パライソの島
竹山和昭 著『パライソの島』風詠社 刊行!!
同郷の作家・竹山さんからご恵贈頂きました。世界遺産の教会がある野崎島から始まる五島列島の歴史物語。
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念願であった長崎県五島列島を巡る旅に出た二人。しかし、それは百五十年前、この地で多数の潜伏キリシタンが命を落とした苦難の歴史を追体験する旅でもあった。――慶応三年、野崎島から六名の若者が洗礼を受けるため、長崎の大浦天主堂へ船出した。しかし、進路を誤り遭難。幸運にも救助されトカラ列島で百日余を過ごし、五島への帰途に就く。幕府は倒れ、新たな時代が訪れると思われたが、新政府もキリシタン禁制を続け、弾圧の嵐が吹き荒れ、不気味な空気に支配されていた。五島でも信者達に凄まじい拷問が加えられていた。明治六年二月、政府よりキリシタン禁教の高札が撤去された。しかし、キリスト教が公認されるまでに、実に二百五十余年もの時間を要した。――私は眼下に広がる真っ白な砂浜を見ながら、百五十年前にこの地域一帯で吹き荒れたキリシタン弾圧下、まさにこの地で生まれ、そして死んでいった若者達の一生を思った。
https://kobecco.hpg.co.jp/34570/ 【海風の里に続く信仰の歴史を訪ねる 平戸・五島列島の旅】より
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 ユネスコ世界文化遺産登録決定
紺碧の海に浮かぶ常磐色の島。さざなみがラメを織りなす東シナ海の夕陽。
平戸から五島列島にかけての風景は、いつも清々しい。
そのフレームに優美な教会堂が収まると、南欧のような風情だ。日本でありながら日本的でない。そんな景観は旅人を惹きつけ感動を与えてくれるが、その陰には悲しい信仰の歴史がある。
世界遺産の歴史的背景
室町末期、ポルトガルから渡来したフランシスコ・ザビエルは鹿児島を経て平戸へやって来た。当時ここを治めていた松浦氏は、巨万の富を生む貿易と引き換えにキリスト教の布教を認め、重臣の籠手田氏、一部氏に改宗を命じ、両氏の知行地では庶民も一斉改宗した。
方や五島では領主がキリシタンの医師に病を治療してもらったことが縁で領地内の布教が許され、最盛期は2千人もの信徒がいたという。
しかしその後、領主の交代や方針転換、秀吉のバテレン追放令、江戸幕府の禁教令などでキリスト教は禁じられた。そんな中、一部の信心深い信徒は、神道や仏教への帰依を装いつつ隠れてキリスト教を貫いてきた。彼らを潜伏キリシタンという。
やがて明治になってもキリスト教の弾圧は続くどころか逆に苛烈になったが、その実情を知った欧米列強の圧力により禁教が解け、彼らは〝潜伏〟から脱することができた。
この歴史の中で多くのキリシタンが苦しみ、殉教し、まさに命がけで祈りの糸を紡いできた。その軌跡と奇跡が今日の世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に結び着いている。
魂が眠る平戸の聖地
平戸島の最高峰、大らかな山容を示す安満岳の西麓にある春日集落は、幾重にも折り重なるように棚田が広がり海へと続いている。ここはかつて籠手田氏の所領で、村人たちは熱心なキリシタンとなり、棚田を見渡す小高い丘、丸尾山には十字架が掲げられ、その尾根にはキリシタン墓地があった。しかし、禁教の時代になると弾圧で破壊されてしまった。
平戸島と生月島に挟まれた入江に浮かぶ小島、中江ノ島では禁教下の1622年、外国人神父の世話人だったヨハネ坂本とダミヤン出口が斬罪され、その後生月の船頭だったヨアキム川窪庫兵衛とヨハネ次郎右衛門も処された。殉教地であるのこの島の岩場で祈りのことば「オラショ」を唱えると清水が湧き出てきたという。現在も信者たちはその水を汲み、洗礼の聖水としている。
平戸の潜伏キリシタンは表面的に社寺と関係を保ちつつ、その陰で組織的に信仰を続け、洗礼を「お授け」などと称し、安満岳や中江ノ島などを聖地として崇敬し、代々信仰を受け継いだ。この祈りは生活の一部となり、近代に禁教が解けてもカトリックに復帰することなく、この地に根付き守られてきた信仰を続けている。これをカクレキリシタンという。
忠実に信仰を繋いできたためか、世界中で時代とともに聖歌が変容していった一方で、生月のオラショはグレゴリオ聖歌の古歌に近似しているなど信仰形態に禁教以前の形態を色濃く残すという。春日集落にオープンした拠点施設「かたりな」では、集落で継承されてきたカクレキリシタンの聖具(複製)が展示され、辛苦の歴史を偲ばせる。
五島列島に佇む教会堂
五島列島では江戸中期に大村藩と五島藩の政策で多くの移民が長崎本土の外海地域から渡来したが、その多くが潜伏キリシタンだった。彼らの多くは禁教が解けるとカトリックに戻り、祈りの場やコミュニティの核として教会堂を建てた。
新上五島町の中心、中通島の東部に伸びる半島の先に浮かぶ頭ヶ島は、かつて病人の療養地だった。人が寄りつかぬこの地に目をつけて、外海からの潜伏キリシタンがここに移住し、ひっそりと信仰を繋いだ。
そんな頭ヶ島の象徴、頭ヶ島天主堂は集落の沖にあるロクロ島から石工が切り出したものを信者たち自らが運び出し、約10年もの歳月をかけて大正8年(1919)に竣工した珍しい石造の教会堂。憚ることなく信仰できる喜びを表すように森に咲く椿を思わせる花をモチーフにしたデザインが随所あしらわれ、「花の御堂」とよばれている。
小値賀島の東に位置する野崎島はもともと神道の聖地だったが、ここにも外海から潜伏キリシタンが移住し、神社の氏子を隠れ蓑にキリシタン信仰を続け、やがて禁教が解け明治41年(1908)、澄み渡る海を望む高台に壮麗な教会堂を建てた。それが旧野首教会だ。
日本人の手によるはじめての煉瓦造の教会建築で、イギリス積みの煉瓦と和瓦の屋根の和洋折衷など建築史的にも貴重だ。西洋のお城のような愛らしいファサードと、ステンドグラスを通し入り込む光が厳かな室内のコントラストは神秘的で、どこか心落ち着く空気が漂っている。だが、この島に住民はいない。高度経済成長期に集団移住し、今は宿泊施設と管理人がいるだけで、鹿たちの楽園になっている。
野崎島では美しい教会堂を残したまま、島での暮らしと信仰は途絶えてしまった。一方の平戸でも、カクレキリシタン信仰が少子高齢化と過疎化の影響で今や風前の灯火だという。弾圧の時代に守り抜かれた信仰が、宗教の自由が保障された現代でピンチを迎えているとは皮肉な話だが、世界遺産登録で状況が好転することを願うばかりだ。
美しい風景や教会堂は、旅人をやさしく迎えてくれる。その根底にある、清らかな祈りの文化とともに…。
山岳信仰の対象であった安満岳。麓に広がる春日集落の棚田は今も変わらず
旧野首教会
頭ヶ島天主堂。全国でも珍しい石造りの教会堂
荘厳な外観とは対照的な内部の柔らかいデザイン
野崎島 旧野首教会
メモ
教会行事等により見学できない場合があるため、教会堂見学を希望の際は、各受付窓口のホームページから事前に連絡を。
●長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター
TEL.095-823-7650
●おぢかアイランドツーリズム(旧野首教会)
TEL.0959-56-2646
教会堂建築の巨匠鉄川 与助
頭ヶ島天主堂、旧野首教会とも、建築を手がけたのは新上五島町出身の大工棟梁、鉄川与助(1879~1976)だ。フランス人宣教師に教会堂建築の基礎を学び、独学でその技術を磨いて、30棟以上の教会堂を建てた。自身は仏教徒でありながら、キリシタンたちの辛苦に思いを寄せて仕事に励んだという。青砂ヶ浦天主堂や田平天主堂もまた彼の手による。