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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

フランス革命の道23-スヘルデ川危機一髪

2021.06.04 10:49

1784年、オーストリアとオランダの間で問題が勃発した。アントウェルペン近くを流れて北海に注ぐスヘルデ川は、ライン川、セーヌ川と繋がり水運で重要な川だが、オランダは自由航行を拒んでいた。南ネーデルランドを統治する皇帝ヨーゼフ2世は、そこに強引に小船を運行して、オランダに砲撃された。

この「航行の自由」作戦で、墺軍は8万人の軍隊を動員し、オランダは、フランスに援助を求めた。皇帝はフランスに援軍を要請し、板挟みになったのがルイ16世とアントワネットである。彼女は、皇帝と墺大使メルシーにせっつかれて、故国側で動き、夫国王に要請した。

この結果、フランスは査察に軍を送り、オランダはオーストリアにこの事件の賠償金を支払った。しかしこの事件は、パリで格好の風刺の的となり、そこでは王妃を「オーストリア女」と呼び、以後、王妃の事件が起こるたびにこの名が繰り返されて定着してしまう。

スウェーデン伯爵フェルゼンは、アメリカから帰仏して、王室スウェーデン軍隊長になっていた。85年3月に王妃に次男が誕生したとき、フェルゼンの子との噂が立ち、パリ訪問も非常に冷たくあしらわれる。「いったい私があの人たちに何をしたというのでしょう」とアントワネットは嘆いた。