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ネタバレ感想「ダンサー・イン・ザ・ダーク」

2021.06.06 07:32

 既に数ヶ月前に1日で2回観たのに、今回感想を書きたいがためにもう一度観ました。めっちゃマイナスメンタルだったのが、更にマイナスを掛け合わせることで、私にとってはプラスになるというお手軽雑魚メンタルでっす!


 とりあえずネタバレの前に、私の感想(超絶簡易型)を書きます。

 めっちゃイイ。めっちゃ鬱になれる。寝ても覚めても考えちゃうラスト。

 何がいいって、私ミュージカル映画好きなんですけど、このミュージカル映画は本当に特別、別格だと思います。いや。映画歴浅いから、もしかしたらもっとすごいミュージカル映画とかあるんだとは思ってますけれど。私の中では史上最高。幸福と不幸の架け橋なんです、ミュージカルシーンが。とにかく素敵で、とにかく主人公の歌唱力に胸打たれて、とにかく頭の中で響いて仕方がなくなる、不意に口ずさみそうになる、とにかくクレイジーでクレーバーで、そして、ドン底の底も覗かされてしまうミュージカル。そんなミュージカル映画、想像できます? 私のお気に入り映画のトップ3に入る映画です。あの「ミッドサマー」と同じくらい好きです。何度でも観れる、ホラーなシーンがないという意味では、「ミッドサマー」よりもハマってるのかもしれない。

 激鬱映画として有名な(?)この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」、観てすぐには来ないんですよ、じわじわ来るんです、鬱の気配が。自分が少しずつ形をなくしていきそうなほどに衝撃的な鬱の波に、あ、と思ったときにはもう飲み込まれている。そんな暗さがあると思ってます。

 1回目は夜中に1人で、2回目は夫と一緒にその日の昼間に、そして3回目はたった今1人で。何度観ても飽きません、私はね。そして毎回、観た数時間あとからじわりじわりと効いてくるので、精神が不安定なときには観ない方がいい人もいるかもしれないけれど、私は敢えて観ました。最高に鬱ってて幸せです←


 この映画をどうしても勧めたい、と思ったら、どこが売りかなって考えてみたけれど、やっぱり主人公の人の歌唱力とミュージカルシーンの完成度の高さかな。内容もめっちゃオススメしたいけれど、それだとネタバレ厳禁厨なお仲間には怒られるかもしれないので(笑)、敢えて内容に触れずに紹介するとしたら、そこかな、と思った感じ。歌が上手いとかのレベルじゃないんだよね、主人公さんが。歌手らしい。めっちゃアルバム欲しいっす。あと映画のサントラも欲しいっす。

 あと勧められるとしたら、映画が終わりに向かうにつれて、辛いはずの現実(映画内のストーリー)と比較して、どんどん幸せなミュージカルシーンになっていく、対比を勧めたい。

 あとあと、割とドキュメンタリー風な撮り方をしてるところもいいと思います。ちょっと古い映画かなって思うくらいに、画質が荒いんだけど、それもまた、雰囲気作りの一員として素晴らしい仕事をしているんじゃないかな、なんて勝手に思ってます。

 あとはもう絶対にラストへ向かうその過程が、本当に本当に、観てる側はもどかしくてもどかしくて仕方ないのではないかと思う。そのもどかしさを噛み締めたい。噛み締めた人と握手したい。賛否両論になったというこのラスト、私は寧ろ「足りねえな!!!!!!」と思った側なので、本当に本当に、この映画好きな人と語り尽くしたい。


 と、いうのが無理なのは承知なので、私は前回の「ミッドサマー」同様に好き勝手感想を殴っていくよ!! まだ観てない人はネタバレも多分書いてしまうから、回れ右をしてください!!!





●主人公への第一印象

 ジャケットから、そして始まりからしばらく、10代の女の子かと思ってた。そしたらなんとビックリ、息子が登場して、この主人公のセルマが母親だって分かる。そこでまず最初の「えええっ!?」を味わった私。前情報何も知らないって恐ろしい。けど楽しい。

 セルマが母親だということで私の中で共感度がアップしました。しかも彼女はシングルマザー。めっちゃ苦労人だってのはなんとなくもう最初の辺りで分かってくるから、より応援したくなる、というか支えたくなる、非常に危うくて脆そうな人だと思えてくる。しかもそれって私(観てる側)だけじゃなくて、登場人物たちも多分同じように思ってると思う。セルマのために、いろんな人が優しくしてくれる。それをセルマは当然だなんて思わず、どこまでの慎ましやかなのだ。誰もあなたを放っておかないよセルマ!!って感じに、周りの親切や優しさ、同情もあるのかな、そういうものでセルマはどんど着ぐるみみたいに着膨れして、動けなくなっていく。

 というのも、「小さな親切、大きなお世話」みたいな言葉があると思うんだけど、セルマは多分、みんなの親切をきちんと受け止めていかない節がある。お前は私か、って思ったぐらいに。

 親切にされたら「ありがとう」と受け入れはするセルマ。でも大抵のことは「でも大丈夫」と断っていく。押されたら倒れそうな脆さの中に、謎の1本の芯があって、その芯を曲げてしまいそうな事柄については絶対に受け取ろうともしない、受け入れようともしない。それは全て「息子」に関わる時だったように思う。

 とにかく息子に関することについては物凄く頑固なセルマ。その気持ちも分からんでもない。何せ10年前〜3年前までの私はそうだったからだ。

 「自分が勝手に産んだんだから、自分でやらなきゃ駄目だ」

 そんな風にずっと思っていた。周りの優しい助言も親切の心も、私には必要ない。私には私のやり方で子供たちを幸せにする義務がある。だから手は借りない、借りたくない、借りられない。でもそんなやり方では自分を追い詰めていくだけっていうのも十二分に学んだことで、今の私は前よりかはかなり柔軟に、他者からの意見やアドバイス、直接的な支援やサービスなども借りて奮闘しているだけ。私とセルマの違いなんて、未来の有無でしかないだけだ。

 セルマは人々の優しさに反して、秘密を貫こうとした。秘密もまた、息子に関わる、重要な事柄だったから。それをもっと最後まで貫けていたら、こんな悲惨な人生にならずに済んだのかもしれないけれど、それじゃ鬱映画にはならないから仕方がないか。


●隠したままでよかった秘密

 セルマは優しくしてくれてる周囲の人間に、絶対に貫きたい秘密のために少しずつ嘘をついて回っていた。父親へ送金するだとか、父親の名前だとか、工場で働くための視力検査とか、妄想癖とか、貯蓄の額と場所とか、本当は大好きなミュージカルを辞めるための口実とか。小さな嘘はどんどん膨らんでって、セルマ1人ではもうどうにもならないような事態にまで陥っていく。貫きたかった秘密もバレて、それでも守りたいのはたった1人の息子だけ。自分の命が尽きるその瞬間まで願う、息子の将来と、そこにあるはずの幸福だけを祈る。そんな母親の姿に、胸打たれる人もいたし、身勝手だと憤る人もいたのだろうと私は両者の意見を理解した。

 私はどちらでもあり、どちらでもない。そんな立ち位置にいる。セルマを肯定すると今後の我が子たちの人生が不安になり、セルマを否定すると現在の自分の試行錯誤な育児に不安になる。ただ1つ思うのは、「嘘をつくなら徹底的に嘘をついて真実にまで押し上げろ」ということと、そして「中途半端な優しさと同情心が他人も自分も破滅に導いた」ということだ。

 普通の人生の中でも、人間は嘘をつくし、隠し事もする。それは自分のためであったり、家族のためであったり、目の前にいる誰かのためだったりするけど、みんなそれを墓場まで持ってく覚悟がなくて、しかも打ち明けた後の責任を取る覚悟や勇気もないってことを常々感じている。誰もそこまで深く考えないで、飄々と嘘をつき、隠し事をし、中途半端に打ち明けて、そして、裏切られて傷ついて、傷つけて、結局残るのは無様な自分と相手の「感情の死骸」だけ。感情が死ぬと判断力も鈍るから、何度でも同じように裏切られて傷つけられて、傷つけて、死骸を量産していく。これは過去の私の経験から、山のように積み上がった死骸たちを眺めながら文字にしているのだけど、本当に愚かなことでしかない。

 弱さを見せつけ合っても、相手が自分と同じように秘密を保持してくれる保証なんてないのに。しかもそれを利用するかもしれないという疑念すら抱かない。全く、どこまで馬鹿になればいいのか、私は自分にもセルマにも苛立った。舐めんな人生。舐めんな人間。人間なんて結局信じてはいけないのだ。

 それでも信じてしまうのは、信じたくなってしまうのは、自分もまた、どうしようもない人間でしかないからだ。


 とにかくセルマは、敷地内のトレーラーハウスを貸してくれるビルに、妻の浪費で金が尽きそうだ、これでは妻は離れていってしまう、という旨の弱音を聞かされてしまって、同情心から、私も秘密を告白するから、なんて言って、自分はそのうち失明することと息子もまたいずれ失明する未来であること、そのための息子の手術費を貯めている、などという、金はないと嘆いている人間に一番話してはいけない「貯蓄」の話をしてしまう。ああああああああ。しかも、トレーラーハウスを映しているシーンが挟まれ、ビルの自宅の窓には……という、ちょっと「ヒッ」となるシーンも挟まって、これもまたちゃんと伏線になっていたのが感動した、というのは余談かもしれない。

 余談ついでに、このビルとの対談シーンで、セルマが「最後から2番目の歌が始まったら映画館を出るの、そしたら永遠に映画は続くでしょ」「アップになって上にカメラが上がっていったらガッカリ」みたいな発言をするのだけど、これもちゃんとラストの伏線となっていたのに本当に感激した。


●転がっていく不幸の連鎖

 セルマの周りの人物はそれぞれが思惑は違えど、移民でありシングルマザーであるセルマに優しくあろうとした。特にキャシーとジェフは、親族か?と思うほどよくしてくれるが、それをセルマはいつも1歩下がって受け止める=大きなお世話が多くなっていく。ビルもビルで、キャシーもキャシーで、医師は医師で、上司は上司で、それぞれセルマによくはしてくれる、が、セルマにとって彼らはあくまでも「住む場所を提供してくれている恩人」や「職を支えてくれる恩人」なので、迷惑をかけないようにと3歩ぐらい下がっているような接し方をしていたように思える=セルマは利害のある優しさでしかないと判断しているのではないかと推測する。根拠は、私ならそう思うから。

 優しさには裏がある。それは世の常だ。無償の愛なんて存在しない。するとしたら、出会う確率低すぎる問題を解決しなければならない。息子に自転車を買ってくれたみんなに囲まれて、複雑そうに笑うセルマはとても印象的だった。ありがとうもぎこちなく、受け取れないと強く訴えることもできない。だって、「息子、めっちゃ喜んでんだもん」。普段の何百倍も、嬉しそうな息子。そうさせたのはあくまでもセルマではない。セルマは息子をこんなに喜ばせたことはきっとなかったのではないか。初めて、息子が無邪気に喜ぶ姿を目の当たりにしたのではないだろうか。

 これが、セルマの不幸の始まりだったのではないか、と、私は思っている。それはなぜかって?

 ああ、私がいなくても、息子、幸せになれそう、って思っちゃったから。(多分)


●善意と悪意、好意と嫌悪に振り回されていく

 兎にも角にも、善意は悪意に染まり、好意は嫌悪に変化し、全てがセルマにとって都合の悪い方へと進んでいく。淡々と、でも、刻々と。その過程は本当にもどかしい。そのもどかしさを上書きするように、セルマもどんどん意固地になっていく。

 自分がどうなってもいい。ただ息子の未来が明るければそれでいい。

 その願い、どうなん?ってキャシーもジェフも止めようとしたけれど、止められたら止められた分、セルマから発せられる言葉はキャシーもジェフも傷つける言葉になっていく。お互いが手の届かぬところで傷付け合い、そして、待っているのは破滅のみ。だったのに、なぜか看守の女性までセルマには優しい。どこまでいっても守られる形になるセルマ。ちょっと羨ましくもあり、そうさせる「何か」が私にはないことを残念に思いつつ、ちょっとホッとする。底無しに優しくされたらきっと、その優しさに溺れて死ぬと思う、私は。

 どんどんどんどん辛くなっていくストーリーに対し、ミュージカルシーンの本当に幸福なこと。もうね、その対比が逆に辛いのよ。超幸福な夢を見ていて、目が覚めて、ああ、夢だったんだ、ってガッカリしちゃう感じが何度も繰り返される。見ていてお腹が痛くなるような絶望感のオンパレード。上げて落としての図式が素晴らしすぎる。ミュージカルシーンのセルマが本当に幸福そうで、美しく輝いて見えて、そして、まるで少女のように無垢で。だから現実に引き戻されたセルマを直視できない人も多かったのではないか、なんて思った。

 いやいや待ってよ。現実辛いのは多分、我々も一緒やん、と私は言いたいけれどもね。私だって脳内はいつでもパーリナイしてるもんね!

 投獄されて、電話越しに会話するキャシーとジェフへの当たりがきつくなっていくのが私はちょっと辛くて、でもめっちゃ共感してしまった。特に息子の話題になるとめちゃくちゃ拒絶してた部分とか。そして一番は「なぜ息子を産んだのか」という問いに対する答えで、私はもう吐きそうになった。

「赤ちゃんを抱いてみたかったのよ」

 これ。まさにこれ。

 私自身、小学生の頃から、どうもまともじゃなさそうな(的な自覚はちょっとだけあった。本当にちょっとだけ。)自分の家から早く飛び出して、結婚はせずに子供だけ欲しい、と思っていたクチだったから。「自分の赤ちゃんを抱いて、本当にお母さんみたいになるのか、ならないのか、検証してみたい」という感情を持ってる小学生。今から考えたらキショいしなんかやだなって思うけど、でも、私が思ってた、「なんで子供を産んだの」に対する最もシンプルな答えが、セルマの一言だった。

 でも、セルマにとっては視力、私にとっては愛情そのものが、遺伝的に欠落するのは分かっていて産んだ子供。それに対する責任の取り方って、セルマにとっては息子の視力をどうにかすることで、私にとっては負の連鎖を断ち切ることで、おそらく考えていることは一緒だと思う。

 自分にとっての幸福は望んでない。望むなんて図々しい。それよりも子供を幸せにするしかない。私の生きる理由は全てそこにあるから。だから無償の愛なんかではない。これはだたのエゴだ。このエゴを裁けるのは、子供、張本人だけだ。

 愛してるなんて、そんなこと直接言えもしない、不器用な母親の精一杯の謝罪と決意があのラストになったのだと思うし、それでもまだ生ぬるいと私は思った。子供に嫌われて絶望の中でのあのラストの方が虚しさ大爆発で寧ろハッピーだろうがよおおお、というマイルドヤンキー私がいます。


 監督や出演者のインタビュー記事のまとめみたいな中に、「本当は、息子の手術も失敗したと知らされ、絶望しながら絞首刑になる、という結末だったが、あまりにも可哀想すぎると主人公役の人が猛反対したから、辛うじて手術は成功した、という知らせを入れることになった」みたいなのがあって、私は絶対最初の案でよかったのに、と思ったんです、はい。だから監督の人、めっちゃ友達になれると思った。他の作品も観てみたい。けど、なんか調べた感じ、苦手なもの(ジャンル)みたいな気がするのでまだ踏み込んでません。

 ちょっと戻って。人生なんて絶望の連続でしかない。徹底的に絶望するラストを見せてよ。という批判(?)はあるけど、私はこの映画大好きで。しかもちゃんと、ラストの絞首刑シーンをあそこまでぼかさずに、そして、「終わりから2番目の歌」で締めて、上にカメラが上がってエンドロールになる、という伏線回収もバッチリすぎて、それで感動して、噛み締めながら、映画の感想とか探して1時間ぐらいして涙が止まらなくなったのが、1回目の視聴後の私。その感覚は3回目視聴後の今も変わらない。もっと絶望に叩きつけて終わってほしかった、という意見は変わらず、それでもこの作品が大好きすぎて、残りの人生で何度観るかなあ、とまだまだ熱が冷めません。


●母親、という怪物

 監督の母親の話もそのときについでに読んだのだけど、母親と上手くいかなかった点が「ミッドサマー」のアリ・アスター監督とも、そして私とも共通点だと思って、やっぱりそういう人間の描く「人間の醜い感情」って生々しくて、吐きそうなくらい、私は好きなのかもしれない。

 生々しさは現実味があって、これが物語であることを忘れそうになる。私もそういうものが書きたいなって思ってしまった。私の目標が「ミッドサマー」と「ダンサー・イン・ザ・ダーク」に設定されてしまった瞬間が1度目の視聴後だったから。

 母親、ってなんだろうな、って毎日考える。自分ももちろん母親だけども、自分の母親、さらにその母親である祖母や、その母であるひい祖母なんかにも思いを馳せる。うちの家系は本当に親子間の関係が悪くなりやすく、そしてそれが兄弟や姉妹にも影響している。まさに毒の家系。それを断ち切ろうとした人間がうちの親族の中にいるのかどうかは分からない。知りたくもないけど、私の予想では、おそらく、誰も取り組もうともしてない。寧ろ気づいてもいないのかもしれない。恐ろしいことだと思う。夫の家系もまた毒の家系なので、私たちがここで食い止めないと、という責任感を今夫にも感じてもらっている最中、そして、ようやく夫婦で奮闘できている途中だ。

 もし、負の連鎖が断ち切れた未来に、この映画を見たら、もっと批判的な気持ちになるのかもしれない。母親なら無責任に死刑になるなよ!みたいなさ、そんな、どこから目線なん?って言いたくなるような意見も抱くのかもしれない。

 母親という生き物は、父親よりも怪物感がある。私の中では。うちの場合、父の方が普段の存在感は希薄で、酔って暴れるときだけやばい人間だったからかもしれないけれど。母親、というか、やっぱり、「女」という生き物が怪物っぽいのかもしれない。

 自分も戸籍上も、生物学的にも、性自認的にも、女ではあるけれど、私は「自分が女である」という事実も嫌悪してるので、それも余計に女が化け物っぽいと思う理由かもしれない。女は嘘をつくのも相手を騙すのも自分を偽るのも、男よりも上手いという印象がある。なぜなんだろう。秘密を抱えて生きてる人が多いからかな。しかも、超特大な爆弾みたいな秘密を抱えてるイメージ。裏と表が全く違う生き物。それが女。みたいな。そんなことないよ!っていう純粋な女性もいるけれど、でも大抵女は何か隠して、それを切り札にして生きてる感じ、ある。それが情報だったり、感情だったり、事象だったり、種類は様々なだけで、そして、そういう女の方が、イキイキとしてたり、美しかったり、儚げだったりする。守ってあげたくなるような憂いを纏って、そして懐の毒で仕留める。自然界でも雌の方が強いことは多い。それは子孫を直接産み落とすための強さにも繋がっているのかもしれない。

 つまり、やっぱりセルマは切り札の秘密を明かしてはならなかったのだ。そこに限る。でもそれじゃ不幸にはならないし、破滅もしないから、そこは映画上避けられない過程でもあって、どうしてもそこを論じるのは難しい。なので、実生活に、そして今後の人生への教訓としておくのがいいのかもしれない。秘密を打ち明けられても自分の切り札は見せてはならない。過去の私がわんわん泣きそうだ。


●結末が賛否両論なのはなぜか

 それはもう、単純に、死刑を免れる方法があったのに、それを蹴って自ら破滅したのが、母親だったから、ではなかろうか。これが独身女性だったらまだ批判は少なかったかもしれない。誰もが「理想の母親像」を持っていて、それはきっと聖母じみていて、それゆえに、セルマはそこから駆け離れてしまった「母親」だったから、ではないのか。「母親とは子を優先するべき」だとか、「母親が殺人者になってしまったその後の息子の人生に対して無責任だ」とか、とにかく『自身が死んだ後に対する無責任さ』にスポットライトが当てられていたように思う。

 私もそれは分かる。分かるけど、命をかけて産んだ我が子が、自分のせいで請け負ってしまった失明という運命から守るための究極の選択が、自分の死刑なんだから、そういう意味ではきちんと責任を果たしたとも言えるのではないかと思っている派だ。たまたま流れて流れてそうなった挙句に選ばなければならなかったのが、息子の視力か自分の命の延命かだっただけで、そんなん母親なら、息子の視力選んじゃうでしょう。

 でも、その、映画の後があると仮定した時に、たとえ、視力を失わなくて済んでも、彼は母を失い、母の名誉すら奪われて、犯罪者の息子として生きていく。身寄りのないのも劇中から分かっている。なら、一人息子を置いて旅立ってはダメだろ、どうにか寄り添って生きる道はなかったのか、という憤りにも近い批判が生まれるのも理解できてしまう。キャシーとジェフはきっと献身的に支えてくれるだろう、セルマと息子のジーンのことを。でも、きっとそれは『セルマの望む形の幸せ』ではないのだと思った。冒頭にも書いた通り、責任感が強くて、頼る選択肢すら持っていないセルマは、自分のことは誰かの足を引っ張る存在として生きてきたと思われる。職すらなくなり、息子の手術費用で所持金もなくなり、仕方がなかったとはいえ殺人まで犯してしまった相手をトレーラーハウスにいつまでも住まわせてはくれないだろう、そうなると住所すらなくなって、そして、ここが一番セルマにとって重要だと思うのは、「視力も無くなった」ということだと思う。視力さえあれば、どんなに地獄のような環境でだって生き抜くことはできたかもしれない。それが無くなったのは、セルマにとって、きっと地獄に落ちることより辛いことだったに違いない。そんな状態で、誰かの荷物になって息子と生きるより、1人先に死ぬことで、息子の視力と未来を守った。そんな結論を選んでしまうぐらい、選ぶことしかできなかったぐらい、セルマにとっての視力とは「生きること」に直結したものだったのではないだろうか。


 劇中の歌詞に、「I’ve seen it all」という曲があって、その歌詞が私の心にしがみついて離れない。


『私は全て見てきた』『もう他に見るべきものなんてないのよ』『本当にもう興味なんてないのよ』『私は全てを見てきた、暗闇を見てきた』『これ以上求めるなんてわがままというもの』『私は自分の過去も見てきた』『これから先もどうなるのか分かっている』『これ以上見るものなんてないの』


 そんな感じの歌詞。セルマに心寄せているジェフとのデュエットなのだけど、優しく見守りながら「本当に?こんな光景は見たことないだろう?見たくないのかい?」と問う歌詞に、拒否を表明する歌になっている。

 これが私には響いて仕方がない。これを歌ってる時のセルマの表情が、穏やかでありながら、どこか仄暗く、まだ未練があって、それを自分に言い聞かせるために歌ってる、そんな印象がある。私もそういう風に「自分は今幸せだ、これ以上の幸せなんて望んではいけない」なんて自分に言い聞かせてる毎日であって、だからこそ、全ての劇中歌の中で一番刺さっているのかもしれない。


●セルマ、という女性であり母親であり、そして、人間としての彼女の人生

 人生なんて絶望の連続で、時々ちょっとご褒美があって、それでも歯を食いしばって生き抜くためには足りないものばかりで、人生ハードモード超えて、ウルトラスーパースペシャルハードモード、みたいな映画な訳ですが、私の人生はそれに近いという感覚を持っているが故に拒絶できず、ずっとこの映画について考えてしまうのかもしれない。

 ラストの絞首刑になる前に、数字のカウントだけで進むミュージカルもまた、この後死ぬのを忘れてしまうぐらいのめり込まされる歌唱力と、セルマの無邪気な笑顔で、107歩目に辿り着いた時のシーンの切り替え方がうますぎて、本当に息が一瞬止まったものだ。何回目でもあれは息が止まると思う。最後から2番目の歌も、何度でも、ビクッとして、呆然として、ラストソングのエンドロールで虚しさが大爆発して、放心する。私は3回ともなっている。

 人生、という意味では転がり続けてこれでもかと降り掛かる不幸のどん底から、息子だけを死守したセルマは合格、花丸なのではないだろうか。でもこれは映画だから言えることで、現実はこの後も他の人の人生と共に続くのだから、メリーバッドエンド、といったところだろうか。セルマはきっと超ハッピーに死ねたのだと思う。羨ましい。おっと、失礼した。でも本音だ。

 死んだ後のことも考えてしまって、踏み出せない私からすると、究極の選択の中で死刑を選べたセルマは幸せに思う。息子を思うと途端にバカヤロー!と言いたくなる。映画ってこれだから面白い。

 私の人生はこれからどんな道を辿って、死に向かうだろう。そこに幸福が詰まっていたら、どうしよう。幸福になんかなりたくないって思考が今はまだ止まない。せめて子供たちが全員1人で生きていけるようになるまでは、と思っているけど、そこから先にビジョンは何もない。生きる理由が子供たちの無事と幸福だけの今、私は自分の未来に希望を持つことがまだできない。そこに夫はいつまで寄り添ってくれるのかも分からない。どちらかが突然死んでしまうこともあるかもしれない。子供だっていつ事故や事件に遭うかも分からない。私たちの未来は、その時、が来ないと分からない。不透明で、不安定で、それでも何かに向かって走ることが前提とされていて、とても理不尽だ。

 その点セルマは目標(息子の視力を守る)をクリアできて、本当に幸福だろうと思う。私は、どうだろう、子供の幸福をちゃんと喜べるだろうか。常にそれが不安材料だ。私は「親」としてまだまだ未熟だから。セルマのように達観もできてないし、自分の人生の行き先も未定だから。せめて。せめて愛情だけでも、と思っていても、子と衝突してばかりの毎日は私の精神状態に悪影響している。それでも親を辞める訳にはいかない。現実とは本当に残酷なものだ。


 残酷な現実、直視したくない現実を目の前にして、私は鬱になる映画を見て、安心したりもっともっと絶望させて欲しいと思ったりする。

 きっと、現実を上回る絶望で心を満たして、それに比べたら現実なんて生ぬるいぜ!なんて思いたいからかもしれない。感想を書き殴って、如何に自分の琴線に触れたのか語りながら、自分や自分の周りの再確認をしたいのかもしれない。


 それにしても映画の感想って、なんかどこかズレてるものが多いなあ、と思うことが多い。意見が違うっていうのもあるけど、同じ肯定派の中でも、私の捉え方とは違うなあと思う。見えてる世界が違うから当然なのかもしれないけれど、同じ気持ちの人がいる〜!!という感激をあまりしていなくて、ちょっとだけ残念だ。私の感覚に近い人なら同じ感情になってくれるのかな。


 追記。夫と意見の一致した部分は「ハッピーエンドだったねー」でした。食い違ったのは、母親の無償の愛だといったのが夫、母親のキモいエゴだって言ったのが私、という点で、お互い、なるほどーって感じで、私にとっての2回目の視聴後、結局、昼食を挟んで2、3時間、この映画について語ってたのは今思い出してもじわじわきますw

 また心に残る作品に出会ったら、感想書き殴りたいなって思います。以上!