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粋なカエサル

「大航海時代の日本」17  オランダ(1)オランダ船リーフデ号

2021.06.10 02:05

 秀吉の死は、長崎・有馬方面に逼塞していたイエズス会に新たな希望を与えた。貿易を促進したい一心の家康は、キリスト教への嫌悪を隠して、イエズス会ともフランシスコ会とも関わる。ヴァリニャーノは第3回日本巡察のために1598年8月5日、長崎に上陸(1603年1月まで、主として長崎に滞在)したが、翌年ロドリゲスを都へ派遣。伏見で家康に会い、宣教師の自由な居住を求めた。家康は「太閤が亡くなったからといって、すぐに追放令を解除するわけにはいかないが、いずれは定住の許可がおりるだろう」と答えた。また、関ヶ原の戦い(1600年)の直後にも、ロドリゲスは都に上って家康に面会。家康は上機嫌で、都と大坂と長崎の3か所にイエズス会の会宅を置くことを認めた。さらに、翌年にまたロドリゲスが上京すると、家康はロドリゲスを自分の通商代理人に指定した。

 家康はポルトガルのマカオ貿易だけでなくスペインのマニラ貿易にも積極的に関わろうとする。秀吉の死後まもない1598年12月、伊勢国に潜伏していたフランシスコ会の宣教師ヘロニモ・デ・ヘスースを伏見城に呼び寄せ、スペイン船の浦賀寄港、ならびにスペイン人の鉱山技師召請の件で、フィリピン総督にあっせんの労をとるように依頼。その代償として、江戸居住と教会の建設を許した。へスースは、都の信者を伴って江戸へ赴き、1599年5月、新築成った教会堂で初ミサを献じた。

 このような家康の前に現れたのがウィリアム・アダムズ。オランダ人ではなく、イギリス人。船大工の修業を終えると方々へ航海し、その間にオランダ人とも親しくなった。オランダは1568年以来スペインと独立戦争を戦いつつ、1595年に初めてアジア遠征船団を送ったが、1598年出航の第二回遠征隊にアダムズは加わった。船団は5隻で出発したが、大西洋、マゼラン海峡を経て、ペルー沿岸から太平洋を横断する時に、他船は引き返したり喪われたりして、残るはアダムズの乗るリーフデ号1隻になっていた。太平洋横断には6カ月かかった。1600年4月29日、現大分県臼杵市佐志生(さしう)に漂着した時には、生存者は24人。

 船は大坂に廻漕され、アダムズが家康の前に引き出された。家康はアダムズから、オランダ人がスペインと戦争している事情も含め、根掘り葉掘り聞きだす。その間、イエズス会士は彼らが海賊であると吹き込んだが、家康は中傷に左右されなかったとアダムズは言っている。アダムズは家康に気に入られ、側近の家臣となる。彼は家康に数学を教えたというが、極東におけるヨーロッパ諸国の角逐についても、有益な情報を与えたようだ。

 やがてオランダが、ヨーロッパ諸国の中で唯一の日本の貿易相手国になるが、必然のことだった。オランダは、キリスト教の布教には関心がなく、もっぱら純粋な交易者として登場した。それこそ、信長、秀吉、家康、九州の大名たちが望んでいた相手だった。しかしその点だけならイギリスも変わりない。イギリスも押しのけてオランダが17世紀の東南アジアに君臨することになるのはなぜか?それには新興国家オランダ誕生から見る必要がある。そしてそれは宗教改革が絡んでいる。16世紀は、「スペインの世紀」だったが同時に「宗教改革の世紀」でもあった。

 現在のオランダが位置する低地地方(ネーデルラント)は、16世紀初めからスペイン・ハプスブルク家の支配を受けていた。宗教改革運動の影響を受け、多くがカルヴァン派新教徒となっていたオランダ人は、カトリックを強要するスペイン王フェリペ2世に反抗して1568年、叛乱を起こす。以後、1648年に他のヨーロッパ諸国によって独立が正式に認められる(ウェストファリア条約)まで、スペインとオランダの間では戦争状態が続いていた。スペイン王が王位を継承したポルトガルは、そのとき(1580年)からオランダ人の敵となった。オランダは九州程の面積しかない小国家。そのオランダが、ポルトガル、スペインさらにはイギリスをしのぐほどの力を17世紀に持つに至ったのはなぜだろうか?

三浦按針上陸記念公園(大分県臼杵市黒島)

ハウステンボスにて復元展示されているリーフデ号のレプリカ

「ウィリアム・アダムス像」歴史の道 平戸

「徳川家康」