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日本基督教団 板橋大山教会

5月30日(日)聖霊降臨節第2主日(三位一体主日)

2021.05.30 13:00

「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 マタイによる福音書11章25~30節

 今日は、「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と題して、マタイ11章25~30節のみことばから学び、信仰の糧を与えられたいと思います。

25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 わたしが子どもの頃のことです。馬に引かれた荷車やロバに引かれたパン屋さんなどが道を通っていました。道には、ときどき、馬糞が落ちていました。馬糞を踏むと駆けっこが速くなるからといって、友達と踏んづけあって喜んだりしたことがあります。運動会の前など、落ちている馬糞を探したりもしました。なぜかその頃は、馬糞を汚いと思ったりすることはありませんでした。

 馬やロバの首には軛がつけられ、それによって荷車とつながっていました。脇道に入ると道路はまったく舗装はされていませんでしたから、土や砂利の上をときどきガタガタと音をたてながら通っていたように思います。そんな光景は当たり前でしたから、日曜学校で、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。・・・わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」というみことばは、自然に耳に入ってきたものです。子どもなりに、素直に聴いていたように思います。

 わたしたち家族は、父の転勤に伴ってよく引っ越しをしましたが、引っ越しそのものはいやだと思ったことはありませんでした。引っ越し先に行くために電車に乗ったり連絡船に乗ったりすることは、その頃のわたしにとって冒険であり楽しくさえありました。ただ、引っ越し先の新しい学校に転校しなければならなかったことは、いやでした。

 成長とともに、人のつれなさや理不尽なことに出くわす度に、いやだな、という思いは大きくなっていったように思います。それでも、親を心配させたくないし悲しませたくないので、何も言わない、そんな感じでした。

 日曜学校では、イエス様のお話や神様のお話を聴き、聖句を暗唱し、賛美をしましたが、そのときのことが、今のわたしの知識や知恵の基礎になっているように思います。聖書はいったい何を教えているのだろうかと、自分自身で問いを持ち始めてから、聖書のみことばが、ただ読んで聴いていただけのものから自分のこととして考えるものへと少しずつ変化していきました。

 二十歳前後のときのことでした。健康のためにとラッパ(バリトンという金管楽器)を習い始めた中学生の子と一緒にバンドを組んでいたときがあります。わたしもその頃、コルネットを吹いていました。その子と一緒に四重奏で讃美歌を演奏したりしたこともありましたが、彼は、中学を卒業する直前に亡くなってしまいました。知らせを受けた日、夜に彼の自宅に行きました。彼の家の前の道をゆっくりと横切っていたとき、街灯もなくあまりにも暗いので自転車にわずかにぶつかってしまいました。自転車のおじさんに、“気をつけろ”、と怒鳴られてしまい、頭を下げて“すみません”と謝りましたが、内心、ライトも点けずに自転車にのっている方がわるいのにと、複雑な気持ちが心に残りました。世の中ってこんなものなのかと、ふと感じたのを覚えています。

 普通には学校に行かず幼児期から中学生まで施設での療養生活が長かった彼の亡き顔は眠っているようでした。その子のお母さんが、バンドで一緒に演奏できたことをとても喜んでいたと言ってくれたのを、これを書きながら思い出しています。

 子どもの頃は、聖書のお話を聴くことが好きでしたが、自分に結びつけてまで考えることは少なかったように思います。牧師になり、この年齢になって、「わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」という今日の聖書のみことばは、イエス様からしか聴けないものなのだと実感するようになりました。

 わたしは、旧約聖書の創世記から新約聖書の黙示録まで、すべて自分に当てはまることだと思いながら、今は読んでいます。現代の日本社会の今では、ロバが軛をつけて荷車を引いたり、馬が馬車を引いて道を通っている光景は目にしませんし、馬糞も道に落ちているのを見ることはありませんが、自分には、聖書の教えている内容がいっそう日常の生活のなかに入ってきたり重なったりしてくるように感じています。

 人それぞれに負わされている軛が、また、荷が、聖書の教える神様を知ることで、イエス様に導かれてつながることで、軽くされたり、慰められたり、真の安息を感じたりするとしたら、なんとさいわいなことかと思うのです。