Okinawa 沖縄 #2 Day 110 (05/06/21) 旧真和志村 (8) Hantagawa Hamlet 繁多川集落 (2)
旧真和志村 繁多川集落 (はんたがわ)
- シンカヌチャー道
- 通抜洞坂 (トウールーガマービラ)、シガイヌガマ/シガイヌガー跡、沖縄連隊区司令部壕、ヨ字型防空壕
- ヒジガー石橋
- ヒジガービラ
- 金城ダム
- オホンビラ
- 金城橋 (カナグスクバシ)、重修金城橋碑文、魚下原 (イユサギバル)
- 識名坂 (シチナンダビラ)
- チョンチョンガー
- 遺念火道
- 繁多川公園、十字型防空壕、T字型防空壕、イユサギガマ
- 魚下 (イユサキ) バンタ
今日は繁多川集落二日目で識名台地の北側に散らばっている文化財などを巡る。今日で残りの文化財をすべてめぐる予定だったが、途中で雨が降り出し、降って止みの繰り返しで次第に雨足は強くなった。そのたびに東屋や木陰で雨宿りをしたが、途中で切り上げ、本降りになる前に帰宅となり、もう一日必要になった。
シンカヌチャー道
首里王府時代、国王が識名宮や識名圜などへ出掛ける時には真珠道と後道を使っていたが、臣下や女官の方々が通った道は国王とは異なる道で、このシンカヌチャー道だった。繁多川集落の東の外にある。臣下 (シンカ) が通る道という意味だそうだ。一方、国王が通る真珠道の方は御主加那志前 (うしゅがなしぃめぇ) と呼ばれている。
シンカヌチャー道は首里城継世門を出て、ヒジガービラを下りヒジガー川に出て、ヒジガー橋を渡り、通抜洞坂 (トウールーガマービラ) を上って、識名馬場跡の東端を抜け、休憩岳 (ユクイダキ) で休憩岳平 (ユクイダキビラ) との合流する、識名園へ至る道であった。休憩岳 (ユクイダキ) は見通しがきく場所なので臣下、女官たちは首里城と旗信号などで連絡を取って国王の行先での準備を行っていた。
通抜洞坂 (トウールーガマービラ)、シガイヌガマ/シガイヌガー跡、沖縄連隊区司令部壕、ヨ字型防空壕
繁多川集落側から首里城継世門に向かうシンカヌチャー道は識名馬場の東側を通ると、通抜洞坂 (トウールーガマービラ) を下ることになる。現在は急な階段になっている。この通抜洞坂 (トウールーガマービラ) の丘陵の西側の崖には通抜洞 (トウールーガマ) がありこれがこの坂の名になっている。昔はフェーレー (山賊) が出たそうで、住民からは恐れられていた。沖縄戦当時はこの様な自然洞窟を利用し軍施設としていた。このところには沖縄連隊区司令部壕やヨ字型防空壕がおかれていた。また、この付近には集落女性たちがパナマ帽子クマー (編み) をしていたシガイヌガマもあり、戦争中は住民の避難壕となっていた。この壕は現在民家があるところから崖のところまで伸びていた永井ガマの様だ。壕の中にはシガイヌガーと呼ばれていた井戸もあり、この近くんあった2,3軒の民家が生活用水として使用していた。先日も探したが見つからなかったが、この近くにあるカーマヌトゥンに識名集落の人たちがの御願にきた際にも祭祀儀式に使う水をここで汲んでいたそうだ。これらガマは現在では埋め立てられて墓地になっている。資料では高圧線鉄塔の近くにあったと書かれていたので、その付近にも行ってみた。幾つかガマがあったような場所もあった。
ヒジガー石橋
通抜洞坂 (トウールーガマービラ) を下るとヒジ川にあたる。ここに石橋がかかっている。もとは木の橋だったが、18世紀頃にアーチ石橋に改修された。中央アーチ上部が高くなった形式は、ラクダの背に似ていることから駝背橋 (だはいきょう) とよばれ、橋げたは三段の階段構成の珍しい造りだそうだ。この付近にヒジガ-村の村井のヒジガ-があったことから、ヒジガー石橋と呼ばれている。
ヒジガー石橋を渡り少し進むと、石積の拝所がある。この付近にヒジガーがあると繁多川の案内板には書かれていたが、それには石畳路の反対側になっていたので、ここはヒジガ-ではないだろう。他の資料ではヒジガービラの崖下にあるとなっていた。問うことでここが何なのかは分からずじまいだが、井戸跡の様にも見える。香炉が置かれているので、ここにあったヒジガ-村の拝所なのだろう。
ヒジガービラ
名称不明の拝所を越えるとヒジガービラへの階段が見える。ここまでが繁多川地区で、この先は首里金城となる。このヒジガービラもシンカヌチャー道の一部だ。階段の入り口にロープが張られており、転倒の恐れがあるので立ち入り禁止になっている。階段を上った先には敷き詰められた石畳がまだ残っているようだ。以前は観光ルートだったのだが、いつ通行可能となるのだろうか?
金城 (きんじょう) ダム
ヒジガー石橋が架かっている川はその区間で名前が異なっている。金城橋 (カナグスクバシ) が架かっているところまでは金城 (カナグスク) 川、それより下流は安里 (アサトゥ) 川と呼ばれる。金城川は首里の弁ケ岳を水源にしている。この安里川、金城川にダムが設けられている。
那覇市街地を流れる安里川は中流部の川幅が狭く蛇行しており、しばしば氾濫を起こしていた。1961年 (昭和36年) の台風23号では死者4名、全壊家屋67戸、半壊家屋186戸の被害を出した。これ以降、防災の為に何らかの対策が求められたが、流域が住宅密集地であったため川幅を広げる改修は困難で、このため上流部に洪水調節用のダムとしてこの金城ダムが建設された。1977年 (昭和52年) に調査を開始し、1988年 (昭和63年) に上池、1991年 (平成3年) に下池とダム本体がそれぞれ着工し、総事業費は305億円で2001年 (平成13年) に竣工となった。
上流部に上池、下流部に下池の二つの貯水池を持ち、それぞれトンネルで結ばれているのだが、これは間にある文化財のヒジ川橋と石畳道を保存するためにこのような造りにして、最高水位の際でもヒジ川橋が水に浸からないように設計されている。
上池の周りは遊歩道が池の畔とその上にも遊歩道が整備され、ウォーキングをしている人を何人か見かけた。遊歩道は琉球石灰岩の石垣で囲まれて沖縄ならではの雰囲気が出ている。
上池の下はヒジガー石橋と石畳の広場になり、その下流に下池がある。こちらには立派なダムがあり、これも琉球の雰囲気を残す為に琉球石灰岩で造られている。この金城ダムには何度も来たが、散歩をしているだけで気持ちが良い。所々に東屋が設けられており、休憩しながら歩ける。今日は時々スコールがあり、ここでも雨が強くなり、東屋で雨宿り。
金城ダムの遊歩道を歩いている途中に、本土では見かけない木があった。シマナンヨウスギ (島南洋杉) という名のスギ科の針葉樹で、オーストラリア領ノーフォーク島が原産で英語ではNorfolk Island Pine。1962年頃ハワイから庭園木としてタネを導入して、沖縄各地に広がったそうだ。
オホンビラ
ヒジガー石橋から金城川沿いに金城橋方面に下ると、ちょうど中間地点に、かつてはオホンビラまたはウフンビラとも呼ばれる古道があった。首里王府から島尻方面への三本の道 (他の二本はシンカヌチャー道、真珠道) の中で最古の道で、尚巴志も佐敷小按司時代は、この道を往来したと言われている。現在の繁多川公園に通じていた道で、沖縄戦後の一時期まで使われていたが、現在は道は雑木林で覆われ通れなくなっているが、首里から坂を下りて、安里川を渡り、識名台地に上っていく。この道がかつてあった場所を撮影した。
オホンビラにまつわる伝説はいくつかあるが、いずれも仇討とオホン、オホンとをしながら坂を登るというものだそうだ。
- 昔、男いて、夫もいれば男の子二人がいる女に興味を持ち、女が一人っきりになるのを虎視眈々と伺っていた。後をこっそり付回しながら、その時がきたら無理矢理力ずくで自分の思いを遂とげる事ばかりを考えていた。そうとは知らない女は、まさか夫も子もいる自分を付け狙らう男がいるとも知らず、ある時、人気がない場所で二人っきりになると、男は女に行く手てを遮ぎり、自分の言いう通とおりにしないと命はないぞと、脅おどした。女は、「あなたは、私を誰かと間違がえています。私には夫がいて、子も何人もいるのです。」といったが、男は無視してどんどん女に迫せまってきた。女は金城を越えた場所の大きな池まで、なんとか逃切った。池の縁まで来た女は、自ずから池に飛び込んで、死んでしまった。
- 突然の不幸が降りかかり、可哀想だったのは女の子達だった。犯人も分からないまま、子達は、母親がいないまま成長し、三十五年が過ぎた。子達も、今ではすっかり一角の男に成人し、母の命日には、揃って墓に、御焼香をあげていた。丁度、二人の前の上り坂を、傴僂 (コーグー せむし) の年寄が、難儀そうに上って行くのを見るに見かね、年寄に駆か寄り、二人で、腰を押したり、手を取ったりして、坂の上に着くまで助けてやった。年寄は、大変感謝しながら、若者達に「あんた方、若いもん、よう聞けよ。わしはむかし若い時とき、調度この辺で、夫も子もいる女を手込めにしようとしたんだよ。ところがその女ときたら、池に飛び込み死んでしもうた。別に、わしは殺ろす気など、これっぽっちもなかったのに。あんたは方はまだ若いから、わしの話をよくよく考がえて、戯に恋などしてはならぬぞ。」と言った。
- 息子二人は目を合わせるやいなや、母を殺ろしたその年寄を摑かまえるなり、平等所 (ヒラジュー) まで引ひきずって行いった。年寄は、驚ろいた様子を見みせたものの為がままで、力無く、平等所の前まで連れていかれた。若者は老人に向かって、自分達が殺ろされた母の子だと告げた。すると老人が言うことには、自分が犯した罪を背負って今迄生きて来きたが、いくら墓参や、あれこれしたところで、苦しみが消えることはなかった。これでやっと天罰が下だって安心できると、弱々しく言いった。それを聞いた息子達は、相談をし、老人に向かって「これから、平等所 (ヒラジュー) に入はいるのと、命のちが尽きる迄、毎日、母の墓に通よって、御焼香を上あげるのと、好きな方ほうを選えらぶがよい。」と言い、こども達は、その場を去っていった。
- こうして、この坂を年寄が、オホオホと言いながら上っていく日が続づき、それをしっかり見届ける息子達が、この坂をオホン坂と名付なづけたそうな。
金城橋 (カナグスクバシ)、重修金城橋碑文、魚下原 (イユサギバル)
首里王府時代、首里城から識名園や那覇港に向かうには、安里川上流の金城川に架けられた石造単拱橋 (アーチ橋) だった金城橋をがある真珠道を通っていた。首里金城には今でも石畳の真珠道 (写真左上) が残っている。この石畳は繁多川の外なので、別途訪問予定。繁多川にある道は識名坂 (シチナンダビラ 写真右上) だが、こちらは舗装されてしまい石畳は失われてしまった。
この金城橋付近は橋ロと呼ばれている。首里王府時代の金城川は、この首里金城まで舟が通い、水上げされた魚を今の金城橋の上流南東側のモーグワー (毛小) で売っていた。後に、橋ロはイユサギと呼ばれるようになった。現在の小字魚下原 (魚崎原、魚先原) の由来だそうだ。別の説では宮古の人々が、海上安全を祈願して川岸の洞くつに魚の形を刻んだのが由来ともある
1677年 (尚貞9年) 建立の金城橋碑文によると、当初松材を使用した木橋だったが大洪水で破損、そのつど補修していたが、この年に本格的な石橋に改造し、金城、寒水川などの住民により識名坂 (シチナンダビラ) の道の両脇に植樹をしたとある。橋のたもとに残っている1810年 (尚灝7年) に建立された重修金城橋碑文には1809年 (尚灝6年) に金城橋を少し下流に移して再び改修したとある。この碑は元々は橋の南東のモーグワー (毛小) にあったが、沖縄戦で金城橋と石碑の上部が破壊され、その後、橋はコンクリートで作り直されている。石碑も今の場所に移されている。もともとの石碑は台座と下の部分しか残っておらずその隣に当時の石碑を2005年 (平成17年) 年に復元したものが建てられている。
識名坂 (シチナンダビラ)
金城橋から繁多川 (ハンタガー) に至る真珠道が識名坂 (シチナンダビラ) の急坂で国場の真玉橋に通じる重要な道でもあり、識名園への道でもあった。かつてはこの坂は石畳の道で、その両脇には美しいリュウキュウマツが植えられていた。沖縄戦のさなかに松は切り倒され、識名馬場の松並木と同様に首里城地下に造られた沖縄守備隊司令部陣地の資材として使われた。伐採を免れた十数本の松も艦砲射撃で枯死してしまった。
現在はコンクリートで舗装され自動車となっている。石畳の識名坂 (シチナンダビラ) が残っていればいいとも思ったが、ここで生活している人たちには、やはり自動車が通れる道が必要だったのだろう。昭和時代の識名坂の写真が幾つか残っている。今は住宅地になっているのだが、当時は民家もほとんどなく、ほぼ昔の石畳の道が残っていた。坂の脇には平岩 (ヒラジー)、タッチュージーという 二つの大きな岩があったのだが、現在は撤去されてしまった。
坂を登ると左手の道路わきに酸素ボンベの鐘があった。そういえば先日繁多川集落を巡った時にはお目にかからなかったが、ここにあったのだ。これはいつも見る酸素ボンベに比べてかなり小振りだ。
チョンチョンガー
識名坂 (シチナンダビラ) を更に登っていくと、井戸跡があった。チョンチョンガーと呼ばれる。変わった名だ。沖縄ではときに変わった名前の井戸に出くわす。住民が自然と呼びならわしていたのが、次第にその名前に定着しているので、その時の井戸の様子で誰かがそのように呼んでいたのだ。「球陽」には「真川 (マガ-)」と洒落た名が記載されているが、住民にとってはやはりチョンチョンガーがしっくりときていたのだろう。この井戸は山側の上手からチョンチョンと滴り落ちる水が溜まってできた井泉だったことから、この名が付いたそうだ。この坂を行きかう人達が飲み水として使っていた。また、繁多川の名産だった島豆腐作りにの利用されていた。記載されている・神縄慢の宅地造成により井泉は清失した、
このチョンチョンガーから少し上った所にも酸素ボンベの鐘が吊るされていた。こちらはいつも見る大きさだ。先ほどのものは、子供たちのために小さなものを吊るしていたのだろうか?
遺念火 (いねんび) 道
この識名坂 (シチナンダビラ) には沖縄の怪談の一つ「識名坂の遺念火」が伝わって、沖縄では有名な話だ。色々なバージョンがあり、少しづつだが筋が異なっている。むかし、仲の良い夫婦がいた。妻は美しく、識名から首里に行き豆腐を売っていた。 2人の仲を妬んだ者が、夫に「お前の妻はいつも浮気をして遊び歩いている」と嘘を言った。夫はそのショックで識名川 (安里川のことか?) に身を投げて死んでしまった。(別バージョンでは襲われ川に身を投げたとある) その後、おどろいた妻も後を追い自殺をしてしまった。それ以来、夕暮れ時になるとこの坂には、二つの遺念火(人魂=火の玉、火の妖怪)が現れるようになった。遺念火の一つは金城橋からシチナンダビラを上がって行き、一つはシチナンダビラを下って来て、チョンチョンガー付近で出会い、そこから2つになり、そしてウーエークーエー(追ったり追われたり)しながらシチナンダビラを上がって行ったという。
この二つの遺念火はいつも同じルートを通るそうで、資料にはそのルートがあったので、そこを歩いてみた。昼間なので、出会うことはないだろう。金城橋から識名坂までは真珠道を通るのだがそれから遺念火は識名宮と神応寺を避けたので、真珠道ではなく筋小 (スージグヮー 上の写真左下) を通り、ンニフスー (稲干) に出て、インチュ毛 (現在の石田中学のグラウンドがある丘) を突っ切り、真珠道に入って真玉橋に漂って行ったそうだ。遺念火が良く現れた場所が識名坂を登り切った所 (上の写真右上) と筋小 (スージグヮー) にある保育園付近 (上の写真右下) だそうだ。
繁多川公園
識名坂 (シチナンダビラ) を登った所、識名丘陵の崖の斜面は繁多川公園として整備されている。1月下旬から2月の中旬にかけて遊歩道の緋寒桜が咲き誇るそうで、隠れた桜の名所だそうだ。公園は綺麗に掃除がされてあり、東屋もいくつがあり、その一つで雨宿りもできた。
沖縄戦当時この首里城に向いた斜面には幾つかの洞窟があり、日本軍の十字型防空壕、T字型防空壕、イユサギガマなど5つがあったそうだ。遊歩道を歩いていると、それらしきものがあった。多分洞窟の入り口をコンクリート塞いでいるの場所が二つあった。ここを散歩していたご婦人に尋ねてみた。やはりガマ跡で戦争時に使われていたそうだ。その後、放置されていたのだが、いつからか人が住み始めたそうだ。ガマの中はハブも出て危険であることや地域住民が浮浪者が住みつくと治安上問題ということで、市が立ち退きを促したのだが、依然として住み続けていたので、強引にコンクリートで入り口を塞いだと教えてくれた。
魚下 (イユサキ) バンタ
繁多川公園の上の方にある崖の上は魚下 (イユサキ) バンタと呼ばれている。この付近にはグスク時代のものと考えられている魚下原 (イユサキバル) 遺跡が見つかっており、青磁、グスク系土器、陶質土器が発見されている。バンタは方言での事で、こう呼ばれているところは、大体見通しが良く、良い眺めが見えた。現在は木々が茂っており、景色は見渡せなかった。
この後、残りの文化財を巡ろうとしたのだが、何度もシャワーが降り、だんだんと強くなりそうなので、文化財の残りはそれ程多くないのだが、土砂降りになる前に帰途に着くことにした。もう一日必要となった。
参考文献
- 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
- 繁多川100周年記念誌 繁多川 (2012 繁多川自治会)
- 歴史散歩マップシリーズ 真和志まーい (1989 那覇市教育委員会文化課)
- 沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅳ (2004 沖縄県立埋蔵文化財センター)