短編小説「バトンタッチ①」
①紀子 高校2年生
目覚まし時計が鳴らなくても、朝は朝だ。
私はいつもセットした時間より早く目が覚めてしまう。
なので、自分の目覚まし時計がどんな音だったか覚えていない。
ベッドから起き上がり、分厚いカーテンを開ける。
窓の向こうは曇り空だった。マンションの3階から街を見下ろす。
お揃いの赤いレインコートを着た親子を見て、雨が降っている事に気づいた。
雨の日は前髪が言うことを聞かない。
家族の誰よりも早起きしたのに、私が最後に食卓についた。
「おはよう。」
父・母・弟の3人に向け、一言で済ました。
3人がまばらに「おはよう。」と返してくれた。
私を含めた4人で食卓を囲むのは朝だけだ。
それなのに「おはよう。」以降、大した会話がない。
テレビの占いコーナーが始まった。
父、母、私は誕生日が近いので、3人とも同じ星座だ。
この時間を楽しみにしているのは弟だった。
どうやら今日は弟の運勢の方が良かったらしい。
私達3人のラッキーカラーは赤。
小学生の頃、母はこのラッキーカラーで、
私が持っていくハンカチを決めていた。
この頃、私のハンカチは毎日父とお揃いの色だった。
不思議と恥ずかしさはなかった。むしろ嬉しかった。
この習慣をやめた辺りから、父と少し距離ができた気がする。
目の前にある出来事が、些細かどうかは、時間が経ってみないとわからない。
テレビの左隅に映る天気予報によると、
午後の降水確率は20%だった。
それでも、私は大きいビニール傘を持って学校へ向かった。
朝8時。最寄り駅まで徒歩7分。
道中、毎朝すれ違うおじいちゃんがいる。
杖をつき歩くそのスピードは、不自然なほど遅い。
周りの朝の慌ただしさもあって、
まるでおじいちゃんの周りだけ時間が止まっているようだ。
私はこのおじいちゃんの事を「朝の妖精」と心の中で呼んでいた。
もしかしたら他の人には見えていないのかもしれない。
朝の妖精は傘もささず、濡れながら歩いていた。
せめて方向が一緒だったら、学校が無ければ、
傘に入れてあげたかもしれない。
駅近くのコンビニに着いた。
友人の楓とここで待ち合わせをしている。
いつも私が先に着くので、待っている間に飲み物を一本買う。
最初は色々な飲み物を買っていたが、
いつの間にか特定のお茶しか買わなくなってしまった。
優しそうな男の店長さんとはすっかり顔なじみだ。
「おはよう。テストどうだった?」
「おはようございます。う~ん、まあまあですかね。」
「まあまあって事は手ごたえアリだな。良いね~。」
店長さんの口癖はこの「良いね~。」だ。
会計時に楓が来る確率が高い。
「おはみょ」「はみょ」「おはよん」
楓は何種類かのおはようレパートリーを持っている。
今日は「おはヨーデル」だった。
そこから店内で一緒に楓の昼食を考える。
彼女は冷やし中華が好きで、何故一年中置いていないのかとよく文句を言っていた。
楓は私と同じ中学出身で、同じ高校だ。
中学の時はあまり接点が無かったが、高校に入り仲良くなった。
164cmで髪が長く、切れ目の私とは対照的に、
楓は背が低く、ショートカットで目がクリっとしている。
男子から怖がられる私とは違い、楓はとてもモテる。
周りからはよく「デコボココンビ」と言われている。
一部の男子からは「C3POとR2D2」と呼ばれている。
店を出ると、楓は傘をささずに30mほど先にある駅までダッシュ。
私は傘をさしてゆっくり歩いた。
「速くー」と待ち合わせに遅れてきた楓が言う。
最近、楓と私には、ささやかな楽しみがある。
毎朝同じ車両に乗っている大学生、通称“てっちゃん”。
名前も知らないし、声すら聞いた事がない。
それでも女子高生が十分憧れるだけのルックスを兼ね備えていた。
“てっちゃん”の由来は、電車で会っている事と、
某テーマパークに売っている「T」のイニシャルキーホルダーをカバンに付けている事だ。
「てっちゃん今日もいるかな?」
「いるんじゃない?楓の好きそうなタイプだもんね。」
「そうそう、男はたぬき顔に限る。彼女いるかな~。」
「さすがにあのキーホルダーは彼女とお揃いじゃないの?」
私にとっては“てっちゃん”がどんな生活を送っていようがどうでもよかった。
むしろ本名を聞いた時に、“てっちゃん”じゃなかったら、
ショックを受けるかもしれない。
電車が来た。
車内は床が濡れていて、雨の日の匂いがした。
今日も“てっちゃん”を発見。
ドア際に立つ、彼のうしろ斜め45°が楓と私の定位置だった。
次の瞬間、楓と私はある事に気づいた。
カバンにキーホルダーがない。
楓は私と目が合うと「改名したのかな?」と冗談を言った。
同時に嫌な予感がした。楓のスイッチが入った気がした。
2か月程前、楓と私は男性関係でギクシャクした。
中学の同級生K君だ。彼もまた、たぬき顔だった。
楓と遊んでいた日曜日、街中で偶然彼と再会した。
その場で連絡交換をし、私は彼と連絡を取り合った。
「紀子ちゃんって楓と仲良いよね。」
「大人しい娘が好きだな。楓はうるさいw」
「今度ご飯行こうよ。中学の奴誘うからさ。楓も入れて4人で。」
話す内容の多くは楓の事だった。
私に近づく男は、大抵楓目当てなので慣れているが、今回は少しショックだった。
中三の時、私は彼と体育祭で同じ用具係だった。
リーダーだった彼は、責任感の強さとは裏腹に、
周りの意見に敏感で、繊細な心を持っていた。
見守るような気持ちで彼をサポートした。
今思えば、確実に惹かれていた。
ある日、楓は私にK君の事をどう思っているのか聞いてきた。
楓も彼と頻繁に連絡を取っていた。
私は“K君とは話は合うけど、恋愛対象ではない”と伝え、身を引く事を決めた。
片想いになる前の気持ちにフタをして、手の届かない場所に隠した。
私は楓と彼が付き合うものだと思っていた。
しかし、うまくいかなかったみたいだ。
数日後、いつものコンビニに楓が来なかった。
学校で会ってもそっけない態度をとられた。
そこから数日間、私は一人で登校した。
K君に連絡をしても、返事はなかった。
一週間後の朝、コンビニの前で楓が待っていた。
「おはよう。紀子、本当にゴメン。私最低だった。」
朝から大泣きされた。私は小さい楓の頭を撫でた。
「おはよう。気にしてないよ。ちょっと寂しかったけどね。
じゃあ、お昼買って学校行こうか。」
「何があったか聞かないの?」
「話したくなったらでいいよ。」
K君の事だと察しはついていた。
そんな過去もあって、もう楓とは男性関係で揉めたくない。
二人の朝のささやかな楽しみが無くなるのも嫌だ。
それでも、楓が本気で“てっちゃん”を好きになったら、私はまた応援するだろう。
少なくても応援するフリはするだろう。
“てっちゃん”はそんな事をつゆ知らず、いつもの駅で降りて行った。
電車とホームの間には、弱い雨が降り注いでいた。