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平家起つ 4.平治の乱の戦後処理と二条天皇親政

2021.06.01 10:30

 藤原経宗と藤原惟方の二人の貴族は逮捕されたが、裁判はまだ始まっていない。

 その一方で別の判決が下った。

 信西の息子達に対する追放命令が白紙撤回されたのである。

 信西の息子達を追放刑に処したのは藤原信頼であるが、その命令は藤原信頼の死後も有効であり続けていた。信西の息子達は追放解除となったのではなく、追放命令そのものが間違っていたと宣告され、ただちに帰京するよう命じられた。

 藤原信頼の下した追放命令が平治元(一一五九)年一二月二七日にも解除されなかったのは藤原経宗と藤原惟方の二人が藤原信頼の死後も命令を遂行していたからであるとし、藤原経宗と藤原惟方の二人が逮捕された以上、藤原信頼の命令は無効となるというロジックである。

 後白河上皇の藤原経宗と藤原惟方の二人に対する憎しみがいかに強かったとは言え、内裏に悲鳴が響き渡るほどの拷問は関係者に対する密かな反発を生む。拷問を見せつけて恐怖を植え付けることで、後白河上皇や平家の面々に対し恐怖から服従する人を増やすことはあっても、敬意を持って服従する人を増やすことはあり得ない。そのための対策の一つが、拷問にあった二人がいかに悪人であったかを宣伝することである。拷問ではなく正義の鉄槌ということにし、二人が逮捕され拷問を受けたことは正しかったのだとする考えを広めることである。その中の一つが、信西が惨殺されたことを思い出させることと、信西の息子達がまだ追放の身に遭っていることを知らしめることである。

 逮捕された二人はどのような思いで信西の息子達の追放命令撤回を聞いたであろうか。

 あるいは、それどころでは無かったのかもしれない。信西が何をされたか、藤原信頼がどうなったか、そして、清和源氏の面々がどのような最期を迎えたかを二人とも知っているのだから。


 永暦元(一一六〇)年二月二八日、二条天皇の親政が終了し、後白河上皇の院政が始まった。皮肉にも、平治の乱が失敗したことで後白河上皇の院政が成立したのである。平治の乱の責任を内乱ではなく信西殺害へと狭め、その上で信西殺害後の一時的な人事が恒久的な人事になったことを名目として院政無き政権の機能不全を唱え、後白河上皇による院政の正当性を獲得したのだ。

 後白河上皇院政の確立に大きく寄与したのは、何と言っても平家の武力である。権大納言藤原経宗と参議藤原惟方を内裏において逮捕し拷問にかけるという剥き出しの武力は恐怖以外の何物でもない。しかも、平家に対抗しうる武力を持っていた清和源氏は今や風前の灯火と化しており、対抗する武力の発動を期待するどころか清和源氏存続の危機※にまでなっている。

 後白河上皇に従わなければ平家の刃が自分に向けられる。命をつなぎとめたければ、後白河上皇に逆らわず、平家にも逆らわないという姿勢でいるしかないとあれば、後白河上皇が求める院政の構築も可能だ。

 後白河上皇は白河法皇や鳥羽法皇と同様に朝廷に対して意見を述べた。たしかに後白河上皇の意見は「こういう人事にしたらどうだろう」という意見であって決定ではない。だが、平家の武力が控えている状況の意見は、逆らおうものなら命にかかわる意見になる。政治生命の比喩ではなく、文字通り自分の、さらには自分の親族の生命が危険にさらされる。これでは事実上の命令だ。

 まず、権大納言藤原経宗と参議藤原惟方の両名が解官となった。代わりに、関白右大臣藤原基実の弟である権中納言藤原基房が中納言を飛び越えて権大納言に昇格、また、参議の空席については藤原公保が新しく議政官入りすることとなった。参議藤原惟方が兼職としていた検非違使別当は権中納言藤原実定が就くこととなった。

 その上で、平治の乱の犯罪者に対する判決を三月一一日に下すと発表になり、平治の乱に対する処罰であるため、鎮圧の責任者である平清盛も呼ばれることが決まった。この時点で平清盛はまだ議政官の一員ではないが、重要議案の審議の場に関係者が議決権を有さないオブザーバーとして呼ばれることは普通にある。もっとも、まさに武力を振るっている当事者である。判決は朝廷が下すが、清和源氏のニ人の兄弟については平清盛の意向に沿った判決とすることが改めて確認された。

 対象となったのは四名である。

 前権大納言藤原経宗。

 前参議藤原惟方。

 源義朝の五男で、平治の乱には参加していなかった源希義。

 そしてもっとも去就が注目されたのが、源義朝の三男、源頼朝。


 誰もが固唾を飲んで迎えた永暦元(一一六〇)年三月一一日、四名への判決が公表された。結論から言うと、四名とも監視付きの流罪。死罪となった者は一人もいない。

 前権大納言藤原経宗は阿波国への配流が宣告された。

 前参議藤原惟方は長門国への配流が宣告された。

 源義朝の五男の源希義は土佐国への配流が宣告された。

 源義朝の四男の源頼朝は伊豆国への配流が宣告された。

 多くの人が四人とも死罪になると思っていた。死罪とならない者が何名かはいるかもしれないと思っていても、源頼朝だけは直接戦闘に参加していたことから、最大三名は流罪で済まされるものの源頼朝は死罪とさせられると思われていただけに、この罪刑は意外とするしかなかった。

 しかも、朝廷が平清盛の意向を無視して流罪としたのではなく、平清盛の意向に沿った結果として源頼朝が死罪ではなく流罪となったと公表され、意外感はさらに増した。

 平清盛はなぜ、源頼朝を斬首しなかったのか。

 平清盛には三つの理由から源頼朝を死罪とする考えが最初から無かったのだと私は考える。

 一つ目の理由であるが、源義朝が晒し首になったときに起こるであろう反発がある。平治の乱そのものへの庶民の反発はあったが、その反発が向けられていたのは藤原信頼であり、藤原信頼だけが憎しみの対象であったのだ。源義朝が迎えた最期は運命に翻弄された結果だと庶民の多くは考え、晒し首とされたことに多くの庶民が涙を見せたのである。それでも源義朝は実際に軍勢を動かして多くの命を戦場で奪っていたのだから死を以て罪を償うとしても感情はどうあれ理解ならばできる話であるが、源義朝の子供達は父の命令に従って末席に名を連ねただけであり感情も理解もできない話になる。特に、何もわからぬまま武装を命じられ、戦場に連れ出され、逃避行の運命を迎え、父と兄二人の死という現実を迎え、次兄の墓が掘り返され、次兄の首と同行させられての六波羅連行となった源頼朝は、まだ一三歳の少年である。ここまでの悲劇を強要された少年まで死罪とさせるのは、ただでさえくすぶっている反発を一気に爆発させることとなる。

 しかも、平清盛の継母で、平忠盛の正妻でもある池禅尼が助命嘆願をしていることは周知の事実であった。平清盛と二人きりのところで誰にも知られないように源頼朝の命を救って欲しいと願い出たのではなく、平安京内外の全ての人に向けて、源頼朝の助命嘆願を公表したのである。池禅尼は平忠盛亡きあとも平家において無視できぬ影響力を持っており、ここで源頼朝を死罪とさせたら平家全体が池禅尼派と平清盛派とに分裂する恐れすらあった。さらに、池禅尼の後ろには上西門院統子内親王がいる。上西門院統子内親王自身は明言していないものの、彼女もまた源頼朝の助命嘆願に賛同する一人であったため、源頼朝への死罪判決は平家分裂に加えて皇室との関係悪化につながりかねなかった。

 ここに、平清盛ら平家が、前権大納言藤原経宗と前参議藤原惟方を逮捕したときのやり口への不満が加わる。いかに二人を悪役として扱おうと、内裏に乗り込んで逮捕し、後白河上皇や他の貴族の見ている前で拷問を加えるというのは嫌悪感と怒りを呼び起こすに充分だ。恐怖ゆえ黙り込まざるを得ないものの、池禅尼、そして、上西門院統子内親王といった人達も批判の声を上げるとなったら話は変わる。正々堂々と平家を、そして平清盛を批判することが可能となるのだ。

 二つ目の理由であるが、源頼朝と源希義の二人は熱田神宮の宮司の娘を母親として生まれていることである。本来なら二人の間にもう一人、源義朝の四男である源義門がいるはずなのだが、幼くして亡くなったとする説と、少なくとも平治の乱時点では存命であったとする説があるものの、どちらの説も永暦元(一一六〇)年三月一一日時点で源義門は既に亡くなっていたとすることで共通している。ゆえに、ここにいるのは三男の源頼朝と五男の源希義の二人となる。

 ここで兄弟のどちらかに死罪を命じたら熱田神宮が平家の敵になること間違いない。ただでさえ濃尾平野において無視できぬ存在である熱田神宮が敵に回ってしまったら、この時代の穀倉地帯である濃尾平野からの収穫が平安京に届かなくなってしまうだけでなく、濃尾平野の閉鎖によって東海道も東山道も寸断されてしまう。交通が止まるとか流通が止まるとかで済む話ではなく、平安京に飢饉が訪れるレベルの話だ。政界で無視できぬ勢力となった平家が首都を飢饉に追い込んだとあっては、平家が勢力を伸ばすどころか平家の未来を閉ざす結果になる。

 おまけに、平家の重要な根拠地の一つである伊勢国は尾張国の隣国であり、源頼朝殺害の報復として熱田神宮が動き出したら伊勢国の平家の勢力もまた大打撃を受けることとなる。純然たる戦力だけを見れば、平家のとっての熱田神宮は、真正面から向かい合って戦うこととなったら勝てなくはない相手であるが、余裕で勝利できるほどの相手でもない。しかも、この戦いは、平家が全面降伏する以外に永遠に終わることのない戦いである。

 どういうことか?

 熱田神宮は何があろうと絶対に取り潰せないのだ。三種の神器の一つである天叢雲剣は、内裏にあるのは依代(よりしろ)であり、実際には熱田神宮の御神体となっている。依代ですら厳重警備を求められるのであるから、天叢雲剣が熱田神宮の御神体となっていることを考えたとき、熱田神宮を取り潰すのは皇室を取り潰すに等しい愚行となる。平家が取り潰されることはあっても、熱田神宮が取り潰されることは断じてありえない。

 そして三番目の理由、これがいちばん大きな理由であるが、源頼朝が生きている限り、清和源氏のトップは源頼朝となるのだ。

 平清盛は源頼朝と面識がある。いかに幼いとは言え、源頼朝がどのような少年であるかを平清盛は知っているし、調査させてどのような人物であるか調べてもいる。

 その上で平清盛はこう考えた。

 源頼朝は無能だと。

 一人の武士としても、軍勢を指揮する武将としても、源頼朝は無能であると。

 馬を乗りこなせるとは言いがたい。弓矢が巧みであるとは言いがたい。近接戦闘で刀を自由自在に操って戦えるとは言いがたい。軍勢を指揮するのも下手くそで、清和源氏とその家臣ならいざ知らず、この人がトップに立って進軍する軍勢に喜んで従おうとする武士はいないだろうというのが平清盛の感想だ。

 かといって、清和源氏の中でトップ交替の動きが働いて源頼朝を追い落とすことは考えづらい。保元の乱で清和源氏のトップになれそうな人材がことごとく斬首となり、平治の乱において源義朝、源義平、源朝長の三人が命を落とした。こうなると、源頼朝しか清和源氏を率いる資格を持つ者がいなくなる。源希義をはじめとする源頼朝の弟が成長して元服を迎えたとしても、源頼朝に代わって清和源氏のトップに立つときの来る可能性はきわめて低い。清和源氏衰退の原因となった平治の乱でただ一人生き残った清和源氏の重要人物である以上、源頼朝の弟がいかに優秀な人物に育ったとしても、清和源氏の家臣達が源頼朝のもとに集うのは目に見えている。平治の乱で失った清和源氏の勢力を取り戻そうとするとき、平治の乱のただ一人の生き残りである源頼朝はわかりやすいシンボルとなるのだから。

 また、これは源希義にも言えることだが、源頼朝は他の兄弟たちと違い、母系が熱田神宮とつながる貴種の生まれである。父方だけでなく母方もまた一目置かれる血筋のもとに生まれた源頼朝は、本人が望むと望まざるとに関係なく清和源氏のトップとして推される宿命を持っている。清和源氏にしてみれば、熱田神宮ともつながっている自分たちのトップというのは、文句なしに結集できる実にわかりやすいトップのあり方である。実力によるトップ争いとなると清和源氏の中で派閥争いが繰り広げられることとなるが、血筋によるトップ争いであれば派閥争いも起こりようがない。善かれ悪しかれ世襲が消えてなくならないのは、世襲が生み出す教育効果もさることながら、派閥争いの芽を摘みとることのメリットの大きさもある。

 いかに清和源氏に対してダメージを与えたところで、清和源氏がこの世から一人残らず抹殺できるわけではない。現在は大打撃を受けているが、やがていつかは清和源氏が再び力を付けて平家の前に登場するのはわかりきっている。そのとき、どうすれば清和源氏を弱くできるか?

 その答えが源頼朝を生かすことである。源頼朝は生きている限り清和源氏のトップであり続けなければならず、源頼朝が生きている限り清和源氏はまともに軍勢の指揮もなされない集団となる。この時代の流刑の規定では、伊豆国への流罪は死罪に次ぐ二番目の刑罰であった。ただし、清和源氏の本拠地である相模国鎌倉と近い。すなわち、何かあれば清和源氏の総力を結集させることも可能だ。その総力を挙げた清和源氏の軍勢が弱々しい総大将に率いられるとしたら、清和源氏の軍勢は平家の軍勢の前に簡単に敗れ去る。

 源頼朝を生かすという判断をすることによって、平清盛は、慈悲の心を持った政治家であるという評価と、庶民の反発の回避と、池禅尼との対立による平家分裂の危機の回避と、上西門院統子内親王との対立による皇室との関係悪化の回避と、熱田神宮の反発の回避と、東海道と東山道の流通の保全と、根拠地の一つである伊勢の安定と、平家に勝てない弱い清和源氏を手に入れることができる。源頼朝に死を命じるというのはこれらを全て失うことを意味するのに、どうして源頼朝の死を命じる必要があろうか?

 もっとも、一人の武士としても、軍勢を指揮する武将としても源頼朝は無能であると平清盛は見抜いていたが、平清盛は源頼朝の持つ最大の才能に気づかなかったと見える。

 その才能とは、政治家としての才能。

 源頼朝はたしかに、一人の武士としての才能も、軍勢を指揮する武将としての才能も持ち合わせていなかった。だが、政治家としての才能は持ち合わせていた。それも、平清盛以上に持ち合わせていた。戦争において、後方から前線に対して指示を送り込む政治家の姿は、後方の安全な場所からの指図としてあまり美しいとは言えないが、それでもその役割は必要となることがある。個々の戦場でどのように勝利を掴むかを考えるのではなく、地図全体を見渡してどこの戦場で勝利を収めることによって戦争そのものの勝利を手にするかを考えるのは政治家としての才能が求められる。また、人員の準備や派遣、食料や武具の準備や輸送、そして情報の収集と伝達も戦争においても後方の存在は無視できるものではない。

 源頼朝が得意としたのはこれだった。源頼朝は伊豆において監視された上での日々を過ごすこととなり、伊豆における源頼朝の情報は逐次平清盛の元に送られる暮らしとなったのだが、のちに述べるように情報収集という視点に立つと、源頼朝のほうが京都の情報を集めていたことが判明する。

 さらに政治には戦争以外の状況も求められる、というより、それこそが政治家の本業である。政治家に求められるのは庶民生活の目に見えた向上のみであり、政治的意見の相違とは、庶民生活の目に見えた向上をどのように実現させるかという方法の違いである。戦争における指揮、より正確に言えば喫緊の課題が発生したときに即座に適切な指示を出すことというのは、政治をこなす上で身につけておかなければならない多くの資質のうちの一つであり、戦争における指揮官とは、政治家としての資質の発揮の一側面である。優秀な政治家は、指揮官としての資質を必ず身につけているものである。

 この点で、源頼朝は平清盛をはるかに上回っていた。

 何がどのように上回っていたかは、両者がそれぞれ政治家として権勢を手に入れたときに記すこととなる。


 永暦元(一一六〇)年三月二〇日、源頼朝が伊豆国へ、源希義が土佐国へと旅立った。

 史料には永暦元(一一六〇)年三月の出来事であると書いてあるのみで三月の何日のことなのかは不明であるが、源頼朝と源希義の二人が離れ離れにさせられた上で流罪となったことを知り運命を決めた女性が一人いた。源義朝との間に三人の子をもうけていた常磐御前である。彼女は自分の三人の子を連れて大和龍門に逃れていたが、いつ平家の者に見つかるかわからない日々を過ごしていた。見つかったら我が子が殺されてしまうとなれば何としてでも逃げ続けようとするのは親として当たり前のことと言えよう。

 ところが、平治の乱に武装して参加した源頼朝ですら死罪とならずに流罪で済んだということは、平家への投降が必ずしも命の危険とはならないことを意味する。命の危険だけで考えれば、逃避行を続けている現在のほうが我が子の命を考えると危険な日々なのだ。

 常磐御前はかつて仕えていた藤原呈子の邸宅に足を運び、三人の子の助命嘆願を求めた。藤原呈子経由で六波羅へ連絡が飛び、六波羅からは母子ともに出頭するよう指示が届いた。常磐御前とその子らは、逃避行のせいで汚れ、あちこち破れてきていた服から、藤原呈子の用意してくれた服に着替え、逃避行を続けていた源氏の人間としてではなく、藤原呈子に仕える一人の女官とその子供達という体裁で平清盛と直面した。

 平治物語ではこのあと、常磐御前の美貌に落ちた平清盛が、自分の愛人となる代わりに子供達の命を助け出そうと申し出て、常磐御前が申し出を受け入れために三人の子の命が助かったと書いてあるが、史実ではないようである。ただし、常磐御前がこのあと一条長成のもとに嫁いで男児二名女児一名の子を出産していることと、子供達のうち今若と乙若が離れ離れに寺に預けさせられたのは史実で、今若が醍醐寺に、乙若が園城寺に預けられそれぞれ出家させられたことは記録に残っている。数えでは二歳であるものの満年齢ではまだ一歳にもなっていない牛若については牛若丸の伝承でも知られる鞍馬寺が思い浮かぶかもしれないが、鞍馬寺での牛若の記録は牛若が一一歳になってからのことであり、牛若の養父として一条長成の名を記す資料もあることから、おそらく一〇年ほどは母のもとで暮らしていたと考えられる。

 なお、一条長成こと藤原長成は母方の系図をたどると藤原信頼と親戚関係となり、その縁で奥州藤原氏三代目の藤原秀衡とも結びついている。後に牛若が奥州藤原氏のもとに身を寄せることになるのもこれを契機としている。


 平家の存在感が朝廷の中で増してきたことは官職によっても明白となってきていた、と同時に平家の弱点も露呈してきていた。

 この動きは、カレンダーは少し遡って、二条天皇の親政が終了した永暦元(一一六〇)年二月二八日、平清盛の四男である平知盛が九歳の若さで武蔵守に任じられたところから始まる。藤原信頼がいなくなったことで生じた武蔵国の権力の空白と、源義朝がいなくなったことで生じた相模国の権力の空白を埋めるための手段ではあるが、九歳の子供を武蔵国司に任命するというのは普通ではない。ついでに言えば、平治の乱の前の源義朝の官職は下野守であるから、武蔵国司の地位を平家の者に就かせることに成功すれば源氏の勢力の強い関東地方に楔を打ち込むことに成功するのだが、その役割を九歳の少年に担わせるというのはかなり無理があるように感じる。

 永暦元(一一六〇)年四月三日、平清盛の三男である平宗盛が左兵衛佐に就任。平宗盛は源頼朝と同年齢である。

 その四日後の四月七日、平清盛の弟の平経盛が大宮権大進に就任。こちらは三七歳での就任であるから、年齢だけを見れば妥当と言える。

 そのほかの平家の面々を見ると、源義朝が平治の乱の前まで就いていた左馬頭は、平清盛の長男である平重盛が一月二七日に就任していた。源義朝が下野守兼左馬頭であったのと同様に、平重盛も伊予守兼左馬頭である。

 平清盛の弟で二六歳の平頼盛は平治元(一一五九)年一二月末に尾張守に就任し、政界の一員として名を連ねている。

 これだけ若き平家の面々が登場してきていることは、かえって平家の弱点を示すに充分であった。

 露呈している平家の弱点、それは人材不足である。

 議会において圧倒的勢力を占めている政権与党があるとき、選挙がある現在であっても、誕生したばかりの政党が議会の過半数を占めて政権を握るのは、できないとは言わないが難しい。小選挙区制にすることで政権交代を起こしやすくさせている国でも、新しくできたばかりの新興政党が政権与党を打ち破って議会の過半数を占めるのは難しい。できないとは言わないが難しい。

 この時代は選挙などなく、貴族一人一人のキャリアクライミングの積み重ねが議政官の占有率となる。藤原摂関家は、なんだかんだ言っても一人一人がキャリアを積み重ねて地位を手にしている。藤原摂関家から一瞬ではあるが過半数を奪った村上源氏にしても、村上源氏として一気に議政官の過半数を占めたのではなく、一人一人のキャリアの積み重ねの合計で藤原摂関家を追い抜いた結果である。

 平家という新しい政治勢力が藤原氏と対抗しうる政治権力となることを目指すのはさすがに厳しいというのが現実だ。何しろ人がいない。政界の入り口に立った者ならばいるが、政界の海を泳ぎ抜いた者はいない。平家のトップである平清盛ですら正四位下太宰大弐であり議政官の一員ではない。その他の平家の者となると官職も位階ももっと低い。

 先に、圧倒的勢力を占めている政権与党があるときに、新しくできた新興政党が政権与党から議会の過半数を奪うのは、できないとは言わないが難しいと書いた。つまり、絶対に不可能なわけではなく、歴史を振り返ると何度か成功例が存在している。では、それはどういう手段をとったのか?

 結論から記すと、政権与党を切り崩すのである。政権与党にいる者に話を持ちかけて離反させ、新しい政党の一員に加わってもらうのだ。戦後日本で政権交代を起こした例は細川護煕内閣と鳩山由紀夫内閣という二例があるが、そのどちらも、政界のキャリアを自民党から始めた議員を大勢招き入れている。もっとも、相対的に能力の劣る者、すなわち、このまま自民党にいたとしたら将来の立身出世は断念せざるを得ないが、自民党を離れて新しい政党に加わればこれまでの不遇を一気に挽回できる可能性があるという観点での離反であり、自民党内部で起こった自民党政治への不満からの離反ではない。ついでに言えば、過去二例の政権交代はともに、政治家としての能力の低さからこの国を不景気に落とし込んでいる。

 こうした現代社会における新興政党の政権獲得方法を平家は選ばなかった。いや、選ぶことができなかった。当然だ。平家は桓武平氏の一部である伊勢平氏が軸である。平家であるか否かは伊勢平氏に生まれたか否かでほぼ決まる。平氏に生まれなかったとしても伊勢平氏に仕えたならば平家の一員としてカウントできる一方、平時忠のように伊勢平氏ではないが平姓を持つ貴族が平家の一員となるには、平時忠のように、姉や妹、娘などが平家の者に嫁いで近親者になるしかない。それでも伊勢平氏に生まれた者より序列が下にくる。

 同様のことは藤原氏にも言えるし、清和源氏に限らぬ全ての源氏にも言えることで、生まれが第一にあり、生まれを無視して仕えた人がおこぼれに与(あず)れるかどうかというのが氏族に基づいた政治勢力の構築方法だ。ここで平家が藤原摂関家の切り込みを図ろうというのは、藤原摂関家に生まれた人に今の地位を捨て去って、自分たち平家の家臣として仕えないかと促すようなものである。それでも、大臣になる未来、悪くとも議政官入りを狙える未来を期待できるなら平家に仕える意味も理解できるが、そもそも永暦元(一一六〇)年四月時点で議政官入りしている平家がいない。

 議政官入りしている平家はおらず、最高位である平清盛ですら正四位下であるという状況に終わりを迎えたのは、永暦元(一一六〇)年六月二〇日のことである。この日、平清盛が正三位に昇格したのだ。日本史上初の武士出身の公卿である。しかも、従三位を経験せずに正四位下からいきなり三階級特進での正三位昇格であるから異例に異例が重なる。もっとも、この時代になると正四位上の位階が事実上消失し、正四位下から一つ昇格するとなると従三位となるのが通例であったから三階級特進というより二階級特進と言うべきかもしれないが、それでも従三位を飛ばしての正三位昇格は異例だ。

 武にある者の正三位自体は、歴史を遡れば、当時は日本最高の武人でもあった藤原良相が正三位の位階をはるかに超えて、正二位右大臣にまで上り詰めた例があるから前例が皆無というわけにはいかないが、藤原良相は左大臣藤原冬嗣の子であり、時の権力者である藤原良房の実の弟である。それに、藤原良相は「武人である」ではなく「武人でもある」という人、すなわち、政界に身を置く貴族であることがあくまでもメインであり、武力を操ることができるというのは、藤原良相の特技の一つであって藤原良相の主軸ではない。平清盛の三位昇格が前例なきこととされたのは、武門を主とする侍(さむらい)からの公卿出現という点に尽きる。

 たしかに平清盛は知行国を、それも複数の国に対する知行国の権利を得ていたのであるから、有力貴族であるか否かを判断するならば有力貴族と結論づけるしか無い。しかし、祖先をどんなに遡っても議政官の一員になった者がいないまま桓武天皇までたどり着くという家系に生まれた者が正三位に上り詰めた、しかも、武をメインとし、国司になることはあってもその上に至ったことがない侍の家系の者が正三位に上り詰めたというのは、前例を打ち破る出来事であった。

 この前例にないことにさらに上積みがなされるのは八月のことであるが、その出来事については後述するとし、その前に記しておかなければならないことがある。

 それは、後白河上皇の行動。


 平清盛が正三位になる六日前、後白河上皇は二人の人物を薩摩国への流刑に処している。前出雲守源光保とその息子の源光宗の二人である。源光保が処分を受けるのはこのときの処分が人生で二度目。一度目は大治五(一一三〇)年のことで、このときは兄の源光信が起こした闘乱事件の連座により解官となっている。その後、清和源氏の武士の一人として鳥羽法皇の北面の武士となり、美福門院藤原得子に接近することで院近臣として中央政界に復帰することに成功し、官職と位階を順調に積み重ねて正四位下の出雲守となるまでに至っていた。

 源光保は保元の乱において、清和源氏の主導権争いも踏まえた上で、源義朝に協力する数少ない清和源氏の一人として後白河天皇方の一人として参戦し、その後は二条天皇親政派の一員として政界において安定した地位を築いてきていた。もっとも、清和源氏の一員である貴族ではあっても清和源氏のトップに立つほどではない。

 このタイミングで起こったのが平治の乱である。二条天皇親政を求めるという立場では反信西でもあった源光保は、後白河上皇院政に必ずしも協力的ではないものの源義朝とともに藤原信頼の側に加わり、自死した信西の首を平安京に持ち帰っている。ここまでは藤原信頼の側としての行動であるが、二条天皇の内裏脱出を契機に源光保は源義朝と袂を分かち、陽明門の守備を務めたのち、最終的には平清盛の側の一員として戦っている。

 この源光保が流刑に処された。しかも、息子と一緒に。

 当時の人は意味するところがわかった。これは平治の乱の後始末、ということになっている後白河上皇院政への布告だと。そして、追放された二人はしばらく薩摩国で流刑生活を過ごすことになるであろうと。

 ところが、薩摩国に流刑になった後の二人を迎えた運命は想像だにせぬものであった。薩摩国川尻(現在の鹿児島県指宿市)に到着した途端、源光保は何者かによって殺害され、息子の源光宗は父の死の後を追うように自害した、という報告が京都に届いたのである。流刑から死までの経緯がどこまで本当かわからないが、二人とも亡くなったというのは厳然たる事実であった。

 時代は恐怖政治を迎えている。後白河上皇院政に反対する者はどのような運命を迎えるかについて、隠しようのない現実が朝廷を、そして日本中を包み込むようになっていった。


 この恐怖政治に最後まで抵抗できていた人が一人いる。太政大臣藤原宗輔である。だが、彼はもう八四歳と高齢であった。年齢を感じさせながらも懸命に抵抗していたのであるが、永暦元(一一六〇)年七月二〇日、藤原宗輔はついに政界引退を発表した。

 藤原宗輔の政界デビューは遅く、参議就任は四六歳。権中納言であった五六歳のときには一三歳の藤原頼長と同僚となったほどである。

 この藤原宗輔が一躍脚光を浴びることとなったのが久寿二(一一五五)年のこと。このとき既に七九歳という高齢の大納言になっていた藤原宗輔は、左大臣藤原頼長不在の間、右大臣職が空席であるため大納言筆頭として議政官を取り仕切る立場になったのであるが、これが周囲の予想に反して議政官を見事に取り仕切ったのである。しかも、それまで悪左府(悪の左大臣)とまで呼ばれて誰も逆らうことのできずにいた藤原頼長にはじめて叛旗を翻したのである。

 藤原宗輔の見せた叛旗が保元の乱のあとの混迷において脚光を浴びるきっかけとなった。八〇歳にして右大臣になり、八一歳で太政大臣へと上り詰めることとなったのである。藤原宗輔はそれまで文化の分野ではそれなりに名が知られていたものの、政治家としてここまでの働きを見せる人だとは誰も想像していなかった。

 高齢者が権力にしがみつく姿はみっともないと感じるが、藤原宗輔にはそれを感じることができない。その代わりに感じるのは、悲壮感。遅咲きであるがために周囲を見渡すと誰もが自分より歳下である。かといって、年齢相応のキャリアを積んできたわけではないから、キャリアの構築は歳下の者と同様に一つずつ積み上げていくしかない。遅咲きである人はキャリアの構築を達成する頃には第一線から退かなければならない宿命を持っているが、藤原宗輔はそれを選ばなかった。それを許す長命に恵まれたおかげとも言えるが、その代わりに、年長者として若者を支え、手柄を与える代わりに責任を背負う側に回ることも受け入れた。時の左大臣藤原頼長の暴走を最後の最後で食い止める役割を担ったのもその一つだ。

 藤原宗輔のキャリア構築は年齢相応でなくとも、経験であれば年齢相応に積んでいる。そして、鼻に掛けはしなかったが藤原宗輔の学識もなかなか高いものがある。イノベーションを起こす能力は高いとは言えなかったが、定められた業務を愚直にこなすことは文句なしであった。その、まもなく八〇歳になろうかという老人が人生最後に選んだのが、命を引き替えにしての藤原頼長の暴走への抵抗である。保元の乱直後の後白河天皇が藤原宗輔を藤原頼長の側近の一人として罰しようとしたときも、藤原宗輔はむしろ藤原頼長の暴走を食い止めようとしていた側であるとして、処罰の対象どころか右大臣への昇格という未来が用意されたのも例証の一つとして挙げることができよう。

 保元の乱のあとの混迷において藤原宗輔が右大臣に抜擢されたとき、多くの人は人生最後の華としての右大臣就任と考えたが、予想に反し、この人は右大臣の職務を八〇歳にして愚直にこなしたのである。保元の乱のあとの混迷を懸命に正常な状態へと戻そうとした姿は周囲の者を圧倒させるものがあった。残りの余命は少ないという自らの年齢への直視と、どうせ長くはないならば自らの命を引き替えにしても構わないという覚悟の結果である。その悲壮感が、人生の最後の最後で脚光を招き寄せた。派閥争いが繰り広げられる中にあって、右大臣藤原宗輔が太政大臣に昇格することに異論を挟む者がいなくなっていたのである。藤原宗輔の家系を遡ると藤原道長の次男である藤原頼宗に行き着く、すなわち、藤原道長まで遡らなければ太政大臣に就任した者がいないという家系でありながら太政大臣に就くのはこの時代においては異例なことであるが、家系を理由に文句を言う人もいなかった。経験も、キャリアも、学識も、性格も、そして、最後に見せた覚悟も、藤原宗輔が就くならば納得であると誰もが考えたのだ。

 三年間に亘って太政大臣を務めたあとで迎えた八四歳での太政大臣辞任は、老境にあっても権力にしがみついた末に迎えた最後ではなく、老いた身でありながら懸命に実務にあたった人が迎えた最後の花道であった。

 この、温厚な八四歳がいなくなった二日後、事件が起こった。


 後白河上皇に仕えれば安泰かというと、そうではない。

 恐怖政治によくあることであるが、内なる派閥争いと粛清が繰り広げられる。

 太政大臣藤原宗輔辞任の二日後の永暦元(一一六〇)年七月二二日、民部大輔藤原雅長、若狭守藤原隆信、周防守藤原隆輔、中務大輔藤原長重、散位藤原季信の五名が、後白河上皇の院宣により院昇殿停止となったのである。院昇殿停止であって解官でも流刑でもないが、今後のキャリアを考えたときに大きな傷となるのは目に見えている。理由は、二月から七月までの六ヶ月間における最低勤務日数に一〇日足らなかったからというものであるから、今の日本の感覚で行くと、有給休暇日数を超えてさらに合計一〇日の無断欠勤があったとすれば近いものがあるだろう。

 ところが、これが全くの言いがかりだとしたらどうか。

 長年に亘って早朝から深夜まで働き続け、休日出勤も深夜残業も厭わずに働き続け、休みがあるとすれば身内の不幸のときぐらい。それも早々に切り上げて出仕しているのである。休みすぎどころか休みをとらなすぎなのがこの五人なのだ。それに対する後白河上皇の仕打ちが、勤務に対する正当な評価どころか、言いがかりをつけての院昇殿停止。それも、身を粉にして働いてきたことを全く無視しての無断欠勤を理由としている。その日に働いた記録があるのに、さらに言えば、その日に働いたために無事に施行された法律があるのに、欠勤扱いにされる。これでどうして後白河上皇に仕える意欲を湧き立てることになろうか。

 後白河上皇のもとで真面目に働くか否かではなく、後白河上皇に気に入られるかどうかだけで未来が決まるのだ。しかも、良くて現状維持、あとは転落のみという未来が。

 永暦元(一一六〇)年八月一一日、議政官の大幅な人事異動が発表となった。

 まずこちらが、藤原宗輔が太政大臣を辞した時点。

 そしてこれが、永暦元(一一六〇)年八月一一日である。

 ただし、系図に記載しているのは藤原忠平の子孫に限定しており、かつ、参議以上の役職にある者に限定している。藤原氏の家系図であるため、当然ながら、源氏をはじめ藤原氏ではない貴族は名が記されていない。また、藤原氏の一員であっても藤原忠平の子孫でなければ名はない。

 その上でこの二つを比較すると以下の通りとなる。まず、藤原宗輔の辞職によって空席となっていた太政大臣に左大臣藤原伊通が昇格した。これにより藤原伊通が議政官のトップである一上(いちのかみ)から降りることとなる。代わりとしてか、子の藤原伊実が中納言に就任した。

 藤原伊通に代わって左大臣に就いたのは、関白藤原基実。関白右大臣という職掌でもなかなかの実務を獲得できるのであるが、左大臣を兼任する関白となると掌握できる実務が右大臣よりも激増する。何しろ左大臣は議政官の開催権と議事進行権を有するのだ。院司兼任の者とそうでない者との関係とか、藤原氏内部の対立とか、かつてのような一枚岩の藤原氏という集団を期待できないとは言え、議政官の安定多数を占める藤原氏のトップが議政官のトップに立ったことで、藤原基実は今後、議政官の議決というこれ以上無い正当性を駆使して法律を生み出すことができるようになるのだ。

 とは言え、藤原基実はまだ一八歳の少年である。いかに藤原忠通の実子として藤原摂関家の継承者と主張しても、その根幹は親の権威に裏付けられた世襲であり、しかも、藤原信頼が指摘したように近衛大将の経験の無い左大臣である。決して無能とは断言しないものの、大臣としての能力に不安を感じるのもおかしな話ではない。また、若き大臣自体は珍しいものでは無いとは言え、若き大臣に全権を委任するというのはほとんどなく、このような場合は通常、若き大臣の横にサポートに回る者が用意される。これは藤原基実も例外ではない。

 左大臣の横にあってサポートする必要性があったのは、藤原基実の若さだけが理由ではない。先に藤原伊通が議政官のトップである一上から降りたと記したが、左大臣藤原基実が次の一上に就任したのかというとそれも違う。左大臣が関白を兼ねる場合、左大臣としての職務より関白としての職務を優先させることもある。そのため、一上と言えば左大臣が任命されることが通例で、一上が左大臣の異名とさえなっていたのであるが、摂政を兼任していたり、このときの藤原基実のように関白を兼任していたりする場合は、左大臣が一上に就くことが許されず、一上に右大臣が任命されることもあった。

 では、誰が右大臣として一上に就いたのか? 藤原氏のこれまでのパターンでは藤氏長者の後継者が右大臣として一上に就くのが通例であったが、一八歳と若き左大臣の補佐役に、藤氏長者の後継者たる一七歳の藤原基房を任命するという選択肢は無かった。関白であるがために一上に就くことのできない藤原基実の穴を埋めるだけでなく、若き左大臣の経験不足を補うというのがこのときの右大臣に求められた任務である。この任務を帯びた右大臣に経験の乏しい一七歳を就けるのは無責任とするしかない。誰もがそれをわかっていたのか、この日、右大臣に任命されたのは四六歳の権大納言である藤原公能である。一見すると大納言を経験することなく、藤原宗能と藤原重通の二人を超えて右大臣に就任したのだから異例に見えるが、それまで培ってきた経験に加え、後白河天皇の中宮である藤原忻子と、再入内を果たした藤原多子の実父である点を踏まえれば、藤原公能の右大臣就任も不可解ではなくなる。

 とは言え、経験豊富な貴族ならまだまだたくさんいる。皇室とのつながりを考えても藤原公能と同等とまでは言わないにせよ充分に匹敵できる者を大勢抱えているのが藤原氏だ。その中からどうして藤原公能が選ばれたのか。それも、二人を飛び越えて権大納言からいきなり右大臣に昇格できたのか。これは、藤原公能のことを後世の資料では徳大寺公能と記しているケースもあることを考えれば理解できる。

 藤原氏の一部をなす徳大寺家という概念はこの時代にあったものの、同時代史料に徳大寺の苗字はない。苗字は無かったが概念はあったとはどういうことか?

 藤原公能は藤原師輔まで遡らなければ藤氏長者の家系につながらないという家系であるが、その家系が八月一一日時点で右大臣を筆頭に計八名を議政官に送り込んでいるのである。藤原師輔ではなく、藤原道長に遡るだけで藤氏長者の家系に行き着く藤原氏は一一名であるから、八名という数字は断じて無視できる数字ではない。また、同じ藤原道長の子孫でも、藤原頼通の子孫である御堂流と、藤原頼宗の子孫である中御門流とで比較すると、御堂流が五名なのに対し、中御門流は六名と、中御門流のほうが多くなる。藤氏長者の地位は御堂流が継承し続けているが、七月までの太政大臣も、八月からの太政大臣も中御門流で占めている。御堂流と中御門流という区分は今に始まったことではなく、人事においてこうした拮抗は普通であり、藤原氏は、外にあっては一枚岩になるものの、中にあっては細かな区分に基づく派閥を構成していたのである。ここで藤原公能が右大臣になると、太政大臣と、関白左大臣と、一上である右大臣とがポストを分け合うこととなり、藤原氏内部の勢力争いが拮抗することとなるのだ。

 こうしたポストの配分は何ら珍しいものではなく、藤原独裁が成立してから当たり前のように見られてきたことである。しかし、永暦元(一一六〇)年八月一一日は当たり前でないことが一つあった。

 参議に藤原氏でも源氏でもない者が指名されたのだ。

 平清盛が。


 参議とは議政官の末席の職である。さらに参議の間でも序列はあり、位階が一つでも上であるほうが序列で上になり、同じ位階であるなら以前から参議であった者のほうが上の序列となる。ただしこうした序列の運用は流動的であり、正三位である平清盛より正四位下の藤原信能や同じく正四位下の藤原実国のほうが、位階は下でも先に参議に就いていたという理由で上の序列となっている。この序列は何の意味を持つのか?

 参議は読んで字のごとく、「議論に参加」できるという職務であり、現在の日本国では国会議員に相当する。三権分立が確立されておらず行政と立法の区分が明瞭ではないこの時代でも、参議は法案を審議する職務であり行政権を伴わない職務であることの認識はある。参議の職務は何よりも審議に携わることであり、審議の場における言論こそが参議としての能力発揮の場であった。そして、審議における発言の順番は、序列の下の者からというのが慣例であったのだ。すなわち、序列最下位の平清盛は議論において最初に発言することとなるのであるが、実はこの最初の発言者の役目を務めることは、議論を左右するという点で無視できるものではない。国政を揺るがすような審議においては内裏に集う前から議案が公然の秘密となっていて、議論の始まる前から各人が自分の意見を持ち、あるいは派閥工作で意見を定められていたりするものであるが、そうでない審議、特に、内裏に集ってはじめて目にすることとなる審議では、議案を読んではじめて自分の意見を作ることとなる。議案と、議案に関する参考資料に目を通したあと、自分の意見を作る前に誰かが既に発言していたら、その発言に自分の意見を乗せやすくなる。中でも、これといった自分の意見を持たない議案を目にしたときはその傾向が如実となる。このようなとき、参議の末席の意見がそのまま他の貴族の意見として採用され議決に持ち込まれることもよくあった。

 参議の末席に名を連ねる者は、その多くが経験豊富なたたき上げ組であり、議政官にまで登り詰めるのに親の権威を全く活かさなかったとは言わないが、親の権威だけで自動的に議政官の一員になれるほどの生まれではないために、より下の職務を経験して、下の職務の実績が買われて参議になった者である。つまり、参議の末席として議政官の議論の舵取りを任せることができると考えられた者が勤める職務であり、これまでの参議の末席を見ても、若くて三〇代、平均でも四〇代で参議になった者である。五〇代の参議が末席にいることも珍しくなく、四三歳の平清盛は参議の末席という点ではごく普通の存在であった。ただ、平家であるという点だけがこれまで見られなかったことであった。

 参議である貴族が立法に専念して行政と全く関わり合いを持たなかったのかというと、そういうことはない。多くの参議は参議の他に行政職を兼職していることが多く、参議として法案審議に関わると同時に、兼職している行政職をこなすのは通例であった。実際、このときの平清盛は太宰大弍を兼職とし、太宰大弍として対馬から薩摩までの九州全域に対する事実上の行政のトップの地位を得ている。平清盛ほどの権力とはいかなくともどこかの国の国司を兼任している参議は珍しくなかった。国会議員が県知事を兼ねることを想像してもらえれば、参議と国司の兼任も御理解いただけるであろう。

 そして、多くの参議は兼任している行政職をベースとして収入を得ている。

 複数の役職を兼任すると、兼任している役職の給与が加算されるのが律令制の規定であるが、この頃になると貴族への給与がまともに払われなくなってきていた。それどころか、貴族が地位を得るために出費をすることも珍しくなくなってきていた。当時の記録に「成功」と記されていることがあるが、これは成功(せいこう)ではなく成功(じょうごう)という。成功(じょうごう)とは資産の提供により地位を手にし、地位により資産を手にするという一連の流れに乗ることに成功(せいこう)したことをいい、批判どころかキャリア構築の成功例と扱われていたのがこの時代だ。

 現在、議員の給与削減を訴える向きは多い。だが、それは間違いなく失敗に終わる。権力者に給料を払わずに働かせることは人類史上何度も試みられながら、ことごとく失敗に終わったことである。理由は簡単で、権力者に給料を払わないということは、あるいは払ったとしても安い金額に押しとどめるということは、既に充分な資産を手にした者でなければ権力者になれないことを意味し、仮に資産を持たぬ身であったとしたら権力を発揮して資産を築き上げることに躍起になる社会を作り上げるからである。だからこそ権力者には相応の報酬を用意するのが正解なのだが、権力に加えて報酬まで支払うことへの感情はそう簡単に受け入れることのできるものではない。ゆえに、理屈よりも感情が優先し、失敗する。

 この失敗例は今から一〇〇〇年前の日本国も含まれる。裕福でなければ権力者になれず、権力を手にするために資産を差し出せる者でなければ権力者になれない。そして、権力者になれば差し出した以上の資産を手にできるというのが永暦元(一一六〇)年時点の日本国だ。このルートに乗れた者だけが裕福になり、ルートに乗ることのできない者は権力者の一員に加わることもできないというのがこの時代だ。貧しくとも努力次第で結果を手にし地位を掴むことも不可能ではないという、信西の狙った機会の門戸開放路線は完全に消滅していた。それでも藤原氏と源氏以外の姿を見ることすら無かった議政官に平家の姿が見えるようになったのだから改善されたのではないかと思うかもしれないが、忘れてはならないのは、平清盛が既に充分な資産を手にしている身であり、新しい勢力が議政官の中に入り込んできたことまでは事実でも、貧しき者が議政官の中に入り込んできたこととはつながらないのである。

 それでも、平清盛を含む参議以上の貴族が、無給であっても国政に影響を与えないという可能性ならば存在していた。かつての藤原良房や藤原道長のように裕福な者が自らの資産を犠牲にして貴族としての職務を果たすという過去は存在していたのである。そう、存在していたのはあくまでも過去の話であり、こちらもまた、時代とともに可能性が縮小してきていた。何もケチになったのではない。貴族とて飛び抜けた金持ちではなくなってきていたのだ。平清盛の裕福さは有名であったが、既存の貴族、藤原氏や源氏の貴族は以前と比べてさほど裕福では無くなっていたのだ。


 ひとかどの貴族であれば荘園を持っているものであり、荘園からの年貢で生活するのが貴族の通例であったのだが、世代を経る毎に貴族の手に渡る年貢が減ってきていた。荘園の免税の効力が上がって国に持って行かれる収穫が増えたことで、年貢として受け取ることのできる収穫の割合が減っていたのも理由として挙げることはできるが、それ以前に、一人の貴族の手にする荘園が狭くなってきていたのだ。これは現在の相続法と同じであるが、この時代の荘園の相続は一子相伝ではなく配偶者や子供に分けられる。いかに広大な荘園を抱えていても、世代を重ねれば所有する荘園の規模が先代を下回るのがこの時代だ。かと言って、新しく荘園を開墾することはもう難しくなっていた。新しく開墾すれば荘園に適した土地になりそうなところはとっくに他者の所有する荘園になっていたし、公地の荘園組み入れが黙認されつつあっても、荘園に組み入れることのできる土地もまた、とっくにどこかの荘園に組み込まれている。おかげで、かつては全耕地のうち荘園の占める割合は二パーセント、藤原頼通の頃でも一〇パーセントを超えることは無かったのに、今や全耕地の八〇パーセントが荘園だ。荘園獲得を繰り広げていた頃は荘園を手に入れるチャンスが幅広く存在していたが、今や新しい荘園を手にするなど夢物語で、いかにして荘園を維持するか苦心するようになっている。

 逆説的ではあるが、資産を維持するために荘園を維持し、荘園を維持するために資産を提供することで権力を手にし、権力を手にすることで資産を獲得できる。参議の多くが国司を兼任していたのは、国司になれば任国の租税のうち国庫に納めたあとの残りを自分のものとできるからである。いかに荘園が全耕地の八割に達していようと、参議の地位を得ているなら荘園から租税を取り立てる可能性も高まるし、荘園以外の土地からの租税はそもそも国司としての職務だ。参議の多くが行政職を、特に国司を兼任することが多かったのはこれが理由だ。本来なら参議の地位に見合った給与は払われることになっていたのだが、給与が有名無実化し、いつしか兼職として手に入れる国司をはじめとする行政職として得る収入が貴族の収入となったのである。

 この上に立つのが知行国の権利である。

 知行国の権利を手にすると、その国の国司を推薦する権利を手にする。あくまでも推薦であって決定では無いのだが、知行国の推薦を差し置いて別の人を国司に任命することはまずあり得ない。知行国の権利を持つ者から国司就任の推薦を得たら、あとに待っているのは莫大な資産を獲得する未来である。

 以上の視点で平清盛を眺めると、国司に推薦されることで資産を手にするどころか、平清盛自身が知行国の権利を持つ身であるだけでなく、通常の国司よりも上に立つ太宰大弍であるという点でただの参議ではないことが読み取れる。自分を国司に推薦してもらおうと働きかけを行う立場ではなく、自分を国司にしてくれと働きかけを受ける立場である人間が参議になったということだ。それまでの常識の通用しない新しい参議が登場したとも言えよう。


 常識の通用しない参議とは言うものの、平清盛が参議としての職務に対して常識外れの行動を見せたわけではなく、宮中における平清盛はごく普通の参議の一人としての行動をとっている。いや、むしろこのときの平清盛のほうが参議として正しい在り方を体現していたとすべきか。

 そもそも参議とはどういった役職か?

 簡単に言えば、議論に参加することの許される役職である。ここで言う議論とは国政にかかわる議論である。どのような法を作るか、あるいは作らないか、予算の執行は如何にすべきか、役人人事で誰をどのような役職に就けるべきかを決める場に参加でき、発言が許されるのが参議以上の役職である。参議より下の役職でも会議に参加できることはあるし、質問を受けたならば発言をすることもあるが、参議より下の役職の者に評決に参加する資格は無い。質問に対する発言で場の空気を変え望み通りの評決を導き出すことは可能だが、それは滅多にある話ではない。

 参議を現在の日本国に置き換えると、大臣ではない国会議員である。前述の通りどこか国司を兼任していることが多いので、現在の日本国の国会議員と単純に同列視することはできないが、議場の中における立場だけでいうと大臣ではない国会議員に相当する。現在の日本国では理論上、国会内において国会議員の間に優劣はない。総理大臣の一票であろうと、一人しか当選者の出なかったミニ政党の議員の一票であろうと、同じ一票である。この時代も理論上はその通りで、左大臣であろうと、参議であろうと、評決においては同じ一票である。

 現在の政党政治を思い浮かべていただければ理解していただけるであろうが、平清盛がいかに参議になったとは言え、平家は平清盛ただ一人しか議員を送り込んでいない少数勢力であり、平清盛は議政官という議会において一人しか議席を持たないミニ政党の議員である。ただし、この議員は参議の末席であるため、全ての議案に対する第一発言者ともなる。

 先に述べた通り、以前から議論百出している議案であるならば、貴族たちは自らの意見を持って参内するが、このときはじめて登場したような議案のとき、貴族たちはその場で自らの意見を作り出すこととなる。これは些事であるときが顕著となるのだが、どうでもいいと考えていることについては第一発言者たる参議末席の者の意見がそのまま通りやすい。つまり、多くの貴族がどうでもいいことと考えているような、しかし、平清盛にとっては重要なことについて、平清盛はスムーズに議政官の議決を獲得することに成功したのである。

 これはおかしなことではないかと後になって騒いでも後の祭りである。かといって、平清盛は何もおかしなことをしたわけでもなければ、前例に無いことをしたのでもない。これまで参議の末席に名を連ねたベテラン貴族がやってきたことを平清盛もやっただけのことである。藤原摂関家ならば認められても平家がやるのは認められないという理屈は成立しない。

 では、具体的に平清盛は参議の末席として何をしたのか?

 二条天皇の行幸である。参議の末席として行幸の一つ一つを推し進めることに成功したのだ。

 平治の乱で大内裏が戦場となったために、復活したばかりの大内裏を内裏として使用することは許されなくなり、またもや里内裏を繰り返す時代となっていた。ここでの二条天皇の行幸は里内裏を意味する。天皇をそう簡単に移動させるなど許されるのかと思うかもしれないが、平清盛の押し進めた一つ一つの理由は前例に則ったものであり、前述の通り平治の乱の影響もあって行幸そのものに不可解な理由は存在しなかった。また、仮に大内裏が無事であったとしても、大内裏から出て行幸すること自体に不可解な理由はなかった。後の時代から考えれば福原遷都の伏線であったとも言えるが、この時代にそこまで考える人はいない。

 それに、二条天皇がなぜ行幸するのかは平安京内外の全ての人が理解していた。平治の乱のあとの混乱で二条天皇の中宮である姝子内親王が心労の影響もあるのか病状を悪化させており出家を願い出ていたほどであったのだが、八月に入ると病状が回復するどころか危篤状態となり、八月一八日に姝子内親王を見舞った後白河上皇が目の当たりにしたのはいつ亡くなってもおかしくない姝子内親王の姿であった。重病に苦しむ声は部屋の外にまで届いており、もはや誰にも出家を止めることができなくなっていた。

 そして迎えた八月一九日、姝子内親王、出家。

 最愛の中宮のこの病状を知っているからこそ、二条天皇の行幸はやむを得ないこととされたのである。出家してもなお姝子内親王を中宮のままとし続けるという宣言も、異例のことであるとは言え、誰もが理解することであった。

 平清盛が参議の末席に名を連ねてから一ヶ月間で、二条天皇はこれだけ行幸している。

 まず、八月二〇日に石清水八幡宮に行幸。前日に出家した姝子内親王を祈るためであるが、石清水八幡宮はいかに平安京に近いと言っても平安京から南西に離れることに違いはなく、天皇が平安京から離れることは原則として存在しなかった時代に二条天皇が平安京を離れるのは相応の準備を要した。ただし、後白河天皇が保元の乱の終了を宣言したのもここ石清水八幡宮であることを踏まえると、現役の天皇が祈願のために石清水八幡宮に行幸するのは通例とも言えた。

 八月二一日、今度は石清水八幡宮から北東に向かい、平安京の南の鳥羽離宮に向かう。このときの鳥羽離宮には後白河上皇がいるので、子が父の元を訪問しただけとも言える。

 八月二二日、二条天皇、里内裏としていた大炊御門殿に還御。ここでようやく二条天皇が平安京に戻ってきたこととなる。

 この二泊三日の行幸は単に二条天皇が平安京から離れて神に祈りを捧げ、帰路に父の元に向かっただけのイベントではない。行幸そのものが平安京内外から多くの人の詰めかける巨大イベントであり、行幸の警護に当たる存在、すなわち武士の、それも平家の武士達の勢力を見せつける効果を持ったのである。それでもこれまでであれば武装した面々というだけであったが、今やそのトップである平清盛が参議として議政官入りをしているのである。

 パフォーマンスは二泊三日で終わらなかった。気候が今より涼しい時代であったからできる話ではあるが、現在のカレンダーに直すと七月下旬に相当する八月終わりというバカンスシーズンであることも手伝って、平清盛は二条天皇を再び行幸させている。今度は八月二七日、二条天皇が平安京の東にある下鴨神社と、平安京の北にある上賀茂神社に行幸したのである。賀茂社の行幸そのものも天皇の日常の政務の一環としては珍しくないとは言え、平安京内から出発する行幸の様子は平安京内外の庶民にとって日常では体験できない格好のイベントであり、また、日曜日や祝日という概念の無いこの時代での休暇の日でもあった。この休日を、二条天皇の行幸の華やかさと同時に平家の勢力をアピールする絶好の舞台にさせたのである。


 ただし、問題も一点あった。平清盛はあくまでも貴族の一人として同行したのであり、正式に天皇のボディーガードとして行幸に同行したのではない。平家の軍勢も平清盛個人のボディーガードであって正式な出動命令ではないのである。実際に平清盛に逆らおうものなら待っているのは武力発動のターゲットとなることに伴う身の破滅であるが、武力さえどうにかなれば平清盛に逆らおうとする思いの者は多く、やがていつかは来るであろうそのときに備え、平清盛の失態を記録する向きは強かった。

 平清盛も、自分のアピールになると同時に付け入る隙でもある平家の武力結集を、法的にはグレーゾーンの領域から、完全に合法となる領域に移すための方策を求めるようになった。検非違使別当の地位を求めるようになったのである。検非違使であれば軍勢を集めようとそれは正式な警察権力の発動であるから、平家の武士達が集ったところで何の問題もないばかりか、むしろ正しい任務遂行となるのである。

 武力だけをみれば、平清盛が検非違使別当になることに違和感は無かった。位階を見ても、既に従三位へと登りつめているのだから妥当である。だが、平清盛はまだ参議であり、検非違使別当を兼職とするには役職として低かった。たしかに前任の検非違使別当は参議であった藤原惟方であったが、藤原惟方が解官となったあとは権中納言藤原実定が就いている。藤原信頼の手による検非違使別当の地位のたらい回しの末に迎えた平治の乱、そのあとの混迷の末にようやく二月二八日に権中納言藤原実定が検非違使別当となることで検非違使別当の地位が落ち着きを見せたのである。ここでさらに検非違使別当の地位を変更とさせるのは混迷を復活させるだけでなく、日々の警察権力を再び低下させることにつながる。たとえ平家の武力を検非違使の実行力に直結させることができるとしても、そのリスクはあまりにも高い。

 検非違使別当の地位を求める平清盛の訴えに対し、朝廷に突きつけられていた解決方法は三つ。一つは、平清盛を検非違使別当とさせない。二つ目は、参議の末席であるが太宰大弐でもあるという点を鑑みて、現状のまま平清盛に検非違使別当を兼任させる。そして最後は、平清盛を出世させて検非違使別当とする解決方法である。平清盛が望んだのは二番目であった。参議の末席の立場を維持できるのだから平清盛としては最良である。

 その最良を他の貴族が黙って受け入れるわけはなく、平清盛の怒りを買わずに、それでいて平清盛から少しでも権限を奪おうとする駆け引きが始まった。

 まず、永暦元(一一六〇)年九月二日に、平清盛が右衛門督を兼任することとなった。これにより、平清盛が平家の武力を結集させること自体は条件付きで合法となった。条件付きと記したのには理由があり、右衛門督である平清盛は、武官としての上官、具体的には右近衛大将の指揮下に置かれるため、武力結集の都度、通常は右近衛大将の、右近衛大将不在時や緊急時などは左近衛大将の許可を求めなければならないからである。

 それでも合法は合法で、永暦元(一一六〇)年九月八日、平清盛は後白河上皇の第二皇女である好子内親王が伊勢神宮の斎宮として任地である伊勢に向かうときの警備を買って出ている。平家はもともと伊勢平氏。伊勢に勢力を持っている平家にとって、平安京から伊勢への間の警護など手慣れたものである。

 次に貴族達が考えたのが平清盛を参議の末席から外すことである。平清盛を参議の末席から外す方法もこれまた二種類ある。一つは平清盛を出世させること、もう一つは平清盛以外の者を新たな参議に任命することである。このとき選ばれたのは後者である。一〇月三日、右大弁として事務方にあった四二歳の正四位下である藤原資長を、左大弁に昇格させると同時に参議に昇格させた。正四位下の位階を持つ貴族が左大弁を務めてから参議入りするのはキャリアとしては順当とも言えるが、通常は左大弁として数年の経験を積んでからの参議入りであり、左大弁経験が一年に満たないどころか参議度同日の左大弁昇格となるのだからかなり強引であった。

 平清盛にしてみれば動員な方法で自らの手にしていた参議の末席の地位を奪われたのであるから不満の残るところでもあるが、実際には不満を述べてはいない。この強引に対する代償でもあるのか、永暦元(一一六〇)年一〇月一一日、息子の平重盛が従四位上に位階を進めたからである。


 平清盛が狙っていた検非違使別当の地位は思わぬところから転がり込んできた。正確に言えば検非違使別当の地位がニューストピックになった。それまでは検非違使別当の地位を求める平清盛に対する反発のほうが強い意見となっていたのだが、このニュースをきっかけとして、平清盛の検非違使別当就任が考慮すべきこととして話題に登場するようになったのである。

 検非違使は治安維持のための機関であるが、現在で言うと、警察だけでなく、検察でもあり、さらに刑法に限るが司法も司っている機関である。しかも、武官の組織図から離れた独立機関であり、検非違使のトップである別当にはかなり自由な裁量権が与えられている。朝廷から出動命令があれば動かなければならないが、出動命令が無くとも証拠があれば捜査はできるし、緊急事態となれば別当が他者の許可を得ることなしに行動させることも可能だ。

 その緊急事態が起こったのは永暦元(一一六〇)年一〇月一二日のこと。この日、延暦寺の僧徒が神輿を奉じて入京しデモを繰り広げたのである。信西は亡くなったが、信西の主導した武装入京禁止はまだ有効である。有効であるが、それを取り締まる者がいないのだ。検非違使別当に就任した頃は権中納言であった藤原実定は八月一一日に中納言に出世しており、行使できる権力も増えてきていた。増えてきていたが、検非違使として発揮することのできる権力には限界があった。平安京内の日々の犯罪に対してならどうにかなっても、延暦寺の大規模なデモ集団に対しては無力だったのだ。

 検非違使の現実を目の当たりにしたほとんどの人は、右衛門督に就任した平清盛が正当な武力を発動させて動いてくれるものと考えていた。だが、平清盛は動かなかった。この時期の朝廷が動員できる最大にして最強の軍事集団が平家であり、平家を指揮するのは平清盛であるのに、何の動きも無かったのである。

 これまでさんざん悩まされてきた延暦寺のデモ集団を平清盛が退治してくれることを期待していた平安京の庶民たちは、平清盛が動かないことに対して失望し、延暦寺のデモ集団が暴れるのをただ黙って耐え忍ぶしかなかった。そして気付かされた。平清盛に対して誰も出動命令を発していないことを。右衛門督である平清盛は、武力を発動させること自体は可能でも、発動命令無しに動くことは許されていないのである。これまで平家の武力を集結させてきたではないかという反論にも、これまでのことのほうが違法で、正式に右衛門督の役職を拝命した以上、これまでのような違法行為に出るわけにはいかず、武官としての上官の命令が無ければ動けないとしたのである。

 もちろん詭弁である。だが、詭弁であるからこそ、今のままではどうにもならない。解決策は一つしかない。平清盛を検非違使別当にすることである。ただしそれは、平家の思いのままに平家の勢力の誇示が認められる時代となることを意味する。その一点さえ妥協すれば全ての問題が解決するのに、これだけはどうしても認められないという一点を絶対に妥協しないために問題が解決しないというケースは多い。永暦元(一一六〇)年一〇月時点の貴族達にとっては、平清盛が検非違使別当になり平家の武力を思うがままに誇示することが、絶対に妥協できないその一点であった。貴族たちはわかっていた。平清盛を検非違使別当とし、平家の武力を国家の治安維持機能に組み込むことで、国内の情勢不安については劇的に改善するであろうことを。


 延暦寺のデモを食い止めることができなかったという一点で平家の武力への期待値が上がっていたのだが、この期待値にさらに拍車が掛かったのが永暦元(一一六〇)年一〇月一六日以降の後白河上皇の行動である。平家の主だった面々が後白河上皇と行動をともにしたのだ。

 一連の動きは、一〇月一六日に熊野と日吉の神体が新造社檀に勧請されたことにはじまる。勧請とは新たな寺院や神社がその活動を開始することであり、勧請後から宗教施設として活動することとなる。一〇月一六日の勧請初日に後白河上皇自身は姿を見せず、平家も直接動いたわけではないが、それがかえって後白河上皇と平家の勢力を見せつけることにつながった。

 日吉と言っても現在の大津市坂本にある日吉大社でなく京都市東山区にある新日吉神宮であり、熊野と言っても熊野大社ではなく現在の新熊野神社のことである。ともに鴨川東岸に後白河上皇が建立させた神社であり、新日吉神宮は日吉大社の、新熊野神社は熊野神宮の別宮として、永暦元(一一六〇)年一〇月一六日に勧請、つまり、新しい施設としてオープンしたのである。熊野詣として熊野大社を目指して紀伊半島を半周すのはこの時代では大掛かりな旅行であるし、熊野大社よりは京都に近いと言っても近江国の日吉大社に行くこともまた一泊以上を要する旅行になる。だが、熊野の別宮を平安京近郊に建てれば平安京に住む誰もが気軽に熊野に参詣できるようになるし、日吉の別宮を鴨川東岸に建てれば誰でも気軽に日吉に参詣できるようになる。無論、実際に京都を離れて日吉にまで、あるいは熊野まで行くことそのものがもたらす大掛かりな非日常としてのレジャーまで体験できるわけではないが、それでも鴨川を渡って東に行くのだから、平安京の庶民にとっては日帰りのちょっとしたレジャーになる。公園という概念も遊園地という概念もないこの時代、神社仏閣への参詣は、気軽なレジャーとしての側面も有していた。

 新熊野神社と新日吉神宮がどこに建てられたかを考えると平家の勢力を否応なく実感することとなる。ともに六波羅にある平家の本拠地の周辺だ。参詣目的で鴨川東岸に渡ると否応なく目に飛び込んでくるのが平家の六波羅邸である。清水寺に参詣するときに六波羅邸を目にすることはあったし、鴨川の東岸に目をやるだけで六波羅邸の存在を把握できるが、実際に新日吉や新熊野と言った気軽に立ち寄れる新たなレジャー施設がオープンするとなると、そして、多くの人がレジャー施設に押し寄せるとなると、その途中で六波羅邸が目に飛び込んでくる頻度はこれまで以上に増えることとなるし、その規模に圧倒させられることにもなる。たしかに一つ一つの建物は貴族な邸宅と比べると小さい。しかし、数が違う。それも、各々が貴族の邸宅とは比べ物にならないレベルでの軍事要塞化した建物であり、常備している軍勢も目の当たりにするのだ。

 仮に六波羅邸を全く認識せずに参詣できたとしても、参詣そのものが平家の勢力を実感させる効果をもたらす。二つの新造社檀の勧請に尽力したのが平清盛なのである。日吉の別宮と言っても、あるいは、熊野の別宮と言っても、全く縁もゆかりもない神社として建てたわけではない。新日吉神宮は近江国から、新熊野神社は紀伊国から木材と土を運び込んで建立させたのだが、それを可能とさせたのが平清盛の、そして平家の財力であった。

 勧請、すなわちオープンの翌日に翌一〇月一七日に後白河上皇は新熊野社に向かった。その周囲を固めるボディーガードが平家である。平家のボディーガードとしての能力を買っただけでなく、今回の建立を成功させ無事に勧請まで漕ぎ着けたことを後白河上皇が称え、その功績として参議平清盛に同行を許可したのである。平清盛は自分一人の功績ではないとして平家の面々も行動をともにさせたのであった。

 これだけでも充分にアピールであったが、永暦元(一一六〇)年一〇月二三日、後白河上皇が人生初の熊野詣に出発したことでさらなるアピールにつながった。ここに平清盛が同行したのだ。上皇のプライベートに参議が付き合ったという体裁であり、平治の乱で中断させられた平家の面々のバカンスの再開という側面もあったが、上皇が自身のボディーガードを平清盛に依頼したということになってもいて、平家の面々が集っての行軍にもなっている。

 熊野詣は白河上皇の頃からの典型的な皇族や貴族のレジャーであったのだが、どういうわけか後白河上皇はこれまで興味を示してこなかった。その後白河上皇がいきなり熊野詣に出向いたのは、レジャーであると同時に、院政の継承者たることを示すアピールする目的も存在した。また、平家の面々が後白河上皇の護衛にあたっていることは、前年の平治の乱で中断させられていた平家の、当時の捉え方で言うと伊勢平氏たちのバカンスのやり直しを後白河上皇がさせたもいえるが、後白河上皇が平家と協力関係を築いたこと、いざとなれは、後白河上皇が平家の武力を頼れることをアピールすることにもなった。白河上皇以後の北面の武士の活用を拡大させ、平家を北面の武士に組み込もうという算段である。なお、後白河上皇はそれまで何ら関心を持っていなかった熊野詣に対する認識が一変し、生涯で三〇回ほど熊野詣に出かけることとなる。

 現在の京都に住む人が熊野詣をしようとするなら、かなりの急ぎになるが日帰りも不可能では無い。余裕あるスケジュールを組んだ熊野詣とする場合は二泊三日から三泊四日が推奨されているが、それは現代日本の交通インフラによるものであって、平安時代のインフラでそのようなスケジュールは期待できない。通常は京都を出発してから熊野大社に詣でて京都に戻ってくるまで一ヶ月は要するのが普通である。これはこの時代として最高の交通インフラを利用できる後白河上皇だけでなく、身体を鍛え、軍馬を用意することもできた武士の熊野詣でも同じで、前年の平治の乱の開始も、平清盛をはじめとする伊勢平氏の面々が一ヶ月は戻ってこないという前提があったから起こせたものである。


 前年の平清盛の熊野詣は平治の乱の勃発で中断させられたが、永暦元(一一六〇)年の熊野詣は無事に終了した。ただし、熊野詣を無事に終えても、京都が平穏無事であったわけではない。熊野詣から京都に戻ってきた人達が直面したのは予想だにせぬ大ニュースであった。美福門院藤原得子が亡くなったというのだ。

 いったい誰が四四歳という年齢での死を予想したであろう。いかに平均寿命が今よりも低い時代であっても四〇代は老いによる死を覚悟すべき年齢ではない。だが、永暦元(一一六〇)年一一月二三日に飛び込んできたニュースは白河の金剛勝院御所において美福門院藤原得子が亡くなったという知らせであるだけでなく、自らの死の処遇についても周到に用意されていたという知らせであった。美福門院の死因については記録に残っていないが、美福門院自身は自らの命の終わりをある程度前もって把握していたようで、遺言は突然の死を迎えた人のそれではない。おそらく、自らの命が残り少ないことを悟らざるを得ないほどの病気に襲われ、覚悟の上で自らの生涯を終えたのであろう。

 鳥羽法皇は生前、鳥羽の安楽寿院の境内に三重塔を建立し、自らの亡きあとは三重塔に遺骸を納めるように遺言を残していた。そして、鳥羽法皇の遺骸を納める三重塔の南東にもう一つの三重塔を建てており、今後、美福門院藤原得子が亡くなったならば、南東の三重塔に遺骸を納めるように命じてあった。ところが、美福門院藤原得子の遺言は違った。火葬されたあとの自らの遺骸は高野山に納めるようにとのことだったのである。安楽寿院を管理する天台宗からは、当初は鳥羽法皇の遺言を守らないのはどういうことかという不満が、そのすぐ後からはせめて分骨だけでもどうにかならないかという請願が届いたが、双方とも故人の意向であるとして無視された。また、高野山からはいかに遺骸であるとはいえ女人禁制である高野山に埋葬することができるのかという確認の連絡が来たが、こちらも故人の意向であるとして問題無しとされた。

 今は亡き鳥羽法皇の婦人が亡くなったのは確かにニュースであるが、それだけであるならここまで大きなニュースとはならない。世間を騒がす大ニュースとなったのには理由がある。美福門院の所有していた莫大な荘園だ。美福門院自身が大規模な荘園所有者であっただけでなく鳥羽院の荘園を相続したのが美福門院藤原得子であり、その後の荘園拡大も手伝って、永暦元(一一六〇)年一一月時点で日本最大の荘園領主でもあったのが美福門院である。彼女の死は必然的に相続争いにつながる。これが大ニュースとなったのだ。

 皇族や皇族に嫁いだ女性の資産ならば皇室財産として捉えることができるが、鳥羽法皇も美福門院も出家して皇室とは一線を画す身となっていた。そのために生前は私的な資産形成ができたのだが、死後となると、私的な資産形成であるがゆえに、皇族にある身では相続することが許されない資産にもなってしまう。

 後白河上皇は院政の継承者として美福門院の資産相続を狙ったようであるが、その目論見は失敗している。院号を得た皇族の個人資産を相続できるのは、その個人と近しい血縁者で、かつ、自身も院号を持つ者であるか、あるいは、出家して皇室から離れている身でなければならない。院号に視点を向ければ後白河上皇だって院号を持っているではないか、さらに言えば、鳥羽法皇の実子ではないかという思いもよぎるが、後白河上皇の実母は藤原璋子であって藤原得子ではない。鳥羽法皇の資産の継承ならまだしも、藤原得子の資産の継承となると、対象から外されても文句は言えない。

 最終的に所領を一括して相続することとなったのは鳥羽法皇と藤原得子の間に産まれた娘である暲子内親王である。この時点での暲子内親王は院号こそ有していないが、二一歳の若さで出家してから四年目を迎えている。出家しているために相続する資格を有する。

 ではなぜ、藤原得子の子供のうち暲子内親王が資産相続者に任命されたのか?

 理由は簡単で、藤原得子の子供のうち暲子内親王だけが皇室から離れていたからである。藤原得子の子供のうち近衛天皇は既にこの世の人ではなく、姝子内親王は出家したものの二条天皇の中宮であり続けており、皇室とのつながりを絶ってはいない。そのため暲子内親王が相続することとなった。

 それだけならニュースにならなかったであろうが、相続の規模を知ると日本になるのが当たり前になる。鳥羽法皇が所有していた荘園が四八ヶ所、藤原得子が所有していた荘園が七九ヶ所、それに暲子内親王自身がもともと手にしていた荘園も合わさって、合計二二〇ヶ所以上の荘園を所有する身となったのである。この時代の荘園は現在の企業に相当する。二二〇もの荘園を有する身になることは、現在で言う二二〇社を束ねる巨大企業のCEOに就任するに等しい。それも二五際の若さで。


 美福門院藤原得子の死により権力のバランスが崩れ始めていた。

 それまでは二条天皇親政と後白河上皇院政との間のバランスを、鳥羽法皇の院政の威光がまだ残る美福門院藤原得子の存在、ならびにその財力がとっていた。美福門院の勢力は必ずしも強大ではないものの、二条天皇親政を推す勢力と、後白河上皇院政を推す勢力との双方が決定打に打って出るのを許さないぐらいの勢力ならばあったのだ。

 その美福門院の死により二条天皇親政と後白河上皇院政との対立が如実に表れるようになっていた。ましてや保元の乱も平治の乱も、突き詰めていくとそこには後白河上皇の存在が見えてくるのだから、いかに後白河上皇が二条天皇の実の父であろうと妥協できるものではない。

 白河法皇が院政を確立させた頃、白河法皇は自身を関白に擬す存在とすることで権勢を手にした。とは言え、関白がいないわけではなかった。白河院政期は藤原忠実が摂政や関白を務めていたし、白河法皇の権勢を継いだ鳥羽院政期には藤原忠通が摂政と関白を務めていた。ただ、二人ともかつてのような摂政や関白としての政務を執ることができなかった。幼帝即位に伴い関白より職務の多い摂政となったり、あるいは、院の命令による事実上の謹慎処分といった形で関白としての職務を遂行できなくなったりしていたのがこれまでである。

 永暦元(一一六〇)年一一月時点は違う。藤原基実が関白として君臨している。一八歳という若さを危惧する声はもう聞こえない。聞こえたとしても、第一線を退いた藤原忠通が背後に控えている。一八歳では関白としての後継者がいないではないかという声も以前はあったが、今はもう、藤原基実の弟であり既に内大臣にまで地位を進めている藤原基房がいる。今は亡き藤原信頼が突きつけたように藤原基実は近衛大将としての経験を持っていないが、その代わりとすべきか内大臣藤原基房は武官のトップである左近衛大将を務めている。

 統治システムとしては天皇が君臨する皇室という仕組みのほうが古く、院政はついこの間誕生したばかりの新しい仕組みである。しかし、一八歳の二条天皇、一八歳の関白藤原基実、一七歳の内大臣藤原基房、こうした若さを前面に押し出すことのできる皇室のほうが、システムとしては古いものであっても新しさをイメージさせることができると同時に、後白河上皇の邁進している院政は、院政そのもののこれまでの失敗に加え、後白河上皇のこれまでの失態が評判に影響を及ぼしている。

 若さというのは民意を獲得しやすい。相手の失態も民意を獲得しやすい。そして、奮闘するも抵抗勢力の前に無残に敗れているという情景も民意を獲得しやすい。このときの二条天皇はその全てが揃っていた。二条天皇の若さ、後白河上皇の失態、そして経済的苦境に立ち向かおうとするも既存勢力の抵抗に遭い失敗しているという現状は、二条天皇への支持と、後白河上皇への反発を生みだしていた。

 この時代に選挙はなく、民意を直接政治に反映させる方法はない。しかし、民意を無視する政治をしたらどうなるかを知らない政治家もいない。後白河上皇は自分が民意を獲得していないという自覚はあったが、民意に負ける政治家でもなかった。民意の前に敗れ去ることを選ばず、自分も民意を獲得することを目指したのだ。後白河上皇にも民意を獲得する手段は残されていて、それが平清盛を検非違使別当にすることであった。他の側面では後白河上皇のほうが抵抗勢力であったのだが、検非違使別当の人事だけは後白河上皇のほうが改革者となる。


 二条天皇親政を推す勢力もそのことは理解していて、いつまでも平清盛を検非違使別当としないまま月日を経過させることは得策ではないと考えていた。考えてはいたがか、平清盛の望みを全て叶えさせてしまったら平家の勢力が制御できない大きさまで成長してしまう。これは看過できるものではないとも考えていた。

 その結果、平清盛を検非違使別当に就けることは受け入れるが、その他の部分で平清盛の勢力を削ることで平家の勢力を押さえこもうとする二条天皇親政派と、考えうる中で最大の勢力を築きながら平清盛を検非違使別当にしようという後白河上皇院政派との駆け引きが始まった。

 まず、永暦元(一一六〇)年一一月三〇日、平清盛の長男の平重盛が内蔵頭(くらのかみ)に就任した。内蔵寮(くらりょう)は宮中の資産管理を司る部門であり、緊急時の出費は内蔵寮の資産から捻出される。内蔵頭はそのトップに当たる職務で、現在で言うと、自然災害などの緊急時の補正予算についての最高責任者となったというところか。ただし、それまで兼任していた左衛門佐と伊予守の二つの職務から離れることが条件とされた。これにより、中央における平家の勢力拡大と地方における縮小の取り引きが実現した。また、平重盛を左衛門佐から外すことで平家の動員できる武力から平重盛が消えた。平清盛の最大の副官となっていた平重盛の不在は、武家としての平氏にとっては痛恨の一撃であるが、内蔵頭として平重盛がいることは貴族としての平家にとっては充分にメリットである。このあたりが、貴族でもあり武士でもある平家の微妙なところか。

 永暦元(一一六〇)年一二月一五日、二条天皇の乳母であり、平清盛の正室でもある平時子が八十島典侍として下向。その九日後、平時子が八十島典侍に対する報償として従三位に叙された。これで平清盛は上流貴族の女性と結婚した身となり、平清盛と平時子との間の子は上流貴族の生まれとみなされるようになった。要は、蔭位の制の適用対象となったということである。このレベルの位階を持つ夫婦となると、藤原氏か、村上源氏をはじめとする貴族としての源氏に限られてきたことであるため、通例を覆す待遇だ。なお、彼女は後に二位尼(にいのあま)と称されることとなるのだが、それは後に位階を従二位にまで進めたからであり、従三位であるこの時点で平時子のことを二位尼と呼ぶ人はいない。

 平家が蔭位の制を受ける氏族になったことで、間もなく新年を迎えようかという永暦元(一一六〇)年一二月二九日、平清盛の次男の平基盛が越前守に就任した。越前国司と言えば、美濃国と並んで国司任官希望者の殺到する官職である。平清盛の次男に越前国司の地位を用意するというのはかなり大きな譲歩と言える。

 これらの譲歩を受け取った見返りとして、永暦元(一一六〇)年一二月三〇日、平清盛が太宰大弐を辞任した。太宰府のトップとして南宋との交易を一手に握り、九州一一ヶ国に対する支配権を捨てるというのは平清盛にとって大きな痛手であるはずであるが、それを平清盛は受け入れている。理由は単純で、本来であれば太宰大弐は従四位下相当の官職であり、既に従三位に昇っているだけでなく参議に就いている平清盛が太宰大弐であるというのは、ただでさえ官職不足で、位階を手にしながら役職にありつけていない貴族が多い中では得策ではなかったからである。太宰大弐を辞すのは平清盛の切ることのできる有効なカードであり、このタイミングで太宰大弐を辞したのは平清盛がタイミングを計った結果である。


 年が明けた永暦二(一一六一)年一月二三日、平清盛が念願の検非違使別当に就いた。また、前年に辞した太宰大弐の代わりと言うべきか、同日、近江権守を兼任することとなった。この、太宰大弐の代わりとして用意された近江権守がかなり大きな意味を持っていた。

 守(かみ)ではなく権守(ごんのかみ)である国司というのは名誉職的なところがあって、本来であれば国司の職務をこなすことはないのだが、過去を探ると天承元(一一三一)年に一二歳の若さで伊予権守に就任した藤原頼長という例がある。伊予権守に就いた藤原頼長が、名誉職であるはずの権守でありながら律令に定められているとおりの権力を発揮し、令制国内の荘園の取り締まりに乗り出したという例だ。藤原頼長の場合はまだ一二歳の少年の暴走と笑っている向きがあったが、成長して出世し左大臣にまで登り詰めたあとの藤原頼長を見ると、それは一二歳の暴走ではなく過激な律令派の暴走であったことが見てとれる。

 近江国の権守に平清盛を就任させた。しかも検非違使別当を兼任させた上で平清盛を就任させた。近江権守は名誉職であるという表向きの名目をそのまま信じるのはお人好しに過ぎる。実際、これに驚きと戸惑いを見せたのが近江国にある山門派の延暦寺と寺門派の園城寺である。特に比叡山延暦寺は平清盛が近江国司となったことに強い警戒感を抱いたのだ。

 どういうことか?

 延暦寺も、園城寺も、いかに京都に近いと言ってもその住所は近江国であり近江国司の支配下に置かれる。近江国に限らず国司という職務は、領域内の治安問題が首都にも影響を及ぼす懸念があると認められたならば、取り締まりのために検非違使別当に対して検非違使の派遣を要請することが認められている。そして、検非違使別当は国司からの要請があったならば動かねばならない義務がある。

 同時に、国司の職務には統治国内の治安維持も含まれている。首都を守る検非違使のトップである検非違使別当から国司に対して統治領域内についての治安維持要請が発せられたならば、令制国内に限定することとなるが、国内に武力を展開してでも治安悪化の原因に対して立ち向かうのは、権利ではなく義務となる。確かに、それらの義務を果たさない国司は珍しくなかった。それ以前に、そのような武力を持っている国司自体が少なかった。

 というところで、平清盛が近江権守兼検非違使別当となった。

 いかに実権を伴わない名誉職であるといっても、近江権守が治安維持の目的のために武力を発動させることは違法ではなく、その前例はすでに存在していた。しかも、今回は充分に武力を発揮できる人物が近江権守に就いた。おまけに、その近江権守は検非違使別当を兼任している。こうなると、検非違使別当である平清盛が、京都の治安維持目的のために近江権守である平清盛に対し、つまり、自分で自分に対して武力発動要請をすることが可能となる。しかも、誰の指図を受けることも無しに。

 これを延暦寺と園城寺の立場に立って捉えると、デモ集団を組織して行動を起こした段階で平清盛率いる軍勢とまともにぶつかることを意味する。いかに平家に不満を持っていようと、死を覚悟でデモに身を投じる者はそう多くはない。死を覚悟して投じたとしても、待っているのは自分一人だけではなく寺院全体に対する報復だと考えると、いよいよ行動は制限させられることとなる。

 前年の延暦寺のデモ集団に対して何もできなかったことに対する答えが実に明瞭に示されたことは、それまで決して高くはなかった後白河上皇に対する支持を上げるのに役立った。

 もっとも、このときに獲得した支持を、後白河上皇は軽はずみから失うこととなるのであるが。


 後白河上皇は何をやって、ようやく手にした支持を失うこととなったのか?

 あまりにも浅すぎる行動である。

 白河法皇は鴨川の東の白河の地に寺院を建て、そこを住まいとして院政を構築した。鳥羽法皇はあちこちを転々とした人であるが、それでも基本的には平安京の南の鳥羽離宮を主な住まいとした。では、後白河上皇は?

 本来は三条殿が後白河上皇のために用意された住まいであったのだが、三条殿焼亡のために高松殿に住まいを移し、高松殿焼亡のあとは三条烏丸殿に移った。という状況で平治の乱を迎える。

 この頃にはもう後白河上皇はプランを練っていた。鴨川の東、六波羅の南に自らの院政の拠点を構えるというプランである。三条殿も高松殿も三条烏丸殿も平安京の中の邸宅の一つであり、ただでさえ土地の限られている平安京の中にあっては、どんなに広大な邸宅でも限度がある。しかし、平安京の外にまで目を転じると限度は無くなる。白河法皇が白河の地に法勝寺を築いたところから白河の地は白河院政の一大拠点となった。元々は出家前の白河上皇が寄進を受けて手にした邸宅であったのを鳥羽上皇が拡張したことで鳥羽離宮は鳥羽院政での一大拠点となった。後白河上皇は、白河の地と鳥羽離宮とに匹敵する院政の一大拠点を平安京の外に建設することを計画したのである。

 それだけであれば特に問題は無かったであろうが、問題は多かった。

 後白河上皇が選んだのは、今は亡き信西の邸宅跡である。平治の乱の際に焼亡した跡地を後白河上皇は自らの院政の拠点と定めたのだが、新たに木材を切り出して建物を建てようとしたのでなく、既に存在している建物を解体して建てることとしたのである。

 どの建物か?

 中御門西洞院にあった藤原信頼の邸宅である。

 持ち主の無い住まいとなっている建物の有効活用といえば聞こえはいいし、直接死を命じたのも後白河上皇ではないのだが、平治の乱で全くの無関係者であったとあったとは言いきれない後白河上皇のこの行動は不満を集めるに充分であった。

 おまけに、信西の邸宅の跡地は院政を展開するには狭かった。平安京の外にあると入っても信西の邸宅の敷地面積は一般的な貴族のそれであり、里内裏とするにはどうにかなる広さかもしれないが、院政を展開するには狭かった。里内裏より広くなければ院政が展開できない具体的な理由はないが、後白河上皇の考えに従えば、白河法皇は法勝寺から南北の白河殿までの一帯を院政の舞台とし、鳥羽法皇は平安京の南の鳥羽離宮を院政の舞台としたのだから、自分も前任者二名ほどの広さがなければ院政が展開できないと考えたのだ。

 白河法皇自身の言葉にもある通り、平安京は鴨川の洪水に何度も悩まされてきた都市である。平安京そのものの被害は軽く済んでも、鴨川東岸の白河の地は水害に何度も悩まされてきた土地だ。だからこそ他に住むところを得られない貧しい者が鴨川東岸の白河の地にスラム街を形成していたのだし、藤原道長の手による白河の地のスラム街整備の後はスラム街跡地を空き地とすることに成功して、白河法皇は自らのための土地として鴨川東岸の白河の地を手に入れることにさほどの苦労をせずに済んでいた。

 鳥羽離宮に至ってはそもそも平安京から三キロは離れている場所にある。三キロという距離は、平安京から完全に離れているわけではないが平安京と一体化するには微妙に離れている距離であり、都市としての平安京に住まいを構えようとする者が住所として選択するには躊躇う距離がある。おまけに、鴨川と桂川の合流地点、すなわち、水害が頻発していた地点であり、治水工事が完了するまではそもそも人が住むのに適した場所では無かった。こちらもやはり土地の取得に苦労することはなかったのだ。

 白河の地も鳥羽離宮も平安京から一定の距離を置いている上に、人のほとんど住んでいない土地に建てた建物なのである。だからこそ広い敷地面積を確保できたのだ。一方、後白河上皇が考えた信西の邸宅跡は、かつてであれば鴨川の東ということで水害頻発による無住の地と扱うこともできたが、清水寺のふもとの一帯に平清盛の祖父の平正盛が邸宅を構えてからは平安京に程近い住宅地とみなされるようになり、多くの住居や寺院が建てられるようになっていた。後白河上皇は自らの院政のために周囲の住宅地や寺院に対して移転を強要したのだ。後白河上皇が周囲の十数町の区画を取り込んだために移転を余儀なくされた建物だけでも八〇を数えると当時の記録は語っている。

 この強制移転が後白河上皇に対する激しい反発の原因となったのである。せっかく手にした支持も、強制移転により激減することとなったのだ。

 それでも後白河上皇は超然として構えていた。建設までの強引さを無視したというのもあるが、建設が終わった後は再び支持を得られるはずと確信していたのである。そしてその確信は、後白河上皇が思い描いていたほどではないが、後白河上皇に反発する人にとっては想像以上の規模を生み出すことに成功したのである。


 永暦二(一一六一)年四月一三日、後白河上皇が、完成したばかりの東山御所に住まいを構えた。のちに法住寺殿、あるいは法住寺南殿と呼ばれることとなる建物である。現在で言うと、京都駅から東に向かい、鴨川を渡って京都国立博物館方面に向かうと、法住寺や三十三間堂に出る。このあたりが法住寺殿である。そして、北に少し歩いて国道一号線の北まで行くと、そこは平家の本拠地である六波羅。実際に行くとこんなに近いのかと驚かされるほどだ。

 さらに着目すべきが、六波羅から法住寺殿までの一帯から西の鴨川方面を眺めたときの光景。ものの見事に平安京の南部、この時代の庶民街が広がっているのがわかる。白河法皇は白河の地に法勝寺九重塔を建て、平安京の北部の貴族街から平安京の東を見たときにそれまでにない巨大な建物が目に飛び込んでくることで、その建物を支配する白河法皇という光景をイメージづけることに成功したが、後白河上皇は、白河法皇と同様に平安京から東の鴨川方面を眺めたときに巨大な建物が広がることをイメージづけさせようとしたのだ。しかも、白河法皇のように貴族街に対してではなく、平安京の南部の庶民街に対してイメージづけさせることに成功したのは大きい。そのイメージを強化するかのように、法住寺殿に移ったまさにその日、後白河上皇は鴨川を東から西に渡って七条北東洞院にまで出向いて稲荷祭の祭礼行列を見物し、見物を終えたら鴨川を西から東に渡って法住寺殿に戻っている。庶民の熱狂するイベントである稲荷祭の祭礼行列を観覧する一人となり、イベントが終わったのちに法住寺殿に戻ったことで、平安京の庶民たちは後白河上皇が法住寺殿に移ったこと、そして、今までと変わらず庶民の娯楽に関心を示す人であり続けていることを認識した。

 庶民街に対してイメージづけさせることのメリットは、何と言っても民意の獲得に尽きる。民主主義を制度化していない国であろうと民意を獲得することなしに政権を維持することは極めて難しい。裏を返せば、政権を手にしていない者が政権を掴もうとするときに民意を手に入れているとそれだけで政権を手に入れやすくなるということでもある。もっとも、必ず民意を手に入れることができるわけではなく、民意を獲得しやすくなるということである。実際、このときの後白河上皇は、建物の移転を強要させたことが響いており充分な民意を獲得できずにいた。建物の強制移転が無ければ充分な民意を思い通りに獲得できた可能性が高いが、強制移転のせいで民意の獲得は充分でないものとなったのである。

 それでも、後白河上皇に反発する者にとっては脅威となるべき規模の民意の獲得にはなってはいた。

 ではなぜ、六波羅の南の法住寺殿に自らの勢力基盤を作り上げることと民意を獲得することとがつながるのか。

 それには五つの理由がある。

 一つ目は六波羅の存在。法住寺殿から北に向かって六波羅に至るまでの一帯が一つのエリアを構成するようになり、後白河上皇と平家とが密接なつながりを示すようになった。検非違使別当である平清盛に対してただちに行動を要請できることは、後白河上皇の要請次第で、平安京の治安維持、さらには延暦寺をはじめとする寺社のデモに対する防御を平家に期待できるようになることを意味する。前年のように延暦寺のデモ集団が平安京になだれ込んで好き勝手に暴れるなどという恐怖と決別できるという感情は無視できない。本来あるべき姿で言えば朝廷が武力を発動させて鎮圧に当たるべきところであるが、朝廷には独自の軍勢がない。かつては清和源氏の軍勢も期待できたが保元の乱で清和源氏の主だった指揮官が死罪となり、平治の乱で清和源氏の軍勢が事実上壊滅したために、清和源氏と伊勢平氏とを競わせた上での軍事出動はもはや不可能となっていたのである。とは言え、伊勢平氏は平家と姿を変え、あるいは平家へと進化して、今なお健在であるのだから平家の軍勢を朝廷が動かそうと思えばできるのではないかと思うかもしれないが、議政官が平清盛をどのように扱っているかは周知の事実であり、議政官の都合で平家の軍勢を出動させるように平清盛に要請するなど不可能とするしかなかったのである。だが、後白河上皇の要請であれば平家の軍勢が行動を起こすことも可能だ。自分たちを守ってくれる存在のことを考えたとき、守ってくれる存在を動かすことのできる後白河上皇への民意が高まるのは自然なことである。

 次にその非日常性。前述の通り法住寺殿から六波羅にかけての一帯が一つのエリアを構成するようになっており、エリア全体が宗教的に独自の構造を展開している。まず、六波羅の北には祇園社がある。祇園社は平安京の庶民にとって最大の祭礼であった祇園御霊会を主催する寺院だ。一方、法住寺殿の南には祇園御霊会に比べれば規模は小さいものの、それでも断じて無視できる祭礼ではない稲荷祭を主宰する稲荷大社がある。祇園御霊会にも稲荷祭にも興味を示さない者であっても、この時代の重要な葬送の地である鳥辺野は、規模が縮小されたとは言えなおも健在だ。そして、鳥辺野はエリアの東側に位置する。こうした祭礼や葬儀の都度、否応なく法住寺殿とその北の六波羅を意識せざるを得なくなるのも民意獲得にとって有効に働く。

 三番目に、非日常の祭礼の場面だけでなく、日常の場面でも意識から外れることはできないことが挙げられる。平安京最大の商業区画である東市の中央を東西に走る七条大路を鴨川まで歩いていくと、道中の南北にこの時代の最先端工業技術である細工、箔師、鋳物などの手工業者の作業場兼住宅が広がる。手工業者の宅地が連なる街並みを突き進んで鴨川まで出ると、鴨川左岸を南北に走る大和大路とぶつかる。この交差点から鴨川の東を眺めると法住寺殿が目に飛び込んでくる。この時代の商業と最先端技術の中心を成す道路と目と鼻の先というのは、現在の東京の感覚でいくと渋谷に対する青山や表参道のようなものだ。その延長上に法住寺殿があり六波羅があるとなると、日常の場面でも意識せざるを得なくなる。これもまた民意獲得にとって有効な要素だ。

 四番目に、鴨川右岸には白拍子をはじめとするこの時代のタレントが多く住み、今様が当たり前に聞こえるエリアになっていたことが挙げられる。白拍子(しらびょうし)とは男装をして歌と踊りを披露する女性のことで、現在のイメージで言うと会いに行くことのできる地下アイドルというところか。元からして当時の最先端の流行音楽である今様(いまよう)にハマっていた後白河上皇だ。庶民の流行に敏感な後白河上皇は、自身が流行に乗るだけでなく流行の最先端を整えることもしたのである。憧れの白拍子に会うために鴨川を渡ると最先端音楽である今様が流れる空間に出る。白拍子との夢のひとときを過ごすことは、この空間を演出した後白河上皇の存在を改めて認識させられることとなるのである。

 最後は四番目と類似しているが、後白河上皇自身が流行の最先端をいく人物だったことが挙げられる。後白河上皇が流行を生み出すのではなく、どんな流行だろうと後白河上皇はついていくのだ。おかげで、どんなブームが起こっても行く先々に後白河上皇の姿が見えてくる。後白河上皇から離れることを選ぶと流行遅れになるほどだ。いつの時代も若者は流行の最先端を走ろうとするものであるし、最先端の技術に身を投じることも厭わない。自分たちの暮らしと自分たちの趣味嗜好こそが新しさであり、自分たちを理解せぬことを時代遅れと感じる。永暦二(一一六一)年で言うと、後白河上皇への反発をどんなに強く抱く人であっても、流行の最先端の只中に後白河上皇がいて、最新の流行に理解を示していることは否定しようがなかった。

 いつの時代も世代に関係なく自分の政治信条を革新的と捉え、相手の政治信条を保守的と見下すものだ。現在の日本で話をすると、周囲から保守派と扱われ自らも保守的と自称する人であってもその考えは革新的であることは多く、相手のことを守旧派として貶すことも多い。実際に、自分を革新と名乗りながら、その主張は守旧に徹している人は珍しくもない。

 話を永暦二(一一六一)年に戻すと、天皇親政を意図する面々が、内容としては守旧である従来通りの政治を展開しても、二条天皇や藤原基実や藤原基房の若さゆえに新しさをイメージさせることに成功し、それに対抗する後白河上皇の院政のほうが古臭いイメージを伴っていたのだが、文化面でいくと最先端の流行と最先端技術とのつながりのおかげで後白河上皇の院政のほうが新しさをイメージさせられることとなり、対する二条天皇親政のほうが古臭いイメージを伴うのである。この二律相反の結果、自らの政治信条を二条天皇親政に置く者は、天皇親政のほうが新しさゆえに革新的であり院政のほうが古臭くて保守的と扱うようになったのに対し、自らの政治信条を後白河上皇院政に置く者は、院政のほうが新しさゆえに革新的であり天皇親政のほうが古臭くて保守的と扱うようになったのである。

 美福門院藤原得子が亡くなってから半年、後白河上皇院政を画策したはずの平治の乱の終結から一年、政局は二条天皇親政派と後白河上皇院政派との争いに突入し、平治の乱の鎮圧の最大の功労者である平家が、今や、後白河上皇院政派の重要なファクターとなっていた。


 後白河上皇の庶民の娯楽に対する関心は後白河院政に対する庶民からの支持を得る効果があったが、庶民の娯楽への嫌悪感を抱く者にとっては、後白河上皇への反発を隠せぬことでもあった。

 その反発に対し後白河上皇はパフォーマンスで対抗した。

 永暦二(一一六一)年七月四日、この日は法勝寺八講が開催されることになっていたが、洪水によって鴨川にかかる橋が流れてしまっていた。

 法勝寺は鴨川の東の白河の地にある寺院で、この時代の京都で最大の建造物である九重塔で有名な寺院でもある。建立させたのは白河法皇で、法勝寺から南北の白河殿までの一帯が白河という一つのエリアとして把握されていた。後白河上皇にとって法勝寺で開催される仏事に参加することは、後白河上皇が白河法皇の後継者であることを示し、院政の継承を主張する絶好の機会であった。

 橋が壊れたなら遠回りして行けばいいではないか、そもそも後白河上皇の住む法住寺殿は鴨川の東であり鴨川を渡る必要はないではないかとなるが、重要なのは仏事に参加することではなく、仏事に参加する様子を見せつけることである。要は、誰もが見ている前で法勝寺に向かう姿を見せなければならないのだ。いかに法住寺殿の一帯のエリアが注目を集めるようになっていても、京都の都心はやはり鴨川の西の平安京の区画内であり、平安京を出発して鴨川を西から東に渡って法勝寺に向かう光景を衆人環視のもとで見せつけないと意味がないのだ。

 意味は無いのだが、橋が壊れているのだから渡れない。渡るとしたらどうにかして増水している川を渡らねばならない。

 後白河上皇が選んだのは強引に川を渡る方法である。資料には裸にさせた面々に担がせて対岸まで渡らせたとあるから、上皇ともあろう人の川の渡り方では無い。しかも、自分一人ではなく周囲の者も同じように渡らせたとあり、かなり話題になったことが述べられている。白河法皇の院政の継続に対する執念と同時に、後白河上皇という人は前例を無視して平然としている人であること、それも、上皇でありながら上皇らしからぬことを誰もが見ている前で平然とこなす人であることを見せつけるに充分であった。

 ただ、これだけやっても明瞭となっていないことがあった。

 後白河上皇が権力を掴もうとしていることはわかるが、権力を掴んで何をしようとしているのかが全くわからないのである。


 政治とは、いかに国民生活を良くするかである。

 藤原頼長は律令への回帰により国民生活の向上が果たせると考えた。

 信西は増税なき財政再建と公共事業をはじめとする積極財政で国民生活の向上が果たせると考えた。

 永暦二(一一六一)年時点ではそのどちらもいない。保元の乱と平治の乱を経て残ったのは、二条天皇親政を推す一派と後白河上皇院政を推す一派との対立である。ただし、その双方ともどのような形で国民生活の向上を果たすのかという明確なイメージを公表していない。

 それでも二条天皇親政派はまだわかる。既存の権力システムをそのまま継続し、最終的には藤原道長の頃の時代に戻すことを考えているのだから、どのようにして国民生活の向上を果たすかという問いに対し、前例に基づき、かつ、既存のシステムに基づいて適宜対応するという回答を示すことができる。実際、律令を文面どおりに適用するのでなく、時代に合わせて令外官をはじめとする新たな役職を創設することによってその時代の諸々の問題に対応してきたことの積み重ねが既存システムだ。そして、その最高の成功例が藤原道長の時代だ。あの時代の権力システムに戻せば今後起こるであろう問題に対しても柔軟に対応することもできると考えるのはおかしなことではない。

 それに何と言っても、二条天皇を頂点とする朝廷はこの国における唯一の正当な権力システムだ。奥州藤原氏のようにその地域に独自の権力を持っていようと、その地位の裏づけとなるのは京都の朝廷から与えられた役職と位階である。国外から使者がやってきたとしても応対するのは京都の朝廷だ。実際に応対するのが太宰府の役人であろうと、国外からの使者は太宰府の役人と接しているのではなく京都の朝廷の任命した外交担当者と接していると扱う。それがその国における唯一の正当な権力システムだ。

 一方、後白河上皇は何をしようとしているのか。後白河上皇自身は、白河法皇、鳥羽法皇と受け継がれてきた院政を継承しようとしているのだと回答するであろうが、時代はもはや院政を求めなくなっていた。院政によって国民生活が良くなったならば院政に対する支持もあろうが、そのようなものは無い。あるのは院政の誕生する前の時代に対する慕情であり、あの時代と比べて生活がますます悪化しているという実感だけである。永暦二(一一六一)年の人にとって院政の前の時代というのは生まれる前の時代の話であるが、生まれる前の時代であるからこそ抽象的なイメージとなって語り継がれる。藤原道長の頃の暮らしぶりと現在の暮らしぶり、源氏物語に代表される華やかな文化と現在の文化、これらの比較で得られる感情は、時代の変化ではなく時代の悪化である。

 二条天皇親政派は権力システムを藤原道長の頃に戻そうとしており、後白河上皇は院政を継続させようとしている。ただし、二条天皇は藤原道長の頃の適宜対応を考えているのに対し、後白河上皇は院政の継続による権力奪取だけを考え、権力を掴んで何をしようとしているのかという考えが全く無い。


 二条天皇親政派にも弱点がある。藤原道長の頃の時代への回帰を求めるために、異分子を排除しようとしているという弱点である。藤原氏が大部分を占め、ごく一部に源氏が加わるという権力システムを考えており、そこに平家をはじめとする他氏の存在は無い。源氏と言っても平治の乱で壊滅状態に陥った武家勢力としての清和源氏のことではなく、村上源氏や後三条源氏をはじめとする貴族社会での源氏のことである。

 権力システムに参加できるのは藤原氏と一部の源氏のみ。藤原氏に生まれたといっても藤原北家に生まれなければ権力システムに参加できず、藤原北家の生まれでも藤原忠平の子孫でなければ権力システムの中心部に参加できず、藤原忠平の子孫でも藤原道長の子孫でなければ権力システムの軸を担うことはできないという閉ざされた世界である。必然的に排他的になり、排除された者は一発逆転を狙うようになる。その一発逆転のチャンスが院政であった。院政が批判されながらも権力を持つことができたのは、上皇や法皇が権力を握っていたことだけが理由ではない。白河法皇にしろ、鳥羽法皇にしろ、生まれのせいで機会に恵まれなかった者に朝廷での権勢を手にするチャンスを用意したからこそ権力を持てたのである。どんなに働こうと、どんなに実績を残そうと、生まれの低さゆえに全く評価されない時代が続いていて、誰もがそれを仕方無いこととして受け入れていた。そこに院政が楔(くさび)

を入れた。白河法皇に、あるいは鳥羽法皇に接することによって朝廷内で官職を掴むことができるようになった。白河法皇も鳥羽法皇も人事を決定していたのではない。強い推薦の意思を示しただけである。しかし、その時代の天皇の父や祖父や曽祖父にあたる人の強い推薦をどうすれば無視できるというのか?

 強い推薦は事実上の命令となり、院政が朝廷人事に口を出す仕組みが六〇年近く続いている。院政にどんなに批判的な人であろうと、六〇年近くに渡って、院政によって人事の不公平が解消されていたことは断じて無視できなかった。その無視できぬことの延長上として、永暦二(一一六一)年八月時点で言うと、平清盛が参議に加わっていることが挙げられる。平清盛がトップである平家が後白河上皇院政派の最大勢力となっていたのだ。

 平家が後白河上皇院政派となったのは単純明快な話だ。平家が二条天皇親政派になったところで地位を築くなどできようがない。しかし、後白河上皇院政派となることで、政策的に後白河上皇と合致することはなくとも、後白河上皇の強い推薦によって地位を築けるというメリットがある。後白河上皇にしてみれば、平家という勢力はこの時代の日本国における最大の武力集団でもあるのだから、平家を登用してほしいという強い推薦を朝廷に対して示すことによって、平家の武力を自らの意見を増幅させることができるというメリットがある。保元の乱の記憶も平治の乱の記憶も消えていないし、平安京にまでやってきた延暦寺のデモ集団に対して何もできなかったことの記憶も新しい。実際に武力を行使するにせよ、武力で脅威から守ってもらうにせよ、この時代の日本国に平家の武力を無視できる者はいない。平家と後白河上皇は互いの持つものを提供し合うことによって、国政において無視できぬ一つの派閥を構成することに成功したのである。

 政局は永暦二(一一六一)年八月一一日に大きな変化を遂げた。右大臣藤原公能が四七歳にして亡くなった。それまで関白左大臣が一九歳の藤原基実、内大臣が一八歳の藤原基房という構成であっても、実績申し分なしの藤原公能が右大臣として君臨していたことが二条天皇親政の政権安定に寄与していたのに加え、太皇太后でありながら二条天皇のもとに入内した藤原多子の父でもあるという点でも、右大臣藤原公能は二条天皇親政において無視できぬ存在感があったのである。

 その右大臣藤原公能が亡くなった。藤原基実は左大臣であるが関白を兼任しているため、議政官の指揮命令を司る一上は右大臣藤原公能が務めている。右大臣の不在は議政官の議事が滞ることを意味する。左大臣が関白兼任のため議政官に加われず、右大臣が死去したとなると、議政官の議事進行権は大納言筆頭に委ねられることとなる。内大臣は議政官の一人ではあっても議事進行権も無ければ招集権もない。すなわち、内大臣藤原基房を右大臣に昇格させるまで、大納言筆頭が議政官を司ることとなる。

 大納言筆頭は藤原宗能。この人の能力は高いものがあり、実績も申し分ない。周囲からもその博識を称賛されていた人が一上の代行をすることに文句を言う人はいないであろう。

 ただ一点を除いては。

 年齢だ。

 藤原宗能はもう七八歳なのである。藤原宗輔という例があったがゆえに気に留められることは少なかったが、現在でも七八歳となればとっくに現役引退していてもおかしくない年齢であるが、この時代は現在よりも平均寿命が低く、五〇歳で高齢者扱いされていた時代である。医療水準を踏まえても、七八歳の高齢者を担ぎ上げて政権の軸を担わせるには無茶がある。早い段階で手を打たなければ二条天皇親政における議政官が機能しなくなるのは目に見えている。

 右大臣が亡くなったことは、内大臣以下の官職がそれぞれ一つずつ上にシフトすることを意味する。その中には当然ながら参議である平清盛も含まれる。何しろ平清盛の位階は正三位。位階に従えば参議であることのほうが異常であり、順当ならば権大納言か中納言、どんなに冷遇されていても権中納言になっていなければならない位階だ。平清盛が平家でなければとっくに参議より上の役職に上り詰めているはずである。

 これが問題になった。平清盛を参議にするだけでも後白河上皇院政への充分すぎる妥協だと考えていた面々にとって、平清盛にこれ以上の官職を与えることは二条天皇親政派の目指す藤原道長の時代への回帰どころか逆行を意味し、さらには院政の強化を意味するのである。

 これだけでも厄介な話になっていたのに、永暦二(一一六一)年九月三日もっと厄介な問題が生じた。「東の御方」とも称される平滋子が男児を出産したのである。平滋子は平清盛の正室の妹、つまり義妹にあたる女性である。平家の女性が男児を出産したことの何が問題なのかと思うかも知れないが、父親が後白河上皇とあれば話は別だ。二条天皇の身に何かがあったとき、皇位がこの男児のもとに移る可能性はゼロではない。そのゼロではない可能性が現実のものとなったとき、藤原氏ではなく平家が外戚となるのだ。藤原氏が摂政となる根拠は、藤原氏であることではなく幼帝の親族であることに由来する。その理屈でいくと、摂政の地位は藤原氏ではなく平家のものとなり、平家のトップである平清盛が摂政となる。

 永暦二(一一六一)年九月四日、公的には痘瘡、すなわち天然痘の流行を理由として、応保へと改元することが発表になった。二年連続の改元である。