カンブリア紀の地層
https://www.driveplaza.com/trip/michinohosomichi/ver61/ 【日本列島の歴史は日立の地面から始まった?!カンブリア紀地層の5億年の旅を解き明かす】 より
茨城県日立市
我々がいま立っている、この日本列島は、いったい、いつ、どのようにして誕生したのだろうか?46億年という長い地球の歴史のなかの、たった5億年前から、この大地は姿を表した。そしてその痕跡が、日本に残っているただ一つの場所がある。それが茨城県日立市周辺だ。日立の5億年前の地層をたどりながら、その秘密に迫る。
#1 プロローグ 雲母のかけら
御岩神社を流れる沢の石はみな5億年前のものだ
ここに小さな石のかけらがある。太陽にかざして見ると、断面がキラキラしているのがわかる。
「ここにある石はみんな、5億年前の石ですよ」といって、田切先生が神社の中を流れる沢の岩をハンマーでちょっと叩いて、割り出してくれたものだ。
断面のきらきらした粒は、雲母だ。宇宙から写真を撮ると、この雲母のせいで、この土地は光って写るそうだ。
だからこの場所は、今はやりの「パワースポット」として人気があるのだ、と田切先生が笑って教えてくれた。
私たちは今、茨城県日立市にある御岩神社にいる。ここ御岩神社の地面、そして日立市の地面の広い範囲は多賀山地と呼ばれており、5億年前のカンブリア紀の地層から成り立っている。この古い岩の連なりは、およそ60k㎡にも及ぶ。
そして5億年前の地層は、日本ではこの日立市周辺にかけてしか、未だ発見されていない。茨城県を除くと4億年前のオルドビス紀までの地層しか日本にはない。つまりここ日立市周辺が、いま分かっている限りでは、日本最古の地層がある場所なのだ。
カンブリア紀といえば、いわゆる古生代、今から約5億4千万年前までさかのぼる。人類はもちろんのこと、恐竜が闊歩する中生代より、ずっと前の時代であり、そのころの地球の全容は未だ謎に満ちている。そしてこの岩の連なりは、かつて存在したゴンドワナ超大陸(過去に存在したと考えられている超大陸。現存するいくつかの大陸や島が含まれる)の東の端に位置し、長い時間をかけて日本の、現在の日立へとたどり着いたと考えられている。
そのはるか5億年前にできた地面が、神社の中に、または山の上に、あるいは町の公園の中にと、日立市の各所で見ることができるのだ。
5億年も旅をしてきただけあって、これらの石にはいくつか特徴がある。その一つが表面にシワのようなものがあること。これは5億年の間に、石が何度も変形を受けてきた証拠だ。
石にシワができるほどの、その長い長い旅は、いったいどんなものだったのだろうか?それが知りたくて、私はこの日本最古のカンブリア紀地層の発見者であり、地質学者の田切美智雄先生のところへと、話を聞きに日立市へと来たのであった。
地質学者のマザーフィールド「日立」
地質学者の田切美智雄茨城大学名誉教授。
冬のある朝、日立市郷土博物館へと訪れると、田切先生は、にこやかに私を出迎えてくれた。ここは日立に関わる考古、歴史、民俗、美術などの資料を保存、研究し、展示する博物館だ。特に日本有数の銅山と共に科学技術の町として発展してきた日立市の歴史資料には、みどころが多い。
茨城大学の名誉教授である田切先生は、ここの特別専門員として、この地域の地質、特に日立のカンブリア紀の地層の研究をしているのだ。
「研究者の用語で《マザーフィールド》という言葉があります」
博物館の奥の部屋で、先生はまず、こう口火を切った。
マザーフィールドとは「自分を育ててくれた場所」であり、つまり学者にとって、その研究のテーマとなる場所のことだ。
田切先生は昭和20年、茨城県日立市本山に生まれた。本山といえば、今では知る人も少なくなったが、日立鉱山がある山の中に忽然と現れ、当時先端の文化を誇った鉱山の町であった。日本の産業史に燦然と輝く大銅山、日立鉱山。その繁栄と共に本山の町は発展し、往時は1万人以上もの人々が住んでいた。鉱山で働く人々のために、当時最新の五階建ての鉄筋アパートと商店街が立ち並び、さらには劇場、プールなどもあったという山の町には、レベルの高い教育と文化が存在したのだと田切先生はいう。だが鉱山を閉じた今は、人気のない静かな山へと戻り、今、その繁栄を偲ぶ手がかりは、わずかな町の遺構と歴史資料の中にしかない。
地中の鉱物を採掘する鉱山の開発にとって「地質学」という学問は、切っても切り離せないものだ。一流の技術者が多くいたという鉱山の街・日立市は、同時に地質学のメッカでもあり、本山の採掘場で遊び、石と山に囲まれて育った少年が、地質に興味を持つようになるのは自然なことであった。
やがて田切少年は地質学を学ぶようになり、東北大学大学院を卒業して「たまたまちょうど空いていた」という茨城大学理学部に赴任したのであった。以来、田切先生は茨城大学で日立の地質の研究を続け、茨城大学副学長となり、退官後に縁あってこの故郷の博物館へと戻ってきたのであった。
地質学はフィールドワークが欠かせない学問だが、田切先生にとって、生まれ育った日立の山と町が、そのまま一生続く研究の場所となったわけだ。それは研究者としてラッキなーことですよね、と私が問うと、先生は頷いた。
カンブリア紀地層の発見
日立市小木津山の入口付近。日本で最初に発見されたカンブリア紀の地層の露頭だ。(撮影:田切美智雄)
さて茨城に戻った田切青年の研究では、28歳の時に書き上げた博士論文のとおり、3億5千万年前の石炭紀の地層が日立市内に広がっているというところまではわかっていた。 しかし、どうやらもっと古いかもしれない地層が存在することも、実は田切先生は分かっていた。しかしその年代を特定することが、なかなかできないでいたのだった。
地層の年代は化石や鉱石で年代を決める。日立からはかなり古い時代のものであろう溶岩の変成岩(既存の岩石が変成作用を受けた岩石のこと。熱や圧力、化学変化などの作用がある)や花崗岩、石灰岩が出るのだが、なかなか化石が出ない。溶岩とはつまりマグマである。火山活動があった場所で生物の手がかりを見つけるのは、かなり難しい。年代を決める方法がなく、肝心のことがわからないまま、あっという間に40年近くの月日が流れていた。
しかし1990年代になって、質量分析機(超微量成分を分析する機械のこと)が世界的な競争によって急速に進歩した。これは石の中にあるジルコンという鉱物を測定することで年代がわかる、いわゆる放射年代測定法を利用している。
そこでおそらく古いには違いないのだが、どうしても年代を特定できなかった日立市小木津の花崗岩を測定したところ、なんとこれが4億9千万年前のカンブリア紀地層であることがわかったのだった。2003年のことであった。
石炭紀から、さらにその前のデボン紀、シルル紀、オルドビス紀という3つの時代をやすやすと飛び越えて、日立にカンブリア紀の地層が見つかったということは、日本列島の歴史のなかで、一気に1億4千万年の歳月が埋まった瞬間だった。
これは田切先生が今まで書いた論文が全部ひっくり返るような大発見であり、先生は嬉しさより、まず驚きが先にきたという。「これは困ったなあ……でも、とにかく全部研究をやり直すしかない! って思いましたけどね」と田切先生は笑って話してくれた。
この発見は2008年に最初に学会で報告された。この後の研究で、さらに古い5億年以上前の地層も発見され、日本最古のカンブリア紀の地層が、日立市の広い範囲に連なっていることが証明されたのであった。
日立の地面は、日本列島の始まり
それではさっそく5億年の石を見に行きましょう、と田切先生は立ち上がった。先生は郷土博物館を出ると、そのすぐ上にある、かみね公園に向かって歩き始めた。徒歩にして1分。
かみね公園は日立の街と海が一望できる高台にある。遊園地と動物園も併設されており、日立市の観光コースでは外せないスポットだ。ちなみに日立市は私の住む水戸市から、常磐道に乗って1時間弱。中でもここの動物園は、私が大好きな場所のひとつである。たまに車を走らせて、ゾウやライオンを見に来るのが、ちょっとした楽しみなのだ。
さて動物園を見下ろすところまで坂をあがると、公園内には幾つもの岩がむき出しになっていることに気づく。「ほら、これはみんな5億年前の石の露頭(野外で地層や岩石が露出している場所のこと)なんですよ」と田切先生は、こともなげに言うではないか。
ええ?! なんと、こんなに簡単に日本最古の地層が見られるとは……。というよりも、以前から目に入っていた公園の岩は実は露頭であって、ディスプレイされたものではなかったわけだ。5億年前の地層は、山奥でしか見られないものと、勝手に思い込んでいた私は、やや、めんくらってしまった。
また公園内には日立鉱山の創業者・久原房之助や日立製作所の創業者・小平浪平などを讃える石碑がいくつかある。これらも5億年前の花崗岩を基礎にしたり、露頭をそのまま使うなどしている。どれも、みな、あの東日本大震災でもビクともしなかった、という。
かみね公園の中には、このように5億年前の花崗岩の露頭がいくつもあり、説明板で案内されている。まずはここに来れば、誰もが気軽に日本最古の地層を観察することができるのだ。
しかし、どうして5億年前の地層が、今の日立にあるのだろうか? そしてなぜ日立にしかないのだろうか?その疑問に、田切先生がこう答えてくれた。
地面は今も、旅している。
5億年前のカンブリア紀地層の上になりたつ工業都市・日立市
およそ5億年前のこと、この日立の地層は、ゴンドワナ超大陸のなかの、現在の中国大陸となるあたりの火山地帯だった、と田切先生は考えている。日立カンブリア紀層が火山岩からなるのは、そのためである。やがて超大陸は移動と分裂を繰り返し、9000万年前には現在の世界地図に近い状態が作られた。しかし日立カンブリア紀層は中国東北部にあった。
だが、やがて何かのきっかけで、2000万年前ごろから日本海ができ始めた。一つの山地であった現在の中国東北部と日本列島は、日本海の拡大によって徐々に離れていき、1450万年前には、ほぼ現在の位置へと移動した。地面の動きは、まるでドアを押し開けるように、北と南に分かれて動いた。その境となったのが、日立市の西隣の茨城県常陸太田市から福島県棚倉町にかけて、南北約60キロに伸びる棚倉断層だ。
日本列島の構造に重要な役割を持つとされるこの断層を境にして、日本の地質は全く違うのだ、と田切先生は教えてくれた。断層の東側が古く、西側が新しい。つまり日本で一番古い地層がある多賀山地は、中国の縁にあったカンブリア紀の地層が、日本の東側、つまり今の日立がある場所へと押し出されてできあがったものなのだ。
田切先生から、この壮大な地球の歴史を聞いていると、今ニュースでよく流れている、国と国の領土問題、つまりは人間の歴史など、なんだか、どうでもよくなってくる気がする。だって、今だって日本列島はちょっとずつ、動いているのだ。この前の地震みたいに、それがいつもよりうんとたくさん動いてしまうことも、時にはあるけれど! 1億年後の世界地図は、きっと今とは全然違うものになっているはずだ。
田切先生にそう言うと、先生は「そうですねえ、時代は地球規模の歴史として、長く捉えることが必要です。それに古いことを解き明かすことは、未来がどうなるかを知ることにつながりますからね」と笑って返してくれた。
60k㎡におよぶ古い岩の連なり、日立のカンブリア紀地層。この地球の広さに比べたら、それはほんのわずかな面積かもしれない。それでも、よくぞここまで5億年も旅してきたなあ、とかみね公園の露頭を見ながら、つい地層に「おつかれさま」と声をかけたくなるのであった。
工業都市「日立」は、5億年前の地層がつくった
それでは次の地層を見に行きましょう! と案内されて向かった先は、日立の「大煙突」の麓だった。大正3年、日立鉱山からでる煙害を防ぐために作ったこの大煙突は、当時世界一の高さを誇った。平成5年に一部を残して倒壊したものの、今でも日立のシンボルだ。
実はこれも、5億年前の花崗岩の上に建てられている。もちろん大正当時は、それが5億年前の石などとはわからなかっただろうが、この岩石が頑丈であり、その上に高い煙突を立てるのが安全であることが、昔の人はわかっていたのであろうか? そう尋ねると、田切先生は頷いた。
この麓にはJX日鉱日石金属の駐車場があり、そのそばでも地層の露頭を見ることができる。
「ここの露頭は《不整合》なんですよ」と田切先生はいう。
はて、不整合とはなんだろう?
「不整合とは、大きな時間の空白があって、ある面を境にして地層の重なり方が不連続になっていることを指す、地質学では重要な言葉です」
不整合によって、大地がどう動いたのか、造山運動のしくみがわかるというのだ。ここでは古い地層は上に、新しい地層が下になっており、全体が逆転している。
不整合が見られる地層
田切先生は、この他にも冒頭の御岩神社や玉簾の滝の露頭など、ドライブしながら地層を確認できる場所を案内してくれた。
こうして5億年前の地層を見て歩くと、最初は全て同じに見えた露頭も、なんとなく自分なりに見分けがつくようになってきた。しかし私のような素人が楽しめるのは、田切先生の専門的なガイドがあるからこそだ。この楽しさを誰もが享受することはできないのだろうか、と先生に尋ねてみると、日立市郷土博物館では田切先生のガイドによる地層の団体見学の申し込みを随時受け付けているとのこと。また茨城県北地域を中心とする「茨城県北ジオパーク」では、認定をうけたガイドによる地層見学ツアーも開催しているという。
地質学は専門的な言葉が多くて、ちょっと難しいと思われるかもしれないが、百聞は一見にしかず。そして詳しいガイドがあれば、地層見学はますます楽しい経験となるに違いない。
次は、地層ではなく「日鉱記念館」。日立鉱山の跡地に建てられた日鉱記念館では、銅山の発展を示す歴史資料、鉱山の模型、実際の機械などとともに、採掘された鉱物もたくさん展示されていた。
鉱物を見ながら「日立の銅はカンブリア紀の地層から出ているんですよ」と田切先生が教えてくれた。2014年には5億3千万年前の銅が発見されており、これは「日本最古の鉱石」であるという。
これによって、日立銅山と街の発展が5億年前の地層に支えられたものだということが改めて裏付けられたのであった 。
御岩神社の石仏
田切先生は石にまつわる興味深い話をしてくれた。御岩神社や大甕神社など、日立には古くから信仰の対象となり、現在も全国から参詣者が訪れる神社があるが、それらの御神体や石像には、みな5億年前の石が使われているのだという。
人は石に何かを感じとるのだろうか。信仰と5億年の石の、不思議な結びつきだ。とにもかくにも、日立の人々の暮らしは、ずっと昔から5億年前の地層の上になりたってきたのだろう。
こうしてさまざまなカンブリア紀の地層を巡る1日は終わった。