「大航海時代の日本」16 秀吉VSスペイン②
秀吉がマニラのフィリピン総督(スペイン)ダスマリニャスに突きつけた降伏勧告状(1591年、1593年、1594年)のうち3度目のものは、次のように恫喝している。
「余は朝鮮の城砦を占領し、その使者を待つために多くのわが軍を派遣せり。彼らにしてもし再びその言を破るがごときことあらんか、余は親しく軍を率いてこれが討伐に赴くべし。而してシナに渡りたる後はルソンは容易にわが到達し得る範囲内にあり。願わくは互いに永久にわたりて親善の関係を保たん。カスティラ(スペイン)王に書を送り、余が旨を知らしむべし。遠隔の地なるの故をもってカスティラ王をして、余が言を軽んぜしむることなかれ。」
ダスマリニャスは秀吉に親和関係の継続を望むとする返書を出す一方、スペイン国王に対してメキシコより軍隊を至急に派遣することを要請する手紙(1594年6月23日付)を送っている。
「もし日本人襲来するも援兵到着せざる場合には、日本軍は長期にわたり大軍を以て攻囲占領し、臣らをして極めて窮迫の状態に陥らしむるに至るべし。」
メキシコからの派兵はなかったが、スペイン側はわが国の軍事力をかなり恐れていた。実際、当時の日本はヨーロッパに存する鉄砲の総数を上回る30万丁を保有していたとされ、世界最強国家スペインと言えども容易に手が出せる相手ではなかったようだ。
秀吉は、スペインがキリスト教を布教させて住民を手なずけた後に日本を武力で侵略する考えであることを見抜いていた。イエズス会巡察師ヴァリニャーノが、1597年にイエズス会フィリピン準管区長に宛てた手紙にこうある。
「地域(注:日本など)の王や領主はすべてフィリピンのスペイン人に対し深い疑惑を懐いており、次のことを知っているからである。即ち、彼らは征服者であって、ペルー、ヌエバ・エスパーニャを奪取し、また近年フィリピンを征服し、日々付近の地方を征服しつつあり、しかもシナと日本の征服を望んでいる。そして近くの国々にいろいろな襲撃を仕かけており、何年か以前にボルネオに対し、また今から二年前にカンボジャに対して攻撃を加えた。少し前に彼等はモルッカ諸島を征服するための大艦隊を有していた。・・・日本人やシナ人も、それを実行しているスペイン人と同様にその凡てを知っている。なぜなら毎年日本人やシナ人の船がマニラを往き来しており、見聞したことを語っているからである。このようなわけで、これらの国民は皆非常に疑い深くなっており、同じ理由から、フィリピンより自国に渡来する修道士に対しても疑惑を抱き、修道士はスペイン兵を導入するための間者として渡来していると思っている。」
もし明がスペインに征服されれば、朝鮮半島をスペインが支配することは時間の問題であり、そうなればスペインは朝鮮半島から最短距離でわが国に責めることが可能になる。そしてスペインの大軍団がわが国に攻めてきた場合、一部のキリシタン大名が離反することが想定され、そうなればわが国は分裂して内戦が続き、国が危うくなってしまう。おそらくそう考えた秀吉は、フィリピン総督に3度にわたって降伏勧告状を突きつけ、さらには実際に朝鮮出兵をおこなって、わが国をスペインの植民地となることから守ろうとしたのだろう。
サン・フェリペ号の荷物没収(1596年)、日本二十六聖人殉教事件(1597年)でフランシスコ会士とその使者を殺害したことでスペインが日本を攻撃する正当な理由はじゅうぶんにあった。そして、スペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスのイエズス会総長宛の手紙(1599年2月25日付)は、日本の布教を成功させるために日本を武力征服すべきであるとする、詳細なレポートを記している。秀吉も死んだ(1598年9月)。しかし、スペインの宣教師たちの採算の催促にもかかわらず、スペインは攻めてこなかった。フェリペ2世も秀吉に先立つことわずか5日の1598年9月13日に亡くなったのだ。「スペインの世紀」は終わろうとしている(スペイン無敵艦隊がアルマダの海戦でイギリスに敗れたのは1588年)。
「九鬼大隅守舩柵之図(模写)」大阪城天守閣 朝鮮出兵(文禄の役)時の九鬼嘉隆の海軍艦隊(1593年) 九鬼嘉隆が造船した日本丸を中心に九鬼水軍の陣容を描いている
「エリザベス1世(アルマダ・ポートレート)」ウォバーン・アビー
フィリップ・ジェイムズ・ド・ラウザーバーグ「無敵艦隊の敗北」