「大航海時代の日本」14 秀吉「バテレン追放令」③「日本二十六聖人」
秀吉は南蛮貿易の実利を重視したので、よほどおおっぴらな布教活動をしない限りは、宣教師たちが日本に留まることを黙認していた。しかしフィリピンからやって来たペドロ・バプチスタらフランシスコ会の宣教師たちは、京都に新しい教会を建て、1594年10月からは堂々と説教を始めた。豊臣政権で寺社の管理などを任されていた前田玄以(かつて僧侶だった関係から当初キリシタンには弾圧を行っていたが、後年には理解を示し、秘密裏に京都でキリシタンを保護。息子2人はキリシタンになっている。)は、何度もフランシスコ会の布教を中止させようとしたが、彼らは一向に応じようとしなかった。それどころか、マニラの本部に要請してさらに3人の宣教師を増員させ、京都だけでなく大坂と長崎にも教会を建てて信者を急激に増やすことに成功している。
一方、バテレン追放令以降、大っぴらな布教活動ができなくなっていたイエズス会は、フランシスコ会の布教活動拡大を苦々しく思っていた。イエズス会は、1585年にローマ教皇グレゴリウス13世が発布したフランシスコ会の日本渡航禁止令を持ち出して抗議したが、フランシスコ会は「自分たちは宗教伝道者として日本に来たのではない。フィリピン総督の使節としてきたのである」とうそぶき、依然としてはばかることなく布教に従事した。1586年末、ローマ教皇シスト5世が、フランシスコ会にアジア・シナの各地で修道院を開く許可を与えたことも彼らを後押しした。1595年には8千人もの日本人がフランシスコ会に洗礼を申し出たとされる。しかし、このようなフランシスコ会の都における傍若無人の布教ぶりを秀吉が黙って見逃すはずはない。「サン・フェリペ号事件」とともに、急転直下迫害を招き寄せることになる。
1596年10月19日、マニラからメキシコのアカプルコへ赴くはずのスペイン船サン・フェリペ号が台風のために土佐国の浦戸に漂着した。船には130万ペソにのぼる大量の貨物(上々繻子5万反、唐木綿26万反、生糸16万斤等)が積まれていた。秀吉は長宗我部元親からこのことを聞くと、積荷を没収することに決め、現地に増田長盛を派遣した。増田は積荷をすべて大坂へ廻漕せしめただけでなく、乗員233名の所持金2万5000ペソも没収した。これだけでも災難であるのに、12月8日復命した増田は、秀吉に、浦戸で事情聴取した結果、スペインは宣教師を先兵として送り込んで侵略の足掛かりとすることで、今日のような広大な植民地を獲得したことがわかったと告げた。激怒した秀吉は都と大坂の宣教師をことごとく逮捕せよと命じ、改めてバテレン追放令を再交付させた。
宣教師逮捕の命を受けたのは石田三成。彼は、イエズス会に同情を持っていた。12月12日、光成が秀吉にすべてのパードレを逮捕するのかと念を押すと、秀吉は自分が腹を立てているのは、都で布教してこの国を覆そうとしている新来のバテレンどもに対してである、長崎のパードレたちは自分の命に従っており、何も咎めることはないと述べた。こうしてイエズス会は弾圧の対象から除外された。逮捕されたのはバプチスタ以下フランシスコ会士6名、イエズス会関係3名(名簿作成上の手違いによるもの)、日本人信者15名、計24名。
24人を処刑すると決めた秀吉は、見せしめのために耳と鼻を削ぎ、町々を引き回せと命じる。1597年1月3日、牢から出された24人は京都の上京一条の辻で左耳たぶのみを切られた。サン・フェリペ号船長ランデチョからの懇願もあって、石田三成が左耳たぶを切るように申し渡していたからだ。秀吉が処刑地を長崎に決めたのはなぜか。禁教令にもかかわらず、長崎に多く住むキリシタンへの警告のためだったようだ。また、約1か月もかけてキリシタンたちを歩かせたのも、秀吉のキリスト教に対する考えを人々へ知らせるためだった。長崎へ送られる旅の途中、両修道会がつけた世話人各1名もまた、途中で捕縛されたので、計26名が翌97年2月5日、長崎で磔刑に処せられた。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになる。
「二十六聖人記念碑」長崎
「二十六聖人殉教図」大浦天主堂
「大浦天主堂」 (正式名称)「日本二十六聖殉教者聖堂」
1862年6月8日、ローマで盛大に行われた26聖人の列聖式の様子を表した挿絵