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乗り納め(全線乗車 小出⇒会津若松) 2016年 初冬

2016.12.26 14:38

先日(17日)に続き上京。今回は大雪にならないことを天気予報で確認し、JR只見線を利用し郡山に帰る事にした。

 

予定は以下の通り。

・上野駅を出発し、上越線に入り高崎、水上両駅で乗換、浦佐駅で途中下車

・浦佐駅から小出駅に移動し、只見線の列車に乗車

・只見駅で運休区間を走行する代行バスに乗換える

・会津川口駅から再び只見線の列車に乗車

・終点の会津若松駅で乗換え、自宅のある郡山に向かう

浦佐駅で途中下車する理由は二つ。

1.只見線の新潟県側の発着駅として考えられる浦佐駅(上越新幹線停車)を見るため。

2.この人がいなかったら只見線は全通しなかったと言われている「田中角栄」元首相の銅像を見るため。

 

全線普通列車(一部、代行バス)による旅程で、今回も「青春18きっぷ」を利用して旅に臨んだ。

*参考:

・福島県:只見線ポータルサイト

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」 (2013年5月22日)

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線全線乗車ー / ー只見線の冬

 

 



  

 

前回に引き続き、出発は今日も上野駅。まだ6時前で外は暗かった。昭和世代の東北人には感慨深い駅の外観だ。

独特の駅構内。早朝ということもあり、行き交う人は少なかった。

昨日はクリスマス。この大きなホールの中央にはツリーが飾ってあった。上野だけに、パンダがちりばめられたツリー。

今朝も見たいと思ったが、すっかり片付けられていた。

  

6:00、乗車した高崎行きの列車が、5番ホームから出発。通勤客に交じり北上した。

  

7:48、高崎に到着。列車が到着するたびに多くの人がホームにあふれ、混雑していた。群馬第一の都市に納得する人の流れだった。

    

8:24、上越線の下り列車、水上行きが高崎を出発。

しばらくは車窓から雪は確認できなかったが、後閑を過ぎ、前方に冠雪した谷川連峰が見え始め、水上直前になるとはっきりととらえることができた。

この谷川連峰を核に、周辺は「みなかみ」(群馬県・新潟県)として「ユネスコエコパーク」への登録推薦が今年の8月に決定している。順調に行けば、来年の中頃に登録が決定するという。先に登録されている「只見ユネスコエコパーク」との相乗効果を期待したいと思った。*参考:文部科学省 日本ユネスコ国内委員会 http://www.mext.go.jp/unesco/001/2016/1375562.htm

 

 

9:31過ぎ、水上に到着。学校が冬休みに入った影響もあるのか、平日ながら、多くの若者が連絡橋を渡り、私が乗る長岡行きの電車の待つホームに向かっていった。

  

9:47、電車はほぼ100%の乗車率で定刻通りに水上を出発。車窓からは先日の降雪の残雪が見られた。

  

新清水トンネル(13,500m)を抜けると、車窓の風景が一変。積雪は多くないものの、一面の雪で、空も鉛色だった。

   

その後、ループになっている新松川トンネル(3,100m)を抜け、魚野川を渡る橋梁からは美しい冬山が車窓から見られた。

  

越後中里の東側前面に広がる湯沢中里スキー場では、所々に土面が見えたが、意外と多くのスキーヤーが滑走していた。また、利用客用の無料休憩施設「ブルートレイン中里」が、際立っていた。

 

越後湯沢を過ぎ、まもなく石打というところで、右手(東側)に珍しい雲の流れが見えた。

上越国際スキー場を過ぎると、この“雲”の全体が見渡せた。正面に見える金城山(1,369m)の麓一面が“雲”に覆われていた。何という現象だろうか、自然の奥深さを愉しませてもらった。

 

 

11:02、浦佐に到着。在来線(上越線)の前上に新幹線駅を作った構造で、ホームはコンクリートに覆われていた。

浦佐駅の在来線は2面4ホームとなっている。新幹線平行在来線なので特急列車もなく、すれ違いでホームがふさがれ事もないだろうから、只見線が浦佐駅を起点になる事に列車運行上の支障はない。

過去には、上越新幹線開業(1982(昭和57)年11月)から「奥只見」という急行列車が浦佐発着で会津若松まで運行していた(1998年(昭和63)年3月、JR発足後初のダイヤ改正で廃止)。実績はあるので、集客が見込めれば“浦佐発着の只見線直通列車”が設定可能だと思われる。

只見線の復旧までに沿線の観光客を増やし、復旧と同時に浦佐発着の列車設定をJRに依頼する、というのがベストだと思う。沿線の行政と民間が協力して、只見線の集客力を高めて欲しい。そして、上越新幹線を降りた乗客が、一回の乗換で只見線を利用できるようにして欲しいと思った。

 

改札を抜け、構内を見て回った。只見線に関する掲示物が多くあった。「只見線に手を振ろう」ポスターは、東口通路に大きく掲示されていた。

通路側から奥まった観光案内コーナーには、只見線の新潟側を含めた主要駅の案内が掲示されていた。

浦佐は南魚沼市にあり、只見線の起点・小出は北へ2駅目で魚沼市にある。新幹線改札の内側に只見線に関する掲示物がどれだけあるかわからないが、会社(JR東日本)もしくは駅長の、浦佐から只見線へと乗客を誘う意図が感じられた。

 

次の目的、「田中角栄」像を見ようと表に出た。事前に銅像がどの場所にあるのか確認できなかったため、探す事になった。 

まずは西口に行く。見上げると、駅の大きさに圧倒された。新幹線の駅とは言え、堂々たる風貌。巨大な“ビル”で、乗降や在来線(上越線)との乗換は、上下の長い移動が必要で、大変だろうと思った。

  

この浦佐駅。設置の経緯が興味深い。

上越新幹線の開業(1982(昭和57)年)前、新潟県第二の都市・長岡(長岡駅)と新潟県内有数のリゾート地(温泉、スキー)・湯沢(越後湯沢駅)の中間に駅を作る際、魚沼地域の主要都市である六日町小出が候補となったが、距離的・地理的要因で特急が一往復しか停車しない大和町(現南魚沼市)の浦佐に新幹線駅ができたという。

確かに地図を見れば一目瞭然で、六日町越後湯沢に近く、小出は東に張り出しきついカーブになり、浦佐が適当ということになる。ここに政治的な意図はないと思える。

ちなみに浦佐の新幹線利用客は新潟県内ばかりでなく、上越新幹線の駅で最低となっている。*出処:東日本旅客鉄道㈱ ホームページ 2015年利用実績より

新潟        9,077人
燕三条       1,742人
長岡           4,537人
浦佐      688人
越後湯沢 3,133人
上毛高原    740人
高崎      14,013人

  

西口には肝心の「田中角栄」像は無く、東口に出ようと、また駅構内に入る。 

連絡橋から外を見て銅像を探すが、見当たらなかった。左奥に見えるのは越後三山の一つ「八海山」。ちなみに、「日本酒 八海山」の蔵元は八海山の真西にあり、浦佐駅の手前、五日町駅が最寄り駅だ。

東口ロータリーに下り、歩きまわり、国道17号沿いに目をやると、ようやく「田中角栄」像を見つける事ができた。

像は杉の木に遮られ、駅の連絡橋からは見えなかったようだ。

 

銅像は1985(昭和60)年10月に建立。巨大な台座には「田中角栄先生像」と刻印され、頂きが汚れてはいたが、屋根がついていた。

私は、屋根付きの銅像を見たことが無かった。一説には氏の親族が“寒くてかわいそう”という一言があり、2005(平成17)年10月に設置されたという。真偽のほどは定かでないが、氏に関わった人々の人情を感じさせるエピソードだ。

 

銅像は右手を大きく上げ、左手は上着のポケットに入れているという、往年の氏を代表するポーズ。

台座には碑文があり、以下のように記載されていた。

碑文  田中角榮先生は、大正七年五月四日新潟県刈羽郡二田村で父角次 母フメの第四子として生れ 幼少より神童と云われ聰明にして闊達な性格は大器の芽生えと衆目を集めた
 昭和九年青雲の志を抱いて郷関を立ち 苦學勉励し業を興し 戦後の動乱期昭和二十二年、弱冠二十八歳にして衆議院議員に當選 爾来国政の中樞で郵政 大蔵 通産の各大臣を歴任 昭和四十七年五十四歳で自由民主党総裁 内閣総理大臣に就任して内政外交に画期的な政治を断行した 戦後途絶の悲運にあった日中国交回復を実現し 国際平和に大きく貢献するとともに日本列島改造論を提唱 均衡ある国土発展を基調として 豪雪対策を含む裏日本の開発振興を積極的に推進 東京と新潟間の高速交通開通等発展の基盤を築かれた功績は実に偉大である
 依って昭和六十年三月十四日上越新幹線 同10月2日関越自動車道の歴史的開通を記念し 奥只見地域レク都市事業の早期実現を期して有志相集い 茲に田中角榮先生の銅像を建立し 不滅の功績と榮譽を稱え悠久に威徳を顕彰する
 この像が 世界の平和と国運の隆昌を希求し 永遠に魚沼郷、さらには県土伸展の象徴となることを祈念する
      寄付者 一二〇〇〇余名
 昭和六十年十月吉日
        田中角榮先生銅像建設期成會
制  作 日本芸術院會員 富永直樹
題字揮毫 衆議院議員 二階堂 進
碑文揮毫 日展常務理事 廣津雲仙

ここに只見線の記述はないが“日本列島改造論を提唱 均衡ある国土発展を基調として 豪雪対策を含む裏日本の開発振興を積極的に推進”を意図し、田中角栄氏は只見線の“全通”に積極的に関わっている。氏の役割は、只見線の関連年表とともに、文末に記す。

 

ちなみに、文中の「奥只見レク都市事業」とは浦佐のある旧大和町と現在の魚沼市をレクリエーション地域と整備しようとするもの。「公園」が核となる。「奥只見レクリエーション公園」ホームページ(http://www.okureku.com/)には次のように記載されている。

新潟県北魚沼郡堀之内町、小出町、湯之谷村、広神村、守門村、入広瀬村および南魚沼郡大和町の3町4村の面積1,070平方kmに及ぶ雄大な自然資源に恵まれた奥只見地域を21世紀にふさわしいレクリェーション地域として開発・整備することにより、広域レクリェーション需要に応えるとともに、地域の振興を図ろうとするものです。

「田中角栄先生像」の見学が終わり、浦佐駅構内の休憩所で時間調整し、上越線下りホームに向かった。

 

12:48、乗車した長岡行きの列車は、定刻通りに浦佐を出発。

 

12:56、2駅目の小出に到着。連絡橋を渡り、只見線の4-5番線ホームに移動する。乗車する新潟支社色(青)のキハ48形が停車していた。

 

13:11、只見行きの列車は、定時に小出を出発した。

  

まもなく上越線と分かれ、 魚野川に架かる魚野川橋梁を渡る。半径250m曲線を成すのプレートガーター橋だ。

 

次駅は、先日途中下車した藪神。待合所は雪を被っていなかった。9日前(12月17日)の大雪は何だったのか、と思ってしまった。

  

田畑には雪が残っていた。

   

破間(あぶるま)川を渡る。この川は県境の大白川まで只見線に沿って流れている。

 

この後、越後広瀬魚沼田中越後須原上條と列車は順調に進んだ。

  

...しかし、私は不覚にも入広瀬手前で眠ってしまった。新潟県側最後の駅である大白川に停発車したことにも気付かず、車窓の景色はおろか、一番確認したかった「六十里越トンネル」の入り口の様子も見る事もできなかった。

 

 

...目を覚ましたのは、その「六十里越トンネル」の中だった。強い後悔を感じながら、長い長いトンネルの壁面を車窓から眺め続けた。

「六十里越トンネル」がほぼ中間に位置する只見~大白川間は、「只見中線(23.7km)」と呼ばれ只見線最後の着工区間となった。詳しくは後述する。

「六十里越トンネル」は1966(昭和41)年8月に着工され、1970(昭和45)年9月28日貫通、1971(昭和46)年8月29日供用開始された全長6,359mの只見線で最も長いトンネルだ。トンネルのほぼ中間に福島県と新潟県の県境がある。 *地図出処:国土交通省 国土地理院 (一部、筆者文字入れ等)

 

 

「六十里トンネル」を出ると福島県となり、直後に田子倉ダム湖に注ぐ只見沢を渡った。前方に国道252号線(冬期通行止め中)と、そのスノーシェッドが見えた。左にあるのが、「浅草岳」(1,585m)登山者用の無料休憩所。その前には広い空き地があり駐車場になっている。

ここから歩いて5分程の場所に駅があった。田子倉駅だ。只見線が開業した時は普通駅だったが、その後臨時駅になり、2013(平成25)年3月15日に営業停止、翌日に廃止された。

この駅は、周囲に人家の無い“秘境駅”だが、背部に「浅草岳」をはじめとした山岳群、前面には田子倉ダム湖が広がり、「只見ユネスコエコパーク」の緩衝地域の中に位置している。田子倉駅跡は「ユネスコエコパーク」内にあり、世界的に認められた大自然に足を踏み入れる拠点施設となり得る駅だった。只見町や福島県の行政と民間が知恵を絞り、田子倉駅の復活と滞在型観光拠点としての再開発をして欲しいと思った。

  

この田子倉駅跡を過ぎると、 田子倉トンネル(3,712m)に入る手前、余韻沢橋梁上のわずかな明かり区間から田子倉ダム湖を見る事ができた。

ダム湖の貯水量も少なく、積雪もまだらであるため車窓の景色としては満足がゆくものではなかったが、ここからの眺めは、春夏秋冬、季節毎に訪れる価値があると改めて思った。

  

列車は、田子倉トンネルを抜け、またすぐに赤沢トンネルを駆け抜けると短いトンネルとスノーシェッドを潜って行く。明かり区間から振り返ると、電源開発㈱只見発電所・只見ダムと、その奥に田子倉ダムが見えた。

最後のトンネルを抜けるとまもなく、道路の突き当りにスキー場が見えた。只見スキー場だ。12月23日のオープン予定だったが、積雪不足のため延期しているという。

ここからレールは直線になり、列車は雪囲いされた只見駅の駅舎から離れたホームに滑り込んだ。

 

 

14:28、現在の終点である只見(只見町)に到着。下車した乗客は15名ほどだった。

小さな子供を連れた母親の姿もあった。 里帰りだろうか。

 

この先は「代行バス」に乗り換えて、会津川口に向かう。改札と構内を通り抜け、正面に停車していたマイクロバスに乗車した。

  

14:34、定刻を2分ほど遅れ、代行バスは只見を出発した。

 

代行バスは只見線とほぼ平行に走る国道252号線を北上。

  

次の駅、会津蒲生(休止中)前を通り過ぎたが、案内板が変わっていたのに気づいた。『←JR会津蒲生駅』とあり、行政の只見線復旧の意気込みが伝わった。

 

更に国道252号線を進み、只見川の2度目の渡河で、寄岩橋から只見線「第八只見川橋梁」と「蒲生岳」を眺めた。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス歴史的鋼橋集覧

この橋梁は一見、「平成23年7月新潟福島豪雨」の被害は無いようだが、橋脚洗堀・盛土崩壊・路盤沈下などが発生し、復旧費用は他3橋梁に比べ突出、割合は50%を超えている。

 

このあと代行バスは、会津塩沢会津大塩(金山町)、会津横田会津越川の各休止駅(近くののバス停)で停発車していった。

  

湯倉のバス停を過ぎ、長いスノーシェッドを潜り抜け、代行バスはほぼ直角に曲がり東北電力㈱本名発電所と一体化した本名ダムの天端を通り、右手(東)に橋桁が流出した「第六只見川橋梁」を見ながら進んだ。

  

その後代行バスは、休止中の本名前に設置されたバス停を経由し、再び国道252号線に入り北上。

 

緩やかな坂の途上から、一部橋桁が流出した「第五只見川橋梁」を左(北北西)に見ながらバスは終点を目指して進んだ。


 

15:22、代行バスの終点・会津川口に到着。

構内に入り、金山町のゆるキャラ「かぼまる」に会う。今回は、コンポタの“売り子”になっていた。

改札を抜けホームに行くと、二連結されたキハ40型が微かにディーゼルエンジン音を響かせ停車していた。

15:27、会津若松行きの列車は、定刻に会津川口を出発。

   

目の前の只見川(上田ダム湖)では浚渫工事が続けられていた。

  

15:33、次駅・会津中川に到着。春、桜に包まれる駅だ。

中川集落の脇を通過。田、寄りあった家々、それを背後に連なる山並み。会津を象徴する景色だと思う。

木々の間から、東北電力㈱上田発電所その調整池である上田ダム湖(只見川)を眺めた。このダムの貯水量が、会津川口駅や「第五只見川橋梁」の景観に影響している。

この上田ダムの、下流にある「第四只見川橋梁」を渡る。振り返り、橋梁からの景色を撮った。下路式トラス橋であるため、車窓の写真を撮るとトラスの鋼材が写ってしまった。

 

会津水沼を過ぎ三島町に入ると、国道252号線の橋梁の下を通り抜ける際に二つのベンチが見える。

仲良く並んで、只見川を向いている。船着場らしいコンクリートの構造物があるが、今まで誰が座ったのだろうかと思ってしまった。

   

早戸を出発し、早戸・滝原の二つのトンネルを抜けると列車は「第三只見川橋梁」を渡る。進行方向の右(南)、上流側を撮影。

全てが色褪せた風景は一見“価値”が無いように見えるが、これからの冠雪、春の新緑、秋の紅葉の感動的な車窓の風景を創り出すには欠かせない自然の必然を表している。そう思うと、この景観の重要さをひしひしと感じた。

  

まもなく、列車はこの「第三橋梁」の景観を創る宮下ダム湖(東北電力㈱宮下発電所の調整池)に近接して走る。

   

会津宮下を出発した後、「第二只見川橋梁」を渡った。

    

次駅・会津西方を出て名入トンネルを潜り抜けると、「第一只見川橋梁」を渡った。

    

その後列車は、会津桧原滝谷(柳津町)、郷戸会津柳津で停発車を繰り返し、会津坂本から会津坂下町に入る。

  

そして塔寺を過ぎ、七折峠を下りながら、列車は会津坂下手前で会津平野を走る。

 

列車は若宮を経て、会津美里町に入り新鶴根岸会津高田の各駅に停車。そして会津本郷から会津若松市に入り、西若松七日町で停発車を繰り返す。

  

 

18:42、列車は終点の会津若松に到着。全線乗車の旅、そして今年最後の只見線の列車旅は、無事に終わった。


只見線を全線乗車するのは今回で三度目、2011年7月以降の部分運休後は初めてとなった。途中、肝心な場所で眠ってしまったのが悔やまれるが、改めて実感できたことがある。

 

“つながって”いる価値

 

只見線沿線は大自然言うに及ばず、沿線には人を惹きつけるコンテンツにあふれている。地元の足として重要な役割を果たしている事は間違いないが、それ以上に観光路線としての可能性と価値が高いと私は考えている。

 

但し、これも“つながって”こそだ。

 

只見線は全通に至るまで二度、盲腸線(つながっていない路線)になる可能性があった。

一つは会津川口~只見間、電源開発㈱田子倉発電所建設専用線の譲渡に国鉄が難色を示した時。もう一つは只見~大白川間の着工さえ展望が見えなかった時。

しかし、ここで只見線の新潟県側を地盤に持ち、中央政界で力をつけ始めた稀代の政治家「田中角栄」が“現れ、只見線は一本の鉄路となった。

    

只見線の歴史を改めて振り返る。

【只見線 全通史】
・1926(大正15)年
会津線 会津若松~会津坂下間(21.6㎞)が開業
・1928(昭和3)年
会津線 会津坂下~会津柳津間(11.7㎞)が延伸開業
・1941(昭和16)年10月28
会津線 会津柳津~会津宮下間(12.1㎞)延伸開業
・1942(昭和17)年
只見線 小出~大白川間(新潟県、26.6㎞)開業
・1951(昭和26)年
「只見特定地域総合開発計画」発表
・1953(昭和28)年
電源開発㈱ 田子倉ダム着工
・1956(昭和31)年
会津線 会津宮下~会津川口間(15.4㎞)延伸開業
 

開業から30年で、残るは会津川口~只見~大白川間となった。

  

会津川口~只見間は、電源開発㈱が設置した田子倉発電所建設専用線(1957年開業)の転用で開通は間違いないと思われたが、当時の国鉄が『採算が取れない』と一転、受け入れに難色を示す。

 

そして只見~大白川間には、難所“六十里越え”があり、着工の見通しは立たず「予定線」のまま進展がなかった。

  

ここで現れたのが田中角栄だ。

氏が“全通期成会”の会長に就任してから政界での要職歴任に歩調を合わせるかのように、只見線に関するこの二つの懸案は解決されていった。

氏の選挙区に含まれる“六十里越え”(只見~大白川間、通称・只見中線)にいたっては「調査線」を飛び越えて僅か3年で「着工線」に格上げされ、工事に突き進んだ。 

・1956(昭和31)年 9月
小出只見線全通期成同盟会の新会長に田中角栄(衆議院議員)が就任

・1957(昭和32)年 7月
田中角栄、郵政大臣に就任 *戦後初の30歳代の国務大臣

・1959(昭和34)年 6月
小出只見線全通期成同盟会に福島県も加わる
・1959(昭和34)年 8月
電源開発㈱田子倉発電所建設専用線 会津川口~宮渕(只見町、32,3km)間の貨物輸送終了

・1961(昭和36)年 7月
田中角栄、自由民主党政調会長に就任

・1962(昭和37)年 3月
只見中線 第35回鉄道審議会で只見駅~大白川駅間の着工決定
田子倉発電所建設専用線が電源開発㈱から国鉄に譲渡(会津川口~只見間)
・1962(昭和37)年 7月
田中角栄、大蔵大臣に就任

・1963(昭和38)年 8月20日
会津線 会津川口~只見(27.6㎞)延伸開業

・1964(昭和39)年 2月
日本鉄道建設公団法制定

・1965(昭和40)年 6月
田中角栄、自由民主党幹事長に就任

・1966(昭和41)年 11月15日
只見中線 六十里越トンネル起工式

・1968(昭和43)年 9月
国鉄諮問委員会 会津線と只見線の廃止勧告(全国83の赤字路線)

・1970(昭和45)年 9月28日
只見中線 六十里越トンネル貫通式
 
 
・1971(昭和46)年 7月
田中角栄、通商産業大臣に就任
 
・1971(昭和46)年 8月29日
只見中線 只見~大白川間(20.8㎞)延伸開業
只見線(会津線と只見中線を只見線に統合)全通 会津若松~小出間(135.2㎞)

*写真出処:磯部定治(元越南タイムズ記者)著「只見線物語」(恒文社、p180)

・1972(昭和47)年 7月6日
田中角栄、内閣総理大臣に就任

 

只見線の全通後に、田中角栄は権力の頂点・内閣総理大臣に上り詰める。

田中角栄という政治家の“出世”と重なるように、車社会の到来や廃止勧告など様々な問題をものともせず、最後の難所“六十里越え”を貫通させ、只見線は全線開業を成し遂げ、“つながった”。


間違いなく只見線を“つなげ”たのは田中角栄だ、と私は思う。

 

田中角栄と只見線との関係について記述された書籍の一文を抜粋する。

『(六十里越トンネルの)貫通式には、大白川口からは八台のジープで田中角栄期成同盟会長をはじめ、 新潟県側の町村長ら、只見口からは工事用ディーゼルカーに分乗した篠原鉄道建設公団総裁、只見町長ほか沿線町村長らが、ヘルメット姿でトンネルまで進んだ。・・・(中略)・・・そのときの貫通祝賀会(入広瀬小学校)でも、田中氏は、 「ローカル線の赤字は国鉄の赤字総額の六パーセントか七パーセントに過ぎないのであります (中略)。国鉄の赤字部分を止めるとすれば、もっと大きな東京や大阪の通勤通学線を止める以外にないのであります。ローカル線即赤字という程度の認識では、只見線の重要性など論ずること はできないと思います」 と述べている』 *出処:磯部定治著「只見線物語」(恒文社、p172~173)
『田中が、政界において重要なポストを歴任し、かつ国策、とりわけ鉄道敷設関連に対して大きな影響力を発揮することなくして、最後の砦とも言うべき六十里越は果たすことはできず、只見線の全通は幻に終わったであろう。只見線という鉄道路線の全通は、最後は田中角栄という一政治家の信念によって実現したと言っても過言ではないのである』 *出処:一城楓汰著「只見線 敷設の歴史」(彩風社、p156)

 

“日本列島改造論を提唱 均衡ある国土発展”を願った田中角栄が“つなげ”た只見線。

氏は地域住民の利便性を高め生活水準の向上を願ったが、沿線人口の減少と高齢化、車社会の定着化で当初の目的は失われつつある。

 

しかし、この路線は国内有数の観光路線としての価値を持つ。そして、成熟社会下、鉄道を移動手段ではなくそのものを楽しむ文化が醸成されつつある。また、外国人のインバウンドが多様化し彼らは日本国内の魅力ある場所を探し尋ねる姿が多く見られるようになった。

只見線はそれらの需要に応えられる、と私は考えている。

  

只見ユネスコエコパーク」に代表される広大で手つかずの自然、夏の新緑と秋の紅葉、冬の雪化粧、それらを映し出す只見川の“湖面鏡”。この中をゆったりと走り抜ける列車。乗って良し、撮って良し、見て良し“三方良し”の只見線ではあるが、乗るだけでも十分楽しめる。


そして、東京圏起点の周遊が可能というばかりでなく、行きと帰りに新幹線(上越新幹線・浦佐駅、東北新幹線・郡山駅)を利用できるという利便性もある。

東京を起点に世界有数の高速鉄道に乗車し、一転、ディーゼル車両の只見線でゆったりと大自然の中を走る。

さらに、近代日本形成に大きな役割を果たした旧会津藩領を走り抜けるという歴史文化に触れる事もできる。 *参考:会津若松観光ビューロー

  

新潟県の寒村に生まれた氏が唱え続けた“均衡ある国土発展”は難しい時代ではあるが、氏が築いた均衡ある国土発展に必要なインフラ(=只見線)を利用し、観光客に幸せを提供し、沿線住民がその誘発需要で雇用や生活の糧を得る事で、氏の願いは叶うのではないだろうか。

 

私たちは、田中角栄が“つなげ”てくれた只見線という鉄路を、負債にするのではなく“宝”にしなければならないと思う。

 

 

(了)

  

 

・ ・ ・ ・ ・ ・

*参考:

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室只見線の復旧・復興に関する取組みについて

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)

 

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

  

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。


以上、よろしくお願い申し上げます。