「まつり(祭り)」と「まつりごと(政治)」
Facebook・清水 友邦さんさん投稿記事「よみがえる瀬織津姫」
縄文時代に出土する土偶はほとんどが女性像です。
そして世界を見ても古代は母系社会で女神信仰だったことが明らかになっています。
秋は母なる大地が食べ物を豊富に恵み冬が終われば春に再び植物が芽を出します。
自然界のすべての存在は互いに深くつながっている円環構造をしていました。
大地と女性は命を生み出す偉大な女神の象徴でした。
すべての存在は万物を生み育て養う偉大な地母神の子供でした。
鳥も獣も魚も山も川も木も草も岩も、精霊が宿っていました。
その精霊の命をいただいて人間は生かされていました。
縄文は母系の血族集落を築いていました。
母系社会の子供は母親の一族が育て家と財産は娘が相続します。
男性と女性は一緒に生活しないで夜だけ女性の元へ男性が通いました。
家に父親はいないので一家の主人は女性でした。
縄文時代は女性が主導権をにぎっていました。
3世紀ごろの日本は女性シャーマンの卑弥呼が「まつり(祭り)」をして「まつりごと(政治)」は男性だったことが『魏志倭人伝』に書かれています。
古代では女性が宗教的な権威をもち男性が政治をおこなうかたちをとっていました。
古代の信仰を残していた琉球では、神に仕えるのは女性とされていたので、祭祀をおこなう聖地の御嶽(うたき)への男性の立ち入りは禁止されていました。
例外とされた琉球国王でさえ、聖域内に入る際には女性用の衣装に着替えたと伝えられています。
これと似たような説話が日本書紀の神代記に出てきます。「お前を斎主として、女性らしく厳姫(いつ姫)と名付けよう」と神武天皇が男性の道臣(みちのおみのみこと)に語る場面があります。
古来から呪術能力があるのは子を宿す女性という信仰が強かったので祭祀を行う男性に女性の名前をつけたのです。
芸能の始祖と呼ばれているのが天の岩戸の前で踊ったアメノウズメのミコト(天宇受賣命/天鈿女命)です。
古事記の記述では、マサキノカズラ( 真折の葛)を頭飾りに、ヒカゲノカズラ(日陰蔓、常緑のシダ植物)をタスキにして、小竹の葉を手にもつ草装の出立ちでした。植物に精霊が宿るのです。
アメノウズメは桶を足で激しく踏みならして、大きな音を鳴らしました。
民俗学者の折口信夫(おりくち しのぶ)によると日本の藝能は古代から「舞(まひ)」と「踊(をどり)」に別れていて、飛び上がる跳躍運動が「踊(をどり)」で「舞(まひ)」は旋回運動であると述べています。
その違いは理性を越えて体を動かす興奮状態の度合いによるといいます。足をあげて板を激しく踏むのは舞いではなく踊りの動作です。
舞いは神懸りに導くまでの動きであり、踊りは神懸りしてからの動作を正気で繰り返すところに発生すると折口は説いています。
「くるう」という言葉はくるくる廻る時の「くる」と同じで中世では「まう」「くるう」が同じ意味をなしていました。巫女の「神懸かり」による旋回動作は「まはる」であり「舞い」と同じです。日常的な意識を超えた力に自我が明け渡した時に舞いが起こります。つまり狂うのです。
日本書紀の記述でアメノウズメは茅を巻いたホコを手に巧みに俳優(わざおぎ)したとあります。アメノウズメの神懸かりは俳優(わざおぎ)でした。つまり、このころはすでに真性のトランス状態ではなくて様式化された演技になっていたようです。アメノウズメは司祭だったのでしょう。
トランス状態の中で神懸かって神の託宣を述べるのが巫女でした。
それが古代のシャーマニズムです。しかし、繰り返していると、それはいつのまにか儀式化され、衆人に見せる為の芸能として洗練されていきました。
そして日本各地に巫女舞いなどの芸能として残ったのです。
古い巫女舞は旋回運動をします。中世では「まう」「はしる」「くるう」が同じ意味をなしていました。
「くるう」という言葉はくるくる廻る時の「くる」と同じでもともと旋回運動を表していたのです。
巫女の「かみがかり」による旋回動作は「まはる」であり「舞い」と同じです。
日常的な意識を超えた力に自我を明け渡した時に舞いが起こります。つまり狂うのです。
この宇宙のあらゆるものは回転する円環構造をしています。
円環の中で生と死が繰り返されています。円は始まりも終わりもなくひとつに繋がっています。
舞をしていると大地から螺旋状にエネルギーが上昇して身体を流れます。
そのエネルギーは自我の境界を溶かすので不安や恐怖を伴うことがありますが、恐れずにあるがままにしておくことでエネルギーは自我の境界を超えて流れて浄化します。
日本には昔から、「ハレ(晴れ)」と「ケガレ(穢れ)」という考え方がありました。
ケとキ(気)は異語同義語で、キ(気)は目に見えない潜象エネルギーをあらわしています。
ケの生命エネルギーが枯渇するのが「ケガレ(褻・枯れ)」です。
「ケガレ」は、ミソギ(禊)やハライ(祓い)を通じてエネルギーを充電させて回復します。
ツミ(罪)のツは包むのツで、ミは自己の本質のことです。ツミとは本質の上に覆っている余計な知識や観念、思い込みのことです。
本当の自分を自我意識で包み隠すことが〈ツミ〉だったのです。
ですから本来の自己が思い込み(ツミ)で覆われてしまうと、エネルギーが流れなくなり、気が枯れて、「ケガレ」てしまいます。
そこで、エネルギーを回復するために、「ミソギ」でツミ(罪)を削ぎはらいます。〈ツミ〉を削ぎ落として本来の〈ミ〉に帰ることが〈ツミソギ〉即ちミソギなのです。
自我という思い込みが祓われると、神であるミタマ(本来の自己)が姿を現し(ヨミガエリ)、ミタマ(本当の自己)はハレ(晴れ)となるのです。
縄文時代は戸籍もなければ結婚制度も存在していませんでした。
日本は母系社会だったので嫁入りはなかったのです。
血統と財産は母から娘へ受け継がれました。
古事記でイザナミが「あなにやし、えをとこを(ああ、なんとええおとこ!)」 あとからイザナギが、 「あなにやし、えをとめを(ああ、なんとええおとめ!)」 と呼び合って結ばれる話が出てきます。
古代では女性から先に声をかけるのが礼儀でした。
古代は「好きになったら一緒になり、いやになったら別れる」純粋な自由恋愛だったのです。
結婚を強制される事も別れさせられる事もなかったのです。 男性は自分の生まれた家で生活していたので、自分の子供を養育する事はありませんでした。母から娘へ家と土地、財産が受け継がれ子供は母親の家族と一緒に暮らしていました。財産分与の問題も嫁舅の人間関係のわずらしさがありませんでした。 父親という概念さえもなかったのです。
ですから嫁姑の問題も離婚にともなう養育費の問題もありませんでした。
男女のカップルは好きな時に一緒になり、嫌になれば別れるのも自由でした。
お互いに好きな人ができたときは執着しないのが礼儀でした。
日本では家父長制が入ってきても完全な父権社会に移行せずに母系と父系の折衷としました。
日本のように夫の給与を妻が預かり、家計管理を行い、夫が妻から小遣いを貰っている国は世界を見ても珍しいのです。
大化の改新の時の右大臣の名前は蘇我倉山田石川麻呂といいます。
蘇我は父系の苗字で麻呂が名前です。倉と山田と石川のいずれかは母方の性と見られています。
足利義政の正室は日野富子で源頼朝の正室は北条政子です。
どちらも性が違います。
平安時代まで通い婚がおこなわれ、母方の家で子供が育てられる妻問婚が行われていました。
古代日本は推古、斉明、持統と何人もの女性天皇が即位しています。
昭和30年代まで妻問婚の名残が行われていたという報告もあります。飛騨高山の伝統的民家には夜に訪れる男性の為の屋根裏部屋への出入り口がありました。
平安時代の中頃から男性が女性の元へ通う妻問婚から婿が住み込みで妻の家に同居する婿取婚へ変化していきます。
優秀な男手が欲しい母系の家では夜に通ってきた男の現場を3日目に取り押さえて無理やり餅を食べさせる三日餅という儀式を行いました。
女性の家族の一員となる儀式が済むと男性は夜に通う事をやめて公然と出入りして住み着つきました。
これによって男女の関係は自由恋愛ではなくなり、母方の家の父親の意向が強くなり、親の権限による結婚が行われるようになったのです。
婿が妻の家に住む様になると婿の生活費は全て母方の実家が持ち、父方の実家の扶養義務は10世紀頃までありませんでした。
子供は父方の姓を名乗っても母系家族によって養育されました。この時代の結婚とは基本的に婿入りであり、息子はいずれ他家に住み込むものなので家は娘に譲られるのが普通でした。
中央集権が進み律令体制が整えられたのが八世紀です。
人口の増加をはかるために早婚を奨励した年齢がそのまま日本に持ちこまれ、結婚年齢は男子15歳、女子13歳でした。
男性原理が強い儒教の影響下にあった中国の律令体制をそのまま取り入れたのです。
地方豪族の姉妹・子女で姿端麗な女性は天皇に貢ぐように勅令が出されています。
妻は家に縛り付けられ妻の財産も含めて全ての財産は夫の所有となりました。
結婚は家父長が絶対の権限を持ち許可のない自由な結婚は認められませんでした。
離婚の請求権は妻になく、女子を産んでも男子を埋めない女性は石女と軽蔑され離婚の対象となりました。
およめさんは嫁という漢字を使います。
嫁という漢字の正式の読みは「ケ」「カ」で、元々の漢字の嫁の意味は「ゆく」「売る」「なすりつける」です。
嫁を取る婚姻の形態の始まりは略奪、召し上げ、進上だったと言う事です。
略奪は男性原理が強くなり戦争が行われるようになってからの事です。主に男性が戦いのリーダーとなり敵方の財宝や食料、女性を奪ったのです。 召し上げ、進上は中央集権が進みはっきりとした上下関係が成立した社会が形成されてからの事です。
戦争をするのは男性でしたので軍事リーダーは男性でした。
戦争が続くと徐々に女性リーダーは姿を消していきました。
祭祀も男性が独占するようになり聖地の女人禁制が現れました。
武家社会の到来によって惣領制という家族制度が起こってきました。
その家の正妻が産んだ長男が財産を一人で相続するようになったのです。
妻に対する貞操観念が強くなり、夫方の家に縛られるようになりました。
儒教的な観念において結婚は男子を産むことが最優先であり子孫を残さないことは不幸の最も最たるものでした。その為に女性は子供を産む道具にしか過ぎず、子供を産めない妻は離縁されました。
結婚の決定権は家に握られ、自由恋愛は礼節にふさわしくありませんでした。
武士の時代が終わると明治政府は家父長制を法律で定めました。
天皇が父で国民が子供であるという家父長社会の条件付けを国家の理念として天皇に従順な国民になるように学校で教育されました。
父である天皇に従順な国民を作り「忠君愛国」をスローガンに富国強兵、忠孝一如、男尊女卑、夫唱婦随と性別による社会的役割が強制されました。
男性原理が強い家父長社会の女性は兵士を産む機械でした。
子供が産めない女性は一方的に離縁されました。
「結婚する前は父親に従うべき、結婚したら夫に従うべきで、夫がなくなったら息子に従うべき」と女性は一方的な服従を求められました。
長男が絶対的な権威を持ち、家族に対する統率と財産の管理をして女性は男性に恭順・服従するように強要されるようになったのです。
古代の祭事は神体山の磐座の上で魂振りなどの呪術行為を女性が祭主となって神がかりをしていました。
定住農耕社会になり政治が統合され王があらわれるとシャーマンは呪術師と呪医、占い師、祭司と分業化されて脱魂型のシャーマンはみられなくなりました。
宗教儀式を司る専門職が細分化されて神主、宮司、女禰宜(めねぎ)、権禰宜(ごんねぎ)、祝(はふり)、陰陽師、検校(けんぎょう)、権検校と多数の神職が作られ女性の地位は低下しました。
神々の声を託宣する巫女は力を徐々に失い、やがて男性の司祭による組織的な宗教行事が執り行われるようになりました。
中央集権国家は勝手に神がかりして秩序を乱す巫女を嫌いました。
明治政府の原動力になった長州藩の国学者岡熊臣(おかくまおみ)は神懸かりをする女性の巫(めかんなぎ)男性の覡(おかんなぎ)を嫌悪し、神職と区別して巫覡(ふげき)を処罰の対象としました。
長州藩は国学者の意見に同調して皇祖からはずれた2万の祠や道祖神、石仏が淫祠として撤去されました。
これが明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と小集落ごとにあった7万社の神社が合祀廃社された神社合祀令の前触れとなりました。
明治以降、女性は神職と切り離され補佐役の舞女、巫女として男性の下におかれました。
アメノウズメが天の窟戸の前 での覆槽(うけふね)の上で足を激しく踏み鳴らし、鉾で槽を衝いて神懸りする所作は、 宮中祭祀の「鎮魂祭」の「宇気槽(うけふね)の儀」として七世紀の天武朝で儀式化されました。十世紀の平安中期に編纂された『延喜式』では神職の数や行事作法が細かく制定されて形式的になり、十五世紀半ばには宮廷の鎮魂祭儀は完全に廃れてしまいました。
男性原理が強くなると、女性は罪深く「不浄」で穢れた存在と見なされるようになり、神聖な場所への女性の立ち入りが禁止されるようになったのです。
女性シャーマンから男性の祭司へ、アメノウズメから猿女君へと引き継がれた神事芸能が女面をつけた男性による舞手になりました。
神仏習合の社寺や霊場、霊地は女人禁制となり神楽も男性だけが踊るようになっていました。
男性が女の面をつけて踊るのは女性が祭祀の主導権を握っていた時代の痕跡なのです。
先日、早池峯神社で早池峰山の安全祈願が行われ男性だけの舞の神事に瀬織津姫舞が初めて披露されました。
日本は危機状態にあります。
日本が再生するには女性原理と男性原理のバランスが不可欠です。
バランスを取るかのように
その象徴である禊と祓いの女神「瀬織津姫」が表に現れたのです。
引用参考文献 「よみがえる女神」
https://www.amazon.co.jp/よみがえる女神-清水-友邦/dp/4864512523