日本語で始めるCommon App【 Part 4 / 4 :後付編】
こんにちは。ここまで長い長いCommon App解説にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。尻切れトンボにならないための付け足しのような投稿ですが、本編はここまでの Part1-3 ですので、今回はあまり有益なことを書こうとは思っていません。問題が起きた時の対処法と、マニアックな感想を書きたいと思います。
困った時の対処法
まず、公式のQ&Aサイトを見ましょう。
https://appsupport.commonapp.org/applicantsupport/s/
本当にたくさんの想定事例があります。
それでも分からなかったら、
https://appsupport.commonapp.org/applicantsupport/s/contactsupport
このCommon Appのサポートセンターのフォームから英語で質問を送りましょう。
簡潔にぱぱっと送ればOKです。数日で返信してくださることが多いです。(私もお世話になりました)
海外大学受験という険しい道のりにおいて、人に頼ることはとても大切だと思います。悲しいかな、どれだけの人と環境から、どれだけの助けを得られたかが、大きなファクターだと思います。人を頼りましょう。
公式のサポートセンターはどんなに分かり難い質問でも大抵は返信してくれると思います。
しかし先輩などに聞く際は ①質問と経緯を簡潔明瞭に ②最低限の礼節を持って ③返事を期待せずに、質問すると受験生の精神衛生には良い結果になるのではないかと思います。
キャンプファイヤー
よく米国学部受験は「Holistic(全体的)な人物像の評価をする」と言われます。
実際、ここまでのブログ本編 Part1-3 で書いた情報、場合によっては芸術・学術作品などの “Supplemental materials”と面接によって合否の判断を二択で下されるわけです。
多面的な評価だと思われたでしょうか。断片的な情報だと思われたでしょうか。
捉え方は人それぞれだと思います。
Operation Varsity Blues(アメリカの大学の裏口入学騒動)で燃えるThe Wall Street Journal(https://www.wsj.com/articles/operation-varsity-blues-the-college-admissions-scandal-review-dishonor-system-11615930560)を見て、米国の受験方法は私に向いていないと思ったこともありました。国内の受験方法の方が単純明快です。それでも、私の志には海外大学の環境の方が実現可能性がはるかに高いと信じました。
出鱈目なガウス記号のグラフ世界に入ると、いくら外を目指していても視野が狭く内を向いていきます。大学の入り口ばかりを見つめると、在校生やランキングなどのフィルターされた情報に踊らされ易くなります。意識的に鳥瞰しないと、いつまでも受験や実績やブランドに囚われ続け、精神的支柱にしてしまうのでしょう。私も十年後に出願書類を読み返したとき、哀愁を感じないような生き方をしていたいと心掛けます。
米国学部受験は、自分以外の人間から高く評価されることを目標とします。名前も顔も基準も見えない外部からの評価を最大化するために、自分というアプリケーションを最適化するプロセスです。特権化したモデル群にアクセスできれば残るは限りなく運のみです。学力や才能に必ずしも比例しない点が米国学部受験の強みと言えるでしょう。このサバイバルゲームに成功すると、その後のあらゆる場面で「他者からの評価関数を最大化するように自分の人生を設計しよう」という延長された思考回路に陥るようになります。無意識に他者が求める人物像を脱構築し始めるのです。しかし、より最適化された人々の存在を無視することは出来ず、「特別」だった自己を規定する根拠の幅が徐々に狭くなっていきます。自己同一性に揺らぎが出ると、不必要な承認や露出をして新たなシニフィアンを得ます。この社会的帰属に必然性を探すジレンマの中で、本質的に他者の時間を生きてしまうのです。
逆に、偶発的な出会いやイベントを通して自身が思ってもみなかった方向に成長できる機会を楽しめると、人生はとても面白いものになると思います。思うようにすすまないなかでも、いまやっていることが将来何に繋がるのかを楽しむ。泥臭い道を懸命に走りながらも道端の草花を楽しめる。そんな非合理的で人間らしい感性を持ってserendipityさえも全力で満喫したいと思います。
「国際政治の機構現象説を考えたい」「シナプスの可塑性と記憶の関係を紐解く」心や流行に刺さりそうな即答がきました。入学前から言えるようになるまでの過程を想うと、尊敬すると同時に悲しくなってきます。本来問われる生きる力や将来に対する貪欲性、興味や学力、才能とは何でしょう。合格すると才能や努力があったと持て囃され、それ以外は環境を活かせなかったと黙殺されます。実際、実質全滅する人も多く、志望校や有名校に行ける人は一握りの拳の指の爪の垢くらいです。私には米国学部受験という文脈で二者に大きな差があったとは思えません。パッケージに基づいた人物評価や多様性尊重が学歴偏重社会を米国内外で助長し、カステルのいう負の個人主義の要因を増やすのでしょう。巷では、国力低下の危機意識を煽り、留学生を祭り上げると発言力が増す傾向が見られます。東大の世界ランキングを嘆く前に、詳細なクライテリアを参照した上で考察したいです。海外大進学者と国内大進学者に極方程式の面積を求めさせたらどうなるのでしょう。こういった基礎の習熟とその過程にまで全く意味がないとは思いません。日本においては国際化の過剰促進も、学歴と学力の乖離をつくる社会的要因に組み込まれるのでしょう。過度な一般化を受け入れる社会と、無批判に駆り立てられる高校生に、私は疑問を感じます。視座高く相対化し、ツァラトゥストラとまでは言いませんが、本来の目標を見失わないくらいには自分の軸と基準を持ちたいと自戒します。
さて、依頼されたとはいえ、ここまでの3編のブログに何かの意味はあって欲しいと思います。私が書かなくてもいいことを書き、しなくてもいい発信をしたのは、受けた恩を継なぐべきだと思うからです。種同士・個体同士の奪い合いを究極的生存意義とする生態系で、一個体ではか弱い人間という生物が繁栄できた一つの要因は、見知らぬ人間までもを尊ぶことのできる利他性の獲得でした。本来は何かに寄り添い合うはずの社会で、自我を確立せぬまま共依存する欲望の関係が散見されます。点での理解では、嫌いなものは嫌いでいいと思います。しかし社会は適合し寄り添うもので、許容の幅も大事です。不顕性感染者の増大に疑心暗鬼になり、「自分は一人でも生きていけるんだ」という錯覚による原始的で利己的な物差しが多様な解像度で顕著になっているようにも感じます。同様に、海外学部受験の根幹も、不平等で不合理な成功倫理です。そこに貼り付いた「一個人を評価する」という真ではないラベルのせいで、周囲のスクラムに乗せてもらっているという事実が統覚しづらくなっています。キラキラした平等は禍々しい絢爛かもしれません。優秀・天才・異色などの選民意識を感じる言葉はどこまでを実力としているのでしょう。金銭やレジュメが背後にない支援がどれほどあるのでしょう。大学より受験に意味が置かれるのはなぜなのでしょう。社会や文化の再生産へ積極的是正を訴える者がワクチンの優遇に歓喜するのは奇妙です。この社会的条件と命の直結は他の格差とどう構造が違うのでしょう。前後の連続が平等でないこのイベントでは、機会平等と学歴格差の矛盾が循環します。これら社会の自己矛盾こそ人間らしいと言えばそれまでです。事象の性質上仕方ないのかもしれません。しかし、ニッチを終わらせあまねく広がろうと動き始めた米国学部留学は受験というイベントによって、手段と目的、現象と本質が、極度にごっちゃになっている気がします。立場や主義を移動しながら観想し、少しずつでも人間種内の利他性を保証することが、創造的破壊による絶滅の時代から、他種への利他性を持つための行動変容の一歩となると信じたいです。
ふみ