俳句は遊び
https://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/5f71979858ed93f7a565762369b1a6e7 【「遊び」がテーマの一冊】より
いい企画だったと思うのが蝸牛社の「秀句350選」のシリーズ。〔だったと書いたがまだ続いていたら失礼〕
テーマ別で一冊になっていて、そのテーマが「雨」「色」「数」「猫」などユニークで、好きなテーマなら一冊欲しくなる。ボクはまず「遊」のテーマに魅かれて購入した。選者は鈴木鷹夫さん。
この集の解説にも引用されているのが梁塵秘抄の
遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけむ
遊ぶ子供の声きけば
我が身さへこそ動がるれ
俳句そのものの本質が「遊び」なのである。山口誓子の「俳諧に遊びほうけて去年今年」を待つまでもない。
「遊び」がテーマの句ばかり350句集めてもらって嬉しい限りである。
全体は四章立ての構成。
1章 愉しい遊び
2章 哀しい遊び
3章 自然の遊び
4章 鳥獣の遊び
やはり「遊び」を遊べるのは人間だけだから、1章2章に面白い句が多い。一句ごとに鈴木鷹夫の短い鑑賞が付されていて、これがなかなかいい。
<1章 愉しい遊び>
汐干狩夫人はだしになりたまふ 日野草城
持ち寄りしもの炉話もその一つ 後藤夜半
志ん朝の嬉しき二重廻しかな 三浦公子
「二重廻し」とは和服の上に着る男性用コートのことで、とんび、インバネスともいう。志ん朝は言わずとしれた噺家の古今亭志ん朝のこと。作者はたまたま街角で志ん朝とすれ違ったのだろう。この句は「嬉しき」が眼目で、志ん朝ファンの作者の嬉しさと、志ん朝の二重廻し姿の佳さ、という嬉しきなのである。正に俳句的表現。
夕焼けて玩具の切符は京都行 西宮陽子
汝が胸の谷間の汗や巴里祭 楠本憲吉
釣堀に出前の蕎麦の届きけり 安住 敦
双六の振り出しに住み日本晴 中根喜与子
風車子の眼遊びてまだ見えず 福永耕二
提灯の三つに一字づつおでん 下田実花
小春日や兎とあそぶ巫女の膝 福田甲子雄
遊船の中なる茛盆が見ゆ 京極杞陽
朝潮がどっと負けます曼珠沙華 坪内稔典
お手玉の一つは高く花の空 磯貝碧蹄館
私の母はこのお手玉がとくいでそれは見事にあやつったものである。その一つが時々高く上がる。あたかも花の盛り。一瞬お手玉と桜が重なる佳ろしさ・・〔特に好きな句〕
風船のはづかしさうに落ちて来し 佐々尾禮子
ひきだしにグリコのおまけ鳳仙花 穴井 太
千代紙の散らばる座敷雪渓見ゆ 菅原鬨也
おぼろ夜の浮世絵をまた桐箱へ 三森鉄治
現在地不明枯野に地図拡ぐ 津田清子
父がまづ走ってみたり風車 矢島渚男
虚子の忌の大浴場に泳ぐなり 辻 桃子
ままごとの少女椿を食べるふり 佐野典子
混浴の農婦泳げりみどりの夜 下田 稔
〔ボクの特に好きな句〕
<2章 哀しい遊び>
遊びは虚であるから、どんなに愉しくとも哀しさを伴うもの。その意味でこの哀しい遊びの章こそが、本書の眼目と思える。
病むことの遊行めく日の鳥曇 野沢節子
手鞠唄三つの次は母が継ぐ 成田清子
雪ふるや向ひ座敷の数へ唄 ながさく清江
遊ぶなり月夜の蟻のひとつぶと 加藤楸邨
〔特に好きな句〕一匹ではなく、ひとつぶが哀れでいい。
七つとせ七つで逝きし姉の雛 佐藤幸栄
炭の尉(じょう)はらりと崩る姫始め 佐藤正
尉とは炭火の灰になった部分。炭の尉がどうして崩れたかまで述べる必要もなかろう。哀しい遊びと思いたい。
パンダ見る男と女そして冬 坂本 登
鞦韆にしばし遊ぶや小商人 前田普羅
みなし栗ならべおはじきあそびせる 加藤三七子
〔特に好きな句〕誰も拾ってくれないみなし栗。ならば遊んであげましょうという優しい心根。
唄の店からをとこと女しぐれけり 東 余風
乙字忌や火遊びのごと句に溺れ 河野南畦
落花掃く神が遊べるごとき婆 大隈徳保
海へゆくあてなどなくて夏帽子 江隈順子
萩は折り芒は引きて遊びけり 石毛喜裕
〔特に好きな句〕
熱帯魚残る人生遊びなさい 嶋田一歩
鮎食べて西と東に別れけり 小寺正三
雨の日はでんでん虫と遊ぶかな 辺見京子
宝井其角の句に「かたつぶり酒の肴に這せけり」というのがある。おそらく独り酒であろうさびしさに、蝸牛を這わせて慰めにしているのである。右の句も何やら其角の句に通うさびしさがある。
そのほかにも紹介したい句は多いが鬼城の句で締める。
馬に乗って河童遊ぶや夏の川 村上鬼城
このシリーズは選者によって当たり外れの差が大きい。シリーズのうち「生」は石寒太選で、これはお勧めである。
Facebook・能村 聡さん投稿記事《人間は「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)
ー楽しめば楽しむほどお金も引き寄せられる?》(再投稿)
日々の生活に追われ、お金を使うより使われ、人間関係に振り回されて、周りに気を遣いすぎていると、心から楽しむことを忘れてしまいがちです。
本当は”楽しむ”ためにこの地球に生まれてきたのに、いつの間にやらそれどころではなくなってしまっているのではないでしょうか?
人生とは究極的には『遊びを楽しむこと』です。人間の本質とは「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人) です。
いわゆる遊び人とか、チャラ男になれって言っているんではないです(笑)
地球は「光の遊星」なのです。「遊び」こそやっていてワクワクすることで自分の波動を高め、愛と光を放つ存在になり、まわりもしあわせにすることなんです。
「成功したから遊べるのではなく、遊んだから成功する」という至言もあります。パタゴニアというアウトドアスポーツ用品の会社は、社長自ら休みを自由にとって遊ぶ、社員にももっと遊べと奨励している会社。遊び体験から会社の商品の創造力が湧き上がるのです。
一方で日本の大企業がどんどん凋落している本当の理由の一つは、”遊び”がなくなったからではないでしょうか?。隙間もない、まともに休みすらとれず、遊べないブラックな労働環境で、無能なトップ経営者の社畜化してしまうと創造性など生まれない。
皆、学歴社会の勝者ばかりの答えの決まった問題しか解けない人ばかりになって、いわゆる気楽な稼業であると揶揄されるサラリーマン化しているからもうだめでしょう。
本田宗一郎が、ガレージで車を組み立てた時代は、彼ら、彼の同志皆が車が好きで、車で遊ぶこと=仕事だったから。寝食忘れて仕事しても、過労死などありませんでした。
F1にこだわってきたのも技術開発だけでなく、レースは大きな楽しい遊びであるからです。好きこそものの上手なれですね。
遊び心なしで、独創性も生まれません。”遊び”=人と人の適度な隙間がないと、人間関係もギスギスするでしょう。一緒に遊べば、お互いも和む。社用のゴルフではない、本業につながる遊びです。
仕事で遊んで楽しめば楽しむほどお金が引き寄せられる、それが宇宙の真理です。
どうせなら、あなたの居場所で毎日やること(仕事でも家事でもいい)で遊んで楽しみましょう。それが人生の創造です。
とにかくいい学校に入って、いい会社に入って、大きなお家を建てて、お金持ちになって、最後に好きなことをして”遊ぶ”ために、今は我慢と忍耐と自縄自縛して学校でも会社でも必死で競争する。変ですよね?
こういう人ばかりになると、会社はどんどん劣化していき、最後は、大企業でさえも企業崩壊しています。あなたの会社、本当に大丈夫ですか?
「ほりえもん」は99%の会社は今や不要と言っていますね、その通りです。
それにしても「アリとキリギリス」の寓話で、今を楽しむ遊びへの罪悪感や、お金がなくなる=食べられなくなる、という恐怖感を刷り込まれています。
この寓話って、イルミさんが大衆を奴隷にする目的で創作した洗脳かもです。
心底、あなたが今を楽しんで生きていれば、自然とバイブレーションが上がって、自然とまわりの人にもその喜びの波動エネルギーが共鳴して「幸せ」な気持ちにすることができます。
愛とはそういうものではないでしょうか。
そのような人こそ「ライトワーカー」ではないかと思います。
Facebook・岡本 よりたかさん投稿記事
「何も無かった」あの頃は何も無かった。車もなくて。携帯もなくて。実家からの連絡は手紙で。部屋にはテーブルが一つ。アイドルのポスターが天井にあって。冷蔵庫のドアは一つで。チャンネルを変えるリモコンもなくて。コインランドリーには洗濯機しかなくて。定食屋でコロッケとご飯と味噌汁だけ。でも友達が遊びに来て。一晩中笑い転げて。
あてもなく夜中に散歩して。ただただ笑っていて。待ち合わせ場所には伝言板があって。
喫茶店は月に一度で。コンビニは11時に閉店して。彼女とのデートは公園で。それで満足だった。無いのが当たり前だった。でも心の中には希望があって。やりたいことが山ほどあって。生きてることが嬉しくて。優しさがあって。思いやりがあって。手の中には持ちきれないほどの夢があって。溢れんばかりの未来があって…。いつからだろう。大切だと思っていたものを失くしたのは。
周りは色んなもの溢れているのに。気がついたら手の中には何も無い。
どこを探しても見つからない。人を信じられなくなって。意見の相違が許せなくて。お金がないことが不孝だと思い始めた。
何が変わったのだろう。
きっと僕が変わったのではない。世の中が変わったんだ。気がついたら知らない世界になっている。何をどうしたら取り戻せるのか。無くした大切なもの取り戻せるのか。
きっと今周りにあるものを捨てればいい。まとわりつくものを振り払えばいい。
もう一度何もない世界へ。何もない暮らしへ。自分のために生きる暮らしを。
おはようございます。