白から赤、そして白
ウィリアムが初めてその手を赤に染めたとき。
覚悟はしていたけれど、どうしようもない虚無で胸が押し潰されそうになった。
アルバートの弟だった子の腹を貫き、モリアーティ家を焼き払ったあの夜からしばらくの間、三兄弟は揃って近くの病院に入院した。
そこで過ごすほとんどの夜をウィリアムは起きたまま過ごし、すぐ隣で眠るルイスの息遣いを見ることで辛うじて心の安寧を保っていたのだ。
小さく幼い弟は深い眠りについている。
「よく寝てる…」
生きている弟の姿はウィリアムの気持ちを何よりも落ち着かせてくれた。
覚悟が足りなかったのだろうか。
あの瞬間は気にしていなかったのに、こうして時間の経った今の方が生々しい肉の感触が手に残り、瞼の裏は滴る血の色で鮮やかに染まっている。
人を殺すということはこういうことなのだろう。
どれだけ覚悟を決めていようと、人を殺してしまった後に押し寄せる罪悪感と恐怖は拭い切れるものではないのだ。
おおよその予想はついていたはずなのにいざ体験してみると現実はやはり現実なのだと、ウィリアムは静かに気を落としていた。
後悔はしていない。
絶対にこの方法が最善かつ必要だと確信して行動したのだから、後悔するなど許されるはずもない。
けれど、ルイスの目の前に犯行現場を晒してしまったのは失敗だったように思う。
部屋の外で待機しているよう言っていたのに、兄の言いつけを守らず結局部屋に居座ってしまった可愛い弟。
真っ白く小さな手はまだ穢れていない。
「…ルイス」
眠っている弟の名前を呼んではふわりと流れる髪を静かに梳く。
凄惨な現場を見てしまっただけならば、きっと無垢な精神は無垢なままだろう。
まだルイスの手は穢れていないのだから、この清らかな手のまま大人にさせてあげたい。
無垢で純粋なルイスのまま、美しい英国を生き抜いていってほしい。
もう何日も熟睡できていないウィリアムはルイスの手を握り、静かにその寝顔を見つめてはこうして生きている病弱な弟の存在に救われていた。
ウィリアムがルイスの手を穢すような計画を立てることはない。
確かな戦力を持つというのに後方支援にばかり回し、ルイスが持つ白い手を白いままに成長させてきた。
世の不平等を正し公平な社会を作り上げるという計画の中、ウィリアムの目的の一つにはルイスに似合いの美しい世界を作ることが挙げられる。
可愛い弟には清らかな世界がよく似合う。
だからこそウィリアムはルイスの手を血で染めないよう工夫に凝らしたプランを練っていたのだが、バスカヴィルの一件でそれは全て崩れ落ちてしまった。
ルイスの気持ちに気付いていなかったわけではない。
ただ見ようとしていなかっただけだ。
けれどそれがルイスには不満だったようで、いつも一緒にいたはずなのに一人孤独を感じさせてしまっていたらしい。
フォローが足りなかった自分の責任だと、ウィリアムは過去の自分を後悔しても仕切れない。
ルイスの気持ちを尊重するがゆえに、あれほど望んでいたルイスの白い手を赤く染めてしまったのだから。
「ルイス、今日は一緒に寝ようか」
「はい、兄さん」
バスカヴィルの一件が終わった日の夜、ウィリアムとルイスは一つのベッドでともに眠った。
いくら覚悟を決めていようと、初めてその手に誰かの命を乗せてしまったルイスはきっと不安と恐怖で押し潰されてしまう。
そう考えたウィリアムは一晩どころかルイスの気持ちが落ち着くまでずっとそばにいるつもりだったのだが、そんな兄の心配をよそに、ルイスの精神は思いがけず豪胆だったらしい。
「…ふふ、よく寝てるなぁ」
ウィリアムの心配など知る由もなく、ルイスはウィリアムの腕の中で安らかな表情のまますやすや寝息を立てていた。
人見知りの気質が強く、一人ではうまく眠れないほど神経質なはずなのに、彼は妙なところで肝が据わっている。
ウィリアムは環境の変化には強くいつでもどこでも眠れてしまう豪胆な性質だが、精神的にはルイスよりもずっと脆い。
似ているようでそれぞれ違う性質は、二人がひとつであることを証明しているようだった。
自分よりもずっと儚い容姿をしているくせに、自分よりもずっと覚悟を決めていて芯がぶれない弟の体を抱きしめ、ウィリアムは気が抜けたように笑ってしまう。
「良かった」
ルイスが不安に押し潰されなくて良かった。
ルイスが誰かの命に囚われることがなくて良かった。
ルイスが自分以外の人間に心の隙間を埋めてしまわなくて良かった。
人を殺めてしまった気持ちを癒してあげるためそばにいようとしたはずなのに、気にせず眠ってしまうルイスの姿にウィリアムの方が癒されてしまった。
この子の心には自分しかいないことが分かり、ウィリアム以外の存在はルイスの心を乱す要因にすらなり得ないことを間接的に知ったのだから、バスカヴィルの血を浴びた自分の精神こそが安らいでいる。
静かな夜、ウィリアムは眠ることなくルイスの寝顔を見つめていた。
ルイスが誰かの命を奪っても何の感情も抱かないことに、思うことがないわけではない。
それでもウィリアムにとって、ルイスが周りの人間に心乱されないというのはとても魅力的な事実だった。
いつでもどこでもどんな状況でも、ルイスの一番は自分が良い。
真っ白い手を真っ赤に染めてしまったことは悔やむべき事案だけれど、結果的に知れたルイスの性質はウィリアムを大層喜ばせた。
けれど今でも考えることがある。
あの夜、ルイスの気持ちを尊重しながらもルイスの手を赤く染めない方法は無かったのだろうかと、そう考えることがある。
もっと上手く立ち回れていたら理想の経緯と理想の結果を手にすることが出来たのかもしれないと、そう考えては自分の選んだ道があまりにも罪深いものだと実感してしまう。
後悔などしていないししてはいけないと分かっているのに、それでもウィリアムはルイスの真っ白い手が真っ赤に染まってしまったことを悔いているのだ。
「全て忘れてしまえば良いのに」
自分がしてきたこともウィリアムがしてきたこともアルバートがしてきたことも、ルイスの記憶に存在する忌まわしい記憶の何もかもを全て忘れてしまえば良いと思う。
そうすればルイスは無垢で清廉なまま、ウィリアムが作る理想の世界に相応しい存在に戻れるに違いない。
ウィリアム以外の何にも心揺さぶられないルイスだが、それでもその手は穢れてしまった。
記憶がなくなろうがその穢れを拭うなど決して出来ないことは理解しているが、何も知らないあの頃のルイスになってしまえば、ウィリアムが代わりにその罪全てを背負う日々に戻ることが出来るだろう。
「君が全てを、忘れてしまえば良いのにね」
すやすやと眠るルイスのそばで、ウィリアムは祈るようにその頬を撫でてはぽつり口にした。
思わず口にした本音を現す言葉が祈りではなく呪いだったのだと、そう理解するのは早かった。
ウィリアムとアルバートは紳士にあるまじき慌ただしさのまま病院内を駆けていく。
受付でモリアーティの名を出すよりも前に看護婦から病室を告げられ、案内する彼女を追い越すように先へと駆ける二人を咎める人間はいなかった。
「ルイス!」
目当ての病室へ辿り着き、礼儀を忘れてしまったように乱暴な音を立てて扉を開く。
無自覚に出た声は愛しい弟の名前で、この病室の住人になってしまった存在だ。
白いシーツに包まれて横たわるルイスを目にしたウィリアムは、ベッド近くに立つフレッドを押し退けて瞳を閉じている弟を見下ろした。
「ルイス…!」
「命に別状はないそうです。大きな怪我はなく、全ての処置と検査を終えていますが…まだ目を醒ましていません」
「そうか…迅速な対応をありがとう、フレッド。感謝するよ」
「ルイス、ルイス…」
シーツから出ている白い腕には点滴の針が刺入されている。
かつて何度も見た光景のはずなのにウィリアムの心は落ち着かなくて、フレッドの報告もそれに対するアルバートの言葉も何一つ頭に入ってこない。
細い指と薄い手のひらを両手で握りしめ、ウィリアムは眠るように目を閉じているルイスを痛ましげに見つめていた。
「…それで、ルイスが助けたという子どもは今どうしている?」
「どこにも怪我をしていません。今は親とともに別室で待機しています」
「そうか…ならば私が対応しよう。ウィル、私は少し離れる」
「…お願いします、アルバート兄さん」
フレッドからの使いだという人間がモリアーティ家に届けた手紙には、ルイスが馬車に轢かれそうになった子どもを助けて怪我をしたという文字が記されていた。
届いた瞬間から嫌な予感がしていたけれど、想像の範囲外と言っていいトラブルにウィリアムの顔からは血の気が一気に引いてしまった。
慌ててアルバートとともに運ばれた病院へと駆けつけたけれど、貴族たるルイスに怪我を負わせておきながら無傷な子どもを持つ一般市民の親の心中は、察して余りあるだろう。
きっと今頃は無事だった我が子を喜ぶどころか、モリアーティからの死刑宣告を待つ心地で待機しているはずだ。
ルイスが誰かを助けたというのは兄としてとても誇らしい。
その結果がこうして怪我をしてしまったというのは頂けないけれど、それでもルイスが誰かを助けたという事実は喜ばしい現実なのだ。
立派な弟を誇らしく思うことこそすれ、恨むなど絶対にあり得ないのがウィリアムとアルバートだ。
アルバートはルイスが助けた子とその親へのケアをするため、そしてウィリアムとルイスを二人きりにするために部屋を出たのだろう。
フレッドもその意を汲んで静かに扉の外へ出ていった。
「ルイス…か弱い子どもを助けたんだね…偉いね、ルイス。とても偉いよ。さすが僕の弟だ」
擦り傷はそこかしこにあるようだが、目に見えて大きな傷があるわけではないらしい。
けれど頭を打ってしまったのか、入院してからの数時間の間、ルイスは一度も目を覚ましていないというのだ。
ただ疲労を回復させるために眠っているのか、それとも脳に損傷を受けているのかは分からない。
各種検査で異常がないのであればそれを信じるしかないと、ウィリアムは誇るべき行動を取った弟の手を強く握りしめた。
「ルイス、君が助けた子はきっと君に感謝しているよ。貴族である君が一市民である子どもを助けた意味はこの上なく大きい。ありがとう、ルイスは優しいね」
安らかに眠っているようにしか見えないルイスに少しだけ安心する。
いつもウィリアムのために動いているはずのルイスなのに、幼い頃の弟妹達を思い出してしまうのか、条件が合えば子どもにだけは優しいように思う。
ウィリアムの真似をしてお兄ちゃんぶろうとしていたルイスはとても可愛くて、この子達は自分より幼いのだから守ってあげなければと張り切るルイスがとても愛おしくて、その行動原理はウィリアムの真似をしたがるところにあるのだろう。
そんなルイスがウィリアムはすきだ。
だから子どもを助けるために身を呈して庇い守ったという事実は震えるほどに嬉しく誇らしかった。
その代償が大きすぎることには、納得がいかないけれど。
「ねぇルイス…起きて」
「…………」
「起きよう、ルイス。僕と一緒に家に帰ろう」
「…………」
「ルイス」
起きないかもしれないという不安はなかった。
ルイスはすぐに目を醒ますという確信がウィリアムにはある。
ずっと一緒に生きてきた自分の半身と言っていい存在なのだから、このまま懇々と眠り続けるなどあり得ないのだ。
ウィリアムは歌うように声を出し、それでも怪我を負っている弟を心配するようにその眉は下げられていた。
「ルイス」
「…ん__」
「っ、ルイス!」
「……ぁ…」
何度も愛しい名前を呼び、静かに呼吸するルイスを見つめていると、確かにそのまつ毛が震えていた。
ウィリアムが起き上がり整ったその顔を覗き込めば、長いまつ毛に縁取られている瞼が徐々に開いていく。
そうして金色の隙間から色鮮やかな赤が見えると、ウィリアムの表情は分かりやすく歓喜に満ちていった。
「ルイス!目を醒ましてくれたんだね、良かった…!」
「…ん…」
「偉かったね、ルイス。子どもを助けるなんてとても凄いよ、偉いねルイス、頑張ったね」
「…………」
瞳を開けたルイスは視界を慣らすように何度も瞬きをしてはワインのような瞳にウィリアムを映してくれた。
未だベッドに横たわるその体を抱きしめ、まずは自分の知らないところで懸命に頑張っていた弟を労う。
生ぬるい体温はルイスらしさの一つで、ウィリアムをこの上なく安心させてくれた。
「ウィル、ルイスが目を醒ましたのか!?」
「ルイスさん!」
「兄さん、フレッド。えぇ、目を醒ましてくれました。ルイス、フレッドが君を助けてくれたんだよ」
「…………」
ウィリアムの声をきっかけにアルバートとフレッドが病室に入ってくる。
ふと視界に時計を映せば思いがけず時間が経っていたようで、ウィリアムの気持ちを考慮して外で待機していただろうことが分かった。
その気遣いが嬉しくて、ウィリアムは満面の笑みで二人を出迎えてはもう一度ルイスを見下ろした。
おずおずと体を起こすルイスの背を支え、ベッド上に座って部屋の中を見渡すルイスの仕草はどこかあどけなく見える。
「ルイス、どこか痛いところはあるかい?気分が悪かったり気になる症状があったりしないかな?」
「…いえ」
「そう、良かった。すぐにお医者様を呼んで診察してもらおうね」
「…は、い」
「でもその前に一つ。ルイス、君が取った行動はとても勇敢で褒められるべき行為だ。それは間違いないし、僕は君の兄として君を誇りに思うよ。けれど、こうして怪我を負ってしまったことを誉めるわけにはいかない」
「……」
「誰かを助けるのは良いことだ。でもその誰かの中に、ルイス、君自身も含まれることを覚えておいてほしい。僕はルイスの身に危険が及ぶことが何より怖いんだ。もし君に万一のことがあったら、きっと僕は君が助けた子どもを恨んでしまっていたと思う」
「……は、ぃ」
「どうか、無理だけはしないと僕に約束してくれるかい?」
「…………」
こくりと静かに頷くルイスを、ウィリアムは不思議な心地で見つめていた。
それはアルバートとフレッドも同様で、一方的にウィリアムの言葉をぼんやり見つめているだけのルイスはあまり見る光景ではない。
そもそも起きてからルイスはウィリアムのことを一度も呼んでいないのだ。
異常すぎるほどの異常に、三人は本能的に気が付いていた。
「ルイス…?」
「…優しい人ですね」
「え?」
「見ず知らずの僕をこんなにも心配してくださるなんて、とてもお優しい人なのですね。ありがとうございます」
遠慮がちにそう言ったルイスの顔は戸惑うように苦笑していて、さりげなくウィリアムの腕から距離を取ろうとしていることが分かってしまった。
途端にウィリアムの心臓は冷たく硬く凍りつく。
安堵していたはずの瞳が一瞬で虚空を見つめているように色を無くしていた。
「ルイス、」
「あの、お二人のどちらがフレッドさんなのでしょうか?」
「ぇ…あ、僕、です」
「ありがとうございます。僕はあなたに助けていただいたようで…あなたは?」
「私、は…」
ルイスに礼を言われたフレッドは青褪めた顔を隠すことなく前を向いており、名前を問われたアルバートの喉は締められたように硬くなったために声が出せなかった。
フレッド、ましてアルバートに対し他人のように振る舞うルイスなど絶対にありえない。
しかも抱かれていたウィリアムの腕を逃れ、その彼に対し他人行儀な礼を言うルイスをアルバートは初めて見た。
目の前のルイスが信じられなくて脂汗が出るようだ。
それでも素直な問いかけを無視するわけにもいかなくて、どう答えるのが最良なのかといくつものパターンを考えたけれど、結局アルバートの口は開くことなく閉じてしまった。
「あまり覚えていないのですが、僕は事故に遭ったんですね」
「…ルイス、聞きたいことがあるんだけれど」
「……ルイスとは僕の名前でしょうか」
ウィリアムのことを呼ぶことなく、それどころか己の名前すら確認する。
今のルイスはウィリアムどころか自分のことすらよく分かっていないのだろう。
そう確信してしまったウィリアムは、思わず眉を顰めてその手を強く握りしめた。
「…そうだよ。君はルイス・J・モーガンズ。モリアーティ家の使用人だ」
「ルイス・J・モーガンズ…」
「頭を打ったそうだから一時的な記憶の混乱だろうね。事故にあったことは覚えていないようだけど、覚えていることはあるのかい?」
「…いえ。自分の名前すら今知りました」
「そう」
起きたばかりで気にしていなかったのか、よくよく記憶を探ってみれば何も覚えていない自分にルイスは驚いていた。
それは妙なところで豪胆なルイスを感じさせてくれる。
けれど当のルイス自身は今になって状況の危うさに気付いたようで、何も覚えていない自分を恐れるように自らの手を見つめていた。
不安げに表情を暗くする弟の姿にウィリアムの心は痛むけれど、頭の一部はとても冷静だ。
記憶の混乱があるのなら、記憶の一部を失っているのなら、今しかチャンスはない。
「…ウィリアム、ルイスは使用人では」
「十歳の頃だったかな。君は一人でモリアーティ家に引き取られ、そのまま使用人として今も仕えてくれているんだよ」
「そう、でしたか…あの、あなたはモリアーティ家の人間なのですか?」
「あぁ。モリアーティ伯爵家の次男、ウィリアム・ジェームズ・モリアーティだ。彼は僕の兄でモリアーティ家の当主、アルバートだよ」
「ウィリアム様とアルバート様…フレッド、様もご兄弟で?」
「いや、彼は君と同じモリアーティ家の使用人だ。庭師の仕事は彼に一任している」
アルバートの言葉を遮り、ウィリアムは淡々とルイスに説明する。
その言葉が偽りだと疑う人間は誰もいないだろう。
実際にルイスは穏やかに語られるウィリアムの言葉を全て信じてしまっていた。
人の心を掴む術を本能的に知りえているウィリアムの言葉は、表情や仕草を持ってしてルイスを支配しようとしている。
目覚めた瞬間から自分を心配している優しい人の声を、無垢なルイスが疑うはずもない。
まして、ウィリアムはルイスの兄なのだ。
ルイスが忘れてしまっていても、自覚のない部分でウィリアムの言葉は絶対だと記憶しているのだろう。
それでもアルバートはウィリアムが何故ルイスに対し偽っているのかが分からない。
ルイスを使用人だと思ったことはないし、他の誰かにルイスを使用人だと揶揄されることをアルバートは最も嫌う。
彼は大切な弟で、アルバートが成すべき領地の管理を任せているだけの家族なのだ。
ウィリアムもそれを知っているはずなのに、どうして今更ルイスを使用人として扱うのだろうか。
アルバートは思わず歯を食いしばり、ウィリアムを睨みつけていた。
「では、僕とフレッドさんが使いに出ていたとき、子どもを助けようとした僕が事故に遭ってしまったということですか?」
「そう聞いているよ」
「ウィリアム様とアルバート様にご迷惑をかけてしまうなんて…それどころか、お仕えする主人のことを覚えていないなんて…」
「気にしなくて良いんだよ。君が取った行動は誇るべきことなんだから」
「ウィリアム様…」
アルバートが不快感を覚えていると、いつの間にかウィリアムはルイスを言いくるめることに成功したらしい。
優しく微笑むウィリアムに警戒心を緩めたルイスは何も覚えていない恐怖が薄らいだようで、自分はモリアーティ家の使用人なのだという明確な所在に安心したようだ。
目覚めてから表情を変えることのなかったルイスは僅かに頬を緩め、微かな笑顔を見せてくれた。
「ウィリアム、どういうつもりだ」
「兄さん」
「何故ルイスを使用人だと言った?自分の名前すら覚えていないルイスに、何故あんなことを吹き込んだ?ウィリアムが言ったのならルイスは無条件に信じてしまう…それを知っていてお前は、」
「アルバート兄さん」
「っ…」
戸惑うルイスを主治医に診せ、数日は経過観察のために入院が続くことになった。
名残惜しげにルイスの病室を後にしたウィリアム達は帰路で何を言うこともなく、フレッドが気を落ち着かせるためにルーティンである庭師の仕事に戻ると言って離れた瞬間、アルバートは話を切り出していく。
彼らしくなく余裕のない、怒りを滲ませた声色だ。
それはその分だけルイスを心配する気持ちと、何よりウィリアムを思う気持ちを表しているのだろう。
優しい人だと、ウィリアムはそう思いながら笑みを見せた。
完璧すぎるほどの美しい笑みに、アルバートは計り知れないほどの距離を感じる。
「今のルイスは何も覚えていないんです。今のあの子は文字通り無垢で純粋な僕達の弟…その彼に、僕達が歩んできた罪深い歴史をどう教えるというんですか?」
「だが、」
「多くの命を奪い多くの人生を狂わせてきた僕達の悪行を、今のルイスがどう受け止めるかは分かりません。けれど、知らないのなら敢えて教えることもないでしょう。忌まわしいだけ記憶など、あっても良いことはありませんから」
「ウィリアム…」
「兄さんも見たでしょう?病室でルイスが見せたあの笑顔。何も知らないルイスはあんなにも清らかな笑みを浮かべるんです」
そんなこと、もう忘れてしまっていました。
そう呟くウィリアムはアルバートから視線を外して一人俯くが、その表情はもう笑ってはいない。
ただただ何も映さない虚な緋色はとても綺麗で、とても悲しかった。
「何も覚えていないのならそのままのルイスでいてほしい。もうあの手に誰の命も乗せてほしくない。今までにルイスが犯した罪は全て僕が背負います。ルイスは何も知らないまま、美しく生まれ変わる英国を生きてほしいんです」
「…ウィリアム。だが、それでは…ルイスは君のことを忘れたままになるだろう」
「良いんです」
「ウィリアム」
「ルイスが僕を覚えていなくても、僕がルイスを覚えています。僕の弟だったルイスを覚えている。それだけで僕は十分ですよ」
「……そう、か…」
上手く笑っているつもりなのだろうウィリアムの表情は、アルバートの目にはかつて見たことがないほどに痛々しく歪んで見える。
あれほどウィリアムを想っていたルイスが、ウィリアムを忘れたままで良いはずがない。
あれほどルイスを想っていたウィリアムが、ルイスに忘れられたままで良いはずがない。
それが確かであることは明白なのに、今ウィリアムが言った言葉が本心であることも間違いないのだ。
今でもウィリアムはルイスの手に誰かの命を乗せてしまったことを悔いている。
ルイスはウィリアムと一緒が良いのに、ウィリアムはルイスだけを特別にしたいのだろう。
いつになってもすれ違ったままの二人はとても不器用で、だからこそ尊く眩しい存在のように思う。
ウィリアムはあの一瞬でルイスに偽りを吹き込むことを考えたのではなく、常々ルイスを置いていくためにはどうしたら良いのかを考え続けていたに違いない。
ルイスが罪を背負った過去を忘れて無垢なまま生きていけるのなら、ウィリアムは喜んで自分の存在ごと失くしてしまうのだ。
それがルイスのためで、自分の理想なのだと信じ切ってしまっている。
アルバートは苦痛に満ちた表情で唇を噛み、それでもウィリアムがそう望むのならサポートするのが己の役目なのだろうと認識した。
今のルイスは何も覚えていない。
理想のため悪魔になることを決意した日も、それを計画し実行に移した日も、最愛の人のために自ら血を被ったことも、何もかもを覚えていないのだ。
病室で見せた憂いのない笑みは、本来ルイスが持つはずだった表情なのだろう。
それを奪ってしまったことを後悔しているのはウィリアムだけではない。
だから、ウィリアムがそれで良いと決めたのならもう何も言うまいとアルバートは考えた。
たった一つ、確認すべきことを確認してからにはなるけれど。
「…ウィリアム」
「何ですか?」
「君は今、自分がどんな顔をしているか分かっているのかい?」
「……」
「分からないのなら鏡を見てくるべきだ。そんな顔をしているお前のプランに、私は納得など出来はしない」
「……っ…」
アルバートはそう言い捨ててその場を去る。
ルイスのため、自分のため。
そう考えるウィリアムはエゴに満ちていて至極人間らしく思う。
けれどそれが誰のためにもならないのなら、アルバートとてサポート出来るはずもないのだ。
アルバートはすれ違っていながらも確かな愛を紡ぐ弟達を他の誰より大切にしている。
悪の道を選んだ中で唯一得た光だとすら思っているのに、その二人を引き裂くような杜撰な計画など許せるはずがない。
いつも優雅に笑んでいるウィリアムの表情はルイスがそばにいることが前提だったのだ。
ルイスがいない状況ではその表情など、見るに堪えない悲惨なものでしかなかった。
「…ルイス…」
ウィリアムはアルバートのいない空間で一人俯き、ルイスを想う。
無垢なルイスが美しい英国を生きるという理想の世界こそ、幼い頃からの夢だった。
ルイスを悪の道に引き摺り込んだのはウィリアムで、ルイスが望んだとはいえその手に命を乗せてしまったのもウィリアムだ。
ウィリアムが間違えてしまったからこそルイスも間違えてしまったのだから、それをやり直せるなら何だって差し出してみせる。
あのとき望んだことが現実になっているのだから逃す手はないと、ウィリアムは鏡を見ることなく決意を固めた。
ルイスがそばにいなくても、ルイスが生きているのならそれだけでウィリアムは満たされる。
悔いなく死ぬことが出来ると、そう確信しているウィリアムの表情はこの世の悲劇全てを知っているようだった。
(これで良い、これでルイスが何も思い出さなければ僕の理想は間違いなく叶う)
(ルイスが生きていればそれで良いから)
(だからどうか、僕を思い出さないで)
(君だけは光ある世界を堂々と生きていってね、ルイス)
(誰より愛しい、僕の弟)