うらみてもなににかはせん花みるとけさしもつけぬ心せばさは
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今回の歌人列伝は「源俊頼」です! と言っても…返す刀で「ってだれ?」という反応を頂きそうです。
俊頼は第五番目の勅撰集「金葉和歌集」の撰者であり、のちの詠歌に大きな影響を与えた歌論書「俊頼髄脳」を残した平安時代後期の代表的歌人!
なんですが、同じ勅撰集選者である紀貫之や藤原定家と比較すると(現代の)印象はたいそう薄い…
俊頼がパッとしないのは、彼が生きた時代のせいかもしれません。
なぜなら俊頼が生きた1055~1129年(11世紀~12世紀前半)は、「和歌の停滞期」だからです。
この期間が和歌の停滞期であることを示す理由が2つあります。
一つが勅撰和歌集の空白。
花山院によって三代目の勅撰集「拾遺和歌集」が1006年に成立しますが、その次となる四代目の「後拾遺和歌集」の成立は1086年、この間なんと80年! 以後の勅撰集がおよそ30年に一度のタームで定期的に成立していますから、11世紀におけるこの「勅撰空白期間」がいかに長いものであったかお分かりいただけるでしょう。
べつに宮中において和歌への興味が薄れた訳でもありません。
ハレ(宮廷行事)を飾る主役だった和歌は、ケ(日常生活)のコミュニケーションツールとして貴族たちに確実に浸透していました。この頃全盛の女房文学(物語、日記)でも主役はやはり和歌です。
実は空白の理由、和歌ではなく編纂を命じる天皇の方にあったのです。
11世紀、それは「摂関政治」の全盛期。天皇に政治権力の実権はなく、外祖父の摂政道長や頼通がブイブイいわせていた時代です。とても勅撰集なんて命じられるような状況ではありませんでした。※白河院以降「院政」が始まると、院勅命による勅撰集編纂が途端に増えます
もう一つが「題詠」の定番化。
題詠とは「予め決められた題に従って歌を詠むこと」です。先で述べたように和歌は日常で盛んに詠まれる一方、宮廷行事ではこの題詠が定番化していきました。そのエポックメイキングな出来事が「堀川百首」。
堀川百首とは、源俊頼ら当時の代表歌人14名が堀川天皇に献詠した百首歌です。この最大の特徴が詠進者全員が予め決められた百題を詠んでいるということ、つまり題詠です。
以後、百首歌を中心とする公の和歌は堀川百首の題に倣って詠まれるのが定番になってきます。
そもそも和歌とは、古今集で詠むべき叙景・叙情は明確なルール化がなされましたが、加えて詠むべき題までもが固定化されたのです。
オリジナリティを挟む余地が細った結果、同じような歌が量産されていきました。
ちなみに明治の歌人、正岡子規はこう切って捨てます。
「和歌は腐敗し尽したるに、いかでか改良の手だてあるべき、置きね置きねなど言ひはなし候様は、あたかも名医が匙を投げたる死際の病人に対するが如き感を持ちをり候者と相見え申候。(中略)この腐敗と申すは趣向の変化せざるが原因にて、また趣向の変化せざるは用語の少きが原因と被存候」
七たび歌よみに与ふる書(正岡子規)
和歌の腐敗は、趣向が変化しないことが原因…
おっしゃるとおり!
このように、公の和歌は11世紀~12世紀前半にかけて停滞どころか輝きを急速に失っていたのです。
さて、この危機的状況に孤軍奮闘する歌人が現れます。それが今日の主人公、源俊頼です!
俊頼は11世紀~12世紀前半における和歌の閉鎖的状況を十分理解していました。
彼が起こした「俊頼髄脳」(序) にこんな記述があります。
「詠みのこしたる節もなく、つづけもせる詞もみえず。いかにしてかは、末の世の人の、めづらしき様にもとりなすべき…」
俊頼髄脳(序)
和歌はすでに詠みつくされてしまった。どうしたら和歌の輝きを取り戻せるのだろう、、と!
俊頼は思考錯誤の結果、「清新奇抜」と呼ばれる独特の歌風に到達します。
そしてこの集大成が、自らが編纂した「金葉和歌集」。
「金葉は、また、わざともをかしからんとして、軽々なる歌多かり」
無名抄 第71話(鴨長明)
などと批判もある金葉集ですが、それだけ俊頼の理想が形になっているということ。
また金葉集の「清新奇抜」は次世代の俊成・定家らの新風を生む素地となるなど、後世にも多大な影響を残したのです。
こんな偉大な歌人を知らないというのはちょっともったいない!
今回は「堀川百首」から、源俊頼のチャレンジングな歌を見てみましょう。
源俊頼の十首
(一)題【霞】「波たてる 松の下枝を 蜘蛛手にて 霞わたれる 天の橋立」(源俊頼)
日本三景の一つ「天の橋立」は、今では定番の観光スポットですが、古今和歌集にはその名が見られません。
小式部内侍の百人一首歌は有名ですが、もしかしたら当時まだ新興の歌枕だったのかもしれませんね。
俊頼は「霞」題でこの天の橋立を取り合わせました。「橋」というくらいだから砂浜に立つ松は蜘手なんだろうという新手の見立てです。
(二)題【鶯】「数ならぬ 身をうぐひすと 思へども なくをは人の しのばざりけり」(源俊頼)
「鶯」と「憂く」という鉄板の掛詞、この歌にはチャレンジングな俊頼はいません。いるのは官位の上がらぬ虚しき男…
俊頼の父は正二位で大納言にまで昇りましたが、彼自身は従四位上に留まる不遇の人でした。
(三)題【梅】「梅の花 色をは闇に 隠せども 香はもれてくる ものにぞありける」(源俊頼)
この歌、ほぼほぼ躬恒ですね。
「春の夜の 闇はあやなし 梅花 色こそ見えね 香やはかくるる」(凡河内躬恒)
ポイントは「香はもれてくる」です。
俊頼はこういうくだけた表現(口語)も取り入れちゃうのです。
(四)題【桜】「さくら花 咲きぬるときは み吉野の 山の峡より 波ぞこえける」(源俊頼)
「桜」と言えば「吉野」とは定番ですが、それが山と山の間から波を越えるように咲く、とは斬新な表現!
ちなみに自身が編纂に携わった「金葉和歌集」には、俊頼の代表歌となった桜歌(↓)が収められています。
(五)【金葉集】「山さくら 咲きそめしより ひさかたの 雲ゐに見ゆる 滝のしら糸」(源俊頼)
桜の白と空の青とのコントラストが絶妙に映える歌。俊頼はこういう「気高く遠白き歌」を理想としたのでした。
(六)題【蛍】「あはれにも みさをに燃ゆる 蛍かな 声たてつべき このよと思ふに」(源俊頼)
「みさを」は「水棹」と「操」の掛詞です。「みさを」の掛詞は始めて聴きました!
夜、静寂の中を渡る一そうの舟。その水棹に寄る蛍。なんと抒情を搔き立てたれる歌なんでしょう!
(七)題【藤袴】「そめかけて 籬にさらす 藤袴 まだきも鳥の 踏み散らすかな」(源俊頼)
古今集において、藤袴はその匂いを詠むものでしたが、俊頼はそうしません。
それを鳥が踏み散らすという、驚くべき情景を詠んでいます。
(八)題【雪】「うばたまの くろかみ山に 雪ふれば 名もうづもるる ものにぞありける」(源俊頼)
分かりますよね? くろかみ(黒髪)山に白い雪が降れば、そう呼べなくなるじゃん、という歌です。
チャレンジャーには、こんな俳諧心が不可欠です。
(九)題【不被知人恋】「麻手干す 東乙女の かやむしろ 敷きしのびても 過ぐすころかな」(源俊頼)
恋の題(人に知られざる恋)です。
麻の葉を干す、東乙女(東国の女)が萱のむしろを敷くように、しのぶ恋をしているこの頃だなぁ。
って、すっごい分かりにくい序詞です。
ただ、とにかく他の連中とは違う歌を詠んでやろうという意気込みを激しく感じます。
(十)題【野】「さまざまに 心ぞとまる 宮城野の 花のいろいろ 虫のこゑこゑ」(源俊頼)
「さまざま」「いろいろ」「こゑこゑ」とリズムで聴かせる歌。
なんだか童謡にも出てきそうで幼稚… いや! 俊頼のチャレンジング、天晴なり!!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%8A%E9%A0%BC%E9%AB%84%E8%84%B3 【俊頼髄脳】より
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『俊頼髄脳』(としよりずいのう)は、源俊頼によって書かれた歌論書。1113年成立と考えられている。別名『俊頼口伝』『俊秘抄』。
概要
関白藤原忠実の依頼によって、彼の子である泰子(のちの鳥羽天皇皇后)のために書かれた作歌の手引書である。説話色が濃く、構成に一貫性はないが、和歌の故事などが詳しく記されている。
当時の和歌の役割は、貴族の社交生活の儀礼ないし遊戯として認識されていた。よって俊頼の論点も、個人の心の慰めとしての歌より、公的催しに詠まれる「晴の歌」に集中している。だから問題は、和歌のことばが一首全体のなかでどれだけ美的効果をあげられるかにある。「おほかた、歌の良しといふは、心をさきとして、珍しき節をもとめ、詞をかざり詠むべきなり(=およそ歌がよいと評価されるのは、まず詠む対象に対する感動が第一であり、その感動を表現するときは、どこかに新しい趣向を凝らし、しかも華やかに表現すべきである)」と説き、歌の詞と趣向の働きということを、具体的な例歌を引いて説明している。それまでの歌論的成果が吸収されているとともに、新しい和歌の変質の予感を微妙に示している点で、歌論史上画期的な書といえる。