「大航海時代の日本」19 オランダ(3)オランダ東インド会社(VOC)②
イギリス東インド会社の設立が1600年に対して、オランダ東インド会社は1602年。それにもかかわらず、史上初の株式会社はオランダ東インド会社とされる。なぜか?イギリスの場合は、会社のために集められた資本は1回の航海ごとに出資者に返還されたが、オランダの場合は10年間据え置かれた。つまり永続的に会社を存続させることを前提とした大規模な貿易会社だった。ただし、今の株式会社と異なる面もあった。株式の所有割合に応じて会社の意思決定に参加するという民主的な制度は1799年の解散までついに導入されることはなく、有力な株主が寡頭的に支配する過渡的な形態の株式会社であった。
当初の資金力においても両者には格段の差があり、オランダの会社はイギリスの会社の12倍以上の資本でスタートした。さらにオランダの会社は、軍隊を保有し、要塞を構え、条約を締結する権利も与えられたが、それは会社の目的が貿易だけにあったわけではなかったからである。アジアにおけるポルトガルの拠点を攻撃することによって、敵国スペインに経済的な打撃を与えるのも、その重要な目的だったのだ。
オランダ東インド会社は、東南アジア海域に進出してまもなく、マルク諸島やバンダ諸島産の高級香辛料貿易の独占を試みる。拠点にしたのは、最初はジャワ島西部のバンテン、1619年からはバンテン王国内の港町ジャカルタ。ここを、バンテン王国やこれと結んだイギリス東インド会社軍と戦った末、力ずくで奪い取り、要塞を築きバタヴィアと命名した。1620年1月現在の人口は873名、そのうち71名が日本人だった。彼らの多くは東インド会社の傭兵として海を渡ってきていた(オランダ東インド会社は、1609年に江戸幕府から貿易を許可され平戸に商館を設置していた)。
バタヴィアに拠点を置いたオランダ東インド会社による香料諸島への進出は、ポルトガル人にもまして暴力的だった。一例を挙げる。1620年にバンダ諸島の住民が、オランダ人への香辛料の引き渡しを拒む事件が起こった。オランダ側は、これを彼らにやや遅れて東南アジア海域に現れ競争相手となっていたイギリス人による煽動と見なし、討伐の軍を派遣した。オランダ東インド会社軍は、島々を次々に占領し、イギリスの拠点があったルン島では、800人近い島の人々を捕虜としバタヴィアに送って奴隷として働かせた。残りの住民が抵抗の姿勢を示すと、人質にとっていた彼らの指導者47人を虐殺した。別の島に逃げようとした住民はとらえられ、成人は全員殺された。こうして住民がいなくなった島に東インド会社の使用人らが送り込まれ、奴隷を用いたナツメグ生産が始まった。
この「ルン島事件」と同様の事件は他の島でも起こっている。1621年、バタヴィア総督ヤン・クーンが自ら2000人の兵(うち87人は日本兵)を率いてナツメグを産するバンダ島に上陸し、問答無用で片端から住民の殺戮を始めた。1500人の島民は全て殺されるか奴隷としてジャワ島へ連れかえられるかしたため、島には住民が全くいなくなった。クーンは新たに奴隷を島に送り込むとともに、ヨーロッパ出身者に農園を賃貸する形でナツメグ生産を始めさせた。クーンの名は「バンダの殺戮者」として今日まで記憶されている。
オランダ東インド会社は、このように武力をしばしば用いながら高級香辛料の生産をおさえることによって、その貿易の独占をめざした。各地からのクローブ買い付け商人が集まるスラウェシ島のマカッサルに対しても、ポルトガル人、スペイン人、イギリス人らヨーロッパからの商人を追放するように圧力をかけ、要求に応じないマッカサルを激しい戦いによって1669年、ついに屈服させる。ポルトガル人の重要な拠点だったマラッカも、1641年に征服した。各地で抵抗に遭いながらも、オランダ人たちは徐々にその勢力を東南アジア海域に広げ、17世紀の末頃までには、高級香辛料の直接取引から他のヨーロッパ諸国の商人を排除することにほぼ成功した。さらにアジアの海の他の地域へも次々と商館を展開していった。少なくとも17世紀から18世紀初めまでの時期、アジアの海のほとんどの場所において、オランダ東インド会社の存在と活動は、他のヨーロッパ諸国の同種の会社のそれをはるかに圧していた。
アダム・ウィラーツ「西アフリカ沖のオランダ東インド会社の艦隊」1608年 アムステルダム市立美術館
ヨセフ・ムルダー「アムステルダムにあったVOCの造船所」
アンドリース・ベークマン「バタヴィア城」1651年頃 アムステルダム国立美術館
オランダ東インド会社の主な商館所在地 17~18世紀