた。いかに数の力で上回っていると言っても、先陣で指揮する一人に狙いを、それも本人ではなく乗っている馬の脚に狙いを定めるとなると、ターゲットとされた側は落馬した末に清和源氏のもとに捕らえられる可能性が高まる。下手をすれば討ち死にだ。

 平重盛は役割を果たしたとして一五〇〇騎を率いて待賢門より敗走した。ただし、待賢門への突入が遅かったために大内裏に入ることのできなかった五〇〇騎は郁芳門の攻撃への加勢を命じた。


 一見すると源義平が二度に亘って平重盛を追い払ったかのように見える。これをチャンスと見た源義朝は郁芳門を開けて一気に内裏の外へと攻め込んだ。郁芳門に当初から攻撃をしていた五〇〇騎と、平重盛が差し向けた応援の五〇〇騎、合わせて一〇〇〇騎は源義朝率いる清和源氏の主力部隊に圧倒された、という体裁でバラバラに敗走した。

 これが本当に敗走であるなら文字通りバラバラであるはずなのだが、バラバラに逃げて行くかのように見えながらその逃走先はただ一つであった。六波羅だ。ここでもし、源義朝が大内裏に戻ってもう一度防御の陣営を構えたなら源義朝にもまだ命を長らえる手段はあったかもしれないが、圧倒的戦力差を目の当たりにして、勝機を感じ取ることはさすがにできなかった。

 これは源義朝だけでなく大内裏に残った貴族たちも同じ考えで、まだ内裏に残っていた貴族のほとんどは六波羅へと向かい始めた。敗走した伊勢平氏の軍勢を追いかけるのではなく、六波羅の軍勢に加わるためである。貴族の中でなおも大内裏に残っているのは藤原信頼と藤原成親の二人だけとなったと言っても過言ではない。もはや二条天皇親政とか後白河上皇院政とかの話ではなく、自分たちがこれからどうやって生き残るかの話なのだ。

 それでも藤原信頼には一つだけ手があったはずである。

 三種の神器だ。

 二条天皇も後白河上皇も内裏を離れたが、皇位継承のレガリアである三種の神器はなお内裏に存在していたのである。三種の神器を自分たちが保持していると示し、自分に味方してくれる皇族を探して三種の神器を渡して即位させれば、苦しい言い逃れにはなるが正当な皇室の守護者として行動できたのである。

 しかし、藤原信頼はその方法を選んでいない。そこまで頭が回らなかったからとすべきであろう。なお、そこまで頭の回った貴族が一人いて、その一人である源師仲は三種の神器の一つである八咫鏡を保管させ、残る二つ、八尺瓊勾玉と天叢雲剣の依代(よりしろ)についてはそのまま保管する代わりに保管場所の鍵を持ち出した。巧妙なのは、八咫鏡の保管場所を自分と自分の娘だけの極秘事項としつつ、八咫鏡そのものを持ちだしたわけではない点にある。壇ノ浦の戦いを思い浮かべ、三種の神器とは簡単に持ち出すことのできるものと思っている人もいるかもしれないが、三種の神器を持ち出した源平合戦のほうが異常事態であり、このときの源師仲のように平安京の外に持ち出すのではなく、戦乱に備えて平安京のどこかに保管するほうが三種の神器に対する正しい接し方なのである。その上で、自分は三種の神器のうちの二つを安全な場所に保管して鍵を持参しているが、鍵を渡し、残る一つの保管場所がどこかを話すのは命が保証されてからであること、自分の身に何かあったとき、八尺瓊勾玉と天叢雲剣の保管場所の鍵は取り出せるが八咫鏡の在り処は永遠に不明になることを宣告するのはギリギリで不敬にならない上で命乞いのために用いることのできる手口にはなる。


 賊軍となった源義朝に残された未来は一つしかない。戦いに負けることである。それでも最低最悪から脱する手段だけはあった。戦いに負けたあとで敗走をし、関東地方へ逃れることである。関東地方まで逃れることに成功すれば清和源氏を率いて勢力を築き上げることも可能だ。それが何年先になるか、何十年先になるかわからないが、時運を掴んで再び勢力を盛り返して京都に進軍するという手段ならば選べる。無論、その過程でたくさんの人が死ぬであろう。ただ、そのたくさんの人の死をただ一人の死で代替することは可能だった。藤原信頼を戦場で死なせるのだ。総大将の死をもって戦争終結とするのはよくあることだ。

 大内裏に残った軍勢は六波羅へと向かった。勝つために向かうのではない。負けるために向かうのである。ただし、死ぬために向かうのではない。敗北したのちに敗走するために向かうのである。死ぬのは藤原信頼だけでいい。

 藤原信頼は軍勢がどこに向かうのかわからず歩かされていた。本来なら馬に乗って行くべきところであるが、恐怖に怯え馬に乗ることもできなくなっていた。だからと言って、軍勢から逃れることもできずにいた。軍勢そのものに対する平安京内外の庶民の怒りは容赦ないものがあり、軍勢を構成する武士達は藤原信頼への怒りを隠せないのでいるのだ。藤原信頼への憎しみの言葉は小声などではなく本人にも聞こえる声であった。六波羅へと向かう武士たちから聞こえるのは、これからの戦闘への意気込みではなく、藤原信頼への憎しみと侮蔑の言葉だけであった。

 何度も繰り返すが、六波羅は鴨川の東、清水寺のふもとの土地である。すなわち、平安京の区画ではなく、平安京から六波羅に向かうには鴨川を渡らなければならない。

 大内裏から六波羅に向かって進軍してくる軍勢に対して六波羅の面々が待ち構えるとすれば、鴨川の東岸に陣を敷き、鴨川の西岸に陣取ることになる軍勢と対面するのがもっとも合理的であり、平治物語によればこのときも鴨川の東軍に伊勢平氏の軍勢が陣を張ったという。

 そして、鴨川の西岸にも大内裏を出発した軍勢が陣を敷いたという。

 鴨川の西岸の陣を見て、鴨川東岸の伊勢平氏たちは仰天した。

 源義朝率いる軍勢があまりにも少ないのだ。いや、軍勢だけならいるにはいるのだが、鴨川西岸の軍勢が全て鴨川東岸の六波羅に向かっているのではなく、鴨川西岸が敵味方に分かれており、六波羅の伊勢平氏の敵とみられる軍勢があまりにも少なくなっていたのだ。

 先に主だった貴族たちが揃って六波羅の軍勢に加わるために大内裏を脱出したことは述べた。だが、清和源氏の武士たちからも源義朝の軍勢を離れる者が出たのである。それも、鴨川西岸に陣を敷いたまさにその場において。

 その中の一人が源頼政であった。彼は清和源氏の一員ではあるが、源義朝から見て五代は遡らないと縁戚関係に結びつかないという希薄な縁戚関係である。そもそも源頼政は二条天皇を守るために大内裏に参内したのであって、二条天皇に刃を向けるために軍勢を集めたのではない。源義朝が滅びの美学を求めるのも、あるいは敗走を選ぶのも、それは源義朝の勝手である。だが、それに付き合わされる義理はない。藤原信頼が奥州藤原氏から買い求めた武具を清和源氏に提供したことも、藤原信頼の野望のために二条天皇に刃を向ける理由にはならない。

 こうした思いは他の武士たちにも伝播していた。そのため、鴨川西岸の軍勢は、大内裏で門を守っていた面々と比べて明らかに少なくなっていた。

 ただし、少なくなっているからこそ恐ろしくなることがある。戦闘での勝利ではなく一点突破を図ってくることだ。平清盛を、それがダメなら平重盛の首を狙って突撃をすることは充分に考えられた。

 それを見抜けぬ平清盛ではない。そうでなくとも川を挟んでの戦闘である。ヘリコプターも戦車も無い時代の戦闘での突撃となると馬に乗っての突撃か、あるいは歩兵が走ってきての突撃となるが、そのための備えはとっくにできている。川を挟んで向かい合っている以上、橋を落とすだけで充分だ。馬で川を渡って突入を試みようと、馬が川を渡りきるより先に弓矢のターゲットとなるだけである。歩いて川を渡ろうものなら、あるいは走って川を渡ろうものならもっと悲惨だ。

 この状況をいちはやく察知したのが藤原信頼である。最後の最後で勇気を振り絞って行動を起こした。

 逃げ出したのだ。

 逃げ出した藤原信頼を見ても源義朝は特に何の感想も抱かなかった。足手まといで面倒なのがいなくなっただけだと述べただけである。

 最後まで藤原信頼と行動を共にしていた藤原成親の動静についてはわからない。この少し前から藤原成親についての記録は消え、次に登場するのはこの戦闘のあとまで待たねばならない。

 平治物語はこの後で、源頼政と源義平とが鴨川西岸において清和源氏同士で争い、その過程で源義朝の腹心の部下が討ち死にする場面が描かれているが、他の資料にその様子はない。


 源義朝はこのあと、鴨川東岸の平清盛に向かって馬を進めたと平治物語は記すが、平治物語のその後の源義朝の運命、そして、愚管抄をはじめとする他の資料における源義朝のその後を考えると、平治物語にあるような突撃の場面はなく、清和源氏の面々もまた藤原信頼と同様に戦線を離脱して各々が逃げていったと考えられる。

 戦死者が少ないのだ。

 戦いにおいて相手を殺さなければ勝利とはならないという決まりはない。生きたまま相手を捕らえることもまた勝利であり、相手が敗走することもまた勝利である。思い出していただきたいのは、平忠正や源為義が斬首されたのは、保元の乱の戦場における出来事ではないという点である。保元の乱で敗者となった者は、保元の乱の戦場において命を落としたのではない。保元の乱の後で捕らえられ、裁判によって死罪となり斬首されたのである。

 このときもまた、敗者には保元の乱と同じ運命が待っているはずである。つまり、戦場での死を命じられたわけではない。まずは逃げて、逃げ切ったならばそれでよし。逃げきれずに捕らえられたら死罪になる可能性があるものの、死罪決定というわけではない。

 もっとも、それは敗者の考えであり、勝者はそうは考えない。とにかく敗者を捕らえることを最優先に考える。敗者がこのまま逃げ延びて、時間を稼ぎ、勢力を整えて再興し、再び刃を向けるというのは最も恐ろしいシナリオだ。ゆえに、そのシナリオにならないよう敗者を探し出して捕らえようとするし、捕らえるより前に敗者が死んだらその報告をさせる。

 平清盛は逃げだした清和源氏と藤原信頼の捜索を命じただけでなく、拘束して連行してきた者、あるいはその遺体を見つけた者に報償を与えるとした。見つけたときに亡くなっていたとしても、殺害してから遺体を見つけたと報告したとしても同じであるとして。


 藤原信頼がどのような経路で逃げたかは不明である。源義朝と一緒に逃げようとしたが源義朝が突き放したという逸話もあるが、それだといち早く戦線から離脱したことと辻褄が合わなくなる。

 藤原信頼の逃走経路はわからないが、逃走先は判明している。仁和寺である。仁和寺は平安京北西にある寺院であり、代々皇族が門跡を務める慣わしがあった。寺院内の建造物も皇室由来が多く、内裏を脱出した後白河上皇の避難先に仁和寺が選ばれたのも当然のことと見なされていた。

 それに何より、自らの院政を構築すべく藤原信頼をたきつけ反乱を起こさせた張本人である後白河上皇がそこにいるのだ。

 藤原信頼は武人としての格好をしてはいたが武士ではない。しかし、何も知らぬ人が見れば落武者にしか見えない外見であった。戦いに敗れて逃走する落武者にとって恐ろしいのは、逃走先までの安全が全く存在しないという点である。世の中には落武者狩りというものが存在する。

 敗走する者に襲いかかって身柄を拘束して差し出せば生活が激変する報奨が得られる。これは武士に限らず、その日の生活に困る一般庶民であっても例外ではない。いや、生活苦から一瞬にして脱出するチャンスなのだから一般庶民のほうが敗走者探しに懸命になる。おまけに、生かして差し出せとは命じられていない。生きていようと死んでいようと構わないという捜索命令だ。見事な軍装に身体を包んでいることはすなわち、軍装を剥ぎ取れば高値で売れることを意味する。着ているものも全部剥ぎ取って売りさばき、裸にして殺害したあと死体を差し出せば報奨も得られる。見つかったときは全裸で亡くなっていましたとでも述べれば、それがどんなに怪しかろうと何の文句も言われない。死人に口なしなのである。

 襲いかかって身ぐるみを剥いだ後に殺害して死体を運び出すとは、落武者狩りとは何とも物騒で、品性の欠片も感じない蛮行としか見えないが、歴史を振り返るとそれはむしろ当たり前の出来事で、当人はむしろその蛮行を後世に誇りとして語り継ぐことさえある。この国をメチャクチャにした極悪犯罪者を退治してあげたのだ、という理由で。このときの藤原信頼はまさにその理由にもっとも相応しい人物であった。

 平治物語では藤原信頼の身に何が起こったかを記しているが、物語性はあっても信憑性は乏しい。ただし、途中で何かあったことは間違いなく、仁和寺にたどり着いた藤原信頼はみすぼらしい格好であった。おそらく、落武者狩りに対して何もかも差し出すから命だけは助けてくれと願った結果であろう、仁和寺に着いた藤原信頼は、一二月の終わりに相応しいとは思えない格好で寒さに打ち震えていた。

 仁和寺に到着したのは藤原信頼と藤原成親の二人であったという。藤原成親の動静が途絶えた後で登場するのはこのタイミングなので、二人は揃って行動していたのか、あるいは別々に行動していたのかわからない。いざとなれば仁和寺で落ち合おうと約束していたのかもしれないし、自分が生き残るチャンスを考えるなら仁和寺に行くと二人とも考えたのかもしれない。

 仁和寺に到着した藤原信頼は後白河上皇に命の嘆願をするが、それより前に仁和寺から六波羅まで藤原信頼らが逃れてきたことを知らせる早馬が走り出した。

 六波羅から平重盛、平頼盛、平経盛率いる総勢三〇〇騎あまりの軍勢が仁和寺へ到着し、藤原信頼と藤原成親を連行していった。

 後白河上皇は何も知らないとして、藤原信頼を見捨てた。

 連行していった場所は、平治物語では六条河原、愚管抄では六波羅から清水寺に向かう途中の広場と記されており食い違いがある。確実に言えるのは平安京の中ではないということだけである。

 そこで行われたのは平清盛を裁判官とする裁判であった。被告人たる藤原信頼は自らの無罪を訴えたもののその供述はただ見苦しいと扱われ、その場で死罪が命じられた。武士ならばともかく貴族である自分が死罪になるのはおかしいと述べたものの、武装して事件を引き起こした点は言い逃れできず、後白河上皇の院御所を襲い、大内裏を襲撃したこともまた無罪とすることはできないものであった。それに何より、失われた命が多すぎる。

 平治物語では最後まで抵抗する様子が、愚管抄ではその抵抗の見苦しさが描かれている。おそらく、藤原信頼は最後の最後まで軽蔑を浴びながら抵抗し続けたのちに斬首となったのであろう。藤原信頼二七歳の人生の終わりである。ただし、信西と違って首が晒されることはなかった。

 一方、藤原成親は命を許され、あとは二条天皇の裁決待ちと決まった。こうなると、最悪でも官職剥奪はあるが命に関わる判決とはならない。先に藤原信頼への判決が下ったのか、先に藤原成親の裁決待ちが宣告された後に藤原信頼への判決が下ったのかはわからない。

 そしてもう一人、判決の下った貴族がいる。

 三種の神器のうち八尺瓊勾玉と天叢雲剣の依代の保管場所の鍵を持ち、八咫鏡の保管場所を知る源師仲である。八尺瓊勾玉と天叢雲剣の依代を安全な場所に保管したこと、八咫鏡も安全な場所に保管したことは評価された。しかし、その場所を教える条件が命の保証であることはかえって源師仲を不利にさせた。無罪とも有罪ともつかない不安定な状況下に置かれ判決は二条天皇の採決待ちとなったのである。

 無罪とも有罪ともつかないという点で源師仲と藤原成親とは同じと言えば同じだが、死罪を覚悟していた者と、無罪を確信していた者とが同じ心境でいられるわけはない。

 なお、三種の神器は全て無事であることが確認された。


 源義朝は子供らを連れて逃走した。

 藤原信頼と違って、最後まで源義朝と行動を共にする部下にも恵まれた逃走劇であった。

 と同時に、伊勢平氏の軍勢に追われる逃走劇でもあった。

 平氏の軍勢が近づくと、源義朝と行動を共にしていた武士が、一人、また一人と、平氏の軍勢の前に立ちはだかり時間稼ぎをする。立ちはだかった源義朝の部下を倒した頃にはもう源義朝とその子らの姿は視界にはなく、ただ足跡だけが残っている。それが何度も繰り返された。

 平氏の軍勢だけが源義朝を狙ったのではない。落武者狩りもまた源義朝をターゲットとした。ただし、藤原信頼と大きく違う点がある。それは、源義朝の一行は落武者狩り程度であれば簡単に倒せるだけの武力を持っていることである。平治物語には、比叡山延暦寺の僧兵が落武者狩りをしにきたとの記述もあるが、落武者狩りで被害を受けはしたものの、かえって僧兵側に多くの死者が出たことを記している。

 しかし、落武者狩りから源義朝を守るために立ちはだかった部下の中に命を落とす者もいた。しかも、その中には次男の源朝長までいた。戦いの末に傷つき動けなくなった次男に対し、源義朝は父である自分の手で最期を迎えさせた。これを契機として、源義朝はこれまで自分と行動をともにしてきた長男の源義平と三男の源頼朝に別行動をとらせるようになった。はぐれたとする史料もあるが、源義朝は意図して二人の子と別行動をとらせた可能性が高い。一団となって行動すればたしかに心強いが、一気に攻め込まれて一族全滅という未来を迎える可能性もある。そうでなくとも保元の乱の後で父と弟たちを自らの手で斬首しなければならなかった、すなわち清和源氏のトップを継承する資格を有する血筋の者が減っていたのが清和源氏だ。ここで源義朝が最優先ですべきは清和源氏の血を絶やさぬことであり、勢力挽回はこの最優先事項が為されたあとで考えるべき話である。源義平は関東地方での実績があり、源頼朝は実績こそ無いが熱田神宮の宮司の娘を母として生まれた身である。関東までたどり着ければ源義平は関東地方の軍事で巻き返しができるし、源頼朝が尾張にまでたどり着ければ熱田神宮を頼ることもできる。源義朝の命の終焉を迎えることがあろうと、清和源氏は源義平や源頼朝を通じて再興を果たせるのだ。


 平治元(一一五九)年一二月二九日のことであるというから、京都を脱出してから三日目のことである。

 源頼朝とはまた別の道を通って尾張国に入った源義朝は、尾張国内海荘の長田忠致のもとを訪ねた。長田忠致は正しくは平忠致というが、いちおう平氏の血筋であるとはいえ三代前から清和源氏に仕える武士であった。ただし、今回の戦闘に参加したわけではなく、京都で起こったニュースを尾張国で知ったという立場である。源義朝はこうした清和源氏に仕える各地の武士のもとを転々として関東地方に向かうつもりであったようである。

 長田忠致が裏切ったのは、源義朝がやってきた当日という説と、年明けの一月三日という説とがある。後者だとすれば源義朝はこの屋敷で年末年始を過ごしたこととなる。

 現場となったのは湯殿とされているが、湯殿の中なのか、湯殿への途中なのかはわからない。湯殿と言っても現在のように浴槽にお湯を溜めた風呂ではなくサウナであり、全裸になるわけではない。とは言え、武装を解いて薄着になることに違いはない。

 そのタイミングを狙われた。

 源義朝がどのような抵抗を見せたかはわからないが、源義朝は行動をともにした鎌田政家とともに自害をし、源義朝は尾張国内海荘で三七年間の生涯を終えたと伝えられている。

 その様子を長男源義平も三男源頼朝も知らない。

 源義朝の子として逃避行に同行したのは、長男義平、次男朝長、三男頼朝の三人だけであるが、源義朝の子として記録に残っているのは九名いる。残る六名はどうしたのか?

 源頼朝の同母弟の四男義門は早世したと伝わっているが、一方で、源義朝が内裏を占拠したときにはまだ存命であり、源義朝の逃避行に同行する前に亡くなった、あるいは同行中に亡くなったとする説もある。なお、源義門に関する記録はこれのみである。

 五男希義は源頼朝の同母弟であるが、母を亡くしたことから源頼朝と離れ、駿河国香貫(現在の静岡県沼津市)で母方の伯父の元で養育されていた。

 異母弟の六男範頼について平治元(一一五九)年時点の記録は無いが、遠江国池田宿でかなり裕福な暮らしをしていたことは想像できる。何しろ、後に後白河法皇の近臣となる藤原範季を養父として過ごしていたのだ。藤原範季は、源義朝と関係を持つ男児を手元に抱えておくことで清和源氏とコネクションを作ろうとしたのであろう。

 七男今若、八男乙若、九男牛若の三人の男児は、母である常盤御前のもとで暮らしている。年明けに常磐御前は息子たちを連れて行動を起こすこととなるが、この時点でどのようにしていたかはわからない。


 源義朝が尾張国に到着したのと同日の平治元(一一五九)年一二月二七日、今回の乱についての処遇が決まった。

 まずは議政官の面々。

 権中納言藤原信頼、既に亡くなっているため官職剥奪などの処遇はなし。在任中の死去として扱う。

 権中納言源師仲、官職剥奪。三種の神器の安全確保は評価するがその扱いについては不敬ではあり、また、自分の所有する土地を武闘訓練場として提供したことは官職剥奪の理由となるとされた。なお、官職剥奪以外の正式な罪刑は年明けに定める。

 参議藤原俊憲、藤原信頼の手によって官職剥奪の上で流罪となっていたが、この罪刑は現状のままとする。ただし、年明けに罪刑の見直しをする。

 また、議政官の一員ではないが正四位上越後守であった藤原成親については官職剥奪が決まった。

 これとは逆に、伊勢平氏の武士たちには功績が与えられた。

 平重盛、伊予守就任。

 平基盛、大和守就任。

 平宗盛、遠江守就任。

 平頼盛、三河守から尾張守に転身。

 藤原景綱、伊勢守就任。

 議政官だけを見渡せば一人として伊勢平氏の者はいない。しかし、この瞬間に伊勢平氏の知行国は八ヶ国を数えるようになり、もはや無視できぬ有力勢力となっていた。

 人々はこのときから、朝廷内で確固たる地位を築くようになった平清盛をはじめとする伊勢平氏の面々を「平家(へいけ)」と呼ぶようになった。藤原氏を藤家(とうけ)、菅原氏を菅家(かんけ)、大江氏を江家(ごうけ)と呼ぶのと同様、有力貴族の一つとして伊勢平氏のことを、いや、平家のことを見なすようになったのである。平を姓として生まれただけでは平家と見なされない。平を姓として生まれたかどうかではなく、平清盛と行動を共にするかどうかが平家たる基準なのだ。

 かつてであれば侍(さむらい)と一括りにされていた一族が今や貴族界において無視できぬ勢力となっている。この時代の人は侍の時代を迎えてしまったと感じ、とんでもない時代が始まってしまったとも考えたが、同時に一過性のものであるとも考えてもいた。現代人はこのときに侍の時代が始まったと考えている。侍の時代はこの時代の人達が考えたような一過性のものではなく、明治維新まで、さらには明治維新後もなお続くものとなるのだが、平治元(一一五九)年時点で七〇〇年以上未来まで見通してそのような考えを持つ人がいたとしたらそのほうがおかしい。


 貴族勢力としての平家が誕生する前から「侍」という日本語は存在していたし、武士という存在が認識されるようになる前から侍という日本語は存在していた。

 朝廷に仕える者は誰もが位階を持つ。使部、伴部、舎人などのように位階を持たずに朝廷に仕える者もいたが、そのような例外を除けば、朝廷に仕える者ならば必ず何かしらの位階を持つ。親王宣下を受けた皇族ならば一品から四品までの四段階に分かれている品位のいずれか、親王宣下を受けていない皇族と天皇から与えられた姓を持つ諸臣ならば正一位から少初位下まで三〇段階のいずれかの位階を持ち、位階を上げることで待遇を上げ、こなすことのできる官職を上げていく。三〇段階のうち上から一四番目の従五位下になると昇殿が許されて天皇に拝謁できる貴族となり、上から一五番目の正六位上から下は特例を除いて昇殿も許されず天皇に拝謁することも許されない。ちなみに、親王宣下を受けた皇族は品位の一番下の四品でも上から八番目の正四位下と同格と扱われるため、昇殿も許されるし天皇への拝謁も許されている。

 話を侍に戻すと、三〇段階の位階のうち、人生の大部分を正六位上から下で過ごし、最晩年にようやく従五位下に上がるような氏族のことを侍品(さむらいぼん)と呼び、そのような氏族の人のことを侍と呼ぶ。つまり、必ずしも武士を意味する言葉ではない。

 一般的な侍は、運が良ければ各地の国司を転々とでき、その功績が認められれば亡くなろうかというところでようやく従五位下として貴族の一員に加わることのできる家格の人のことであり、藤原氏のように生まれながらにして貴族入りが約束され、元服して官界にデビューすると同時に従五位下より上の位階が用意されるような生まれの人は、もとからして自分と同格だなどと考えていない。侍とは彼らにとって蔑みの言葉であり、その侍が貴族界に姿を見せたことは屈辱以外の何物でもなかった。

 しかも、その侍は武士として戦場を駆け巡り殺しあいをしている。貴族が下品なことと考え唾棄してきた血生臭い日々を過ごすのみならず、まさにその血生臭さが功績となって位階を上げ、貴族界に進出しているのであるから、二重の意味で屈辱極まりないことであった。

 侍である伊勢平氏が平家となって貴族界に進出していった一方、戦乱の敗者となった清和源氏に対する処遇は早々に決まった。官職剥奪の上での死罪、もしくは流罪である。生死を問わず探し出した者に相応の報償を与えるというのが平清盛の宣言であったが、それは平清盛の個人的な宣言ではなく正式な国策となった。

 死罪と流罪は本人がいないと宣告できないが、官職剥奪は当日中に可能である。

 一日で実に七二名の清和源氏が官職剥奪となった。

 もう一つ、自動的に定められたこと決まった。

 大内裏の一時的な放棄である。

 いかに大内裏が炎に包まれなかったとは言え、また、弓矢の傷はやむを得ぬこととして扱われたとは言え、血の染みついている大内裏での政務はこの時代の感覚ではあり得ないことである。しかも、藤原信頼をはじめとする犯罪者が内裏に入り込み、およそ半月にわたって泊まり込んで我が物顔で振る舞い、二条天皇と後白河上皇を追いやっていたのだから、こちらももっと許されざる事態である。ゆえに、大内裏を清め終わるまで大内裏の使用を停止するというのがこのとき決定となった。

 二条天皇は八条にある美福門院藤原得子の邸宅に移り、後白河上皇は平治元(一一五九)年時点では移転先未定であったものの、後に八条にある藤原顕長邸に移ることとなる。

 平安京は北に行けば行くほど貴族達の高級住宅街であり、八条となると平安京の南端に近いとさえ言える。周囲を見渡しても貴族の邸宅街どころか庶民の住宅地であり、道行く人も牛車に乗った貴族ではなく、歩いて、あるいは走り回っている庶民だ。この八条が政務の中心になるというのだから異例とするしかないが、この時代の人はそれをやむを得ぬこととして受け入れることとなった。

 公的にはこれが平治の乱の終結となる。

 平治の乱は、反乱を起こした首謀者である藤原信頼とその関係者、そして清和源氏が敗者であり、その他の者は全て勝者である。信西は犠牲者であり、皇族やその他の貴族は戦乱に巻き込まれた被害者である。伊勢平氏は、いや、平家はこの戦乱の功績によって権勢を掴み取るのに成功した勝者の中の勝者である。これが一般的な認識であり、かつ、公的な結果とされた。

 ところが、平治の乱を振り返ると、二条天皇親政とするか後白河上皇院政とするかの対立があり、そこに信西政権の是非があり、信西政権への反発が加わった結果、後白河上皇院政構築を目的としたクーデタが起こったのである。クーデタのスタートから藤原信頼の暴走があったことと、内裏に閉じ込められたこと、そして女装して脱出する羽目になったことから見逃されてはいるが、後白河上皇もまた、本来であれば当事者の一人であり、かつ、敗者の一人なはずである。しかし、公的には、後白河上皇は被害者の一人で、かつ、勝者の一人とされた。

 そう、公的には。


 年明けの平治二(一一六〇)年は前年末の平治の乱の影響で新年の宮中行事が取りやめになった。天慶年間の平将門と藤原純友の乱のときにも取りやめになった例があるので前例が皆無というわけではないが、二〇〇年以上遡らないと前例にたどり着かないとう異例事態である。なお、宮中行事の取りやめがあっても朝廷は機能しており、一月五日、源義朝死去の報告が非公式ながら京都に届いたことについて協議している。このとき、源義朝が尾張国で自ら死を選んだことと、次男の源朝長も亡くなったことがニュースとして届いたが、長男源義平と三男源頼朝の消息についてはニュースとなっていない。

 その翌日、一つの出来事が起こった。一月六日、後白河上皇が藤原顕長邸に御幸して桟敷で八条大路を見物していたところ、何者かが材木を外から打ちつけ視界を遮るという嫌がらせをしたというのである。

 八条大路で繰り広げられたイベントがどのようなものであったかの詳細は伝わっていないが、平治の乱の影響で正月の恒例行事が次々と中止になっているところで執り行われる数少ないイベントということで、楽しみにしている人は多かった。それは庶民だけでなく、八条に避難してきた皇族や多くの貴族にとって、八条という庶民街の只中で開催されるために今まで目にすることのなかった、すなわち、生まれてはじめて接するという期待感もあった。また後白河上皇は以前から今様にハマった人であることは知られており、庶民の娯楽に触れる機会を逃す人ではなかった。一月六日を選んで藤原顕長の屋敷に御幸したのもこのイベントのためであったのだ。

 その楽しみを奪われた。

 奪ったのは藤原経宗と藤原惟方の二人であるという。二人とも信西打倒は訴えてきた人物であるが、その政治主張は二条天皇親政であって後白河上皇院政ではない。そして、いかに公的には無関係であると言っても後白河上皇は藤原信頼の背後でクーデタを企てた存在であると、すなわち、平治の乱の敗者であると認識していた。この時代の貴族にとって戦乱の勝者とは保元の乱の勝者のイメージしか、つまり、敗者は全てを失うことになろうと勝者は全てを手にする権利があるというイメージしかない。しかも、保元の乱における敗者には他ならぬ上皇が含まれている。讃岐国に流された崇徳上皇だ。このイメージを持ったまま自分が戦乱の勝者であると考えるなら、次に罪が問われることとなるのは後白河上皇である。

 普通に考えれば不敬であるが、藤原経宗も、藤原惟方も、そのようには考えていない。後世の歴史書である愚管抄には、二人が何かにつけて後白河上皇に圧力を掛け、院に権力は渡さず天皇親政であるべきだと述べてもいたとある。忘れてはならないのは、この二人もまた、信西打倒のために後白河上皇のもとに集っていた面々であり、平治の乱においてもそれなりの役割を果たしていたことである。藤原信頼だけが悪役であり、他は全て被害者であるというシナリオには無理がある。真相を突き詰めていけば藤原経宗の名も藤原惟方の名も浮かんでくるのだ。

 そのようにさせない方法として二人が考えたのが、後白河上皇に崇徳上皇と同じ運命を迎えてもらうことである。平治の乱の裏には他ならぬ後白河上皇がいたのだと世の中に訴え、後白河上皇が全ての責任を背負えば自分たちは無罪放免となるだけでなく、二条天皇親政が実現することで自分たちの時代の構築も可能となる。


 後白河上皇もそれがわかっていたが、わかっていることと、二人の脅しに乗ることとは同じではない。

 ただ、今の後白河上皇にはどうにかするための力が無かった。

 育ての父であった信西は二条天皇の元に行き、平治の乱で真っ先に殺害された。

 忠実な臣下であった藤原信頼は後白河上皇ですら制御できない暴走を起こし、最後は自滅した。

 武力を期待できた清和源氏は藤原信頼と運命をともにし、今ではその影すら見えない。

 藤原経宗は権大納言であり、藤原惟方は参議である。現在の日本の国会議員に存在する不逮捕特権がこの時代の貴族に存在するわけではないが、警察権力を動員して藤原経宗と藤原惟方を逮捕することは絶対に不可能であった。何しろ藤原惟方が検非違使別当としてこの時代の警察権力のトップを担っているからである。

 ゆえに、この二人をどうにかするには警察権力ではなくむき出しの武力が必要となる。平治の乱で示されたように、反乱だの謀叛だのといった理由で武官に武力行使を命じることは可能ではある。その上で警察権力を飛び越えて二人を処罰することは、簡単とは言えないにせよ不可能な話ではない。ただし、平治二(一一六〇)年一月時点でそうした武力は平家しかない。

 愚管抄によればはこのとき、後白河上皇が平清盛に対して自分の院政ができるかどうかは藤原経宗と藤原惟方の二人にかかっていると述べたという。二人の政治家としての能力を自分の院政で活かしてもらうことを考えたのではない。この二人の追放を平清盛に依頼したのである。後白河上皇が平清盛にこの話をしたとき、藤原忠通もここにいたという。関白を退いたとはいえ、自分の息子から摂政関白の座を奪い取ろうとする者がいるとなると穏やかでいられるはずはなく、藤原経宗の失脚は歓迎する話であった。

 ただし、平清盛はこのとき、平家の全勢力をあげて逃走中の清和源氏を捕らえることを最優先としており、平治の乱の再現となりかねない藤原経宗と藤原惟方の追放についてはただちに動けてはいない。


 検非違使たちは源義朝の首であることを確認し、平安京内を練り歩いた後に左獄門の樗の木に掛けた。愚管抄によると、このとき一つの落首(らくしゅ)、すなわし、風刺を伴った和歌が掲げられていたという。

 下(シモ)ツケハ 木(き)ノ上(カミ)ニコソ ナリニケレ ヨシトモミヘヌ カケツカサ哉(カナ)

 下ツケは源義朝のこと。キノカミは紀伊守と木の上との掛詞(かけことば)。ヨシトモは源義朝と「良しとも」との掛詞、カケツカサは国司を兼ねることと首を吊される、すなわち掛けられることの掛詞。これほどの掛詞をちりばめた落首は無いと絶賛されたと言うが、絶賛されたと記録を残しているのは源義朝の首を掛けた側であり、反発もまた大きかった。朝廷は重罪人への当然の処遇であると訴えたが、その訴えはむしろ反発を招いた。藤原信頼への憎しみは強かった京都の人たちではあるが、源義朝のこの運命には同情する者が多く、残酷さへの嫌悪感も強かったのである。

 その上、前日の藤原経宗と藤原惟方の二人による後白河上皇への無礼がある。前日のニュースを面白おかしく捉える人であっても、上皇に対して無礼を働く貴族がいて、そのうちの一人は摂政関白も狙える地位にあり、もう一人は警察権力を手にしているとなると、これから迎えることになる時代に対しては希望ではなく絶望のほうが強くなる。源義朝の死去と晒し首という運命は、一人の武士の迎えた悲劇としてだけでなく、これからの時代への絶望も思い出させることとなったのである。

 そして何より、平治の乱そのものが思い出したくもない悪夢へとなっていた。亡き藤原信頼を罵倒する声ならば聞こえるが、信西も、源義朝も、時代に巻き込まれた被害者であり、晒し首は犯罪者への当然の処遇という感情ではなく晒し首を命じた者への憎しみの感情を呼び起こすこととなったのである。この感情は藤原経宗と藤原惟方の二人の手による無礼も加わっていた。後白河上皇を支持するかしないかで言えば支持はできない。だが、支持できない相手になら何をしてもいいというのは同感を得やすい行動ではない。

 時代の空気を察した朝廷は、一月一〇日、永暦へと改元すると発表した。前年に改元されたばかりの年号である平治は通算一年に満たずに時代を終えたこととなるが、この改元は誰もが当然のことと捉えた。平治の乱のことは忘れ去りたいというのがこの時代の人たちの偽らざる思いであったのだ。


 源義朝死去のニュースが平安京に正式に届いたのは、未確認情報としての第一報が届いてから二日後の平治二(一一六〇)年一月七日のことである。前日の一月六日は後白河上皇への無礼がニュースとなっていたが、源義朝死去のニュースは前日のニュースを完全に打ち消した。しかも、未確認情報であった第一報と異なり、一月七日のニュースは確実に源義朝が亡くなったことを伝える証拠を伴っていた。

 長田忠宗と息子の長田景宗が源義朝の首とともに上洛したのだ。

 父と別行動をしていた源義朝の長男の源義平は東山道を通って関東地方に向かう予定であったが、関東地方に向かうどころか、重病に冒され近江国石山寺の傍らに安静にしていた。どのような病気かは不明であるが、一〇日以上は病床に伏したまま動けずにいたのであるから軽い病気ではない。また、この時代は現在と比べものにならない低さの医療水準であるのに加え、季節は真冬。しかも敗走中の身となると、清潔な場所で適切な栄養を得ながらの療養は期待できず、病状からの回復どころか、病状はむしろ悪化する一方であったはずである。

 自らの病状を悟った源義平は自害を考えたようであるが、そこで思いとどまっている。と言っても生きることを選んだのではなく、平氏の誰かを道連れにすることを選んだのだ。自分の命は残り少ないであろうが、ただ死ぬのではなく、最優先で考えるは平清盛を、平清盛が駄目なら平氏の誰かと戦って、倒して、その上で死を迎えようとしたのである。

 ただ、その思いは叶わなかった。

 病床の源義平が発見され、六波羅へと連行されたのだ。

 六波羅で迎えることとなった源義平の運命は、祖父と同じく斬首。

 源義平は自らの死を受け入れたが、道連れにする思いは消すことがなかった。

 永暦元(一一六〇)年一月二一日、六条河原にて源義平斬首。享年二十。最後の言葉は、悪霊となり雷となって平清盛をはじめとする平氏を皆殺しにしてやるというものであった。その呪いの言葉が本当かどうかはわからないが、源義平を斬首した武士は後日、落雷に遭って亡くなったという言い伝えがある。

 それにしても、源義平の人生は不可解な点がある。次男朝長も三男頼朝も公的地位を持っていたのに、長男義平はどういうわけか公的地位と全く無縁の生涯であった。母の身分の違いを考えれば、熱田神宮の宮司の娘を母とする三男頼朝が公的地位を獲得したことの説明にはなるが、それだと次男朝長も公的地位を獲得していたことの説明にはならない。

 久寿二(一一五五)年の大蔵合戦で父の源義朝とともに武蔵国比企郡にあった源義賢の居館である大蔵館を急襲して武勇の評判を獲得してから、悪源太、すなわち、恐るべき源氏の長男と呼ばれるようになり、歴史資料にも悪源太義平、あるいは単に悪源太とだけ記されるようになったのが源義平である。通常は当人の官職、たとえば源義朝の場合は左馬頭義朝、あるいは左馬頭と記されるものであるが、官職を持たない源義平は官職の代わりの語として悪源太が選ばれた。内裏襲撃直後に藤原信頼から官職を手に入れるチャンスはあったのだが、そのときも官職を求めようとはしていない。

 官職への野望を持っていなかったのか、あるいは、自分に相応しい官職はもっと上であり、小さな官職には興味を示さなかったということなのだろうか。


 まさに混迷の最中にある永暦元(一一六〇)年一月二六日、二条天皇が想像だにせぬ発表をした。太皇太后藤原多子を二条天皇の後宮に迎え入れたのである。太皇太后とは言え藤原多子はまだ二一歳。年齢差だけを考えれば一八歳の二条天皇の後宮に迎え入れられることはおかしな話ではない。だが、神武天皇まで遡っても皇后であった女性が他の天皇の后となった例は無く、現在までの歴史を見ても藤原多子が最後。皇后でなかったが他の天皇の后であったという女性を探せば孝元天皇妃であった伊香色謎命(いかがしこめのみこと)が開化天皇の皇后になったという日本書紀の記録はあるが、孝元天皇も開化天皇も欠史八代として扱われている天皇である。前例絶対の時代に、ここまで遡らなければ前例を探し出せないことをするというのは異例としか言いようがない。

 もっとも、永暦元(一一六〇)年一月時点で予期されていた今後の展開を考えれば二条天皇の行動は理解できなくもない。藤原多子の背景には美福門院藤原得子がいるだけでなく、藤原多子を迎え入れることで少なくとも藤原経宗と藤原惟方の二名をはじめとする二条天皇親政を訴える勢力を引き入れることができるのだ。さらに、藤原多子の養父は亡き藤原頼長であるが、藤原多子の実父は権大納言藤原公能だ。議政官に楔を打ち込む意味でも藤原多子を迎え入れることは二条天皇の勢力構築に大きな意味があった。特に、実父である後白河上皇との関係が父と子の関係でなく政治の主導権争いの相手へと変わってきていること、その上での後白河上皇との対決を考えたとき、藤原多子を迎え入れることで二条天皇が構築できる勢力は無視できないものがあった。

 藤原多子は自分がこのような道具扱いされたことを嘆いたが、二条天皇は三歳上の藤原多子を寵愛した。ただし、皇后とも中宮ともさせていない。さすがに叔父近衛天皇の皇后であった女性を自分の皇后や中宮として招き入れるのは許されなかったとすべきであろう。



 藤原多子の再入内が注目されていた頃、源頼朝がどのように身を潜めていたのかを示す資料はない。

 その代わり、源頼朝の同母弟で、源義朝の五男である源希義の動静についての記録なら一つだけある。駿河国香貫で母方の伯父の元で暮らしていた源希義は、未だ元服も迎えていない八歳という若さで京都へと連行されていたのである。京都へと連行されたのは平治元(一一五九)年のことなのか、年が変わってからなのかは不明であるが、少なくとも永暦元(一一六〇)年二月の時点では京都にいたことが判明している。先に、母を亡くした源希義は駿河国の伯父のもとにいたと記したが、源希義が駿河に向かったのは母が亡くなったからという説と平治の乱が契機であるとの説とがあり、そのどちらも平治二(一一六〇)年一月の時点では駿河国にいたことでは共通している。つまり、およそ一ヶ月かけて駿河国から京都へと向かっている。

 源頼朝の動静が明らかになるのは永暦元(一一六〇)年二月九日になってからであり、そこで源頼朝は弟と再会した。二人とも幼い少年であり、源頼朝は現在の学齢で言うと中学一年生、源希義は小学三年生である。この年代の子でありながら、二人ともこれから迎えることになるであろう運命を覚悟させられていたのだ。

 逃走中のところを見つかり六波羅へと連行された源頼朝であるが、落武者狩りとならなかったのは運が良かったとするのが平治物語をはじめとする史料での扱われ方である。だが、私は平清盛の命令での生け捕りであったと考えている。後述するが、平清盛の立場で考えると、源頼朝を斬首するよりも生かしておいたほうは平家にとって得策であったからである。

 源頼朝を捕らえて六波羅へ連行したのは尾張国の郎党弥平兵衛尉宗清であるという。弥平宗清は慈悲深い人であり、源頼朝を犯罪者として六波羅へと連行するのではなく、源頼朝を客人としてもてなしつつ六波羅へと赴いたと平治物語は記す。ただし、慈悲深い人だという平治物語の評価をそのまま受け入れるには躊躇する。と言うのも、源頼朝とともに六波羅に向かったのだけではなく、埋葬されていたところを掘り返された源朝長の首も持参しているのである。首を切り落としたのは源義朝であって弥平宗清ではないのだが、亡き次兄の首とともに京都まで同行させることに疑念を持つのは現代人の感覚だからなのだろうか、それとも、戦場に生きる人にとっては当然のことなのであろうか、慈悲深い人という評判にはどうしても違和感を受ける。

 京都に到着した源頼朝が弟とともに目の当たりにしたのは、亡き次兄の首が検非違使に渡され、次兄の首が晒し物になるまでの過程、そして、父と長兄の首もまた晒し物となっている光景であった。

 そして、ここで問題が起こった。平治の乱の戦闘状態は終わったと公式に宣言され、改元まで済ませている。つまり、犯罪者として捜索を受けていた人物が逮捕されたとしても、逮捕後の処遇は戦場で戦った武人ではなく朝廷が決めることとなるのだ。

 源頼朝は、法に従えば斬首である。平治の乱時点で右兵衛権佐という公職を手にしていたのだから斬首以外の判決はありえない。とはいうものの、六波羅へと連行されてきた時点ではまだ一三歳の少年である。このような少年も斬首すべきなのかという声が広まっていた。その一方で、武装して戦線に参加したのだから源頼朝も父と兄と同じ運命を迎えさせるべきという声も挙がっていた。

 平清盛の継母である池禅尼が源頼朝の死罪撤回となるまでハンガーストライキに入ったというエピソードは有名であるが、死罪を認めないとする意見は、池禅尼一人だけが述べていたのではない。平安京内外の多くの人が源頼朝の命まで奪うべきでは無いと考え、言論の自由どころか政権批判で有罪になる時代でありながら、多くの庶民が公然と話すようになっていたのである。

 朝廷にまで届いていた世論に対し、平治の乱の鎮圧を命じられた平清盛の意向に沿うとした上で、判決は朝廷が下すことが公表された。ただし、時期は未定である。

 なお、源頼朝が六波羅に連行されてきた翌日、常磐御前が三人の子を連れて京都を脱出している。常磐御前の子も源義朝の子であるがまだ幼く、末っ子の牛若に至っては生後一年も経過してはいない。このとき、源頼朝が義母である常磐御前と会ったか、また、異母弟たちと会ったかは不明である。

 源頼朝への判決が未だ決まらぬ永暦元(一一六〇)年二月二〇日、平清盛から二人の郎等が派遣された。藤原経宗と藤原惟方の二人を逮捕するためである。

 これがかなり異例な逮捕劇であった。

 何しろ内裏に乗り込んで二人を逮捕しただけでなく、後白河上皇の前につきだして二人に拷問を加えたのだ。このことを記録する愚管抄では、後白河上皇の前に突き出された二人に対して拷問を加えたこと、その悲鳴が内裏に響き渡ったことは書き記せても、拷問の様子はあまりにも残酷で書き記すこともできないと、作者である慈円自身が愚管抄の中で筆の運びを止めているほどである。

 これは一月六日の事件だけを取り上げ、不敬として逮捕したのではない。平治の乱の関係者の処分の一環として逮捕され拷問となったのだ。

 二条天皇親政を求める二人にとって後白河上皇は目障りな存在であると同時に、後白河上皇にとっても二人が目障りな存在であった。いや、後白河上皇の側のほうがより強く目障りを感じていた。その上、目障りな存在を排除し、かつ、平治の乱の真犯人をこの二人に押しつけるという考えも存在した。

 しかも、藤原経宗と藤原惟方の二人がいなくなることで得をする人間は後白河上皇一人ではない。前関白藤原忠通をはじめとする多くの貴族が、藤原経宗と藤原惟方の二人がいなくなることをむしろ歓迎していた。

 二条天皇にとっては、前例を日本書紀にまで求めて新しく入内させた藤原多子と関係のある二人がいなくなることは大打撃であったが、二条天皇にこの二人の逮捕を止めることはできなかった。平家物語によれば、藤原多子が近衛天皇の死に際して出家しなかったために二条天皇のもとに入内することとなった運命を嘆いたというが、もしかしたら、その嘆きの和歌が詠まれたのはこのときかもしれない。

 拷問は彼らの目の前で繰り広げられた。眉をひそめる者はいたが助け出そうとする者はいなかった。

 そして、彼らは覚悟した。

 新しく政界に加わった平家という新興政治勢力は、これまでの貴族社会の常識ではなく武家社会の道理で動く存在であり、命令一つで簡単に恐怖政治をこなす集団なのだということを。そして、後白河上皇はこうした政治勢力である平家と手を組むことを選んだのだということを。

 こうした未来を迎えたとき、生き残る方法は一つしか無い。

 自分も命令に従うことだ。後白河上皇に従い、平家に逆らわないことが生き残る方法だ。