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短編小説「バトンタッチ②」

2021.06.10 00:26

②朝の妖精


やる事が無くても、朝は朝だ。

定年退職してからもう10年。

自分で言うのも何だが、私は世間一般の老人とは違う。

私は老人の集まりが大嫌いだ。

かかっている病気の多さを競い、飲んでいる薬の量を競う。

いくつになっても、かまって欲しいのである。


私は車のエンジニアをやっていたので機械にはめっぽう強い。

スマホを駆使し、ネット通販を愛用し、生きがいはオンラインゲームだ。

3年前に女房に先立たれてからは一日の大半をモニターの前で過ごしている。

オンラインゲームは素晴らしい。私がやっているのは戦場モノだ。

死んだ親父が見たら激怒するだろう。

ゲームの中では実力さえあれば年齢問わず、

他のプレイヤー達は私を必要としてくれる。

ゲームの中で私は20歳の大学生を名乗っている。

もちろん他のプレイヤーも偽りのプロフィールかもしれないが、

目的達成のためには、本当の自分が誰であるかはさほど関係ないのである。


深夜に強いプレイヤーが現れる確率が多いので、

私の生活リズムも夜型になっている。

このゲームは自分のパーティーに

初心者プレイヤー(ゲーム参加10回以下)を1人入れると、

貰える点数が高いシステムになっている。

市で行っている老人ボランティアより、よっぽどボランティアだ。

だが、昨日パーティーに入れた初心者プレイヤーはおそらく経験者だ。

動き方がまるで違う。ある程度ゲームがうまくなってくると、

知識や経験を持ったまま、一からやり直したくなる。

だが、人生にはそれが出来ない。

心の履歴書は一生消えないペンで書かれている。

彼(彼女)のおかげで私たちのチームが一番を取れた。


午前7時。

「おはよう。」と、ゲームの世界でもチャットで挨拶を交わし合う。

隣人とも喋らないこのご時世にいい風潮だ。

この時間くらいから、学校があるせいか、

ゲームの世界からパッタリと人がいなくなってしまう。

なので、私も朝の散歩に出かける。

健康でなければゲームもできない。

散歩がてら、歩けば歩くほどアイテムが手に入るスマホゲームをしている。

昨日一緒に戦った仲間と、

現実世界のどこかですれ違っているかもしれない。


趣向というわけではないが、私は外に出る時、極力“か弱い老人”のフリをする。

杖をついて暗い色の服を着る。ゲームの中で銃を撃ちまくる私が本当の私で、

傍から見れば、“か弱い老人”が世を忍ぶ仮の姿だ。

“か弱い老人”に世間は優しい。

席は譲ってくれるし、荷物だってたまに持ってもらう。

遅く歩けば大抵の人は道を譲り、赤子に喋りかけても親は何も危険視しない。

人を欺く事がゲームでも上手になるコツだ。


今朝はまだ雨が降っていた。

2時間ほど前、ゲーム内で豪雨を味わっていた私にとって、

現実の雨は何とも弱弱しい雨だった。

玄関先で私は傘ではなく杖を選んだ。

さすがに棒を2つ持って歩くのは面倒だ。

1時間程の散歩を済まし、家に戻ると、ネット通販で届いた荷物を解包する。

何を頼んだか覚えていないくらい頼んでいるので、開ける時は毎回ドキドキする。

今日は個人情報を裁断できるハサミが届いた。


午前9時、そろそろ弁当の配達が来る時間だ。

3年前、女房に先立たれてから、しばらくは自炊をしていたが、

毎日メニューを考えるのが面倒くさい。そして私のレパートリーが乏しい。

その結果、某有名企業がコンビニの宅配限定で出している弁当にたどり着いた。

弁当は日替わりで栄養バランスがしっかり考えられている。

しかも家の近くのコンビニが無料で配達をしてくれる。

便利な世の中になったものだ。

今日は馴染みの主婦のパートさんが配達に来た。

彼女は身長が高く、少し色黒で、長い髪を一つに結んでいる。

タレ目だが大きな黒目をしていて、目を開けたまま笑う。

コンビニの制服にタイトなジーンズ姿だが、間違いなく美人だった。

これまでの会話でわかっている事は、

シングルマザーで小さい息子が1人いるという事、

他にも違う仕事をしているという事、

途中辞めたりもしたが、この仕事をもう15年くらいしているという事だった。


「おはようございます。まだちょっと雨降っていますよ。雨だと散歩も出来ませんね。」

「おはようございます。ご心配なく、もう散歩は済ませてきましたよ。」

「あら、良いですね~。お元気ですね~。」


私があと30歳若かったら、淡い期待を抱いていたが、

今は数分この程度の会話が出来るだけで嬉しい。

彼女は赤いレインコートを着て帰っていった。

今日の弁当は野菜に黒酢がかかったものと、

肉の代わりに豆腐を使ったそぼろご飯だった。

豆腐だと言われなければ、全くわからないクオリティだ。

私ならきっと正体をバラさないが、商品である以上、仕方ないだろう。

この配達弁当はとても美味しいが、全般的に柔らかいものが多い。

そこだけが少し気に入らなかった。


ポストに老人会の集いの知らせが入っていた。

紙に書いてあったゲートボール大会の集合時間は朝の8時だった。

昔と違い、老人も元気だから、ゲートボールでよくケンカになると聞く。

私は年を取るにつれて人見知りをするようになってきた。だけど、ゲーム内では平気だ。

ネットの無い時代に老人じゃなくて良かったとつくづく思う。


午前9時30分。

弁当を3分の1残し、布団に入った。

起きるのは午後4時頃である。

贅沢な朝だが、贅沢も続けていれば、飽きてくる。

優しい雨音は子守唄のようだった。