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「負けて勝つ」政治決断

2018.05.31 04:12

https://www.nippon.com/ja/views/b06103/  【「負けて勝つ」政治決断—全生庵を彩った2人の男(上)山本玄峰】より

全生庵は東京・谷中にある、とりたてて目立つことのない禅寺だ。しかし、なぜか多くの政治家、官僚ら要人が座禅を組みに来ることで知られる。この寺に関わった2人の男が下したそれぞれの決断は、日本を救ったと言っても過言ではない。まずは山本玄峰からその秘話を紹介しよう。

自民党総裁任期の延長が決まり、安倍晋三首相が続投に強い意欲を示している。しかし、その安倍は07年9月、所信表明演説の2日後に潰瘍性大腸炎を理由に政権を投げ出したことがある。精神的にも追い詰められていたのは、明らかだった。現在の自信に満ちた姿と同じ人物とは思えない落差だ。何が安倍を変えたのか。

その理由の一つと言われるのが座禅だ。退陣7カ月後、心身ともぼろぼろになった安倍は全生庵を訪れた。その後も、月に1回ほど全生庵に通い、政権に復帰してからも節目節目に座禅を組む。

座禅が行われる全生庵の本堂。他に座禅道場もある

全生庵の名前を広めたのは、中曽根康弘だった。首相時代の5年間に167回も座禅を組んだ。全生庵は、富山県高岡市にある本山・臨済宗国泰寺(こくたいじ)の末寺に過ぎない。あまたある禅寺の中で、なぜ全生庵が要人たちを引き付けるのか。

私は住職の平井正修(ひらい・しょうしゅう)の話を聞いたり、文献を読んだりするうちに、全生庵ゆかりの山岡鉄舟(やまおか・てっしゅう)と山本玄峰(やまもと・げんぽう)という2人の人物に興味を覚えた。名前を知っている人は少ないかもしれないが、彼らが残した足跡は大きい。

幕臣である山岡鉄舟は、勝海舟の使者として新政府軍の西郷隆盛を説き、江戸城の無血開城に道を切り開いた。山本玄峰は、終戦時の首相、鈴木貫太郎の相談相手で、無条件降伏をいち早く唱えた僧侶だ。

無血開城と無条件降伏は、日本の近代史で特筆すべき2大政治決断と言える。山岡鉄舟は1883年に全生庵を建立した。明治維新で殉死した人たちを弔うためだ。それでは、無条件降伏を唱えた玄峰は、全生庵とどんなつながりがあったのか。まずは、玄峰の話から始めよう。

終戦工作に動いた山本玄峰

平井住職は「中曽根先生が座禅なさったのは、四元義隆(よつもと・よしたか)さんの紹介です。四元さんとうちの父、平井玄恭(げんきょう)は、山本玄峰老師の弟子同志だった」と言う。玄恭は6歳のころから山本玄峰の弟子で、2人の師弟関係は40年以上続いた。静岡県三島市にある龍沢寺(りゅうたくじ)の住職だった玄峰は上京すると、いつもこの全生庵を拠点として法話をしていた。

四元は右翼の大物だ。近衛文麿や鈴木貫太郎ら首相の秘書を務め、戦後は「政界の黒幕」と呼ばれ、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作らの懐刀となった。その影響力は長く続き、中曽根、そして細川護煕をも指南した。

若き日にはテロリストだった。1932年に蔵相の井上準之助と三井財閥総帥の團琢磨を暗殺した血盟団事件に関わり、収監されてもいる。当時貧富の格差が拡大し、国民の中では政財界に対する怨嗟の声が高まっていた。そんな中、起きたのが血盟団事件である。

その裁判で弁護をしたのが、既に高僧として知られていた玄峰だった。血盟団事件の被告たちは私心なく日本を救いたい一心だった、と法廷で主張して減刑を求めた。

四元に下された判決は、無期懲役の求刑に対し懲役15年。玄峰は頻繁に小菅刑務所を訪ね、講話していた。そこに収監されていた四元には、この講話が大きな戒めとなり、血盟団事件を反省し、寝る間を惜しんで座禅を組んだ。四元にとって玄峰は、親以上の存在となったのだった。

山本玄峰老師

玄峰は太平洋戦争について「このような無理な戦争をしてはいけない」と、開戦当初から反対していた。龍沢寺には、鈴木貫太郎、吉田茂、池田勇人といった有力政治家だけでなく、戦後に学習院院長になった自由主義者の安倍能成(よししげ)、岩波書店創業者の岩波茂雄らも出入りし、あたかも反・東條英機の砦のようだった。

「わしの船は乗合船じゃ。村のばあさんも来れば乞食もくる。大臣もくれば、共産党もやってくる。みな乗合船のお客じゃ」

しかし、東條との面談だけは拒んだ。

「我見にとらわれたまま会っても、わしの言うことは分からんじゃろう。せめて幼稚園の子供のような心境になって、全てを捨て切った東条さんなら、わしの言うことも多少は分かるじゃろうが」

そして玄峰はいよいよ、終戦工作に動く。

恩赦で出所した四元は42年ごろから「東條を倒さなければ、日本民族が滅びる」と考え、重臣との面談を重ねていた。その中で最も共鳴したのが、枢密院議長の鈴木貫太郎だった。

玄峰の手紙が玉音放送のベースに

鈴木貫太郎(国立国会図書館所蔵)

1945年3月下旬、玄峰は四元の仲介で、鈴木と面談した。当時、鈴木は首相の職を受けるかどうか悩んでいた。四元は後のインタビューで、こう語っている。

「玄峰老師が真っ先に言われたのは、『こんなばかな戦争はもう、すぐやめないかん。負けて勝つということもある』ということでした。鈴木さんも『すぐやめな、いかんでしょう』と、意見が一致したんです」

その10日あまり後の4月7日、鈴木は首相に就任した。それからの4カ月は鈴木にとって、陸軍との駆け引きの毎日だった。本音では戦争終結を志向しながらも、それを表に出すと、クーデターを誘発しかねない。戦争遂行のふりをしながら、チャンスを待った。

鈴木は8月12日、玄峰に使者を通じて終戦の決定を下したと伝えた。玄峰はこの日すぐに手紙を書いた。

「貴下の本当の御奉公はこれからでありますから、まず健康にご注意下され、どうか忍びがたきを忍び、行じがたきを行じて、国家の再建に尽くしていただきたい」

昭和天皇は8月15日の玉音放送で「忍び難きを忍び…」と国民に語り掛けた。3日前の玄峰の手紙がベースとなったと伝えられている。


https://www.nippon.com/ja/views/b06104/ 【「負けて勝つ」政治決断―全生庵を彩った2人の男(下)山岡鉄舟】より

徳川家の幕臣だった山岡鉄舟は、明治維新後、まだ21歳だった明治天皇の家庭教師役を務め、酒に酔った天皇をいさめたこともあり、天皇の信頼を得た人物だ。その後、宮内省を辞めた鉄舟は1883年、明治維新で殉死した人々を弔うため、谷中の土地を購入して禅寺を建立した。全生庵の開山である。

江戸無血開城の立役者山岡鉄舟

薩摩・長州藩を中心とした新政府軍と旧幕府勢力が戦った戊辰戦争。その緒戦1868年1月末の鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍が大勝、最後の将軍、徳川慶喜は「朝敵」となった。新政府軍は、江戸に攻め入ろうとしていた。総勢5万人。総攻撃は3月15日に決まった。

その回避に向け動いたのが幕府軍トップの勝海舟だ。慶喜の恭順の意を伝える手紙を用意した。宛て先は、駿府(静岡)に陣取った新政府軍の実力者、西郷隆盛。勝は手紙を鉄舟に託した。3月9日に駿府に到着した鉄舟は、西郷に切り出した。「このまま進撃されるのか、お考えをお聞きしたい」

西郷は答えた。「もとより国家を騒乱させることを狙っているのではない。不謹慎な輩を鎮定するために攻撃するのだ」

これに対して鉄舟は「徳川慶喜は恭順の意を示し、上野寛永寺で朝廷の御沙汰をお待ち申しています。生死いずれなりとも朝廷のご命令に従う所存でございます」「慶喜の気持ちを受けられないならば、仕方ありません。私は死ぬだけです。そうなると、いかに徳川家が衰えたといえ、旗本8万騎で決死の志士は私だけではありません。それでも進撃なさるおつもりですか」「江戸を火の海になさらぬようお願いします。民を助けてください」と訴えた。

西郷はいったん離席し、参謀会議で相談した上、いくつか条件を提示し「これを受けていただけるなら、総攻撃を中止する」と明言した。

鉄舟の下工作を受けた西郷隆盛と勝海舟の会談は、3月13、14の両日に行われた。ここに、15日に計画していた江戸城総攻撃は回避されたのだ。

勝は夕暮れ時に西郷を、江戸城の南1キロメートルほどに位置する小高い愛宕山に誘い出した。

西郷は「さすが徳川公は、大変な家来を持っていますね」とつぶやいた。勝が「誰のことか」と尋ねると、西郷は「山岡さんですよ。生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人ですが、そのように始末の負えぬ人でなければ、天下の大事は語れないものです」と答えたという。

日本はぎりぎり段階で、内戦を回避したのだ。新政府軍に英国、幕府軍にはフランスが付いており、内戦に突き進んでいたら領土は分割され、植民地化されていたかもしれない。

「右」でも「左」でもない偉業

山岡鉄舟は、明治以後、国士をもって任じる人びと、とりわけ右翼から強い支持を得ていた。しかし、戦後民主主義全盛の一時期、鉄舟は忘れ去られた存在だった。右翼色はタブーだったのだ。

山本玄峰も右翼的な人物とみられていた。四元義隆らとの交流が、そのイメージを刻印したに違いない。岩波茂雄や安倍能成ら進歩的文化人とも深く交流していたにもかかわらずだ。

日本の近代史を貫く「右」と「左」の対立軸に、そろそろ幕を引くべき時期ではないか。無条件降伏や無血開城といった「負けて勝つ」思想をベースに政治決断を下した先人を振り返り、右翼と左翼に二分する知識人の薄っぺらさを痛感する。

日本は命懸けの決断で、明治維新と戦後復興を成し遂げた。この2つの決断は、世界史的にも高く評価されるだろう。全生庵を彩る2人の男に思いを馳せる時、彼らの偉業に圧倒される。彼らの体内には、禅の精神が流れていたのだろう。