「大航海時代の日本」21 オランダ(5)平戸商館閉鎖
オランダとの交易というと外国の珍しい文物が数多くもたらされたというイメージを抱きがちだが、それらの貿易額全体に占める割合は微々たるものであった。オランダ商館で、日本に持ち込む商品の8割以上は中国産の生糸を中心とした反物類であり、反対に日本から持ち出すものの8割以上は銀であった。そう、この銀こそスペインからの独立戦争を続けていたオランダが欲しくてたまらなかったもの。戦国時代の日本は銀の産出国で、最大時には世界の生産量の3分の1を占めたという。家康は鉱山開発に力を入れていた。若き平戸商館長スペックスはこれを手に入れるために、家康に取り入り、家康が必要とするものを探る。大坂冬の陣で硬直した戦いを打開した強力な最新式の大砲「カノン砲」12門をもたらしたのもスペックスだった(家康はイギリスからも「カルバリン砲」4門を購入していた。これはカノン砲よりも威力は低いが長射程を有すため1588年の「アルマダの海戦」でスペイン無敵艦隊を破るのに貢献した)。
オランダの対日貿易額は1630年代後半から飛躍的に増大する。それには、同時期に進められた幕府の対外政策の転換、いわゆる鎖国政策の進展が密接に関係していた。江戸時代はじめの日本の対外交易は、ポルトガル船、オランダ船、そして日本の朱印船によって活発な交易が行われていた。ところが鎖国政策によってまず朱印船が締め出されて行く。さらに島原の乱(1637年~38年)を契機としてポルトガル船が日本から追放されたことにより、日本へ来航する外国船は中国船とオランダ船のみとなった。つまり、ライバルたちが次々に排除されていくことにより、相対的にオランダのシェアが拡大したのである。
ところでポルトガル船の追放にはいくつか解決しなければならない問題があった。第一は必要物資の供給である。当時、生糸などの商品は需要の多くを輸入に頼っており、ポルトガルも大きなシェアを占めていた。したがって、ポルトガル追放による生糸供給の減少をどのように乗り切るか。第二は、追放されたポルトガルの報復行動に対する懸念である。これらの点を解決するため幕府高官は参府したオランダ商館員に対して質問を繰り返している。
まず第一の点については、主要な貿易拠点はすでにオランダが押さえており、必要な量を十分に供給できる。第二の点についても、すでに台湾以北の制海権はオランダが握っており、ポルトガルには大胆な軍事行動はできない、と述べている。この結果を受けて、幕府はポルトガル船追放を断行。西欧ではオランダのみが日本へ来航する唯一の国となったのである。
しかし鎖国政策の波は、平戸オランダ商館をも巻き込むこととなる。増大する貿易に対応するため、平戸オランダ商館は敷地や施設の拡張を行った。特に1639年に築造された倉庫は長さ46メートル、幅13メートル、高さ6メートル(推定)で、屋根裏部屋を含めると3階建てと推定させる大型の石造倉庫で銀117貫もの巨費を投じて建てられたものである。
「平戸ではとくに制約もなかったので、月日を重ねるごとに建物が増え、二階建てや三階建て建物の内部は豪華に飾られ、倉庫は切石で造られ、周囲に堀をめぐらせ、その華美な姿は非常に贅沢なものであった。その偉容には道行く人々が目をみはった」(『長崎拾芥』天明8年 [1788])
しかし、この要塞と見紛うような、当時の日本人にとっては異様ともいえる外観こそが幕府にとっては看過できないものであった。島原の乱鎮圧後、上使松平信綱は平戸を訪れ商館施設等を検視、続いて1640年、井上筑後守政重の巡視により、商館長の一年交代と1639年に建てられた倉庫の破壊を命じる。その理由がなんともすごい。倉庫の破風に刻まれた「1639」を問題視したのだ。西暦年号、すなわちキリスト生誕を紀元とする年号が記されていることを理由に破壊命令を下したのだ。その後、1637年築造の石造倉庫や住居なども順次破壊を命じられ、1641年ついに平戸オランダ商館は長崎出島への移転を通達される。こうして平戸オランダ商館の30余年の歴史は幕を閉じた。
「平戸オランダ商館」(1639年築造倉庫)復元
「平戸オランダ商館」(1639年築造倉庫)復元
中央上部に、問題とされた「1639」の年号が見える
「東照大権現像」久能山東照宮博物館
駿府城公園 晩年の家康公像
大坂冬の陣布陣図
原城包囲の図 包囲に加わったオランダ船2隻も下部に描かれている