波動を知るということ
昨年コロナの流行しだしたころ
とうとう
憧れのモノを手に入れた。
そう、初めてその名前を
耳にしてから
すでに25年の月日が流れていた。
「波動を測定する器械があるのよ」
当時、1人目を出産しても
なかなか母乳が出なくて
お世話になった助産師さんから
聞いたセリフだった。
先生は
その頃に
ホメオパシーも勉強されていたが
食事やお水にも詳しく
学ぶことばかりだった。
そして「波動測定器」
ざっと言えば
人にはそれぞれの波動があり
振動している。
その振動を測ることで
健康状態がわかるのだと。。
どんなものかは全くわからないまま
なぜかものすごく耳に残っていた。
そして
今から7年前。
アロマの勉強を始めた頃。
そのアロマの教室で
市内の某所のサロンで
波動測定器で健康診断ができる、
と聞いたのだ。
もういてもたってもいられなくなり
早速申し込んだ。
実はその頃から
左胸と胸骨の間に
ぷよぷよとした脂肪の塊が
できていた。
触ると右に左に
散るような感じで
痛くも痒くもなかったけれど
もしや悪性だったら
ちょっと怖いなと思っていた。
その頃には
すでに病院とは
離れつつあって
健康診断も
受けてなかった。
医者嫌いと言うわけではなく
風邪や扁桃腺くらいなら
自分で治せると思っていた。
うっかり健診にでも行って
何か病気を発見されたりしたら
診療の流れに乗せられて
治療に
NOと言えないかもしれない、
善意で勧めてくださる治療を
頑なに拒否することも
できそうにないので
あまり
近づきたくなかった。
でも放置するのも
心配の種を育てるようなものだから
この際さっさと
波動測定器やらで
診てもらって
すっきりしようと思った。
行ってみると
そこは大きめの不思議サロンで
瞑想室などもあり
ワクワクした。
そしてようやく出会えた
波動測定器。
問診を書き込んで
お渡しすると
見た目はパソコンと大差なく
頭にヘッドギアみたいなものを
取り付けられた。
画像には人体の映像が
映し出され
頭から、眼球、鼻、口、
胴体に移り、肺や心臓などが
どんどん下に降りていく。
私の身体をスキャンされているのだ
ということがようやく
わかる。
どうやら色で
エネルギー状態の良不良を
表示している模様。
20分くらいかかったのだろうか。
お医者さんが
「多少の疲れが見れますが
特に心配なところはなさそうですよ。
腎臓がやや弱いですね。
疲れがでると腎臓に出そうです。
今必要な食べ物は〇〇、
野菜や果物は〜〜」
と、細かく教えてくださった。
そして、
セラピーをかけてくださった。
過去には
疲れが溜まると
膀胱炎、
腎盂炎、
腎結石を起こしてきていた。
細部にわたり
スキャンされた上で
特に心配な点はないと言われて
大きな安堵を得た。
レントゲンも撮らず、
採血もせず
私の身体の波動を
スキャンして診ることが
できる。
何のリスクもなかった。
こういうことだったのかと
20年前の想像を超えて
ようやく腑に落ちたのだった。
これが波動測定というものかと
驚きと感心と満足で
帰宅したのである。
それから数年の月日が流れて
今度は
私の友人が
波動調律のアカデミーを
開校することになった。
すごい!
素晴らしい!
25年来の憧れの
波動測定と調律を学ぶ場が
すぐそこに。。
しかし時は1人目、2人目が
ようやく大学に入学したばかり
3人目の受験も控えて
そうそうすぐ飛びつくわけには
いかなかった。
でも
それからは
体調不良を感じると
友人に頼んでみてもらって
波動を整えるセラピーを
かけてもらうようになった。
驚いたことに
この波動というものは
遠くからでも
測定できるのだ。
その人を特定できるもの
住所、氏名、携帯番号や
顔写真
そういうものがあれば
遠隔でも
波動をみて
整えていくことができる。
もちろん不調は
理由あってのことだから
魔法のようにすぐに
改善するわけではなかった。
ただ身体のどこが
どういう状況で
こういう症状につながり
ここにセラピーをかけることで
改善していきますよ、
その映像と言葉を聞くだけでも
ホッと安堵できるし、
順調に回復できるのである。
すごい時代になったものだ。
そして昨年、
地元に戻る頃に
コロナが流行り出した。
春先には次女が東京に。
季節ごとに体調不良を起こす
長女は京都だ。
遠く離れていても
1人で暮らす
子供達の体調を気遣うだけでなく
整えるお手伝いができれば。
コロナによる状況が
強い後押しになった。
医療現場が感染現場になるような
状況が起きていくなか
気持ちは固まる。
きっと必ず役に立つ。
そして
憧れの機器を手にした。
それは
高額なものではあった。
でも
もしもこれから
遠くにいる家族のために
いつでも
どこでも
駆けつけることなく
ここから
セラピーを届けることができて
更に
何年も
家族や親族の健康維持のために
使っていくことができたら
それは高すぎるものではない。
そうして
私も
25年の時を経て
ようやく
ようやく
波動使いサリーに
なれたのである、
と言いたいところだが
手にしたからと
簡単に使いこなせる
わけではなかった。
操作云々の話ではない。
そもそも波動というものが
私の中でしっかりと
腑に落ちていなかった。
と言うより、
いつもながらの
私の感情に躓くのである。
「私にできるの?
私が診て大丈夫なの?」
「全然、違うものがでてきたら
どうしよう」
ここでも、
第一関門は
自己信頼なのである。
波動を測定することは
全てのものが
波動であると
深く認識する必要があった。
私が私に不安を抱いて
機器を手にすれば
不安の波動が
相手にも届いてしまう。
そういうことを
詰み重ねながら
私と私の波動機器にも
信頼関係が育っていく。
波動というものを
エネルギーとして
捉えていくと
エネルギーが
良い状態というのは
まず色で示されている。
医療の専門的なことが
わからなくても
その色を見ると
その人のエネルギーの状態が
大まかに把握できる。
それだけではなく
素人の私にもわかる
大事なことが
だんだんと
形になって見えてくる。
よく言われる
「波動が整っている」
という状態は
どういうことを言うのか。
それは
対象であるその人の
「心と体と魂が
同じ方向を向いている」
ということではないか。
その3つの
バランスが崩れてきた時に
人はエネルギーを
低下せさていく。
不調として
現れてくる
鍵となるものは
実は
感情であることが多い。
回を重ねていくうちに
こんなにも感情が
人の身体に
影響を与えていることに
驚く。
この波動測定器には
ホメオパシーの原理に基づき
多くの感情と
その感情により起きる症状が
表示される。
その感情の表記を見ることにより
自分の中にどのような感情が
沸き上がり
それが常態化していくことで
その症状が続き
症状が慢性化して
病気という状態を
作り出していく経過を
知る。
積みかさなる感情が
いつのまにか
症状となって
現れてくる。
「心と身体のバランス」
よく聞く言葉である。
でもそれだけではない。
「心」 とは
体に対し(しかも体の中に宿るものとしての)知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働き。
「体」とは
生物学的かつ文化的に規定された、有機体としての人間や動物の構造を指す。人間は身体を通じて世界を経験し、世界を構成する。
はたまた
「魂」 とは
身体に宿って心の働きをつかさどるとされるもの。古来、肉体から独立したものと考えられた。
ウィキペディアより。
こういう時はこうあるべき、
これは好き、
あれは嫌
私が私である個性とも
とらえやすい
「思考と嗜好」
それらは
心そのものなのだ。
思考も知識も感情もあわせて
心だとしたら
世界を経験するための
体を動かす指令をだしているのは
心である。
では、魂の役割は?
車で例えるなら
体が車で
ハンドルを握るのが心
大きな目的を指し示すナビの役割が
魂になるのかもしれない。
わたし達がこの地球で
何をなすべきかをの
ブループリントを
魂に焼きつきて
生まれてきているのだとしたら
心と体のバランスが
崩れて
病気という状態が
発生していく時
不調を感じることは
本来の果たしたい目的を
このままでは
果たせなくなりますよ、
と知らせしてくれる
魂からの
サインかもしれない。
本来、
魂と心は体は
同じ方向を
目指すものではないか。
けれど心は
育った環境や経験をもとに、
いつしか
純粋な感情を離れて
思考に囚われてしまう。
頑張ることが正しいから、とか
私さえ我慢すれば
うまくいく、
と抑え込んだ感情で
心が苦しくなるとき
あるいは
思考の習慣で
嬉しいのに
ふてくされたり
心ではやりたくないことを
義務感でやるとき、
体はやろうと思っているのに
損得を考えて
思考がとめてしまうとき
仲直りしたいのに
素直な態度を取れないとき
親切にしたいのに
声をかけられなかったり
心と体が
裏腹な行動をとり続ける時
心の中だけでなく
体の細胞にも
たくさんの感情が
沸き上がっている。
認められたい
愛されたい
淋しい
不安でたまらない
悲しさや怒りが
あふれてくるとき
心だけでなく
体のあにこちにも
沸き上がった感情が
傷をつけていく。
体や体の細胞は
心の履歴書のように見える。
体が伝えたい言葉を発せず
体が本心のままに動かず
怒りや
哀しさや
後悔が
心の中で
蓄積していくとき
哀しみや不安は肺や気管に
怒りは肝臓に
感情の起伏の激しさは心臓になど
症状として出やすい。
咳が止まらない時には
感情として
不安を抱えていることが
多い。
波動を測定しながら
心と体が発している感情に
触れていくとき
そこに表示される
感情を相手に伝えると
初めてその人の
魂に触れるような
感覚を得ることがある。
小さなため息とともに
思い当たる感情を
自分の中に見つけた時
人は
体の強張りが
ふっと緩んでいく。
「気づいてほしかったんだよ」
まるで小さな細胞から
話しかけられたように
その声が心に届き
自身の心と体の声を
受け取れたとき
その人の
波動が共鳴して
振動が大きく
広がっていくように
感じる時がある。
すると不思議なことに
エネルギーが落ちている状態の
部位が
セラピーとともに
一気に変化を始めるのだ。
本当は誰でも
心のままに生きたい
悦びのなかで生きたい
波動を、
エネルギーを整えることは
心が
体が
魂が
本来向かうべく方向へと
舵を切って、
新たな道標を
見つけ始めるようだった。
そんなふうに感じるのだ。
まだ使い始めの頃に
自分自身の波動を見たときに
そこに表示される
感情を見て
ドキリとした。
「自信が持てなくて
将来に不安を感じている」
「認められたい」
そういう感情が表示されると
見透かされているようで
恥ずかしく感じた。
そして娘にセラピーを送るときも
娘の感情を見ると
なんだか切ない感情に
気持ちを覗いているような
後ろめたさを感じていた。
でも
そうやって自身の感情によりそい、
娘や
知人にも
表示された感情とともに
言葉を渡していくとき
私という
体や心が
そんな想いを抱いていたことに
気づいていく過程は
自身を受け入れる
第一歩になっていく。
少しも恥ずかしいことではなかった。
人は常にいろんな感情を抱く。
次から次にだ。
けれど
いっときでも立ち止まり
その感情に向き合う時間を持つことは
何よりも自身を
労る時間になる。
それが
私を知る、
私を愛おしむ
ことにつながっていくからだ。
自身を情けない、
と思う感情も
愛おしい
と思う感情も
知ることが
私はわたし、という
意識を強める。
「私はわたしのままでいい」
その意識こそが
私の心を強くし
私の体を心のままに動かし
魂がナビゲートする
その先の未来へ続く旅の
原動力になっていく。
わたしの小さなため息に
耳をすませて
わたしの哀しみの正体から
目をそらさないで
わたしの蕾が花開くような
ときめきを
見過ごさないで
そんな小さな感情から
私の波動が
振動が
波紋となり
美しく
整えられていくことを
波動をみることから
教えられていた。
波動を知ることは
何よりも
自身を知ることにつながる。
25年前に聞いた言葉が
物質として私の目の前に
現れたその意味もまた
波動というものの本質を
ようやく
ようやく
受け取る準備ができたと
いうことなのかもしれない。
必要な方に届きますように。