平家起つ 8.殿下乗合事件と反平家の萌芽
嘉応二(一一七〇)年五月になると、平家が築き上げつつあるつながりに、それまで意識されることはあってもつながりとして考慮されることのなかった人物が加わった。奥州藤原氏第三代当主である藤原秀衡である。嘉応二(一一七〇)年五月二五日、藤原秀衡が従五位下の位階を獲得すると同時に奥州鎮守府将軍に任じられたのである。さらに平清盛が藤原秀衡を陸奥守兼出羽押領使にも推薦すると、奥州藤原氏と平家との関係性はますます深まるようになる。
もっとも、右大臣九条兼実はこの件を手厳しく批判している。「奥州の夷狄秀平鎮守府将軍に任ぜらる、乱世の基なり」と、書き間違えたのか、それとも皮肉か、藤原秀衡の名を「秀衡」ではなく「秀平」と二文字目を平に書き換えて記している。藤氏長者の件では平家と意見を同一にしても、平家の政策の全てに必ずしも同意しているわけではないことが読み取れる。
ここで九条兼実が同意しなかった平家の政策とは何か?
平家が日宋貿易に乗り出していることは既に知れ渡っていることであったが、これを快く思わない貴族も多かったのである。外国人に対する差別感情、いわゆるゼノフォビアが根底にあると言うべきか、福原という平安京に程近い都市に外国人がやってくること自体を快く思っていなかった人が多かったのだ。伝染病が流行すれば外国人がやってきたからだという話題が公然と語られ、伝染病の名称に南宋や高麗の名が用いられることすらあったのだから、現在では政治家生命が終わるような差別的言動でもこの時代は許容されていたとは言え、なんとも下品な話である。
その下品さとは無縁であったのが平清盛という人である。政治家としての能力を捉えたときの評価は決して高いとは言えないが、少なくとも、下品さという点ではこの時代の他の貴族よりマシである。平家が奥州藤原氏と接近した理由の一つに、奥州で算出する砂金がある。日本と南宋との交易は、南宋が木材をはじめとする日本の物資を求め、その見返りとして南宋の貨幣を日本へ運び出すという南宋から見れば外貨流出が通常であったが、次第に物資が南宋から日本へと流れるようになり、日本からの支払い手段として砂金が使われることが増えてきたのである。特に日本では手に入らない医薬品は南宋にとって貴重な輸出品であり、医薬品の輸出の決済に奥州産の砂金が使われるケースが増えてきたのだ。奥州藤原氏に地位を与えることで砂金が手に入るなら、平清盛としては特に損害を生み出すことではなかった。
摂政ではあるものの世間から忘れ去られつつある存在になってきていたのが松殿基房である。その摂政松殿基房が圧力をかけたか、あるいは自ら身を引いたかわからないが、嘉応二(一一七〇)年六月六日に太政大臣藤原忠雅が太政大臣を辞任した。ただし、太政大臣辞任について脚光を浴びることはなかった。藤原忠雅が太政大臣になったのは平清盛の太政大臣再任を防ぐためであり、太政大臣であることが求められる唯一の政務が待ち構えているとなると、藤原忠雅を太政大臣のままとさせるのはむしろ不都合なことであった。
その政務とは、高倉天皇の元服。高倉天皇はまだ九歳であるから、普通に考えれば元服はまだ先のことではあるが、早々に元服させた例は存在する。松殿基房は高倉天皇の元服に備えて太政大臣の地位を一時的に空席にさせ、高倉天皇が元服を迎えることが決まったなら自分が太政大臣になることで太政大臣としての責務をこなすことを考えたのである。
これだけであったら、藤原摂関家の常套手段として特に脚光を浴びることはなかったであろうが、嘉応二(一一七〇)年七月、松殿基房の行動がにわかに脚光を浴びるとなると、太政大臣の空席が問題となる。
その行動とは何か?
嘉応二(一一七〇)年七月三日、摂政松殿基房の乗った牛車と、見知らぬ貴族の乗った牛車とが鉢合わせをした。これが脚光を浴びるきっかけとなった松殿基房の行動である。
法勝寺での法華八講へ向かう途中のことであり、多くの貴族が牛車に乗って移動するのであるから鉢合わせをすることそのものは考えられる話である。それ以前に、貴族の乗る牛車が別の牛車と鉢合わせをすることそのものが日常の光景である。そして、この時代は貴族の牛車同士が鉢合わせをした際のルールも定めている。格下の者が牛車を降りて、格上の者が乗った牛車がやり過ごすのを待たねばならないというのがそのルールである。
格上格下の判断基準であるが、最優先は皇族で、皇族でない者は無条件で格下となる。皇族でないなら、より上の官職にある貴族、同一官職であればより位階の高い貴族が格上となり、下の官職、下の位階の貴族は牛車を降りて格上の牛車の通行を優先させなければならない。もっとも、高齢や病気などの理由で政界を引退した貴族や、出家して僧籍となった者の場合は引退時の官職と位階が尊重されるといった例外もある。
摂政松殿基房は従一位。当時の貴族の序列を見ても先頭に記されているのが松殿基房である。すなわち、格下の貴族が牛車から降りているのを確認した後で松殿基房の乗った牛車をやり過ごすことはあっても、松殿基房の牛車を目にしておきながら誰も牛車から降りないということはほとんどない。例外があるとすれば皇族、あるいは、平清盛の乗った牛車と鉢合わせをした場合である。
この日も松殿基房の牛車とすれ違おうとする牛車と出くわしたので、いつもどおり、相手の出方をまっていた。ところが、松殿基房の牛車と鉢合わせをしたのに誰も降りてこない。どういうことかと思って調べてみたら貴族の牛車であるという。誰の牛車かと調べてみたら平資盛の乗った牛車であるという。平資盛は権大納言平重盛の次男で、このときまだ一〇歳。前後も分からぬ幼き少年であることはこの時代の無礼の理由にはならない。その後で待ち構えていたのは、松殿基房の周囲を固める面々からの制裁である。資料には乱暴狼藉を加えた、あるいは恥辱を与えたという記述があるだけで具体的にどのような恥辱を与えたかの記録はない。
これが半年に渡って世間を賑わせることとなる殿下乗合事件の始まりである。
制裁そのものはルール違反に対する報復として頻繁にみられることであるとは言え、乱暴狼藉や恥辱といったキーワードが出てくることをしたのである。もっとも、それもまた制度化されており、制裁を加えたことに対する謝罪とルール違反をしたことに対する謝罪との場が設けられ、それはルール違反をした側が用意するのが通例である。
しかし、当日も、翌日も、平資盛からの応答はない。
やむなく摂政松殿基房のほうから平資盛に応答を掛けるために従者を派遣すると、少年ではなく父の平重盛が登場してきた。しかも、平家の武士達に武装させた上で。平重盛は息子のルール違反について知ってはいたが、それと、制裁によって息子の受けた被害とが釣り合いの取れるものではないと主張。しかも、当日も翌日も謝罪に来ることもなく、三日目にようやく連絡が来たかと思えば本人ではなく従者。自分のやらかした犯罪と認識としないどころか従者を派遣してやり過ごそうとしていることもまた問題であるとし、相手が摂政であろうと、位階が上であろうと関係なく、暴力に対する対抗措置を取らせてもらうと宣言したのである。
従者から返答を受け取った松殿基房は顔面蒼白となった。
いかに自分が従一位摂政であると言っても平家の武力には勝てない。それに、法に従っても平重盛の意見のほうが正しいのである。ルール違反の者に対して制裁を加えるのはよくあることという言い分も、権力者が権力と権威を利用して自らの違法行為を揉み消してきただけであり、平重盛は息子の受けた損害と名誉毀損を揉み消されることなくいよう法に訴えるとしたのだから、松殿基房は二重の意味で苦境に立たされたのである。
松殿基房はまず、今回の犯行は従者達の責任であるとして当事者達を解雇した上で検非違使に引き渡したが、それがますます平重盛の怒りを燃え上がらせることとなった。率先して責任を取るならまだしも部下に責任を押し付けるとは何事かというのが平重盛の態度である。
ならば大人しく平重盛の対抗措置を受け入れるのか?
できるわけない。
命がいくつあっても足らない。平家の武力の前に身を捧げたら命を落とす。平治の乱の前であれば藤原摂関家の周囲を清和源氏の武士達が守っていたが、今の京都にいる清和源氏の武士達は、平家を構成する一部と化した源頼政を率いる部隊しかいないも同然である。藤原摂関家の資産を集めて武人を雇おうにも、摂政松殿基房であることと藤原摂関家の資産の全てを掌握できることとは一致しない時代になっている。本作でもここまで摂政藤原基房のことを松殿基房と書いているが、その書き方は本作だけの書き方ではない。後年の史料の多くがこのときの藤原基房のことを松殿基房と書いている。時代は一枚岩となった藤原氏ではなく、九条家、近衛家、松殿家へと分裂した複数の藤原氏の時代なのだ。
しかも、九条兼実は藤氏長者の地位を近衛基通に渡すよう求めているのだから、九条家と近衛家とが手を組んで松殿家に対抗しているのである。これまでであれば藤原氏が一枚岩となって平家に対抗することもできたが、今や藤原氏が一枚岩であることそのものが期待できなくなったのである。
平家に対して対抗することを諦めて、大人しく法の裁きを受けるか?
これもできない。法の裁きを受け入れたら摂政の官職も従一位の位階も失って流罪になる。時代は藤原摂関政治の最盛期をとっくに過ぎ去り、摂政も関白もかつての権勢を持った地位ではなくなっているとは言え、ここで摂政の地位を捨てることは、松殿家の手にした摂政の地位を九条家や近衛家に奪われることを意味する。自分一人の潔さで済む時代ではない。
松殿基房にできたのは徹底して逃げることだけであった。逃げて、逃げて、平重盛の怒りが静まるのを待つ。それしか方法がなかった。
こう書くと松殿基房が逃避行をしたかのように見えるが、実際には逃避行ではなく引き籠もりである。とにかく自宅に籠もって外出するのを最小限にすることとしたのである。
これがもし他の貴族であるなら松殿基房の行動も許容されたかもしれない。だが、松殿基房は摂政である。関白ではなく摂政である。高倉天皇はまだ九歳であり元服もまだ迎えていないのだから、摂政が自宅に籠もって外出しないでいると政務も止まってしまう。それが如実に示されたのが嘉応二(一一七〇)年七月一五日のことである。この日、藤原道長の建立した法成寺に参詣することとなっていた松殿基房が、参詣途中にある二条京極で平重盛の率いる軍勢が待ち構えていると聞きつけ参詣を取りやめたのである。
それでもまだ法成寺参詣は私的なこととして中止も許されたが、断じて許されない中止もある。高倉天皇の元服の儀だ。
皇室に生まれた者の元服の儀における花冠役は天皇が務めるが、天皇自身の元服の儀は花冠役を太政大臣が務める。そして、この時点で太政大臣として予定されているのは摂政松殿基房である。その松殿基房が自宅に籠もって外出しないとなると高倉天皇の元服も止まるのだ。
厄介なことに、松殿基房の政務放棄は三ヶ月も続いたのである。それでもどうにかなったのは、皮肉にも、高倉天皇自身が摂政の代わりを務めるという本末顛倒な事態が起こったからである。摂政は天皇が幼いとき、あるいは天皇が病気などで政務をとれないときの天皇の代理を務める職務である。九歳の高倉天皇では政務をとれないであろうというのは普通の考えではその通りなのであるが、いかに幼くとも高倉天皇が政務を執れるというのなら摂政はいらないのである。議政官から上奏された法案に対する御名御璽があれば正式な法となる。天皇が幼少であるがゆえに摂政が天皇の代理として署名捺印しても正式な法となるが、高倉天皇の御名御璽があるのでもそれは正式な法となる。高倉天皇の御名御璽の存在が摂政松殿基房の存在を弱めることになってしまったのだ。
摂政松殿基房の不在の間、清和源氏の中で重要な動きが二点起こっていた。
まず一点目は、のちの源義経こと牛若が鞍馬寺で過ごすようになっていたことである。ここまでは平治の乱の敗者である源義朝の子に課せられた宿命の通りであるのだが、同じ母の元に生まれた二人の兄が揃って出家しているのに対し、牛若は鞍馬寺に預けられたものの出家しておらず、遮那王(しゃなおう)と呼ばれていたことは記録に残っている。平家物語では屋島の戦いにおいて源平双方が互いに罵りあう場面があり、その中で平盛嗣が源義経のことを、平治の乱で父親が戦死して孤児になって鞍馬寺の稚児をしていたと罵っている。父を亡くしたことに加え鞍馬寺に預けられたことを嘲笑の材料としているのにはわけがあり、寺院に預けられながら出家せずにいる男児には寺院内で特別な役割を果たしているというのがこの時代の認識であったのだ。
それは、僧侶の男色の相手。女人禁制を前提としている寺院では、秘密裏に女性と性的関係を結ぶか、あるいは、幼い男児を女性であるかのように扱って性欲を満たすことが珍しくなかった。その中でも最高ランクの相手とされていたのが貴族の男児、特に、父や祖父が貴族でありながら死別したなどの理由で圧力をかけられる心配のない男児であり、牛若こと遮那王はその意味で最上級のターゲットと周囲から思われていてもおかしくなく、僧侶の相手をさせられていたはずだとする平盛嗣からの言葉はかなりの侮蔑語であった。源義経が本当に平盛嗣の言うようなことをさせられていたのかどうかはわからないが、平家としては出家していないことを罵るのではなく恐るべきであった。出家していなかったからこそ源義経は軍勢を率いて平家を追い詰めることができたのであるから。
清和源氏の身に起こった二点目は、保元の乱で処罰された清和源氏の中でただ一人の生き残りとしても良い源為朝である。伊豆大島に流刑となっていた源為朝がこの頃に自害したのである。伊豆大島における源為朝伝説には尾鰭が付いて回っており、どこまでが史実でどこまでが虚構なのかわからない。保元の乱の前も、保元の乱の最中も、源為朝という人は伝説がつきまとっているが、それは伊豆大島に流罪となっても変わらない。曰く、伊豆諸島を従える海賊となった、曰く、鬼ヶ島に渡り伊豆七島の支配者となった、曰く、納税を拒否し伊豆大島の代官の指を切り落としたなどの話が残っている。史実であろうと言えるのは、嘉応二(一一七〇)年に伊豆介である工藤茂光が上洛して源為朝の乱暴狼藉を訴え、源為朝討伐の院宣を獲得したのち、およそ五〇〇騎の武士を乗せた二〇艘ほどの船団で源為朝を襲撃して、源為朝を自害に追い込んだことである。このときの軍勢の中に北条氏が加わっていたことは判明しているものの、後に鎌倉幕府初代執権の北条時政が軍勢に加わっていたかどうかは不明である。
伊豆大島に流されたのちも伝説を作り続けていた源為朝であるが、死してもなお源為朝は伝説を作り続けることとなった。源為朝は亡くなっておらず生き延びたのだとする伝説は根強く、その中には琉球王国の正史である中山世鑑も含まれている。琉球王国は伝説上の初代琉球王である舜天を沖縄に逃れた源為朝の子であるとしており、舜天王の姓は源であるとしている。
摂政松殿基房の不在の間も政務は続く。政務の中には外交もあり、京都では清和源氏の動向が全く話題にならなかったのと対をなすかのように、京都内外の世論を真っ二つに引き裂くの外交問題が発生していた。
平清盛は福原を国際貿易港としようとしていた。
一一六九年の中国の記録には日本からの船が寧波に到着したことの記録があり、その返礼の船が南宋から日本へと派遣された。ただし、日本国内の記録には南宋に船を派遣したことの記録はない。記録はないのは当然で、平清盛が私的な貿易船を寧波に派遣させたのである。ところが、この船を南宋は公的な使節派遣であると捉えてしまったのだ。
国土の半分を金帝国に奪われ現在進行形で金帝国との緊張状態が続いている南宋は、これまで何度も日本に軍事同盟を求めながら拒否され続けてきた歴史を持っている。一一六一年に金帝国相手に戦闘で勝ったと言っても、また、隆興の和議で戦闘状態の終結が確認されてから五年、その間、一度として戦闘状態にはなっていないと言っても、南宋は金帝国を挟撃できる軍事同盟のパートナーとしての日本を求めており、それがようやく実を結んだと考えてしまったのだ。船を送ったのは平清盛であるというのは日本も南宋も同じ理解をしていたが、日本の立場では政界引退した一僧侶の私的な派遣であるのに対し、南宋にしてみれば日本国で最大の軍事組織を抱えている人間が使節を派遣したという扱いになってしまったのである。
しかも、日本にとっては最悪のタイミングでの福原来港であった。これは日本も南宋も関係ないところで発生した出来事であるが、一一七〇年八月三〇日、高麗で軍事クーデタが発生し、その余波が日本に及ぶかどうかというギリギリのところであったのだ。日本と南宋の軍事同盟が成立するにせよ、締結失敗に終わるにせよ、朝鮮半島情勢に影響を与える話だったのである。
高麗の宗主国であった契丹が金帝国に滅ぼされた後、高麗は朝貢先を契丹から金帝国に切り替えて金帝国の属国となった。金帝国の高麗に対する支配は契丹よりも緩やかなものがあり、契丹からの完全なる独立を得てはいないものの、高麗はある程度の政治的自由を獲得できていた。
もっとも、それまで契丹が抑えつけていたからこそ高麗の国情が安定していたとも言える。高麗を抑えつけていた存在の喪失は、高麗にとって自由の誕生であると同時に混迷の誕生でもあったのだ。反乱が起こり、宮殿が焼亡し、遷都を訴える勢力が金帝国からの独立を訴える勢力へと成長し、国家は二分されて内乱となり、鎮圧のために高麗国内はガタガタになっていた。鎮圧後の一一四六年に即位した毅宗の時代は、一応は平和を獲得できた時代ではあったが、仏教の優遇と宦官の厚遇の反面、武官の地位が著しく抑えつけられていた時代でもあり、高麗国内での武官の反発は根強いものがあった。
高麗での武官は日本の武士と違い、最初から高麗王朝の官僚機構を構成する役人であると同時に、高麗国内での身分制度における最上位カーストでもある。建前としては、試験に合格した者を文官である東班として、軍事訓練を積んだ者を武官である西班として、それぞれ王朝に仕える者として採用することとなっていたが、高麗王朝成立から間もなく東班と西班を合わせた両班(ヤンバン)が高麗国内で最上位カーストとしての身分を構成するようになり、試験の出来にも、軍事訓練の有無にも関係なく、親が東班なら子も東班、親が西班なら子も西班、そして、親が東班でも西班でもなければ王朝に仕えることが認められないという社会構成となっていた。
西班に生まれた者は、職業として武装をし、職業として軍事訓練を積むことで高麗王朝に仕え、金帝国への朝貢後に発生した反乱においても実際に軍勢を率いて反乱鎮圧にあたっていたが、そのことへの報奨は全く無かったどころか、本来であれば同格であるはずの東班と露骨なまでの差別を設けられ、冷遇されていた。命令をし、成果を獲得するのは東班であり、命令に従い、責任を取らされるのは西班という構図だ。特に問題となったのが金帝国の支配からの脱却を東班が主張していること。東班は金帝国が南宋に敗れた今こそ高麗が金帝国から独立する絶好のチャンスだと考えたのである。
どの時代でもどの社会でもそうだが、軍備に就いている者は自国の軍事情勢について正しい認識を持っていることが多い。前線から遠いところで生活する人の述べる威勢の良いことが現実離れした妄想であると誰よりも先に理解するのも実際に軍職にある人だ。王朝から金帝国に対して戦争を仕掛け、戦争に勝利して独立を勝ち取るように命令が下されても、そもそも高麗の軍事力で金帝国に刃向かおうものなら待っているのは敗戦である。契丹の強力な支配から金帝国の緩やかな支配になっただけでも感謝すべきところであるのに、ここで金帝国に逆らおうものなら待っているのは契丹支配時代と同様の強力な支配の復活だ。これをわかっている武官達は戦争の命令を拒否しようとするが、この時代の高麗で武官である西班が文官である東班に対して異議申し立てをする方法は無かった。金帝国からの独立は不可能であることをどんなに強く主張しようと、命令を拒否するだけでなく異議を申し立てるだけで有罪となったのである。
一一七〇年八月三〇日、高麗国王毅宗が普賢院に行幸したとき、西班の一員として国王に随行して普賢院に来ていた鄭仲夫らは国王の命令だとして軍隊を動かし、国王毅宗に随行していた東班の文官たちを虐殺。そのまま軍を率いて九月一日の午後には首都開京に入り、首都を占領して首都での高麗王朝の各施設を占拠した。国王毅宗とその皇太子は流刑となり、毅宗の弟である明宗が新たな高麗国王となった。その背後には鄭仲夫をはじめとする西班の武官たちが控えるという、典型的な軍事傀儡政権が誕生したのである。
このクーデタを庚寅の乱という。
武官たちは高麗国内の統治能力を絶望的に欠いていたことがのちに判明するが、金帝国との関係について現状認識能力を持っていたことはクーデタ当初から明瞭であった。軍事クーデタを起こして高麗王朝を乗っ取る軍事力ならばあっても、金帝国の支配から完全に独立できるだけの軍事力は無く、これまで通り金帝国に朝貢し続けなければ高麗は国家としての存続ができないというのが軍事傀儡政権の現状認識であった。
金帝国からの緩やかな統治を受け入れる政権が高麗に誕生したことは、南宋と軍事同盟を締結することがそのまま高麗と敵国になることを意味する。南宋と金帝国との和平が成立したと言っても、いつ戦争になってもおかしくない情勢が続いている。そして、高麗は金帝国の側に立っている。大陸の戦争に巻き込まれることなく平和を維持するためには距離を置いて中立の立場を維持することが重要である。そうでなくともクーデタ直後の高麗王朝は政情不安の状態のままだ。金帝国相手に戦争で勝つ見込みはなくとも、日本相手なら戦争で勝てる可能性はあると考える。国内世論を他国への敵対心に向けることで不安定な国内情勢を安定化させることは日常茶飯事である。そして、この時代の高麗にとって日本以上に絶好のターゲットは無かった。
保元の乱と平治の乱のニュースは朝鮮半島にも伝わっており、日本国の強力な軍事組織の一つであった清和源氏が壊滅状態にあることは高麗国内でも知られていた。海賊討伐の経験を持つ伊勢平氏が平家へと成長して日本の朝廷において絶大な権勢を持つようになっていることも知られているから、日本に向けて船団を組んで攻め込むのは現実的ではないが、金帝国への朝貢によって北方の国境警備の負担を減らすことに成功したなら、日本を仮想敵国として南に向けての軍船を配備することも、そして実際に日本に向けて軍船を進めることも不可能では無くなる。
高麗の国内事情で勝手に日本を仮想敵国にして日本に向けての侵略をしようというのだから、日本からすれば冗談では済まない話だ。
ただでさえ誕生間もない高麗の軍事政権に対してどのように対応すれば良いかわからないでいるというタイミングであったのに、軍事同盟締結のための返礼の船が日本に向けられただけでなく、その船が福原までやってくるとなると完全に外交問題となる。外国人に対する差別感情の有無だけであれば差別の過ちを訴えれば済む話であるが、軍事同盟を結んで金帝国と対峙し高麗との戦争を起こすか否かとなると、国政を揺るがす大問題になる。南宋からの使節を受け入れるか否かで世論は二分されたのだ。
ほとんどの貴族は使節の受け入れそのものを拒否するべきであるとした。しかし、受け入れ拒否は南宋との国交断絶を意味する。金帝国を敵に回さなくなり、高麗との戦争を回避することに成功しても、その代わりに南宋を敵に回すのはどう考えても得策ではない。その点については誰もが認めていた。
嘉応二(一一七〇)年九月二〇日、平清盛は後白河法皇を福原に招き、後白河法皇と南宋からの使節との間での折衝を進めるという妥協案を示した。軍事同盟は締結しないものの、後白河法皇は平清盛の進める日本と南宋との自由貿易を認め、従来の博多だけでなく、福原での交易も認めるとしたのだ。ただし、南宋の使節の求めていた軍事同盟締結については拒否している。軍事同盟締結に失敗した南宋も、後白河法皇との直接交渉があった上での話であるということで、自由貿易の許可のみを手土産に南宋に帰国することとなった。
嘉応二(一一七〇)年一〇月二一日、高倉天皇の元服の儀についての議定がこれ以上延期できないとして強行開催されることとなった。
さすがにこの場で平重盛が対抗措置を取るなどしないであろうと考えたのか、それとも覚悟を決めたのか、松殿基房がようやく外出した。
そして、平重盛の対抗措置も展開された。
参内途上の松殿基房の牛車を平重盛率いる軍勢が襲撃し、前を騎馬で進んでいた従者のうちの五名が馬から引き摺り下ろされ、そのうち四名が髻(もとどり)を切られたのである。この時代、人前で烏帽子を脱いで髻を晒すのは、現在で言うと人前で下着姿になるようなもの、髻を切られるのはその下着を脱がされるようなものである。これは大問題である。想像していただきたい。これから国会に向かおうとしている与党の党首のSP達に野党の支持者が襲いかかって、SP達を生中継のカメラの前で下着姿にし下着も剥ぎ取ったとしたら。
現在だとさぞかしワイドショーあたりが騒ぎたてるであろうが、この時代にワイドショーは無い。ワイドショーはないがゴシップを嬉々として楽しむ風潮はある。大問題のために高倉天皇の元服の儀のための議定は中止となり、注目は平重盛と松殿基房との対立に移されたのである。
なお、平家物語ではこのときの対抗措置の首謀者を平重盛ではなく平清盛であるとし、平重盛は平清盛の命令に従って襲撃をかけた面々を解雇すると同時に息子の平資盛を伊勢国で謹慎処分にさせたとあるが、この記録は平家物語だけの記録であり、その他の歴史資料には平重盛自身の対抗措置であると記されている。
歴史資料を追いかけていくと、一〇月二四日には松殿基房と平重盛がともに参内していることが確認できる。平重盛も松殿基房もともにかなりの武士を周囲に侍らせて警護させたという記録もあるが、おそらく、一〇月二一日の件で手打ちになったのだろう。人前で烏帽子を剥ぎ取られて髻を切られるというのはこれ以上考えられない恥辱であったが、もしかしたら、平資盛が受けた屈辱というのはもともとこれであったかもしれない。平重盛という人は、真面目で融通が利かず自分が正しいと考えるなら残忍にもなれる性格ではあるが、自己制御が効かない性格ではない。自分の息子が受けた苦痛への対抗措置をとることについては妥協しないが、自分の息子の受けた苦痛を超える対抗措置は考えなかったとするべきであろう。
平重盛は自己制御が効かない性格ではないが、殿下乗合事件で平重盛が摂政松殿基房に対して何をやったかを顧みると、平重盛の自己制御以前に平重盛の評判が走ることとなる。これが平時忠のように以前から評判が悪かった人がやったならばここまで大騒ぎとはならなかったであろうし、高倉天皇の元服に関するゴタゴタもここまでこじれることは無かったであろうが、平家の中でも格段に紳士的と思われてきた平重盛が起こしただけに、問題はこじれることとなってしまった。世論は平重盛も悪いが摂政松殿基房のほうがもっと悪いという捉え方をするようになったのだ。
高倉天皇の元服についての検討をすべく後白河法皇は藤原光能を使者として福原に派遣したことが記録に残っている。派遣したのが嘉応二(一一七〇)年一〇月三〇日のことで、平重盛を制御できるただ一人の人間である平清盛に直接話を通すことで、国政の懸念となっている高倉天皇の元服を実現させることを目論んだのである。平清盛も今回の件の重大さを認識していたようで、平重盛に責任をとらせることを了承した。
ただし、責任をとらせることと同時に取り引きもした。
取り引きの内容を受け入れるかどうかで揉めていたのと、陰陽寮から提示された元服の吉日との兼ね合いで、平清盛の意向を踏まえた対応は嘉応二(一一七〇)年一二月八日にようやく始まった。この日、嘉応の強訴で解官となった平時忠と平信範の官位が復旧したのである。これにより議政官における平家の勢力が復旧した。
それから六日後の一二月一四日、摂政松殿基房が太政大臣に就任。高倉天皇の加冠役が誕生したことで高倉天皇の元服は動き始めた。
嘉応二(一一七〇)年一二月三〇日、殿下乗合事件の責任をとるとして平重盛が権大納言を辞任。ただし、平重盛は、辞任と引き換えに長男の平維盛を一三歳の若さで右近衛権少将として貴族界にデビューさせている。また、平宗盛が権中納言兼右衛門督に任じられ、平経盛が位階を従三位へと進めたことで、一二月八日の二人の政界復帰と合わさって、平家の勢力を殿下乗合事件の前よりも増幅させることに成功した。
年が明けた嘉応三(一一七一)年一月三日、高倉天皇が元服。
殿下乗合事件の影響もあり、平重盛は元服の儀を欠席している。
元服の儀を進行させたのは建春門院平滋子の弟で高倉天皇の叔父にあたる平親宗と、権中納言平宗盛の二人である。特に平宗盛はこれまで貴族としての教育を受けた成果が存分に発揮され、高倉天皇の装束の奉仕を務めたほどだ。儀式の前は藤原氏でもない者が天皇の元服の儀を務めるなどできるはずないという前評判もあったが、終わってみれば、儀式の主軸を平家が担う元服の儀が完了していた。たしかに加冠役を太政大臣松殿基房がつとめ、理髪役を左大臣藤原経宗がつとめたものの、儀式におけるその他の役割は平家が担って無事に完了した。
平家は既に平清盛が太政大臣に就任していたという過去を持っている。
儀式に出なかったとは言え前権大納言平重盛の存在を無視できる者はいない。
そしてここで、平宗盛が文官としての職責を充分に果たしたという先例を作った。
藤原氏のアイデンティティが崩れ始めたのである。
それでも議政官は藤原氏の牙城であり続けた。前年末に平重盛が権大納言を辞職したから、太政大臣、左大臣、右大臣を、藤原氏が独占、大納言二名のうち一名、権大納言は五名全員、一名しかいない中納言は藤原氏が務め、権中納言は八名中六名、参議は八名中五名を藤原氏が占めている。ここまで占めれば藤原氏の議決がほぼ無条件で法となる。平家がいかに国政に浸透してきつつあろうと、平清盛も平重盛もいない以上、平家の最高位は権中納言平宗盛であり、参議に平家が二名、平家では無いが平氏である平親範を含めたとしても議政官全体で四名しかいないのでは平家の意思を法とすることは難しい。
さて、この人数を見て、ずいぶんと中納言が多いと感じた方々がいたとすれば、その方々は勘が鋭い。議政官は本来、参議、中納言、大納言と昇格するにつれて人数が減っていくピラミッド構造となるように人数制限が設定されている。ただ、中納言の職責を果たせる者や大納言の責務を果たせる者が人数制限の例外としてそれぞれ権中納言や権大納言となることが増え、例外が通例化し、参議と中納言の間に権中納言が、中納言と大納言との間に権大納言が存在するのが当たり前になったことからピラミッド構造は六〇度の正三角形から、底辺と接する角度が直角に近い二等辺三角形へとなってきていた。それが平家誕生前の議政官の構図である。権中納言や権大納言を含めても一応はピラミッドではあったのだ。
それがここに来て、中納言と権中納言の合計が参議を上回るという逆転現象を生み出すに至ったのである。それでも権中納言と中納言の合計が九名、かたや参議が八名とまだ拮抗している関係ではあったのだが、その拮抗は時間とともに元に戻るどころか逆に崩れるようになった。
高倉天皇の実母である建春門院平滋子のことを、愚管抄の作者である慈円はこのように書き記している。
「後白河法皇はまた建春門院を寵愛なさるようになったので、日本国は女人が最後の仕上げをするということも、こういうことだけであれば本当のことであろうと考えられるのである。まずは皇后宮となられ、まもなく国母として建春門院の院号を定められた。そしてこの女院は宗盛を養子になさったのである」(現代語訳・大隅和雄氏)
慈円は建春門院平滋子を、本来の皇太后ではなく皇后と誤って記しているが、その他のことは当時の世相をそのまま書き記したものである。慈円の書き記すように、我が子の高倉天皇が元服したことで建春門院平滋子の権勢が向上してきたのだ。
嘉応三(一一七一)年一月一八日に太皇太后藤原多子の大宮亮である平経盛が讃岐権守を兼任したことまでは、位階と役職に応じた職務兼任であるから誰も何も文句を言わなかった。
ただ、その他の平家の優遇となると不満も現れてくる。特に殿下乗合事件の当事者である平資盛に対する優遇は不満を超えて反発に至る。殿下乗合事件当時の平資盛は一〇歳、年が明けてもまだ一一歳である。少年法のある現在であればたしかに法による処罰の適用を受けない年齢である。また、殿下乗合事件そのものの当事者であるといっても、主たる対立は平資盛の父である平重盛と摂政松殿基房との間に起こっており、平資盛はむしろ外されていた感もあった。平家物語では平重盛が息子を伊勢国に追放して謹慎させたとあるが、平資盛の生涯を追うとそのような記録は無い。伊勢と言えば平家の源流である伊勢平氏の出身地であり平家の所領も数多く存在している土地であるから、平重盛が息子を伊勢に向かわせた可能性はあっても、それが追放というわけでも、ましてや謹慎というわけでもない。
追放でも謹慎でもない理由は、嘉応三(一一七一)年四月七日の記録に見える。この日、平資盛が越前守を重任したのである。しかも建春門院平滋子の鶴の一声で。
越前国司と言えば国司に就きたがる貴族がこぞって自己推薦文を書いてくるトップクラスの人気ある職務である。誰もが羨む越前国司に新たに就任したのではなく、既に就いていた越前守に再度就任したのである。追放されたならば位階を剥奪されている。謹慎となれば国司を罷免されている。くりかえすが、平資盛は一一歳である。その平資盛が越前国司に再び就任したというだけでも建春門院平滋子の存在を意識せずにいられなくなる。
さすがに建春門院平滋子も、そして後白河法皇も世間の風当たりを感じたのであろうが、風当たりの強さに逆らえず自らの推し進める政策を取り消すような人などではない。
そして、平安時代にはこのようなときに簡単に世間の目をそらす方法がある。
改元だ。
嘉応三(一一七一)年四月二一日、名目上は災厄のため、事実上は不満を逸らせるための改元が行われた。新元号は承安。
その新元号の初日である承安元(一一七一)年四月二一日、摂政太政大臣松殿基房が太政大臣を辞職して摂政専任となったのに伴い、人事の見直しが行われた。権大納言藤原実房が従二位から正二位に昇格し、前年一二月に官位復旧となった平時忠が正式に権中納言へ復帰したのである。太政大臣を兼ねている摂政が太政大臣を辞職したのだから人事の見直しが行われるのは当然ではあるが、位階の上昇が一人あるほかは、平時忠の権中納言復帰だけである。新元号がニュースとなってほとんどの人の話題からかき消されたものの、平時忠が権中納言に復帰したことに着目した人はいて、右大臣九条兼実は日記に中納言が合計一〇名に達したことを未曾有のことと非難している。
平清盛は義妹である建春門院平滋子を通じた後白河法皇との関係を構築するようになっていた。
そんな中、平清盛は後白河法皇に面白いプレゼントを贈っている。五頭のヒツジと一頭のジャコウジカだ。そんな家畜を贈って平清盛はいったい何をしようとしたのかと思うかもしれないが、現在と違ってこの時代は、ヒツジも、ジャコウジカも、知識としては知っていても実物を目にすることはほとんどない時代だ。
平清盛が後白河法皇にヒツジとジャコウジカを贈ったのは、現在のパンダ外交よろしく珍しい生き物をプレゼントすることで話題を呼ぶという意味もあったが、これから福原で何度となく繰り返されることとなる海外との交易を示す意味もあった。これから先、福原で出会うのはこうした家畜が日常に溶け込んでいる暮らしを過ごしている人たちなのである。
異なる文化の人たちが海の向こうにはいて、その人たちと交易することで国と国民を豊かにしようというのが、平清盛の父の平忠盛から続く平氏の基本政策である。後白河法皇に対して珍しい家畜を贈ることは、平氏が平家となっても変わることのない基本政策、そして、平家へと成長したことでより強化されることとなる基本政策を広く宣伝する効果があった。
そして、平清盛が目論んだ宣伝は成功した。
悪い意味で。
平清盛が後白河法皇にヒツジとジャコウジカを贈ったまさにその頃、平安京内外で新たな感染症が広まりだしたのだ。そして、その病気の原因を平安京内外の人たちはヒツジが原因であると考え、感染症を「羊病」と呼ぶようになったのである。その感染症が海外からヒツジとジャコウジカと一緒にやってきた疫病であると。
そもそも平家が庶民から期待されていたのは暴れ回る僧兵をやっつける武力の行使であって、藤原氏にとって代わる新たな貴族集団へと成長することではない。それでも目に見える形で国民生活を豊かにしたなら問題は無かったであろうが、今の平家は国民生活よりも政争を優先し、建春門院平滋子を通じて高倉天皇を操る存在へとなっている。こうなると平家の勢力を利用することは、短期的には得策でも長期的には失策になる。
藤原良房以後の藤原摂関政治によって藤原氏の独裁政治が誕生した。ただし、藤原氏以外の氏族の存在が認められなかったわけではなく、源氏をはじめとする藤原氏以外の氏族が議政官に姿を見せることも当たり前に見られた。康和四(一一〇二)年六月には村上源氏が藤原氏を追い抜いて議政官の過半数を占めたほどだ。それでも藤原氏はいつの間にか勢力を盛り返し、気が付けば議政官の過半数を奪い返している。院政の導入で議政官に院司が数多く入り込むようになったが、それでも院司の側に藤原氏を入れることによって議政官の操縦に成功している。
平家に対する反発が強くなるまでは平家に接近することが藤原氏の勢力を保つ方法であった。平家に対する反発は強くなってからは平家との関係を絶つことが藤原氏の勢力を保つ方法になる。
摂政松殿基房が平重盛と殿下乗合事件で争ったこと、それ以前から軽んじられていたことは誰もが知ることである。裏を返せば、平家に対する人気が下がれば下がるほど、平家と対抗していたという点から摂政松殿基房への支持が上がっていく。
松殿基房はまだ二七歳の若者だ。若さは政界のドロドロした中を泳ごうとするのにハンデになる一方、政界がドロドロすればするほど政界に抵抗する若き青年というイメージを作り出すことに成功する。しかも、二七歳ならば政略結婚に自分自身を利用できるというメリットもある。平家と対抗するために太政大臣にさせられた藤原忠雅の娘である藤原忠子を娶ったこと、すなわち、前太政大臣が元太政大臣の娘と結婚をしたことは平家に対するこれ以上無い抵抗と見られたのである。
ただし、彼女は正妻ではない。松殿基房の正妻は亡き藤原公教の娘である。のちに三条公教とも称されることとなる藤原公教は平治の乱において二条天皇を内裏から脱出させ六波羅へ御幸させることに成功させた人物であり、保元の乱終結から間もなくの永暦元(一一六〇)年七月九日に亡くなっている。この人の娘を自分の正妻として迎え入れている事実は松殿基房に対する評判を残すのに役立っている。太政大臣までつとめた藤原忠雅の娘を娶るのに側室として迎え入れるのは失礼ではないかという声は現れなかった。
反平家勢力の萌芽に平清盛が気を配っていたとは思えない。それどころか、反平家の風潮そのものが誕生しつつあることそのものを認識していた気配すらない。自分のしていること正しいと信じていたというより、自分に逆らう存在という概念が平清盛の脳内には無かったのではないかとさえ思えるのだ。
平清盛の父である平忠盛が当時の貴族たちからどのように扱われたかを平清盛はその目で見ている。それが今や、平清盛のほうが上に立って藤原氏をはじめとする主だった貴族を見下ろす側だ。これは平清盛を得意にさせるものがあったろうが、格下に考えていた者が自分の上に立ったときにどのような思いを抱くかと考えたことはなかったのだろうか。
また、庶民が平家をどのように考えるようになったかを平清盛が考えるようにはならなかったのか。どんなに藤原氏への反発を抱く人でも、平家の一員でもない限り、平家が藤原氏に取って代わるのを手放しで称賛するわけはなく、今度は平家への反発を招く。平家と藤原氏しか選択肢が存在しないわけではないのである。後白河法皇にヒツジとジャコウジカを贈ったことは話題となったが、その後の感染症の流行を庶民は羊病と呼ぶようになった。平清盛はこのことを気に留めることも、知ることもなかったのか。
この世相の中で平家が勢力を伸ばすことは得策ではなかったが、平家は得策でないことをした。
承安元(一一七一)年一〇月二一日、平宗盛が位階を従二位にまで進めた。上が詰まっているため現実には無理だが、ポストさえ空けば平宗盛は大臣になることも可能であるほどの位階を獲得した、すなわち、平清盛が出家し、平重盛も権大納言を辞している状況下でも、平家は大臣を送り込むことが可能になったということである。
それでも平宗盛の位階昇叙はまだ納得がいった。高倉天皇の元服の儀において平宗盛が貴族として実績を残したこと、また、日々の政務においても藤原氏との協調を見せ、国政をスムーズに展開させたことは、平清盛とも平重盛とも違う、純然たる貴族としての平家の誕生と評価を獲得したのであるから。
しかし、その二日後の承安元(一一七一)年一〇月二三日に平清盛が後白河法皇と建春門院平滋子を福原に招いて一つの計画を打ち立てたことは平家の評判を下げるのみであった。
平清盛が後白河法皇と建春門院平滋子を福原に招いて立案した計画が何であったのかを知るのは、承安元(一一七一)年一二月に入ってからである。
平清盛の娘である平徳子が高倉天皇のもとに入内することが決まったのだ。平徳子はいったん法住寺に赴き、後白河法皇の猶子となり、一二月二日に従三位に叙位された。元太政大臣の娘なのであるから血統としては申し分ないはずなのだが、後白河法皇は猶子とすることにこだわった。平徳子が高倉天皇との間に男児をもうけ、その男児が帝位に就いたとき、後白河法皇はその天皇の祖父になり、天皇の祖父として院政を敷くことができる。
そして、ここで本末転倒が起こる。そもそも六条上皇は後白河法皇の孫である。高倉天皇を無理して即位させなくとも六条天皇のままであれば後白河法皇は天皇の祖父として院政を敷くことができたのである。
さらに言えば、高倉天皇は後白河法皇の実の息子である。平徳子を猶子に迎えなくとも、高倉天皇の男児が帝位に就いたとき、後白河法皇は天皇の祖父として院政を敷くことができる。
平徳子は後白河法皇の猶子であるから、後白河法皇の実子である高倉天皇と実の姉弟となるわけではないが、それでも姉と弟との婚姻というのは普通ではない。支持を得ているときであれば普通ではないことでも見逃されるが、支持が減っているときはスキャンダルとして大々的に取り上げられる宿命を持っている。
このスキャンダルを真っ先に察知したのが平宗盛である。貴族としての教育を受けてきたことが現在の情勢の不利を悟らせることにつながったのだ。平宗盛は妹の入内そのものは賛成したが、後白河法皇の猶子となっての入内に反対したのてある。一方で後白河法皇の猶子となっての入内に賛成したのが平重盛である。平重盛は礼儀正しさとか品行方正とかの評価を受ける人であるが、本質的には武人である。戦局を優位にすることと支持を獲得することとが相反する場合、支持を減らしても戦局の優位を選ぶ人でもあった。このときの平家で、庶民からの支持がなければ政権維持はできないことを理解していたのは、平宗盛だけであったとも言える。
結果は全く予期せぬことであった。
貴族としての平家の未来を考えた平宗盛が権中納言を辞職し、氏族としての平家の未来を考えた平重盛が権大納言に復帰し、その結果、平宗盛への庶民の支持が集まったのである。この二人の意見が異なるとき、九九パーセントの割合で世論は平重盛を支持してきた。それがここに来て平宗盛が支持を獲得するようになったのである。
承安元(一一七一)年一二月一四日、平徳子、入内。
平徳子はこの日、いったん法住寺殿に参上した後、建春門院平滋子の手によって着裳の儀を行い、そのあとで大内裏へと向かった。平家であることを除けば、ここまでは院政期の入内における一般的な光景である。しかし、そこからが一般的な光景ではなくなっていた。
閑散としていたのだ。
入内となれば沿道に庶民が詰めかけ大盛況となるのが通例であった。天皇のもとに嫁ぐ女性の乗った牛車、そして、その前後をかためる武官の祭列は非日常を感じさせる壮麗なものであり、沿道に詰めかけて壮麗さを眺めるのは一生に一度でも目にすることができるかどうかという特別な行事である。
祭列を彩る武官もまた特別である。武官を構成するのは武士だけではない。若き貴族たちが武官としての礼装に身を固めて平滋子の周囲を護衛するのである。武官の中にはたしかに武士もいたが、武士としての能力を買われて礼装に身を包むのではなく、武士でもある貴族として、礼装に身を包むのである。
この祭列には平重盛もいた。実父である平清盛も養父である後白河法皇も出家しているため祭列に加わることが許されないため、一時的に平重盛は平滋子を養女とし、兄ではなく養父として祭列に加わっている。
そもそも祭列の責任者が平重盛である。
平重盛は入内の祭列を知っている。その規模も、詰めかける群衆の多さも、人混みの生み出す混乱も、混乱を回避して安全を維持する重要さも、そのために必要な護衛も熟知している。だからこそ平重盛が責任者に任命され、祭列の準備も平重盛が主導して執り行われていた。
その熟知を踏まえた最高の準備をした結果が、まばらな沿道の光景。これは想定外とするしかなかった。たしかに無事に終わったが、無事で終わったから良しとできるような案件ではなかった。
この時代に祝日という概念は無いが、この日ばかりはほとんどの人が仕事を休み早朝から沿道に詰めかけて祭列を待つのが通例であった。それなのに、この日の祭列は閑散としていて、静かな中を通り過ぎるだけであったのだ。
ここではじめて、平重盛は自分たちに向けられている庶民からの視線を理解した。
後白河法皇は庶民の意を介さぬ性格であったが、平重盛にとっては生まれてはじめての体験である。
庶民からの支持を失っていること、そして、氏族としてではなく貴族としての判断をした平宗盛のほうが正しかったことを、平重盛は否応なく理解させられた。だが、その理解を福原の平清盛のもとに届ける方法はなかった。平清盛は能動的に情報を収集する人ではない。戦いとなれば相手の情報を入手するためにあの手この手を駆使するが、戦いだと思っていないときは情報を収集することなく、自分の考えは正しいとして命令し行動する一方、自分にとって興味のないことの情報はどんなに届いても気にせずにいる。
おまけに、祭列を実際に体験している後白河法皇と違い、平清盛は京都から離れた福原の地で娘が高倉天皇のもとに嫁いだ知らせを受けただけである。それまでの常識に従えば入内とは壮大な祭列であり、入内する女性は沿道に多くの庶民が詰めかけているのを横目に、歓声を浴びながら内裏へと進むものである。平清盛も娘の入内は通例通りだと確信しており、庶民の無関心は全く想定もしていなかったのだ。
政局が平家に不利に向かっていることを福原まで書面で届けても、あるいは平重盛が自自分の足で福原まで赴いて平清盛に直接説明しても、平重盛の訴えが平清盛のもとに届くことはない。現在でも平清盛と同様にイエス以外の答えを受け入れず、自分の思い通りと違う回答を全く受け入れない人がいるが、こういう人に、良くない知らせを送っても握りつぶされるか、知らせを送ったことに対して激怒するかのどちらかである。そのどちらとなっても良くない知らせが届くことは無いことに違いは無く、早めに動いておけば対処できたことが、気づけば手遅れになっている。
平重盛に残されている手段は、超然とした態度に終止し、父の命令を受け入れながら、苦境が過ぎ去るのを待つことのみであった。庶民の声を受け入れて評判を取り戻そうとしても平清盛が存在する限り不可能である。それよりは、庶民の声を無視して父の命令に従うほうがまだ事態を好転させる可能性がある。
承安元(一一七一)年一二月に入内した平徳子は、平清盛と後白河法皇の手はずの通りに、一二月二六日には女御となり、あとは吉日を選んでの中宮宣下を待つのみであった。
ただし、実際に中宮宣下を受けたのは、年が明け、一月も終わり、二月になってからである。これだけ時間を要したのは厳島神社からの返礼を待ったからである。平徳子は年が明けてすぐに入内の際に用いた衣を厳島神社に奉納しており、奉納が無事に完了したという知らせを受けないと中宮宣下を受けることができなかった。入内の際に何かしらの寄進をするのは通例の通りであり入内時の衣を奉納することも珍しくはなかったが、奉納先が厳島神社であるというのは通例を大きく外れていた。何しろ、安芸国厳島神社への奉納が完了したのが二月二日になってからというのであるから、これでは一月中に中宮宣下を受けるなど無理である。
厳島神社からの返礼があったのちの承安二(一一七二)年二月一〇日平徳子が中宮となった。同日、二条天皇の中官であった藤原育子に皇后位が贈られ、藤原忻子が皇太后となった。また大納言藤原隆季が中宮大夫に、平時忠が中宮権大夫に、平清盛の五男である平重衡が中宮亮に、平重盛の長男である平維盛が中宮権亮となった。
娘を高倉天皇の中宮にさせることに成功した平清盛と後白河法皇は得意げであったというが、京都の庶民たちの視線は冷ややかなものがあった。
庶民の視線が冷ややかになっている最中も平清盛は自らの道を進み続けており、後白河法皇も平清盛の意見と同調しているため、間に建春門院を介在させての両者の関係は良好なものがあった。
皇族の民間人の邸宅への御幸だけでもニュースとなり、熊野詣のように皇族が京都を離れるだけでも世間で話題となっていた時代は終わり、後白河法皇の御幸先が摂津国福原にいる平清盛のもとであることは、貴族が日記にその事実を書き記すことはあっても、世間のニュースとなることは無くなった。
平安京の庶民が楽しみにしているイベントにも、平家の姿は当たり前になった。賀茂祭で誰が近衛使を務め、誰が中宮使を務めるのかはイベント前の楽しみではあったのだが、承安二(一一七二)年の賀茂祭は、平知盛が近衛使、平重衡が中宮使を務めるという、年に一度のイベントにも平家が出てきているのかと、庶民をウンザリさせる結果が待っていた。
その心境を一瞬ではあるが減らすことになった出来事が承安二(一一七二)年五月二〇日に発生した。鴨川が洪水を起こし、鴨川東岸の六波羅が浸水したのだ。洪水被害に喝采を浴びせるのは下品極まりないと感じるし、被害も生じているのだから喝采を浴びせるべきではないという良心の声もあったが、そんな声よりも、権力を握って我が物顔で振る舞い続けている平家が、洪水被害にあって苦しんでいる様子を目にして溜飲を下げる声のほうが大きかった。
六波羅の浸水については福原にも情報として届いた。ただし、六波羅が水害に遭ったことに喝采を浴びせる庶民の多さについては福原の平清盛のもとに届かなかった。六波羅が水害に遭ったのだから六波羅の対岸でも水害が起こったのではないかと考えて支援物資を送ったなら、あるいは、実際に送らなくとも支援物資を送る素振りを見せたならば、失った支持を取り戻すこともできたであろうが、平清盛からの返答に六波羅の水害を気遣うものはなかった。もっとも、六波羅が水害に見舞われたが被害は軽微だったという報告だったのかもしれない。自分から情報を積極的に求めることはしない平清盛のことだから、京都で実際に起こっていることを知らないままでいた可能性は高い。
南宋からの軍事同盟要請を拒否したことは既に記したとおりである。
日本からすると後白河法皇が謁見したのだから問題ないではないかとなるが、南宋からすると、首都でない場所で、退位した元天皇と謁見しただけとなる。
しかも、南宋は金帝国との戦闘に勝利してナショナリズムが沸き立っている最中である。
このようなときの外交は難しい。
承安二(一一七二)年九月、南宋の明州判史から後白河法皇と平清盛への贈物と書状が届いたのだが、これが大問題となった。
南宋にしてみれば、金帝国の存在すら認めたくないのである。金帝国が戦争をしている相手であることは認識しているし、金帝国の国家元首が皇帝を称しているのも知っている。だが、自らを唯一の中華帝国国家であると認識している南宋にとって、皇帝とは南宋の皇帝のことであり、金帝国のトップは皇帝を自称する王なのである。
ナショナリズムが沸き立っているときは、相手国の理念よりも自国の概念が優先する。
南宋は、金帝国が皇帝を称しているのを知っているのと同様に、日本国が天皇を称しているのも知っている。しかし、皇帝は中国大陸にただ一人のみ存在するものであると考えている南宋に、しかも、ナショナリズムが沸き立っている南宋に、皇帝と同格である天皇の称号を受け入れるという選択肢はない。
その結果、南宋から送られてきた書状に記されていたのは「日本国王」ならびに「日本国太政大臣」に向けて送られた書状だったのである。しかも、宋の皇帝から「日本国王」に賜うという形式での書状であることから、書状を受け取った朝廷は紛糾した。
これが国際関係の礼儀に関する問題の紛糾なだけであるならまだ問題無い。いや、問題はあるが、失礼を指摘した上での信書受け取りが可能だ。ところが、南宋の求めているのは日本との軍事同盟締結である。軍事同盟締結を前提とした信書がこのようなものであるとなると、軍事同盟は対等な関係ではなく、日本が南宋の属国となった上での軍事同盟になる。要は、南宋の命令一つで金帝国とその属国である高麗に軍を進めろと命令される関係になる。求めていない戦争に巻き込まれるのは、それも、侵略しろと命じられて侵略に打って出なければならなくなるような事態になるのは、いかなる理由があろうと絶対に避けなければならない。
では、書状を突き返すか?
ナショナリズムが燃え上がっているときは、経済的損失を生もうとも貿易を停止することは珍しくない。日本からの物資が輸入されないのは南宋にとって痛手であるが、痛手であるというまさにそのことが南宋のナショナリズムをさらに強固なものとする。金帝国に勝利した南宋が、金帝国との和平がなったことを踏まえた上で軍勢を日本に向けないと断言できる根拠はどこにもない。長江と東シナ海とでは規模が大きく違うが、南宋は金帝国相手に水の上で戦って勝ったのである。その勢いで軍勢を北ではなく東に向けるようなことは避けなければならない。
選択権が日本ではなく南宋にあるがために、日本の回答は難しいのである。
そしてこれが日本らしいと言えばその通りなのであるが、回答がやたらと長くなり、南宋からの使者が福原で留め置かれ続けることとなった。
南宋からの変更に窮している間にも日本国内の情勢は変動を迎えている。
特に、平家に対する庶民からの支持が下がっていることは、それまで平家の武力の前に沈黙させられてきていた寺社勢力にとって、それまでの鬱屈を一気に払拭する絶好のチャンスでもある。
南宋からの使者の到着する少し前に延暦寺からの武装デモ集団が平安京のすぐ近くにまで押し寄せ祇陀林寺を襲撃したという事件が起こった。祇陀林寺は平安京の区画の外であるため、ギリギリではあるが武装して平安京の中に入ってはならないという法を延暦寺が犯してはいない。だが、平安京の目と鼻の先に押し寄せて暴れただけでなく、これまでであれば出動するはずの平家の武装勢力が動かずにいたことは、寺社勢力にとってさらなる確信を抱かせるに充分であった。
僧兵が武装したまま平安京内にまで入り込んでも問題ないのではないかという確信である。
平安京内に緊張が走ったものの、平家に対する庶民からの支持が増すことはなかった。それどころか、軍勢を率いることもなく、僧兵の脅威を復活させてしまっていることに対する不満を増すこととなったのである。
寺社勢力への恐怖と平家への失望という、寺社でも平家でもない勢力については支持率を上げる絶好の機会を、誰も活かせなかった。後白河法皇は熊野へ御幸し、さらに福原とへ御幸したものの、平安京の庶民に対して何かをすることは無かった。
藤原氏はもっと何もしなかった。僧兵に対して立ち向かうどころか、亡き近衛基実の子である近衛基通の住まいが何者かの手によって放火されてもどうにもできないまでになっていた。厳密に言えばどうにかしたのであるが、それは、放火ではなく不注意から来る失火であるとしたことのみ。摂政松殿基房から藤氏長者の地位を戻してもらう予定の近衛基房は、いかに元服を済ませているとは言え、住まいが廃墟となって呆然とする一三歳の少年でしかなかった。また、摂政松殿基房も、右大臣九条兼実も、その若さは時代の新鮮さではなく頼りなさを感じさせるものになっていた。
誰もが何にも期待できない時代を迎えてしまい、いつ寺社勢力が暴れ出すかわからない一触即発の様相を呈してきていた。
一触即発の様相に終止符を打ったのは、予想だにせぬ場所からの出来事であった。
承安二(一一七二)年一二月一四日、奈良で暴動が発生したのである。名目は権大納言平重盛の家人が春日神人に対して暴行を働いたことが理由であるが、誰もが真の理由を理解していた。
暴れているのは興福寺の僧兵達である。と言うより、奈良で暴れるとすれば真っ先に思い浮かぶのが興福寺だ。春日大社と興福寺は厳密に言えば別個の宗教施設であるが、弘仁四(八一三)年に藤原冬嗣が興福地南円堂を建立させたときに、本尊である不空羂索観音を春日大社の祭神である武甕槌命の本地仏としたことから春日大社と興福寺は一つの宗教勢力となり、興福寺が強訴に押し寄せるときは春日大社の神木を奉じることが通例化したほどである。ちなみに、春日大社と興福寺とが別個の宗教施設に戻ったのは明治維新後のことであり、それまでの一〇〇〇年以上の長きに渡り、興福寺と春日大社とは一つの宗教施設として過ごしていたこととなる。
春日大社にかかわる人が何かしらの損害を被ったなら興福寺が動き出すのは通例である。春日大社に何の被害が無くても、暴れる理由を探している興福寺が春日大社を理由に暴れ出すのは通例である。目的のためなら手段は選ばないというフレーズがあるが、興福寺に限らずこの時代の僧兵達は、もっと言えば社会運動などというものの正体は、暴れるという手段のためなら目的は選ばないというものである。周囲は迷惑極まりないが、暴れている側にとっては正義気取りで気分爽快になれる。
かつて白河法皇が嘆いていた頃のような暴れかたは、ついこの間までは清和源氏と伊勢平氏が、保元の乱と平治の乱を経た後は平家が、強引に封じてきていた。それが庶民の支持の源泉でもあった。
その強引な封じ方が終わってしまった。平家が動かなくなってしまったのだ。
なぜ寺社勢力に対して平家が動かなくなったのか?
平家が平清盛をトップとするピラミッド構造になっていることが全ての問題だった。
平清盛が六波羅にいるなら平清盛の命令一つで平家の軍勢を派遣できる。六波羅から平安京へは鴨川を渡れば終わりである。どんなに時間がかかろうとこの時代でも一時間もあれば平清盛の元に情報が届き、平清盛からの指令が発動される。
ところが、平清盛が京都を離れ摂津国福原にいる現在、平清盛の命令を求めるのにどんなに急いでも一日、平清盛の命令を持ち帰るのにもやはり一日かかるようになってしまった。これは例外的な早さの例であり、五日間のタイムラグですら早いほうであると受け入れなければならいのが現状だ。
平清盛の命令など聞かずに六波羅で独自に行動すれば良いではないかと思うかもしれないが、六波羅における平家のトップである平重盛は権大納言であり、武官の地位を得ていない。いかに平重盛が武士の出身であっても、武官としての地位を持たない貴族が私的に軍勢を動かすことは法に違反することとなる。そう言えば、平清盛の参議就任以後の貴族としてのキャリアを振り返ると、そのほとんどを何かしらの武官との兼職で過ごしている。
平重盛が武官としての職務を持っていないのでも、他に平家の者で武官としての権威を持っている者はいるのではないか、その者が軍勢を動かせばよいでは無いかと思うかもしれない。そして、承安二(一一七二)年一二月時点の平家を見ると二人、武官としての職務を持っており軍勢を動かすこと許されている者がいる。権中納言である平宗盛と参議である平頼盛の二人である。平宗盛は右衛門督、平頼盛は右兵衛督を兼任しているので、武官として軍勢を動かすことが認められている。
ところが、二人とも動けなかった。動かなかったのではなく動けなかった。
平宗盛は権中納言であり、平頼盛は参議である。年齢も、キャリアも、さらには軍勢指揮能力も平頼盛のほうが上であったが、役職だけは平宗盛のほうが上であり、軍勢指揮となると平宗盛のほうが優先される。そして、スキャンダルに対して叛旗を翻しただけに、支持を失ってきている平家の中にあって平宗盛は人気を維持できている数少ない人物であった。ただし、この人は平家の中にあっては支持を失っている。平清盛に逆らうことは平家の中で孤立することを意味するのだ。
平家の武士は、平清盛の指揮の下で動く。平清盛からの指令が無くとも平重盛の指令があるならば動く可能性がある。だが、いかに法的根拠を持っていようと平宗盛の命令では動かない。
奈良で興福寺の僧兵達が暴れていると言う知らせが京都に届くのに一日かかり、平家の軍勢を合法的に動かすことのできる平宗盛の命令に従う武士はおらず、武士に命令を従わせることのできる平重盛には軍勢を動かす法的根拠がない。議政官に招集を掛けて朝廷として軍事出動を命令したとしても、平家の武士達を朝廷が動かすことはできず、朝廷として動かすことのできる権力は検非違使ということになる。仮に検非違使別当が平家の誰かであればここで問題は解決するのだが、承安二(一一七二)年一二月時点の検非違使別当は権中納言藤原成親だ。
奈良からの情報がもし後白河法皇の元に届いたならば、あるいは六波羅から後白河法皇へ要望を送ったならば、後白河法皇から院宣を発してもらうことで平家の軍勢を動かすことが可能となるが、後白河法皇にそのようなことは期待できない。そもそも後白河法皇は頻繁に京都から離れているし、後白河法皇が京都にいたとしても後白河法皇が軍事に関して主導的に何かの指示をするようなことは期待するだけ無駄である。
京都に情報が届いてから福原にいる平清盛の元に情報が届くのにさらに最短でも一日かかる。平清盛からの指令が平家の武士達のもとに届いて、平宗盛の指揮する平家の軍勢を奈良へ向けて差し向けることは可能であるが、奈良から京都で一日、京都から福原で一日、福原から京都で一日と、ここで三日を消化することとなる。それから軍勢を整えて一日以上かけて奈良に向かったところで、奈良に着いた頃には暴動が収束している。しかもこれは歴外的な早さが実現したときの例外での日数であり、通常はもっと時間がかかる。
承安二(一一七二)年は平家の現在の体制が危機的状況にあることを内外に示す年になってしまった一年でもあった。間もなく承安二(一一七二)年が終わろうかという一二月二七日、摂政松殿基房が関白となったこと、その際に、いったん摂政を辞任したのちに改めて関白に就任するという前提を踏襲したことは、平家の体制の危機的状況と対比するかのように藤原氏は健在であると内外に広くアピールする効果を持っていた。
年が明けた承安三(一一七三)年、延々と待たされ続けてきた南宋からの書状に対する返答が決まった。
南宋からの書状は「日本国王」と「日本国太政大臣」に向けて送られた信書である。とは言うものの、日本国に天皇はいても国王はおらず、太政大臣は空席である。
院政というのは特殊な政治システムで、国家元首たる天皇を辞した皇族が、天皇の近親者であることを理由に天皇の政務に対して「強い要望」を送ることで国政を操作するという仕組みだ。そして、上皇や法皇という概念は中華帝国には存在しない。皇帝を辞した後も前皇帝や元皇帝という立場で現職の皇帝に強い影響を与えることはあっても、それが院政として政治システム化されることは無い。
日本からの回答は、院政という特殊な政治システムを利用することにあった。
まず、嘉応二(一一七〇)年九月二〇日に福原で面会をした後白河法皇は、南宋の言う「日本国王」ではなく天皇を辞した一僧侶であり、嘉応二(一一七〇)年はあくまでも一人の僧侶として南宋との交易に賛成するとしたこと、同じく福原で会った平清盛も元太政大臣であるものの今は出家して政界から離れた一僧侶であることを伝え、日本に天皇はいても国王はおらず、いかに出家したとは言え後白河法皇がかつて天皇であったことの風格を隠しきれなかったために南宋の使者が日本には天皇とは別に国王がいるのではないかと勘違いさせてしまったことを陳謝し、その上で、南宋からの進物が極めて美麗であることを称えたと同時に、正式な軍事同盟の締結は、宋国皇帝から日本国天皇への文書が送られてきたときにはじめて首都の京都にいる天皇が定めることであるとしたのである。
また、返礼として後白河法皇から色革三〇枚を納めた蒔絵厨子と砂金一〇〇両を納めた手箱一合が、平清盛からは剣一腰と物具の入った手箱一合が送られることになった。
ただし、書状を返信するだけで、南宋からの使者に会うことは無かった。
これに南宋からの使者は激怒した。半年以上待たされた挙げ句に書状と返礼だけで面会もなく追い返されるのである。これでは日本と南宋との貿易どころか国交断絶となってもおかしくない。
日本からの返書を受け取った南宋皇帝孝宗は不満を抱いたが、同時に使者の持ち帰った日本の情報から一つの納得いく答えを手にした。
日本は南宋との交易をより拡充させようとしている。南宋との軍事同盟締結を拒否するのは日本の立場に立てば納得いく話であり、また、金帝国との和平が成立している現状では、下手に刺激をしないほうが戦争の可能性が減る。その上で、南宋と日本との貿易をより拡充させることで一つの経済圏とも言うべき状況を作り上げ、軍事同盟ではないにせよ金帝国との間にプレッシャーを与えることが可能となるというのがその答えである。
では、南宋からの使者は日本から何の情報を持ち帰ったのか。
名実ともに福原の外港となった大輪田泊の改修工事である。
大輪田泊は西から東に吹く風から船を守ることができても、東から西に吹く風が相手となるとどうにもならないという欠点を持っている。その欠点のせいで大輪田泊は発展が阻害されてきたとも言える。
無論、欠点の克服は以前から考えられていた。東から西へ吹く風から船舶を守るために石造りの堤防である石椋(いわくら)を建設し維持すること、摂津国では徴収した税のうちの一定割合を石椋の維持費として当てるよう律令で定められていたことは前もって記した通りである。そして、律令の記載が空文化していたことも既に記した。
平清盛が石椋の復活を試みたのは間違いなく、応保二(一一六二)年二月に工事を始めたものの同年八月の台風の被害で全てが水泡に帰したこと、翌長寛元(一一六三)年三月に工事を再開させたことまでは史実であろうが、そこから先は伝説の世界となっている。工事がある程度進んだが間もなく日没を迎えるので、太陽が沈まないように扇子で扇ぐと日の沈むのが一時的に止まったなどというのは絶対にあり得ない話であるが、工事を成功させるために人柱を鎮めるべきだという意見を否定し、その代わりに石に経文を刻むことで工事の土台とさせたというのは、実際に経文を刻んだ石が発掘されているのであながち嘘とは言い切れない。
大輪田泊に建設されている石椋は律令で定められた規模を超えた人工島へと拡張しており、承安三(一一七三)年三月時点では工事中ではあったものの、石椋ではなく「経が島(きょうがしま)」と呼ばれるまでになっていたことは確認できている。
この大輪田泊の改修工事の様子と経が島の誕生とを南宋の使者は目撃し、首都からほど近いところに国際貿易港が現在進行形で建設されつつあることを伝えたのである。既に大輪田泊は外洋航海船も停泊できる港として活用され始めていて、かつ、規模をさらに拡張させている途中であるというのは、これから先、日本と南宋との交易は現状よりもはるかに大規模に進むことを意味する。
平家の体制が危機を迎えていることを、武装デモを起こして暴れることが許された時代の到来と捉えた人がいる一方、訴えを届けることが許された時代の到来であると考えた人もいる。
訴えを届け出ること自体は問題ないのだが、正当な手順を踏まない訴えは問題である。
この時代、国政に意見を届ける方法は三種類ある。
一つは完全に合法な手順で、まずは地域の地方官に訴えを届け、郡司から国司へと、国司から京都の朝廷への上奏を経て、議政官での議決ののち天皇の名で法として実現させることである。
二つ目は、デモ。地方官から朝廷に至るまでのどこかで届け出が握りつぶされたとき、これだけ多くの人がこのような意見を持っているのだと示すことで、自分たちの意見を圧力という形で直接朝廷に届ける方法である。正式な法となることもあるが、違法であることの黙認を得るというケースも多い。そして、黙認より多いのが訴えそのものを握りつぶされるという結末。
三番目が、直訴。デモは迷惑な存在であるが、それでも集団で行動している、すなわち、一人だけの意見ではない。デモに賛同してくれるような仲間も見つけられないような極端な意見を国政に届けるとなると、デモよりは迷惑ではないものの、デモより危険な方法を選ばざるを得なくなる。偉い人に直接頼み込むのだ。
承安三(一一七三)年四月二九日、前代未聞の事件が起こった。僧侶の文覚が、神護寺再建を求める勧進帳をもって後白河法皇の住まいとする法住寺殿に乱入し、神護寺再建のために荘園を寄進して欲しいと頼み込んだのだ。
想像して欲しい。いきなりやってきた人間が、自分のところの会社の経営が危機だから事業をいくつかタダで寄こせと言って来たらどうなるかを。意見は意見として尊重されるべきかもしれないが、こんな意見を受け入れるような社会などあり得ない。
当然のことながら文覚は逮捕されたが、逮捕されて連行されるまでの間ずっと、文覚は後白河法皇に悪態をはき続けていたという。
慈円は愚管抄の中で文覚のことを、行動力のある人であると記すと同時に、乱暴で、口が悪く、学識が無い人間であると徹底的に罵倒している。慈円の人物評が大袈裟なものでるのはいつものことであるから割り引いて考えなければならないが、後白河法皇への直訴に対して承安三(一一七三)年五月一六日に文覚に対して下された処分は妥当とすべきであろう、伊豆国への配流である。直訴そのものが有罪であるだけでなく、皇族への不敬は死罪とするというのが律令で定められている規定であるが、死刑が復活したと言っても死刑となるような犯罪を一等減じて流罪とするという概念はまだ残っており、伊豆諸島への島流しを前提とした伊豆国への配流は流罪の中でもっとも重い刑罰である。
それだけであれば、一人の僧侶の理解不能な行動であると断じられて終わりであったろう。ところが、文覚が伊豆に配流になったことで運命と歴史が変わったのである。
伊豆国には源頼朝がいるのだ。
承安三(一一七三)年時点の源頼朝の様子を伝える同時代史料はない。しかし、鎌倉幕府の正史である吾妻鏡によると、この頃から源頼朝は三善康信を通じて定期的に京都とその周辺の情報を入手するようになっていたという。三善康信は太政官の書記官役を務める下級貴族であり、母が源頼朝の乳母の妹であるという間柄であったことから、あくまでも私的な手紙として伊豆にいる源頼朝に対して、手紙を月に三度、一〇日に一度の割合で送っていた。
平清盛がもう少し情報の重要性を認識している人であったなら、三善康信が定期的に送り届けている手紙が伊豆へと向かわないように取り上げるか、送らせるにしても手紙の中身を検閲していたところであるが、情報の重要性を認識していない平清盛の監視下では手紙を伊豆へと自由に送り届けることが可能であった。その結果、能動的に情報を集めることをしなかった平清盛と異なり、源頼朝は月に三回、定期的に必ず情報を入手できるようになったのである。
このような意見を平清盛に述べたとしたら、平清盛も反論はするだろう。源頼政に伊豆国を知行国とする権利を与えている、と。少なくとも承安二(一一七二)年七月九日には源頼政が伊豆国を知行国とする権利を手にしていたことは判明しているので、源頼政の推薦を受けた人物を伊豆国司とすることで伊豆国に対する統治をさせているのだから、伊豆にいる源頼朝の監視もできている、と。
平治の乱で源義朝と手を切り平家の側に身を置いた源頼政が平家からの恩賞として知行国を与えられたのは理解できることである。ただしそれが伊豆国だというのは問題があった。平家の人材不足は深刻な問題であったが、源頼政の人材不足はもっと深刻な問題であった。源頼政が伊豆国の国司を推薦できる権利を手にできたのがいいが、源頼政が国司として推薦できるような貴族はいなかったのだ。しかも、伊豆国司は源頼朝をはじめ、伊豆に流罪となった人の監視も職務とする。現在の静岡県の伊豆半島だけが伊豆国の領域なのではない。現在は東京都に含まれる伊豆諸島もこの時代は伊豆国の領域であり、源頼朝のように伊豆半島に配流となったのではなく源為朝のように伊豆諸島に配流となった流人に対する監視も職務に含まれるとなると、激務ゆえに国司になりたいと言い出す貴族が現れないのが現実だ。
結局、源頼政が推薦できる伊豆国司となると、源頼政自身か、あるいは、源頼政の子供ということになる。一応は貴族であるが、国司としての職務を全うできるかどうかを考えると、それはとても厳しい。ただでさえ伊豆国には源頼朝がいるだけでなく、清和源氏の影響を強く受けている関東地方が目と鼻の先にある。関東地方だけでなく、現在の山梨県にあたる甲斐国も、現在の長野県にあたる信濃国も、今なお清和源氏の影響が強く残っており、清和源氏の一部を構成する武士団が地域の有力者として健在だ。そうしたところに源頼政や源頼政の子が出向いたとして何ができようか。
源頼政は平治の乱のあともその地位を保全できた数少ない清和源氏の一人であるが、清和源氏のトップたるに相応しい存在とは見なされていなかっただけでなく、清和源氏の裏切り者の代表格に見られていた。清和源氏の一員であることを自負する武士も、清和源氏に代々仕えてきた武士も、清和源氏のトップは平治の乱で敗れた源義朝であり、源義朝の子のうち源義朝とともに平治の乱で戦った源頼朝が立ち上がったならば清和源氏の一員として従うが、そうでなければ従うなど考えない。これが京都においてかつての源義朝に匹敵するだけの権勢を手に入れているなら従うことも考えるかもしれないが、現在の源頼政にはかつての源義朝に匹敵する権勢など欠片も無い。
ではなぜ、源頼朝なら従って、源頼政だと従わないのか。
武士が主君に忠誠を誓うのは、忠誠を誓うことに対する結果が存在するからである。その結果とは、手にしている所領。この時代の武士は必ずと言っていいほど所領を持っている。手にしている所領は一つの荘園全体なこともあるし、荘園の一部だけを所領として保有していることもある。武士が戦うのは、自分が手にしている所領の保証と新たな所領の獲得のためであり、源義朝に対して忠誠を誓った武士とは、源義朝がその役割を果たしてきたからこそ忠誠を誓った武士である。源義家以降の清和源氏のトップの継承者に求められる役割を果たしたのは源義朝であって源頼政ではない。源頼政にそこまでの権勢もないし実績も無い。ましてや、ほとんどの清和源氏が平治の乱における敗者と扱われている中において、裏切ったことによって勝者の側に位置しているのが源頼政である。源頼政が伊豆を知行国とし、自分自身や関係者を伊豆国に国司として派遣することに、どれほどのメリットがあろうか。
源頼朝は間違いなく京都において源頼政の置かれている状況を認識していた。父源義朝を裏切って平治の乱の勝者の側になり、平家に頭を下げる身となりながら思う通りの栄達を遂げることもできずにいることを知っている。伊豆国を知行国とする権利を手にし、伊豆国に国司を派遣するようになったことも、その国司が敵地に単身乗り込むような環境に置かれるであろうことも知っている。
源頼朝は自分が清和源氏のトップを継承すべき人間であることを強く認識していた。今はまだ伊豆の地で流人生活をしなければならない身であることを強要されているが、平家に対する反感、境遇に反発する清和源氏の武士達の怒り、日々貧しくなっている暮らし、こうした感情を束ねることで平家に対抗する勢力を作り上げるのが自分の未来であると考えていたのがこの頃の源頼朝である。
しかし、ここで懸念点があった。京都にいる源頼政だ。
源頼朝は伊豆で流人の身、一方、源頼政は位階と官職を手にして朝廷に仕える身。多くの清和源氏の武士から裏切り者と罵られようと、現在も刑罰が執行されている途中の犯罪者である源頼朝と違って権力遂行の正当性を有している。この上で源義家以降の清和源氏のトップが果たしてきたように、源頼政が仕える者の所領を保証し、新たな所領を獲得する機会を与えたならば、清和源氏のトップの地位は源頼朝の手から離れ源頼政の手に渡る。そして、清和源氏は平家のもとに収斂され、一族の使命を終えることとなる。
現時点では源頼政に清和源氏のトップを奪う要素は見られないが、源頼朝の置かれている境遇が変わらないならば、清和源氏のトップの座も、清和源氏の未来も、源頼朝の元から離れて源頼政のもとに向かってしまう。かといって、源頼朝は伊豆で監視下の暮らしを余儀なくされている。
というところで、源頼朝のもとに京都で失態をしでかした文覚がやってきた。
文覚の生涯を追いかけると、後白河法皇に向かって直訴をしたことだけが異様なエピソードとして登場する。
文覚はかつて、上西門院統子内親王のもとに仕える北面の武士の一人であり、出家する前の名は藤原盛遠とも遠藤盛遠とも伝わっている。そのままであるなら北面の武士の一人としての未来が存在していたはずであるが、数え年で一九歳のときに親友の奥さんへの恋心を抱き、その想いを伝えてしまったところから人生に暗雲が漂うようになった。文覚は保延五(一一三九)年生まれであるから、文覚が数え年で一九歳のときとなると保元二(一一五七)年、保元の乱の翌年の話のこととなる。
男は、親友を裏切ることも、恋心を捨て去ることもできずにいることに苦しみ、女は、夫の親友から恋を打ち明けられ、夫を裏切るわけにはいかないという思いと、自分も少なからず想いを捨てられずにいることとの悩みに苦しんだ。その結果、彼女から非常な言葉が漏れた。「夫を亡きものにしてくれたなら」との応えである。
北面の武士である。武装して平安京内をうろつくのも、夜間に武装をして出歩くのも認められており、その足先が親友の住まいであったとしても任務の一環と周囲の人は思うであろう。だが、その武士は、京の街を守るためではなく自らの思いを満たすために夜間にうろついていたのである。親友の屋敷に忍び込み、親友の眠る部屋に忍び込み、眠る人を刺し殺した。それが自分の想いを遂げる方法だと考えて。
その武士が想像もしていなかったのは、親友の部屋で眠っていたのは女性であったこと、そして、その女性こそ自分の思いの募らせた女性であること。気づいたときには遅かった。この手で親友の妻を、そして、自分の愛した女性を殺してしまったのだ。それだけでも苦しさが消えないのに、犯罪者として捉えられ処罰されなかった。北面の武士の不祥事となると処罰ではなく隠蔽の対象となってしまうのだ。殺人事件があったとしても犯罪者の取り調べの途中で起こった不幸な出来事と片付けられ、自らの犯した罪の深さを悔いることも許されない。残されたのは何もかも捨てて出家することのみであるが、それとて、世を儚(はかな)んでの出家と片付けられて終わりである。出家して文覚と名乗るようになったかつての北面の武士は罪人となることすら許されず、寺院に籠もって念仏を唱えるだけの日々を過ごすしかなかった。
文覚の人生でただ一つの奇行が後白河法皇への直訴、それも、理解しがたい内容での直訴である。不敬を働いたゆえに死刑の次に重い刑罰を受けることでようやく自分を罪人とすることに成功し、伊豆へ流され、承安三(一一七三)年に源頼朝と出会った。
ここから先は確たる証拠のない仮説である。罪を犯して出家したのが保元二(一一五七)年、それから一六年を経た承安三(一一七三)年に突然、文覚は何の前触れも無しに後白河法皇への直訴をして、逮捕され、悪態をついたことで死刑の次に重い刑罰を受け、伊豆に流され、近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み着くようになった。奈古屋寺があったのは現在の伊豆箱根鉄道修善寺駅から西に少し離れたところであり、一方、伊豆に配流となった源頼朝が住まいとしていた蛭ヶ小島のあるのは同鉄道路線の伊豆長岡駅の近くである。この間の距離は、東京で言うなら新宿と品川、大阪で言うなら新大阪から大阪城ほどの距離しか離れていない。ここまで近ければさほどの苦労もなく相互に移動できよう。
情報の重要性を認識し、手紙を利用して情報を入手していた源頼朝は当然、手紙とは一方通行ではないことを知っている。例外はあるが、通常は手紙の返書を書き記すものだ。京都の三善康信から源頼朝宛の書状が届くなら、源頼朝から京都の三善康信に向けて書状を送ることも可能だ。
三善康信は朝廷に仕える下級貴族であり、貴族であるからこそ伝えられる情報があるが、それで万全であるとは言いがたい。この時代の国内情勢を考えたとき、貴族ですら手に入らない重要な情報が存在する。宗教界の情報がそれだ。
かつて北面の武士であった文覚に源頼朝が会っていた可能性は高い。また、文覚が出家したのは真言宗の寺院であり、文覚が寄進を頼んだ神護寺も真言宗の寺院である。そして、真言宗というのは平安京の敷地内に建立することが許されていた二つの寺院のうちの一つである教王護国寺こと東寺を支配下に置く宗派であるため、他の宗派の寺院よりも平安京を中心軸とする宗教界の情報取得が容易となる。しかも寺院というのは人の移動や手紙のやりとりが当たり前の存在だ。遠くの寺院に修行に出かける僧侶は珍しくないし、そのときに手紙を携えることなど日常の光景である。他の寺院との間での情報のやりとりが存在しない寺院があるとすればそのほうがおかしい。
罪人となることで、それも皇室への不敬を働くという重罪に手を染めた罪人となることで、死刑の次に重い刑罰を受けた僧侶となり、伊豆への配流の身となれば、平安京に残る僧侶と伊豆に配流になった僧侶との手紙のやりとりが生まれることとなる。そのための僧侶として、自らの犯した罪の重さに苦悩しながら犯罪を処罰されることすら許されずに日々を過ごしている文覚は絶好の存在だ。
これは全て仮説だ。ただし、断言できることがある。
承安三(一一七三)年時点で源頼朝は京都との情報網を二系統持つ身になり、京都の情報をかなり正確に掴めるようになっていたことである。
文覚の伊豆への流刑は、この頃の京都では単なる奇行とそれに対する処罰という捉え方しかされておらず、伊豆への情報のやりとりがあるなど夢にも思われていなかった。源頼朝のことなど誰も気にしていなかったというほうが正解だろう。
文覚が与えた影響があるとすれば、いかに平家の行動力が低下してきているとは言え、寺社勢力の行動はいささかやり過ぎではないかという風潮が生まれだしてきたことぐらいであろう。
平家の行動力が下がり、寺社勢力が暴れはじめてきている。
かつての村上源氏がそうであったように、時代はまさに藤原氏を上回る勢力とみなされていた平家が衰えつつある。これが藤原氏の認識であった。藤原氏内部の争いの鮮明化も問題になっているが、それ以外に藤原氏の勢力を脅かす要素はない。
右大臣九条兼実の日記によると、承安三(一一七三)年六月六日に藤原氏内部の争いを収束化させるアイデアが真剣に検討されたことが記されている。関白松殿基房と、今は亡き近衛基実の妻である平盛子との結婚が真剣に検討されたのである。平盛子の再婚が話題に挙がったのはこれがはじめてではない。九条兼実の日記によると仁安二(一一六七)年五月一日に大納言藤原師長との再婚が真剣に検討されている。藤原頼長の子であり保元の乱ののちに土佐国に流罪となったのち、中央政界に復帰して議政官に復帰し、大納言にまで出世を果たしていた藤原師長にとって、近衛基実の妻と再婚するだけでなく、甥であり藤氏長者の継承が決まっている近衛基通を養子に迎え入れることは、近衛師長にとって父が失った藤氏長者の地位、そして、一時的に平盛子が相続した藤原摂関家の所領を手に入れる絶好のチャンスでもあった。
仁安二(一一六七)年のアイデアは反対が多く失敗したが、承安三(一一七三)年のアイデアはかなり真剣に検討された。まず、後白河法皇が賛同した。次に福原からも平清盛が賛意を示す書状が届いた。平清盛は平盛子の実父である。娘の結婚に父親が賛成したというのは、結婚に対する障害の大部分を解消できることを意味する。
ところがこのアイデアに当の平盛子自身が反対したのである。関白松殿基房からの求婚も恋愛感情から来るものであるならまだ納得できるが、求めているのは息子の継承することになる藤氏長者の地位と自分が継承した藤原摂関家の所領なのだから、納得する要素がどこにもない。松殿基房と平盛子の結婚で、松殿基房は計り知れないメリットを獲得するが、平盛子は何のメリットもないのだ。
関白松殿基房には確認できるだけで八人の女性との間に子供をもうけている。正妻である三条公教の娘だけでなくその妹との間にも子をもうけているし、藤原忠雅の娘との間にも子をもうけている。それだけでも光源氏を具現化したような女性遍歴となるが、その他に、松殿基房が父親であることは判明しているものの誰が母親なのかわからない子が一一名もいるのだ。仮に松殿基房から真剣に言い寄られてきたとしても、いかに関白であるとは言えこのような女性遍歴の男に恋愛感情を抱くことは難しい。
平清盛がなぜ賛成したのかだが、父親としての平清盛ではなく、貴族としての平清盛を考えると、賛成する理由はわかる。夫を亡くした娘の再婚相手が関白松殿基房で、藤氏長者の地位を継承することが決まっている自分の孫が、現時点で藤氏長者である人物の養子となる。既に太政大臣を経験して人臣位を極めた平清盛であるが、理論上は可能でも実際には摂政も関白も手にできなかったのは事実である。摂政にも関白にもなれなかったのは息子の平重盛も同じで、その一点は平家がどうあっても藤原氏に勝てぬ要素であった。しかし、姓は平でなく、また、平盛子の養子であるため血のつながった孫ではないにせよ、平清盛の孫ということになっている近衛基通が松殿基房の養子となれば、摂関家の貴種としてかなりの確率で摂政となり関白となる。母系からの藤原摂関家へのつながりの構築を強めることは、平家のさらなる強化に与する話である。
父の賛意に平盛子は失望した。それが平家のためであることは理解しても、自分を平家のための駒としか考えず、養子に迎え入れた近衛基通の重いも完全に無視している。それに、自分が相続した所領に対する所有権にも口出しするのは納得できる話ではなかった。
平家が藤原摂関家と繋がろうかどうかで揉めていた承安三(一一七三)年六、奈良からまたもや情勢不穏のニュースが飛び込んできた。大和国において興福寺の存在は圧倒的なものがあったが、ごく一部、延暦寺の所領と延暦寺配下の寺院が存在していた。その所領と寺院を巡って、延暦寺と興福寺とが争い始めたのである。
特に問題となったのが、藤原鎌足の墓のある多武峯(とうのみね)の帰属である。多武峯は現在の奈良県桜井市にある山であり、この当時は山全体が妙楽寺という神仏混淆の寺院の管理下にあった。ちなみに妙楽寺という寺院は、明治維新後の神仏分離によって神仏混淆が解消されると同時に寺院部分が廃され、神社部分のみが残されて談山神社として残されている。談山神社は現在でも参詣可能で、実際に足を運ぶと神社でありながら仏教寺院の様子が数多く残っていることが一目でわかる。
興福寺は藤原氏の氏寺でもあり、興福寺の門跡は皇族に加え藤原摂関家の子弟の入る門跡でもあった。ところが、妙楽寺は天台宗であり延暦寺の配下にあった。藤原氏初代である藤原鎌足の墓の管理を、多武峯を所有する妙楽寺から、藤原氏の氏寺である興福寺へと移してもらいたいいうのは一見すると無理のない要望である。ただし、藤原鎌足の墓の管理だけでなく、多武峯全体、そしてと多武峯妙楽寺の所有する所領まで興福寺の所有に移すように求めるとあっては穏やかな話ではなくなる。
当然ながら妙楽寺は抵抗するし延暦寺も拒否する。一方、興福寺は藤原氏初代の藤原鎌足の墓の管理を藤原氏の氏寺として行いたいという要望から、藤原氏の氏寺ではない他の宗教施設から取り戻すべしという話になる。
承安三(一一七三)年六月二五日、興福寺と妙楽寺の僧兵が激突した。いかに延暦寺の勢力が強くても、比叡山から奈良に来るまでの間には時間を要する。妙楽寺の抱える僧兵だけでは妙楽寺も持ちこたえることができず、藤原鎌足の御影堂と、妙楽寺のシンボルとも言うべき十三重塔が灰となって消えた。現在の談山神社に残る十三重塔はたしかに現存する最古の十三重塔であるが、それでも享禄五(一五三二)年に再建されたものである。
後白河法皇は延暦寺と興福寺との間の調停に乗り出すが、それでおとなしくしているような延暦寺ではない。
大和国に延暦寺の支配下にある寺院があるように、延暦寺と目と鼻の先にも興福寺の支配下にある寺院が存在する。
清水寺がそれだ。
京都に修学旅行に行ったことのある人は、あるいは京都に観光旅行に行ったことのある人は、かなりの割合で清水寺にも足を運んでいるであろう。京都駅からバスに乗って鴨川を渡った先にある清水寺は桓武天皇が平安京に遷都をする前からの歴史を持つ由緒ある寺院であるが、同時にこの寺院は確認できるだけで九回も焼失の記録を持っている寺院である。
その焼失の記録に承安三(一一七三)年も含まれている。想像するように、興福寺が妙楽寺に対して行ったことへの延暦寺からの復讐である。
延暦寺が清水寺に対して何かをすると興福寺は考えなかったのか?
当然のことながらそのようなことはなく、清水寺が焼け落ちる一三日前に、興福寺から春日大社の神木を奉じた武装デモ集団が北へと向かったことが記録に残っている。奈良から京都は東京と横浜ぐらいの距離しかない。気軽に歩いて行くのは難しくとも、歩いて行けない距離ではない。延暦寺が清水寺に対して何かしようとしていると察知したときに、延暦寺を食い止めるために僧兵を派遣するとした場合、一三日間というのは充分すぎる時間だ。それに、清水寺と鴨川の間に広がっている土地こそ、六波羅。すなわち平家の本拠地であり、支持率が下がってきてはいてもこの時代の最高の軍勢が集結している場所である。六波羅の目と鼻の先にある清水寺に襲撃を掛けようものなら、興福寺がどうにかする前に平家の軍勢がどうにかする。
平家の軍勢を期待しつつ、自分たちでも清水寺を守るとした興福寺の武装デモ集団であるが、どういうわけか彼らは宇治で足止めを喰らっている。もしかしたら宇治川の水量が危険水域に達していたのかもしれないし、危険を察して宇治橋を事前に通行止めにしていたのかもしれない。宇治橋は歴史ある橋であるが何度か建設しなおしている。現在の宇治橋はトラックの往来も何の問題もない橋であるが、この時代の宇治橋は現在のような頑丈の橋ではない。何かあったときに備えていつでも取り壊せるようになっていたのがこの時代の宇治橋だ。
何らかの理由があって宇治で足止めを喰らっている間に興福寺の僧兵達が耳にしたのは、興福寺の配下にある清水寺が延暦寺の襲撃を受けて焼亡したという知らせである。興福寺の僧兵達は怒りを隠せなかったが、このまま無理矢理宇治川を渡って京都に向かっても、焼け落ちた清水寺を目にするだけである。延暦寺に対する復讐を果たそうにも、清水寺との間に存在する六波羅を、すなわち平家の軍勢の本拠地を敵に回すこととなる。延暦寺の僧兵と戦う覚悟はあっても、清水寺を守ってくれるのではないかと期待していた平家の軍勢と戦うとなったら、負ける。それも完膚なきまでに叩きのめされる。この現実前にしては興福寺の僧兵とて奈良へと引き返すしかなかった。
平家に対する庶民からの支持が現在進行形で減っている中、歴史に名を残すフレーズが誕生したとされているのは、そして、そのフレーズゆえに平家への人気が絶望期に壊滅したと認識されることの多い出来事が起こったとされているのは、年明け早々の承安四(一一七四)年一月のこととされている。このように断言できずに書くのは、どこにもその証拠がないのに、一般に承安四(一一七四)年一月一一日のことであると人口に膾炙されているからである。
前年に大幅な人事の入れ替えがあったときは別だが、通常は、毎年一月に新たな役職が発表になり、また、位階の見直しも行われる。承安四(一一七四)年もそれは同じで、五日に権中納言藤原兼雅が位階を正三位から従二位に上がったのを皮切りに、七日には左大臣藤原経宗が正二位から従一位へ昇叙、当日、右大臣九条兼実も正二位から従一位へ昇叙、そして、一月一一日に権中納言平時忠が従二位に昇叙した。
このとき、平時忠がこう言ったとされている。
「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」と。
平家物語で出てくる、一般には「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」とされることの多い有名なフレーズがここで飛び出たのだという。そして多くの人は考える。このフレーズによって平家に対する支持を絶望的なまでに低落させることとなったのだ、と。
ところが、平時忠がそのように言ったのかどうか怪しい。根拠となるのは九条兼実の日記である。公的記録には一月一一日に平時忠が従二位に昇格したことが記されており、九条兼実もこの日に出勤してきた人の中に平時忠がいたことは記しているものの、この有名なフレーズをどこにも記していない。人に対する容赦ない非難を日記に書き記すのが恒例となっている九条兼実が日記に書き記していないのは、かえって平家物語のフレーズのほうが怪しくなってくる。想像していただきたい。今世紀半ばに令和元年の安倍首相の暴言とされるフレーズが世間を賑わせたという話が広まっておきながら、実際に令和元年の流行語大賞のノミネートにそのフレーズが全く登場せず、辻元清美がそのフレーズで安倍首相を攻撃した記録が全く存在せず、朝日新聞にもサンデーモーニングにも夕刊フジにも、さらには日本国内外のありとあらゆるメディアのどこを探しても全くそのフレーズについての報道の記録が残っていないとしたら、令和元年の記録を全部書き換えたとするより、そもそもそんなフレーズを言っていなかったと考える方が正しいのではないか。
ここで平家物語に立ち返ると、このフレーズが出てくるのは平家物語のかなり早い場面であること、これから平家物語を語っていく上で、その時代の平家の勢力がいかに強大なものであったのかを語るときの逸話として挿入したものであることがわかる。さらに、平家物語だけを読む限りでは、このフレーズが承安四(一一七四)年のことであるとはどこにも書いておらず、平時忠が従二位に昇叙したときにこのフレーズを口にしたと人口に膾炙されているだけなのだ。
さらにもう一つ注意しなければならないことがある。
本作品の冒頭部でも述べたように、平安時代の「人非人」は「人間ではない」という侮蔑語ではない。参議以上の役職を得られぬ貴族、あるいは三位以上の位階を得ることができぬ貴族に対する侮蔑語であり、もっと言えばかつて平家が言われていたことである。
それを今は平家が言う側になった。
これをもし藤原氏の誰か聴いたなら絶対に大騒動になったろう。にもかかわらず、大騒ぎになった記録が無い。おまけに、平時忠は放言癖のある人であり、その暴言で何度も騒動を巻き起こし、平時忠自身も放言のせいで左遷を何度か喰らってきた人である。その人がこのようなことを言ったら絶対に問題になる。それなのに騒ぎになっていない。騒ぎになっていないということは、騒ぎとさせないまでに平家の言論統制が強固であったとするよりも、そもそも平時忠はそのようなことを言わなかったとするのが正解であろう。いかにかつて平家が言われる側であったとしても、である。
また、承安四(一一七四)年時点の一月時点の議政官の構成を見てみると、たしかに平家の貴族を数多く確認できるが、議政官の最大勢力へと成長しているわけではない。
関白以下参議に至るまでの貴族の総数三〇名、うち、平家は六名、源氏が四名で、残る二〇名は藤原氏である。藤原氏が八割以上を占めていた時代からすれば減ってはいるが、それでも三分の二である。関白松殿基房は議政官の議決に加わることが許されていないから、議政官の決議において藤原氏とその他の貴族という争いになったとしても、藤原氏は間違いなく勝てる。
平家に勝てないとすれば、それは武力に頼る局面での話であるが、平家はだんだんと武家集団から貴族集団へとシフトしてきている。平家の若者が受ける教育は弓矢や乗馬ではなく有職故実であり、一人、また一人と貴族界に送り込んではいるものの、それらは武人として平家で過ごしてきたキャリアに対する報償と、貴族として教育を受けてきた者の貴族界デビューしかなく、それまでのように武人にして貴族でもある平家の有力者を貴族界に送り込むというケースは減ってきていた。
平家への支持が下がりながら勢力を伸ばしている。ただしそれは藤原氏に取って代わる貴族勢力としてであり、また、藤原氏との融合を意図する貴族勢力である。
この頃の人に一〇年後を想像させたならば、平家が藤原氏に取って代わる貴族勢力になることを想像する人はいても、平家に取って代わる武家勢力が現れることは想像だにしなかったであろう。
だが、まさに承安四(一一七四)年という年に平家の未来を破壊する動きが登場しているのである。三月三日、鞍馬寺に預けられていた牛若こと遮那王が鞍馬山を脱走して東国へ向かったのだ。平治の乱で敗れた源義朝の子として、乳児でありながら死も覚悟させられていた牛若が許されたのは、将来出家するという条件を母が受け入れていたからである。だが、その乳児は鞍馬山に預けられるところまでは平清盛の指令を守ったものの、そこから先は平清盛の命令など守るつもりなど微塵も無かった。鞍馬寺を脱走した少年は、母の再婚相手である一条長成の親戚である藤原秀衡を頼り、平泉へと向かった。
少年は平泉に向かう途中で、自分で勝手に元服し、勝手に名前を変えた。父をはじめ清和源氏の多くの者が名に用いた漢字である「義」と、清和源氏の初代とされていた源経基の「経」を合わせて「源義経」と名乗るようになったのである。なお、平治物語では近江国蒲生郡で、義経記は父源義朝の最期の地であった尾張国で元服したとあり、具体的な元服の場所は現在でも判明していない。判明しているのは、源義朝の九男である少年が鞍馬寺を脱走したこと、平泉に着いた頃にはもう源義経の名を名乗るようになっていたこと、そして、それから六年後に大人となったその少年が源義経の名で登場し平家に向かい合う武人へと成長していたことである。
伊豆に流されていた源頼朝が弟のこの行動を知っていたかどうかの明確な証拠は無いが、かなりの可能性で弟が源義経と名を変えて鞍馬寺を脱出し、名を変えて奥州平泉に向かったことは掴めていたであろうと考えられる。
もっとも、いかに情報を掴めていたとしてもこのときの源頼朝に武力は無い。後の鎌倉幕府の御家人たちの武力を計算できるのはないかと思うかも知れないし、実際にこの頃の源頼朝の周囲には後の源氏方の有力武将となる武士の何人かがいたことは記録に残っているが、意外なことにその中に北条氏の名は無い。もっとも、この頃の北条氏の持つ武力は特筆するほどの武力ではない。
嘉応二(一一七〇)年に伊豆介工藤茂光が、伊豆大島で暴れている源為朝を討ち取るために軍勢を率いたこと、その軍勢の中に北条氏の名はあるものの北条時政がいたかどうかは不明であることは既に記した通りである。この頃の北条時政は、伊豆国の武士の一人であると同時に伊豆国の在庁官人の一人でもあり、今で言う地方公務員であった。この頃の北条時政にとって源頼朝とは、伊豆に流罪となって監視対象となっている罪人の一人という位置づけであり、源頼朝は味方する相手ではなく監視する相手である。
それでも娘である北条政子を源頼朝に嫁がせていたではないかと思う人もいるかもしれないが、源頼朝と北条政子の結婚はまだ先の話であり、源頼朝は北条政子と結婚する前に伊豆介工藤茂光の甥で現地の豪族である伊東祐親の娘である八重姫と結婚して娘をもうけていたのである。それが伊東祐親の承諾のもとでの結婚であったのなら問題にならなかったのだが、勝手に結婚し、勝手に子宝に恵まれていたとなると、伊東祐親の視点からすれば大問題となる。京都での勤務のために伊豆を離れている間に娘が勝手に結婚し、子供まで産んでいた。しかも、勝手に結婚しただけでなく、娘の結婚相手がよりによって、流罪となって伊豆で監視下の生活を余儀なくされていた源頼朝なのだ。
伊東祐親が京都に赴いていた理由は不明であるが、叔父である工藤茂光は伊豆介という公的地位を持っていたのに対し、伊東祐親はこれという公的地位を保有していない。ただし、平重盛に仕える武士であることは判明している。平重盛が京都に呼び寄せたか、あるいは平重盛と断定できないにせよ平家の誰かが京都に呼び寄せたことによる京都勤務であったと推測できる。地方の武士を京都に呼び出して私的な職務に就かせることは藤原氏もやっていたことであり、藤原氏か平家かという違いはあれど、大番役、すなわち、地方の武士が京都の貴族に呼ばれて上京し京都で勤務すること自体はごく普通のことである。
承安四(一一七四)年三月、伊東祐親が三年間の京都での大番役を終えて伊豆国に戻ってみると娘が勝手に結婚していたのみならず、その相手が伊豆に流罪となっていた源頼朝であると知った伊東祐親は怒髪天を衝く衝撃であった。時代は平家のものとなりつつあるだけでなく、伊東祐親自身も平家に仕える武士の一人である。叔父のように公的地位をまだ得てはいないが、仕えている平家の力添えで自身の栄達も果たせると考えていたところに、娘が犯罪者と、しかもただの犯罪者でなく平家と対抗する存在であった清和源氏のトップの息子と結婚をし、子供まで生んでいるのだ。激怒した伊東祐親は娘を強引に離婚させただけでなく、自分の知らぬ間に産まれていた孫を家人に命じて殺すように命じ、さらに源頼朝を殺害すべく軍勢を差し向けたようとまでしたのである。
ここで源頼朝の身を救ったのが伊豆の武士達であった。その多くが平氏の子孫であるものの清和源氏に仕えてきた武士であり、彼らは伊東祐親の権勢の被害者でもあった。平治の乱で清和源氏が壊滅したことにより、伊豆における数少ない平家側の武士である伊東祐親の権勢が強まったことで伊豆における武士間のバランスが崩れ、源頼政が伊豆国を知行国とする権利を得ながら生かすこともできずにいる間に、平治の乱の勝者側である伊東祐親が敗者側である武士の所領を奪うようになり、伊豆国の多くの武士が伊東祐親に所領の一部あるいは全部を奪われるようになっていたのである。ちなみに北条時政はそのどちらにも与せぬ中立的な立場であった。中立であった理由は後に述べる。
伊豆での勢力を拡大させた後に主君である平家に呼ばれて京都に赴き、三年間の京都での大番役を終えて帰ってきてみれば伊豆における自分の地位が怪しくなっていることに気づかされた伊東祐親は、孫娘と源頼朝の殺害を計画するが、源頼朝の周囲に仕える武士だけではなく、伊豆の在地の武士たちもが源頼朝を守るようになっていたことから、源頼朝と娘の離婚を断行させることしかできなかった。なお、この時点で源頼朝の子である千鶴の消息は不明であるがおそらく母の元で暮らしていたのではないかと推測されている。
伊東祐親が伊豆国で起こしていた所領争いで最初に記録されているのは、従弟の工藤祐経の所領を伊東祐親が奪ったことである。
伊豆介工藤茂光は工藤祐隆の三男である。工藤祐隆の長男の息子が伊東祐親、工藤祐隆の次男の息子が工藤祐経という系図であるが、父系の親戚関係であるのに苗字が違う。これがヒントである。
工藤祐隆は自分の所領を次男に相続させたのだ。長男は工藤家から独立して独自の家系を創出し伊東を苗字とするようになっていた。現在の日本では結婚や養子に入るぐらいしか苗字を変える方法がないが、この時代、苗字を変えることは難しくなく、かなり自由に変えることができた。理由は単純で、明治維新まで姓と苗字とは別物であり、苗字とはアダ名だったのである。そもそも同じ姓の者があまりにも多くなってしまったことから、家を特定するためのアダ名として生まれたのが苗字だ。筆者も先ほどから工藤茂光や伊東祐親といった名を記しているが、厳密に言うと、当時の公的記録は藤原茂光や藤原祐親である。
藤原氏にしろ、源氏にしろ、平氏にしろ、時代を重ねるにつれて同じ姓を持つ人の数が激増し、その人の名を特定するのに姓名だけでは個人を特定できなくなるときに、自らのアイデンティティを確立するために創出するのが苗字だ。工藤祐隆の長男が父と異なる新たな苗字である伊東を名乗るようになったのも、父からの独立を意図するときによく見られる光景であったからである。ちなみに、当初は伊東祐親ではなく河津祐親と名乗っており、伊東祐親と名乗るようになったのは伊東荘を奪ったときからである。父の伊東荘を奪ったのを期に伊東を苗字とするのは親族内でも議論があったようで、伊東祐親の息子の河津祐泰は父に合わせて伊東の苗字を名乗ることはなく、生涯を河津祐泰の名で過ごしている。
苗字が変わっても血縁関係は継続するのも普通で、伊東祐親と工藤祐経は従兄弟同士になり、それが理由で工藤祐経は伊東祐親を後見人としていた。幼少期に父を亡くした工藤祐経は、従兄である伊東祐親を後見人として元服するまで過ごし、元服した後は伊東祐親の娘である万劫御前を妻に迎え入れ、伊東祐親に伴われて上洛し平重盛に仕えるという、地方の武士団の武士としてはかなり恵まれている境遇にあったのである。これを当時の人は、異なる苗字の他人を後見人にしたのではなく、濃厚な血縁関係をもとに後見人としたのだと、世間の人も、そして本人も思っていたのだ。
ところが一足先に伊豆に戻った伊東祐親は、工藤祐経が不在の間に工藤祐経の所領である伊東荘を押領しただけでなく、万劫御前を強引に離婚させて土肥遠平に嫁がせてしまっていたのだ。しかも、工藤祐経は従兄の手による不正な押領であると京都で訴えを起こすが、伊東祐親のほうが先に根回しをしており、伊東荘は本来伊東祐親の所領であり、工藤祐隆が不正に奪っていただけでなく娘まで奪っていたと判決が出て工藤祐経のほうが有罪となっていたのである。
これに伊豆の武士達は怒り、伊東祐親は伊豆において半ば村八分に遭うようになったが、伊東祐親は平家に仕える武士であり、伊東祐親の背後には平重盛が、そして平家がいた。そして、従弟の所領を奪うことに成功したことに味を占めた伊東祐親は、その他の武士の所領を奪うようになっていたのである。時代は平家のものとなっていることの悔しさ、そして、所領を奪われても太刀打ちできずに過ごさねばならない悔しさは、清和源氏に仕えてきた伊豆の武士達にとって屈辱以外の何物でもなかった。
このような伊豆の情勢の最中に、源頼朝は伊東祐親の娘と結婚し妊娠させ出産させたのである。伊東祐親に反感を持つ伊豆の武士にとっては溜飲の下がる出来事であったのだ。
源頼朝の行動に賛同することは危険ではなかったのかと思うかもしれないが、その心配は無用であった。何度も記しているが源頼朝は熱田神宮の宮司の娘を母として生まれており、源頼朝の身に何かあれば熱田神宮が動く、すなわち、東海道の根幹であり、この時代の穀倉地帯である尾張国が動くことを意味する。そうなったら平家にとって大打撃であるし、平安京の飢饉も覚悟しなければならなくなる大惨事にもなる。平家としては源頼朝を生かしたまま監視するように命じる以外になく、伊東祐親も平家の命令に従うしかなかったのである。