「完璧な死」は観察できない
生きる死体をみる。たしかに矛盾している。完全に止まっているものを知覚することはできない。これでもまだ誤解される。「あの家を見ろ。完全に止まっているではないか?」と反論されそうだ。地球とか宇宙のことではない。このような世界が動いている事実とは無関係に動いているのだと言いたい。詳しく調べよう。知覚するとは、どうゆうことかを考える。対象を知覚する主体は、生きているはず。生きているとは、動いていることに他ならない(生命活動)。対象は、いかにも静止しているかのように映る。死体は静寂の闇に呑み込まれれているかのように感じられる。ここでは抽象化した死体のことを言っているのであって、物体としてミクロ世界で動いているのはあたりまえである(腐敗や分解)。だが、そのような意味での静止といっているのではない。一般的に考えられている対象としての死体は、生きている知覚によって再生されているという事実を強調したい。知覚を通じて眼から大脳に伝わるであろう。でも、医学的な事象を云々しているのでもない。死体にとって、私は何者でもないが、私にとって死体は何者かである。なぜそうなるのかと問う。対象が対象となり得る条件が〈活動する生ー意識ー存在〉の確実性にあるからだ。何かを知覚して認識するものは、いまを生きている何者かでなくてはならない。眼だけが機能していても意味がない。動く眼と、動く意識の活動があって、初めて対象を認識する。まず動的に活動する生命が大前提であって、それなしに何も認識できない。知るものは必ず動く。換言するなら、動くものだけが知る。これも誤解されるかも知れない。動くという意味は、生命活動が動的であること、また意識活動がつねに機能しているという意味である。ここでやっと冒頭まで戻ることができそうだ。静止する意識があるとすれば、それは死である。比喩的な意味の死である。重要なことは、動的な意識活動が、死のようにみえるあらゆる対象(存在者)を再生するということ。活発に活動する生命活動が、死んでいるようにみえる化石を、化石としてではなく、意味のある存在として生きた価値を与えるのだ。再生するとは、蘇生させ生き返らせること。それを可能にするのが、動的な意識活動である。その逆はない。ということは、再生するには方向があるということになる。死的(比喩的に死んでいるもの)からの生なる再生はありえず、生的(比喩的に生きているもの)からの再生のみがある。敢えて死的という言葉を使うのは「完璧な死」ではないから。「完璧な死」を再生しようと試みる意識そのものが、生的かつ動的に活動している限り、対象とされている「完璧な死」は、そのまま「完璧な死」として再生されるのは不可能である。なぜなら、対象としてみられているということは、既に生きた意識でみられているということになり、そのなか(生きた意識)にある「完璧な死」という概念は阻却されねばならない。生なる意識が捉える限り、どんな対象とて生きているものしか捉えることができない。動的な存在としての人間が、静的なものとしての存在を知ることは不可能であるという結論にならざるをえない。どうしてもそうなってしまう。たとえ静止しているものを思考すると仮定してみても、そのときの思考は決して静止することはできない。あらゆる存在は生きている。生きていないのならば、そちらに注意が向かわないのだから、やはり「死」は不可能になる。ないものは、ないと発見された瞬間にあるものになってしまう。