自らの身を捨て国民を救った感動の昭和天皇の終戦の秘話
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「自らの身を捨て国民を救った感動の昭和天皇の終戦の秘話」
開戦の決定とは対照的に、終戦の決定は陛下お一人の決断で、通常とは異なる手順でなされた経緯を、現代の日本人は知らないのではないでしょうか。
戦争の結末は、もし陛下がそう命じれば、一億玉砕のような状況もありえたかもしれないのです。
一般論ですが、普通の君主なら、人民をいくら犠牲にしても、自分が助かる道を選んだでしょう。
しかし昭和天皇は自らの身を捨てて国民を救ったのです。
8月6日、広島に史上初めて原子爆弾が投下されました。9日には長崎に2発目の原爆が投下されました。沖縄を収めていた連合国軍は10月には南九州に上陸する計画でした。
そして11月には関東地方に上陸を敢行する計画も立てられていました。
このような危機が刻々と迫る中、軍部も内閣も、陛下の御身を思えばこそポツダム宣言(無条件降伏)受諾をなかなか決議できないでいました。
ところが、御前会議において、陛下ご自身が、身を捨ててポツダム宣言(無条件降伏)を受諾する旨、意見を述べられました。
御前会議で陛下が発言され、それに基づいて会議の決定とされたのは、異例中の異例であったのです。
本文は、その場面に立ち会った一人であり、内閣書記官長として列席していた、迫水久常(さこみずひさつね)氏の証言に基づいています。
第二次世界大戦末期において、国土は原爆を投下され、数多くの同胞を、国土内、のみならず、あるいは北の地に、あるいは南の空に失いました。
それにもかかわらず、当時の最高戦争指導会議においては、
ポッダム宣言の受諾か本土決戦覚悟の戦争継続か、議論は二つに分れて、どうしても決まらなかったのであります。
そこで、まとまりをつけるためには、陛下の御聖断を得るほかなしと、
当時の鈴木総理は決意をして、
昭和二十年八月九日の二十三時から、地下十メートルにある宮中防空壕内の一室で、歴史的な御前会議を開くことになりました。
「陛下は足どりも重く、お顔は上気したるごとくにて、入ってこられました。
今も深く印象に残っておりますのは、髪の毛が数本額に垂れておられたことです。
会議は総理が司会致しまして、まず私がポッダム宣言を読みました。
日本に耐え難い案件をのむのでありますから、まったく、たまらないことでした。
次に外相が指名されて発言しました。
その論旨は、この際、ポッダム宣言を受諾して戦争を終るべきであるということを、言葉は静かながら、断固申されました。
次に阿南陸軍大臣は、外相の意見には反対でありますと前提して、
頭を垂れ涙と共に今日までの軍の敗退をおわびし、
しかし今日といえども、必勝は帰し難しとするも、必敗とは決まっていない。
本土を最後の決戦場として戦うにおいては、地の利あり、人の和あり、死中活を求め得ベく、もし事、志たがうときは、
日本民族は一億玉砕し、その民族の名を歴史にとどむることこそ本懐であると存じます、といわれました。
次の米内海軍大臣はたった一言、外務大臣の意見に全面的に同意であります、といわれました。
平沼枢密院議長は列席の大臣総長にいろいろ質問されたのち、外相の意見に同意であるといわれました。
参謀総長、軍令部総長は、ほぼ陸軍大臣と同様の意見であります。
戦争終結3名 本土決戦3名 議論はまとまりません。
この間、二時問半、陛下は終始熱心に聞いておられましたが、私は、ほんとうに至近の距離で陛下の御心配気なお顔を拝して、涙のにじみ出るのを禁じえませんでした。
一同の発言のおわったとき、私はかねてのうち合せに従って、総理に合図いたしました。
総理が立ちまして、おもむろに、『本日は列席一同熱心に意見を開陳いたしましたが、ただ今まで意見はまとまりません。しかし事態は緊迫しておりまして、まったく遅延をゆるしません。おそれ多いことではございますが、ここに天皇陛下の思し召しをおうかがいして、
それによって私どもの意見をまとめたいと思います』とのべられ、静かに陛下の御前に進まれました。
そのとき阿南さんは、たしか『総理』と声をかけられたと思います。
しかし総理は、お聞こえになったのか、お聞こえにならなかったのか、そのまま御前に進まれまして、ていねいに御礼をされまして、『ただ今お聞きのとおりでございます。なにとぞおぼしめしをお聞かせ下さいませ』と申しあげました。
陛下は総理にたいし、席に帰っているようにとおおせられましたが、総理は、元来、耳が遠いために、よく聞きとれなかったらしく、手を耳にあてて、『ハイ』というふうにして聞きなおしました。
この間の図は、陛下の前に八十の老宰相、君臣一如と申しますか、何ともいえない美しい情景でありました。総理は席へ帰りました。
天皇陛下はすこし体を前にお乗りだしになるような形で、お言葉がございました。
緊張と申してこれ以上の緊張はございません。陛下はまず、『それならば自分の意見をいおう』とおおせられて、『自分の意見では、外務大臣の意見に同意である』とおおせられました。陛下のお言葉の終った瞬間、私は胸がつまって涙がはらはらと前においてあった書類にしたたり落ちました。
私のとなりは梅津大将でありましたが、これまた書類の上に涙がにじみまじた。
私は一瞬各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえた気がいたしました。次の瞬間はすすり泣きであります。そして次の瞬間は号泣であります。涙の中に陛下を拝しますと、はじめは白い手袋をはめられたまま、親指をもって、しきりに眼鏡をぬぐっておられましたが、ついに両方の頬を、しきりにお手をもって、お拭いになりました。陛下もお泣きになったのであります。陛下のお心のうちは、けだし、想像を絶するものがあったにちがいありません。
みんなが号泣しているうちに、なお陛下は、しぼりだすようなお声で、念のために理由をいっておくと、次のような意味のことをおおせられました。
「太平洋戦争がはじまってから、陸海軍のしてきたことをみると、予定と結果が、たいへんちがう場合が多い。大臣や総長は、本土決戦の自信があるようなことを、さきほどものべたが、しかし侍従武官の視察報告によると、兵士には銃剣さえも、ゆきわたってはいないということである。このような状態で、本土決戦に突入したらどうなるか、ひじょうに心配である。あるいは日本民族は、皆死んでしまわなければ、ならなくなるのでは、なかろうかと思う。そうなったら、どうしてこの日本を子孫につたえることができるであろうか。
自分の任務は、祖先から受けついだこの日本を、子孫につたえることである。
今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらって、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。
このまま戦をつづけることは、世界人類にとっても不幸なことである。
自分は、明治天皇の三国干渉のときのお心もちをも考えて、自分のことはどうなってもかまわない。堪え難いこと、忍びがたいことであるが、かように考えて、この戦争をやめる決心をした次第である…」。
陛下のお言葉は、人々の号泣の中に、とぎれとぎれに伺いました。
日本国民と、さらに世界人類のために、自分のことはどうなっても構わないという、
陛下の広く無私なる御心に対し、ただひれ伏すのみでありました。
陛下のお一言葉はさらに続きまして、国民がよく今日まで戦ったこと、軍人の忠勇であったこと、戦死者戦傷者にたいするお心もち、また遣族のこと、さらにまた、外国に居住する日本人、すなわち今日の引揚者にたいして、また戦災にあった人にたいして、愛情深い慰めのお言葉があり、一同はまた新たに号泣したのであります。
陛下のお言葉はおわりました。時に午前二時でありました。
このようにしてあの大東亜戦争は終わりました。すなわち大東亜戦争が終わったのは、自分の身はどうなっても国民を救わなければならない、自らの処刑を覚悟した決断でした。
このような天皇陛下の必死の思いによって終戦の御聖断は下されたのです。終戦の御聖断は憲法に定められた立憲君主の立場を超えたものでした。それは国民を救いたいという願いからの決断でした。8月15日、玉音放送で終戦の詔勅が全国に放送され、国民に呼びかける陛下のお言葉に全国の国民は泣き崩れました。
もし、本土決戦すればほとんどの日本国民が亡くなっていた・・・ということは私たちの先祖もいなかった。ということは私という命も今、生まれてなかったのです。
存在さえしてなかったのです。
今日の日本、私たちがあるのは、国民のためを思い、終戦を決めた昭和天皇の御聖断にあることを忘れてはなりません。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/sakomizu.htm 【迫水久常内閣書記官長の終戦の日】より
(機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで 迫水久常著 1964年刊 p303-315)
昭和19年11月サイパン島基地より米空軍が東京を初空襲して以来、連日にわたるB29の攻撃により国会付近も多大の損害をうけた。右方上空の飛行機はB29
迫水久常(さこみず・ひさつね)1902年生まれ。
東京大学卒業。大蔵省を経て、首相秘書官、内閣書記官長を歴任。
戦後、参議院議員(全国区)。経済企画斤長官、郵政大臣などを歴任。1977年7月歿
昭和二十年八月十四日午後十一時すぎ、終戦詔書署名の閣議が散会してのち、私は、総理大臣室に入って、鈴木総理に対して、この旬日のご苦労に対してご挨拶を申しあげ、そのまま対座した。
自然に涙が出てきてしかたがない。総理も黙々として深く物思いにふけっておられる様子であった。
思いがけなく、扉をノックする音が聞えてふり向くと、阿南陸相が帯剣して、帽子を脇にかかえて入ってこられた。私は立って少し側に寄った。
陸相はまっすぐに総理の机の前にこられて、丁重に礼をされたのち、「終戦の議がおこりまして以来、私はいろいろと申しあげましたが、総理にはたいへんご迷惑をおかけしたと思います。 ここにつつしんでお詫び申しあげます。
私の真意は、ただ一つ国体を護持せんとするにあったのでありまして、敢えて他意あるものではございません。この点どうぞご了解くださいますように」といわれた。
阿南陸相の頬には涙が伝わっているのを見て、私も涙が出た。すると総理は、うなずきながら、阿南陸相の近くに歩み寄られ、「そのことはよく判っております。 しかし、阿南さん、皇室は必ずご安泰ですよ、なんとなれば、今上陛下は、春と秋のご先祖のお祭りを必ずご自身で熱心におつとめになっておられますから」といわれた。
阿南陸相は「私もそう信じます」といわれて、丁寧に一礼されて静かに退出された。
私は、玄関までお見送りをすると、総理は「阿南君は暇乞いにきたのだね」といわれた。
このときの光景は私の終生忘れえない感激である。
また、このときの総理の言葉は、わが皇室が二千年の長きにわたり連綿として、代々徳を積まれてこられたことを意味するものであって、まことに深遠な意味があると思う。
阿南陸相を送って間もなく、私は総理に私邸にお帰りを願った。
翌十五日午前零時をすぎるころ、私は、宮中の下村情報局総裁から、電話で玉音放送の録音が無事終了した旨の連絡を受け、直ちに総理に電話で報告をした。すべて一段落である。
書記官長室の仮べッドに久しぶりに身を横たえた。
日本の将来はどうなるか。思いは千々に乱れる。
頭がぼっとして、考えられないような気がする。
そこに木原通雄君が入ってきて、彼に起草を依頼した詔書発表後発布すべき内閣告諭の原案を持ってきたので、二人で協議しながら、訂正して確定案を作りあげ、ふたたびべッドに横たわると、いつのまにかまどろんだ。
突然機関銃の音がするので目がさめた。夜は明けていた。
私は一瞬、敵の機銃掃射かと思った。
隣室にやすんでいた実弟の久良が飛びこんできて、「兄さん日本の兵隊の襲撃です」
という。
二・二六事件の経験のある私は、とっさに、鈴木総理を私邸に帰えしておいてよかったと思った。
私は、別段生命は惜しいとも思わなかったが、殺されたり、捕虜にされたりしては、バカらしいと思ったので、内閣官房総務課長佐藤和生君を呼んで、自分は、地下道を通って避難するから、官邸の職員はいっさい抵抗するな、彼らのなすがままにせよと命じ、念のために総理私邸に報告しておくようにいうと、佐藤君はすでに電話しましたという。
私はそのまま実弟久良と、警護の警視庁の中村袈裟男巡査を伴って、いったん防空壕内の書記官長室に入り、非常出口の方を偵察せしめ、兵隊のいないことを確かめて、特許庁に近い道路に出た。
私は別にあわててはいなかったと思う。現に壕内の書記官長室では、煙草に火をつけたことを覚えている。
ところが道路に出たとき、そこにあった焼トタンを踏んでバタ、バタという音がしたとたんに急に恐くなった。
焼跡をななめに特許庁の角を目がけて三人で走ったが、うしろから狙撃されるかもしれないと思い、久良にうしろを見て見ろとはいうものの、私自身は、首をうしろに回わすことができなかったことを覚えている。
二・二六事件のときは、睾丸をひっぱることを思いだしたが、今度は思いださなかったから恐かったのだとあとで笑った。
あとで聞くと襲撃部隊は、五十人ほどの兵隊と横浜高工の学生であったらしく、総理不在ときいて、官邸の玄関にガソリンを撒いて火を放って、直ちに退散したという。
火は官邸の職員が、備付の防空用具で難なく消し止め、敷物の一部をこがした程度で大事にはいたらなかった。
しかし、この一隊は、直ちに小石川の鈴木総理の私邸を襲い、せっかく空襲で焼け残った家に火を放ったが、総理たちは、官邸からの通報で避難しておられたから間一髪で、無事であった。鈴木総理邸襲撃ののち、この一隊は、新宿の平沼議員邸を襲って火を放ったが、議長は身をもって免がれ無事であった。
私は、特許庁のところから溜池の大通りに出ると、隊伍を組んだ兵隊に出会った。
さては陸軍がまたなにかはじめたかと思い、一先ず飯倉の親友美濃部洋次君(当時総合計画局部長)の家にゆき、そこで警視庁に電話してみると、市内には別段騒動もおこっている様子もないので、直ちに徒歩で警視庁に赴き、総監室に入り、町村総監と会って事情を聞くと、昨夜午前一時ごろから宮内省の電話が不通になっているという話である。
十五日午前五時半ごろであったと思う。私は、憲兵司令官の大城戸中将に電話をかけてみた。
大城戸中将の話によって、四時ごろ阿南陸相が自決されたことを知った。
そして、昨夜半、陸軍省の青年将校が、森近衛師団長を殺してにせの師団命令によって、軍隊を宮中に入れ、録音盤を奪取しようとして、宮内省に侵入したが、東部軍司令宮田中静壱大将みずからの説得によって、兵隊は退去しはじめたことが段々に判ってきた。
下村情報局総裁以下、玉音放送の録音に奉仕した一行は、朝まで監禁されていたが、これも無事に解放されたのであった。
私は録音盤が無事であったことを聞いて、ほんとうに安心した。
私はこのときの町村君の頼もしさをいまも忘れない。
午前九時ごろ、私は鈴木総理を、その避難先に訪問した。
総理は元気に朝食をしたためておられたが、私は手短かに、いろいろの報告をした。
阿南陸相の自決については、総理は特に深い思いにふけっておられた様子であった。
総理は、このとき、今日の閣議で、全閣僚の辞表をとりまとめて総辞職をしたいと思っているといわれた。
私は、率直にいって、私の人生で、このときほど、ほっとした気持になったことはない。
私は、ほんとうに心身ともに疲れ果てていた。
書記官長就任のころは、六十六キロほどもあった体重も、そのころには、五十八キロほどに減っていた。
私は、その日の日程について打合わせをすませると、午前十一時から宮中で枢密院本会議が開かれるので、宮内省に参入した。
玄関のところで、加藤総務課長に会った。肩から鞄をかけている。
それをしっかり押えるようにして、私に、これから放送局に行くと話した。
枢密顧問官の控室に入ってゆくと、中央に平沼議長がおられるので、そばに寄ってご挨拶申しあげると、なんだか急にたいへん年を取られたような気がするので、私は
「閣下ちょっとふけられたようですが、お体の具合はいかがですか」
と申しあげると、議長は笑いながら
「私は入歯をはずして枕もとにおいて寝る習慣なのだが、今朝襲撃されて避難するとき、入歯をそのまま置いてきてしまったが、家が焼けて、入歯がなくなってしまったせいだよ」
といわれた。
私は枢密院本会議には列席する必要はないので、村瀬法制局長官にお願いして、首相官邸に帰った。
やがて正午である。
この日は早朝から、正午に重大放送がある旨繰り返し予告していたが、私は、下村情報局総裁とともに、官邸職員全部をホールに集めて、涙のうちに玉音放送を拝承した。
そして予定にしたがって、用意してあった内閣告諭を直ちに発表した。
いっさいが終ったので、私は、ほんとうに肩の荷がおりたという表現では、とてもいいつくせない感じを持って、書記官長室に帰った。
じっと椅子に腰掛けているといろいろのことが思いだされる。
そして、当面、国内治安などについて、いいようのない不安を感ずる。やがて米軍が進駐してきたときの有様を想像しても、いい予感はしなかった。
戦争を継続して焦土になってしまったほうがかえって気が楽だったかもしれないとも思った。
今後万事うまく経過するようにひたすら祈るほかはなかった。
今日になって、これらの不安がまったく杞憂に終ったことを思うと、日本は幸運だったとただ天に向って感謝する気持でいっぱいである。
午後二時ごろから閣議である。予定のとおり、辞表がとりまとめられた。
その前に、池田総合計画局長官の発案によって、軍の保有物資について閣議の決定をした。
その内容は、すでに乏しくなったとはいえ、軍はまだ膨大な物資を保有しているが、もう軍としては用はないし、そのまま保有しても、やがて進駐軍が処分してしまうだけだから、この際、時価で民間に急速に払い下げることをきめたものである。
このことは民間の物資不足を若干でもうるおし、終戦で混乱した国民感情の緩和にどれだけ貢献したかわからない。
また、軍隊の内部でも、復員する兵士にある程度の物資を交付したが、これまた軍の動揺を和らげるのに大いに役立ったと思う。
私はこの閣議で、鈴木総理のお考えによって、貴族院議員に勅選されたが、いろいろ考えて、翌日辞表を提出して拝辞し、一ヵ月後に聴許された。
閣議が終ってから、その夜予定されていた鈴木総理のラジオ放送の原稿を作った。
案外時間がかかって、やっと間に合ったがこれが内閣書記官員として最終の仕事であった。
同日、東久邇宮殿下に後継内閣組織の大命が下り、十七日新内閣が成立し、私は、緒方竹虎さん(後の内閣官房長官)に事務をひき継いだ。
私は、五月二十五日以来八十日ほどの間、住み込み、公私の生活をした内閣書記官長室を整理して、総理官邸を退出した。
官邸内の男女職員は上から下まで全部玄関のところに集って涙を流して別れを惜んでくれた。
官邸警衛の警察官も同様である。みなの人たちには、ほんとうに世話になった。
文字どおり寝食をともにし、生死をともにした人たちである。
官邸が空襲を受けたときにはこの人が努力して官邸を救ったのである。
夜間高等女学校(旧制)に通いながら働いている若い女子職員が、一同うち揃って、私のところにきて、
「戦争に敗けないでください、私たちはいっそう頑張ります」
と泣きながら訴えたこともあった。
秘書官の山下謙二君、私が大蔵省時代からひき続いて私について秘書事務のいっさいを取扱ってくれた内山繁君は、いずれも官邸内に住み込んで一心同体に働いてくれたことを思うと感謝するに言葉もない。
小林食事班長、小林、菅原両嬢など、みな忘れられない名前である。
官邸を出た私は、まず、二重橋前で宮城を遥拝し、心のうち陛下にお礼とお詫びを申しあげ、都内を少し回ってみた。
全く一望の焼野原である。
この本に収録された当時の写真を見て、今日からでは想像に絶するが、ほんとうにあのとおりであった。
しかし、町の中の人々には、一様の安堵の色が見える。極めて平穏で活気の色が見えるような気がした。
ふと、銀座の電信柱に、大きな貼紙がしてあって
「日本のバドリオ(裏切者)を殺せ。鈴木、岡田、近衛、迫水を殺せ」
と書いてあるのを見てよい気持はしなかった。
しかし、私には住むべき家がない。
家内は、中風で身体の不自由な私の老母を擁して、五人の子供とともに新潟県新発田の在に疎開していた。
一先ず、世田谷の岡田啓介大将の家に行った。
鈴木内閣成立後、私はほとんど毎夜、ここで岳父に会って、指導を受けた。
終戦工作の大部分は、岡田大将の指導によったものといっても過言ではない。
ところが、私が、岡田大将の家にいることについて、世田谷警察署から苦情が出た。
それは、岡田大将一人の警衛にも手を焼いているのに、もう一人要注意人物が加わったのでは責任を持てないから、何処かよそに行ってくれというのである。
私は、やむなく、その夜は、木原通雄君の家に泊ったが、警視庁は、鈴木首相と私に対し、右翼や、軍の残党がねらっているから、外出しないように、また同じ所に三晩以上いないようにと懇請されるので、二人とも忠実にこれを守った。
ある晩などは、大嵐であったが、等々力の知人の宅から、麻布の石野信一君(元大蔵次官)の家に移るため、警護の中村巡査と、もう一人たまたま来合わせた友人森口二三君(現在味の浜藤社長)と三人で木炭自動車に乗って都立大学の辺にきかかると自動車が動かなくなってしまって、とうとう、そのまま道路上で嵐の中で一夜を過ごしたこともある。
このような生活が約一ヵ月、九月十日すぎまでつづいたが、やっと世田谷等々力に家を借りて、疎開先きから無事に老母はじめ家族を迎えて、平穏な生活に戻った。
聞いてみると、玉音放送のあとで、村の青年たちが、家族の疎開していた家に押しかけ、石を投げ込み、日本を降伏させた裏切者の家族はこの村に置いておくことはできないから、即時退去せよと迫ったという。
家内が応対してやっと納得してもらったという話で、私は家内をほめた。
今は、すべてが夢であったような気がする。
私は、どうしても阿南陸相の心事について述べておかなければならないと思う。
阿南陸相は、最高戦争指導会議においても、閣議においても終始一貫、抗戦論を述べられた。
そして終戦の大詔に副署した後、「一死大罪を謝す」と遺書し、
――大君の深きめぐみに浴みし身は、言い残すべきかた言もなし――
と辞世の一首を残して自決せられたのである。
阿南大将は、果して心の底から抗戦継続を考えておられたのであろうか。
もししかりとすれば、手段は極めて簡単であって、一片の辞表を提出することによって、鈴木内閣を倒し、あとに軍部内閣を作れば、この目的は達せられるのである。
しかも、その機会は、自分自身の意思によっていつもこれを作りえた。
現に、終戦のことが議に上った閣議において、陸軍大臣が胸のポケットに手を入れられると辞表を提出するのではないかと心配したと左近司国務相は語っておられる。
のちに聞くところによると、終戦の際、陸軍はクーデターの準備をして、阿南陸相は、これを承諾し、みずからその指揮をとるから、自分にまかせよといわれたという。
当時の情勢において、私たちの最も恐れたものは、陸軍の暴発であった。
阿南大将は、戦争を終結し、一身を無にして、国民のみならず世界の人々を救おうとせられる天皇陛下の御心を体し、終戦を実現せんと心に誓っておられたに相違ない。
かかるが故に軍の暴発を最も恐れ、これを抑止するのに心肝をくだかれて、苦肉の策として、クーデターの指揮をみずから引受け、一面、大詔の公布まで内閣の閣僚たる地位を保持するため中途で殺されるが如きことなきよう苦心されたものと私は考える。
「一死大罪を謝す」とは心にもなき抗戦論を唱えて、天皇陛下の御心を悩したてまつった罪を謝するとともに純真一途国体護持の精神によって手段を選ばず、抗戦を継続せんとした軍の下僚に対し、だましてひきずって遂にその機会を与えざりし罪を謝すという心特ではなかったろうか。
阿南大将のみずからの生命を断つことによる導きによって軍の暴発は抑止せられて、日本の国家は残ったのである。
私は時に多摩墓地に大将の墓参をするたびに、大将の生死を超えた勇気を謝し、小さな墓石に抱きついてお礼を申しあげたい衝動にかられるのである。
天皇陛下のご仁慈、鈴木総理の信念と舵取りのうまさ、米内、東郷両大臣の不屈の精神、それに阿南陸相の勇気が、わが国を救ったものである。
最後に私は、特に、昭和三十年十月十五日の「太平」第五号に(鈴木貫太郎記念太平会発行)掲載せられた当時の侍従長藤田尚徳海軍大将の一文を次に採録しておく。
昭和二十一年一月下旬、天皇陛下のご前に出てあることを奏上したとき、陛下は特に椅子をたまわって戦争につき次のような意味のご述懐をお洩(もら)しになった。
申すまでもないが、戦争はすさまじきものである。
この戦争についても、どうかして戦争を避けようとして、わたしはおよそ考えられるだけは考えつくした。
打てる手はことごとく打ってみた。
しかし、わたしのおよぶかぎりのあらゆる努力も効をみず、遂に戦争に突入してしまったことは、実に残念なことであった。
このごろ世間には、戦争を終わらせえた天皇が、なぜ開戦前戦争を阻止しなかったかという疑問を抱いているものがあるようだ。
これをもっともと聞く人もあろう。
しかし、それはそういうことにはならない。
立憲国の天皇は、憲法の枠の中にその言動を制約せられる。
この枠を勝手に外して、任意の言動にでることは許されない半面、同じ憲法には国務大臣についての規定があって、大臣は平素より大なる権限を委ねられ、重い責任を負わされている。
この大臣の憲法による権限、責任の範囲内には、天皇は勝手に容縁し、干渉することは許されない。
それゆえに、内政、外交、軍事のある一事につき、これを管掌する官庁において、衆智を傾けて慎重に審議したる上、この成果をわたしの前に持ってきて裁可を請うといわれた場合、合法的の手続きをつくしてここまでとり運んだ場合には、たとえそのことがわたしとしては甚だ好ましからざることであっても、裁可するのほかはない。
立憲国の天皇の執るべき唯一の途である。
もし、かかる場合わたしがそのときの考えで却下したとしたら、どういうことになるか。
憲法に立脚して合法的に運んだことでも、天皇のそのときの考え一つで裁可となるか、却下せられるか判らないということでは、責任の位置にいることはできない。
このことは、とりもなおさず天皇が憲法を破壊したということになる。
立憲国の天皇として執るべからざる態度である。断じて許されないことである。
しかし、終戦のときはまったく事情を異にする。
あのときには、ポツダム宣言の諾否について両論対立して、いくら論議を重ねてもついに一本に纏まる見込みはない。
しかし、熾烈なる爆撃、あまつさえ原子爆撃も受けて、惨禍は極めて急激に加速増大していた。
ついに御前会議の上、鈴木はわたしに両論のいずれを採るべきやを聞いた。
ここでわたしはいまやなんぴとの権限を犯すこともなく、またなんぴとの責任にも触れることなしに、自由にわたしの意見を発表して差し支えない機会を初めて与えられた。
またこの場合わたしが裁決しなければ、事の結末はつかない。
それでわたしはこの上戦争を継続することの無理と、無理な戦争の強行は、やがて皇国の滅亡を招くとの見地から、とくと内外の情勢を説いて、国民の混乱困惑、戦死者、戦病死者、その遺家族、戦災を被ったものの悲惨なる状況には衷心の同情を懐きつつも、忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐えるのほかなしとして、胸の張り裂けるの想いをしつつも、ついに戦争を終止すべしとの裁断をくだした。
そして戦争は終わった。
しかし、このことは、わたしと肝胆相許した鈴木であったから、このことができたのだった。