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富士の高嶺から見渡せば

「香港は死んだ」天安門事件から32年という現実

2021.06.05 12:28

「香港は死んだ」という言葉が、これほど身に染みて感じる日はかつてなかった。産経新聞の藤本欣也編集委員が「香港国家安全維持法」が施行された2020年7月1日に朝刊一面トップに黒抜き紙面で書いた記事のタイトルである。藤本氏は、この記事で「一国二制度の香港は死んだ」「これまで自由に中国や香港政府を批判し諷刺してきた香港の人々は口を閉ざし、仮面をかぶり始めた」と書いた。

それから一年、香港で毎年6月4日の前後、市民団体によって開催されてきた1989年天安門事件の追悼集会は、毎年会場となっているビクトリア公園が7000人の警察によって完全封鎖され、事件後32年にして初めて追悼集会が中止に追い込まれた。さらに『個人の名義でビクトリア公園に行って追悼する』とフェイスブックに書き込んだだけで主催団体の幹部2人が逮捕されたという。(産経新聞6/5「香港、追悼集会を阻止」)

1989年4月、北京で学生らによる民主化要求運動が始まり、天安門広場を占拠する学生らに対して戒厳令が発令された際には、香港の人たちは学生を支援するために大規模な街頭募金・カンパを行ない、香港市民の3人に一人にあたる200万人以上が街頭に出て抗議デモを行ったと言われるほど、中国の民主化を切実に願ったのは当時の香港市民だった。そして毎年6月4日の天安門事件追悼集会は、そうした香港市民の民主化への不屈の願いを象徴し、自由で公正な中国の将来を照らす微(かす)かな希望の光ともなっていた。しかし、それさえも香港国家安全維持法の施行によって、完全に吹き消されたのである。

来月7月は、中国共産党成立100周年だという。習近平指導部はそのために党批判につながる動きはすべて力づくで押さえつける方針のようだ。世界をパンデミックの坩堝(るつぼ)につき落とした武漢ウイルスの起源、その武漢で感染拡大が進む状況を外部に発信し続けた地元のジャーナリストたちの多くは今も行方不明となっている。1989年当時の若者たちには天安門事件の直前まで、声を上げて街をデモする自由があった一方で、それから32年、武漢ウイルスを経験した今の中国は、若者たちにそうした自由はいっさいなく、締め付けは強化され、人々は目配せするだけで声には出せない状況が続いているという。(NHKニュースウォッチ9「天安門事件から32年、コロナ禍のいまの中国で」 6/4放送)

100年前に、共産主義に夢を託し、中国共産党の成立に関わった人々が目指したのはそんな世界だったのだろうか。中国共産党は、この100年で中国の民衆に何を与え、何を残したというのだろうか。

ところで、32年前、天安門事件当時の中国の若者たちが、どういう状況におかれていたかを伝える現場からのリポートがある。「日本記者クラブ会報」という一般の人の目に触れるような文章ではなく、6月4日の惨劇が起きる前の天安門広場の実際の雰囲気を伝えているので、ここに再録したい。

<日本記者クラブ会報第232号(1989年6月10日発行)

ワーキングプレス「『天安門広場』張り番 熱いお茶に風邪薬も」小須田秀幸>

https://s3-us-west-2.amazonaws.com/jnpc-prd-public-oregon/files/1989/06/jnpc-b-198906.pdf

<学生らの掲げるプラカードに、「愛国無罪」のスローガンを見つけたのは、中ソ首脳会談の取材の最中だった。歴史的な”和解“となったゴルバチョフ・ソ連書記長の北京訪問は、学生運動によって外交儀礼上も極めて異例と言える程の日程の変更を迫られ、それを追いかけるわれわれ取材班の車も、デモ隊によってしばしば道をさえぎられた。「愛国無罪」という言葉には、「愛国運動であったならば何をしても許される」という雰囲気があり、文革当時、多くの若者を大規模な政治運動に走らせた「造反有理、革命無罪」の標語を彷彿とさせるものがあった。

二十年ぶりの中ソ首脳会談の意義を、鄧小平氏は「過去を終わらせ未来を開く」と表現した。しかしその直後、会談の立役者・鄧小平氏を見舞ったのは、街にあふれ出したデモ隊の「小平さがれ(下台)」の大合唱だった。

今回の首脳会談の取材で、北京を訪れた新聞、テレビの外国記者団は約九百人といわれる。それにタイミングを合わせたように沸き上がった現政権批判の街頭行動は、連日数十万規模に達した。プラカードやたれ幕には、「老害の独裁者」などとののしる最大級の侮蔑の言葉が溢れていた。多くの外国人記者には、十一億の人民を率いて壮大な離陸を図ろうとする「改革・開放の総設計士」鄧小平氏に対する意外な国内評価だった。

本筋の中ソ首脳会談の取材を離れ、多くの取材陣が街頭デモの取材に投入され、あくまでも「国内問題」だと突っぱねる中国側スポークスマンにも、学生運動に関する矢継ぎ早の質問が飛んだ。

首都北京に戒厳令――という異常事態に発展したのは、ほとんどの外国取材陣が帰り仕度に手を付ける前の出来事だった。世界の目が北京に集まり、史上空前の規模のマスコミを受け入れたその目の前での戒厳令発令は、中国指導部内での事態の切迫感を感じさせた。

天安門広場を占拠する学生を排除するため、人民解放軍が今にも北京に進駐するという緊張下で、外国記者たちの「天安門広場張り番」が始まった。広場全体を見渡せる人民英雄記念碑の周辺が、臨時の「記者席」となった。学生の指揮部の記者会見は、ここで随時行なわれ、学生を支持する中国国内記者や香港記者との情報交換の場ともなった。「小道消息(うわさ話)」の類も含め、学生たちが拡声器を使って広報する国内情報や香港情報は、ここが最も早かった。

「外国人記者の取材活動は一切禁止」という戒厳令布告にもかかわらず、学生とともに二十四時間居すわり続ける取材陣に、むしろ学生の方が身の安全を心配してくれた。戒厳軍が催涙弾を用意しているという情報が流れると記者たちにも布製のマスクが配られた。嵐のような風雨が広場を襲い、ずぶぬれにとなって寒さに震えていた時には、熱いお茶と風邪薬がわれわれの前に配られた。

学生たちが「真実は決して伝えない」とする中国マスコミへの反発は強い。新華社や中国中央テレビ局などで働くジャーナリストたちもこうした学生の声を真剣に受け止め、自ら「報道自由」を叫びデモに参加する姿が多く見られた。しかし、再び強まった「反自由化」キャンペーンの中で、デモに参加した記者たちの当局による摘発が始まっていると伝えられる。

天安門広場で見つけた壁新聞に「中国には十一億もの頭脳があるのに、数人の者しか考える能力がないとでもいうのか」という痛烈な鄧小平“人治”批判があった。政治から遠ざかろうとした「文革後遺症」も癒え、自ら考え、自ら政治にも発言し出した大衆の流れを、力による政策で押し止めることが出来るだろうか。(五月三十一日記)

(こすだ ひでゆき氏 1979年NHK入局 社会部等を経て 現在国際部記者)>

あれから32年が経過し、中国の民衆は自らの頭で考え、自らの考えに従って未来を決定できる力を得たのだろうか。中国という「祖国」の元に戻った香港の姿を見れば、その夢の実現ははるかに遠いことが分かる。自分たちの未来を決定できるのは、相変わらず十四億のトップに立つたった一人の人物であり、その人間にあまりにも権力が集中しすぎているために、その下のNo2・No3の人間でもトップの人間のいいなりにならざるを得ない。香港の若者たちが多数決という民主主義のルールに従い、香港立法会の議員を自由選挙で選び、いずれは行政長官という首長も住民の一人1票の選挙で選びたいと思っても、習近平一人の反対でそれは不可能となった。台湾への武力行使の危機が叫ばれているが、おそらく習近平の号令一つで台湾海峡の戦火の火蓋が切られることも可能だ。専制主義という独裁政権の怖さはそういうところにある。バイデン政権がいう「民主主義と専制主義の戦い」において、われわれは負けるわけにはいかないのである。