《 無事 》ぶじ
Facebook・近藤裕子さん投稿記事
《 無事 》ぶじ
〈有事人生〉〈無事仏性〉という言葉を聞いたことがあります。
一般的には〈無事〉とは 普段と変わらないことを意味します。が。。。
〈有事人生〉とは 良いことも悪いこともあるのが人生 という意味、
〈無事仏性〉とは 何事があっても何事も無いように過ごせる境地 という意味のようです。
(以前にも書きましたが)
国語学研究家で俳人の 正岡子規は 深く仏教を探究したことでも有名ですが亡くなる際に
禅の悟りとは 〔どんな時でも 平気で死ぬ]ことだと思っていたが〔どんな時でも 平気で生きて行くことだと解った]と言われたそうです。
何事が有ろうと〈事も無く生きる〉!!!目指したい境地です。
《 豁然大悟 》かくぜん(ねん)たいご
悩みや疑いが消えて 晴れやかな気持ちを得ること を意味する言葉です。
人は 人生の中に〈悟り〉というものがあり、禅は 〈悟り〉を捉えるものだとの考えがありますが道元禅師は自分の中にある 自我 (こだわり)を消滅させることで 軽やかで晴れ晴れした心境が得られる のだと気づかれました。それを〈心身脱落〉と表現されたのです。
人は誰しも 自我に 悩み苦しみますがそれらは内なる心のなせるもの。
心に宇宙を抱いて 晴れやかに生きたいものです。
https://www.soto-kinki.net/sp/zenwa/houwa/20120416.php 【ぶじ】より
滋賀県 宗清寺住職 上田了禅 老師
「無事是貴人(ぶじこれきにん)」という禅語があります。
どうか無事でいて欲しいと子どもを学校へ送り出す親の心には、見守ってあげたい気持ちが込められます。本当の幸せの極みというのは、何事も起きないことであって、日常が平凡に過ぎていくことですね。
しかし、禅語としての「無事是貴人」の意味は少々違います。無事とは、平穏無事の「無事」ではなく、仏や悟り、道の完成を他に求めない心をいいます。一歩一歩着実に歩む心をいいます。貴人(きにん)とは貴ぶべき人、すなわち仏であり、道を達成した人を意味します。
私たちの心の奥底には、生まれながらにして仏と寸分違わぬ純粋な人間性、仏になる資質ともいうべき仏性(ぶっしょう)というものがあります。それを発見し、自分のものとすることが修行であり、仏になることであります。
先日、お誘いを頂いて仏像彫刻教室の発表会に出かけました。微笑んでいるお顔、ふくよかなお顔、中には寂しげなお顔など。そして御本尊として拝みたくなる素晴らしいできばえの仏像もありました。
主催者の仏師はこう仰います。
「仏像彫刻に限らず何でもそうなんでしょうが、彫る人の精神性といいますか内面が出ますから、いかに心の内側を高めるかが大切です。仏像を彫刻するにあたり、形を追求することは当然必要なことなのですが、形にとらわれすぎては、肝心のありがたさ、尊さが出て参りません」
「無事是貴人」が指し示すように、道の完成を他に求めず、一歩一歩着実に、心の内面を磨くようにするとおのずからその成果があらわれてくる、ということなのでしょう。
仏師はこう付け加えました。
「本当に大勢の人に何十年も何百年も拝まれるような仏像を彫れたと思うことは稀です。彫ると云うより、お出まし頂くのをお迎えする境地ですね」
仏像を彫る人たちだけでなく、私たちの一生は、仏になる資質、仏性を発見し、お出まし頂くように生きることが「無事是貴人」の修行に繋がっていくのだと感じた次第です。
会場を後にして、なにか暖かな気持ちに包まれました。最初は仏像の出来不出来に心を奪われておりましたが、このような美しいものを伝えたいとする人の心を、受け取らせていただけた事を何より嬉しく思いました。
https://www.d-tokoji.com/buji001/ 【第22回 無事の話】より
先日、テレビを見ていますと、ある神社の神主さんが御朱印帳を書いていました。そのさい「うちの神社では決まってこの言葉を書くんですよ」と、ある言葉を書かれていました。
その言葉が「有事人生(ゆうじじんせい)」です。
「事が有るのが人生」。
人生とは良いことも悪いこともどんなことも起こる。
色々なことが起こるものだと覚悟して、日々生きていくべきだ、そのような意味だったと思います。
確かに、人生は良いことも悪いこともなんでも起こりえます、覚悟は必要かもしれません。
しかし、私がこの話を聞いて一番に考えたことは、
「有事人生」は仏教だったら、「無事仏性(ぶじぶっしょう)」だな…でした。
◇
一般的な意味での「無事」とは、何事もない、普段と変わりのないことをいいます。
しかし、仏教での「無事」とは、
何か起こっても、何事も有っても、事もなく、何事もなかったかのように普段と変わりなく過ごすことをいいます。心もしかり。
人生はどんなことも起こる、良いも悪いも色々起こる、しかし動じてはいけないのです。
何かは起こるけど、何事もなく、普段と変わりのないように過ごせる境地、これが仏教の「無事」なのです。
風が吹いても気にもしない、嵐が来ても「無事」である。
明治時代の文学者に正岡子規という方がおります。
正岡子規は禅の勉強したり、お寺の坐禅会に通ったりと、仏教に大変精通していたそうです。
その正岡子規が亡くなるさい、このような言葉を残したそうです。
「禅の悟りとは、どんな場合でも平気で死ねることだと思っていたが、それは間違いで、どんな場合でも平気で生きることだと、わかった」
死を身近にとらえ、いつ死んでもいいように生きていくのではなく、どんな時でも、どんな状態でも平気で生きていく。
これが「無事」なのです。
「有事人生」、我々の人生にはこれからどんなことも、起こります。
しかし、あまりそれらに振り回されないようにしましょう。
良いことが起こった、悪いことが起こったと、一喜一憂しすぎず、どんな場合でも平気で生きていく、仏さまの境地を忘れないようにしましょう。
◇
樹木希林さんがテレビの過去映像でこう言っていました、
「人生は何が起こるかわからない、なるべく気楽に生きなさい」と。
何が起こるかわからない、そんな未来の不安に心動かされていてはいけません。
未来を考えるのなんてやめてしまって、気楽に生きていく、この言葉にこそ、「無事」を生きるヒントが隠されているのではないでしょうか?
無事仏性、平気で生きる、仏の境地。