情熱的で優しい、純粋な思いやり
すん、と鼻を鳴らして感じたのは、咲き誇る花々のように透明感ある爽やかな香りだった。
慣れないその匂いに首を傾げたルイスはもう一度その香りの正体を探ろうと、瞳を閉じて鼻先にだけ意識を集中する。
そうして分かったのは、その香りの正体はすぐ隣にいる自分の兄ということだった。
「兄さん、いつもと違う匂いがします」
「分かるかい?先日アルバート兄さんにパルファムを作って頂いてね、使ってみたんだ」
「パルファム…」
ウィリアムが着ている衣服の袖を掴み、胸元に顔を近づけてはすんすんと鼻を動かす弟をウィリアムは微笑ましく見つめている。
人の匂いを嗅ぐなど行儀が悪いのだろうが、ルイスのこれは相手がウィリアムだからという無意識の甘えが入っているのだろう。
可愛い弟が自分を確認しようとする行動を疎ましく思うはずもなく、ウィリアムは優しく受け入れていた。
次第にルイスの腕がウィリアムの背中に回る。
同じように小さな体を抱きしめるため腕を伸ばしてあげると、ようやく納得がいったルイスが顔を上げてウィリアムを見上げてくれた。
「良い匂いですね」
「ありがとう。初めて使ってみたから少し心配だったんだ。ルイスの苦手な香りでないなら安心したよ」
「僕のすきな匂いです」
少しばかり警戒していたルイスがふわりと笑みを浮かべ、安心したように幼い仕草で抱き付いてくる。
だいすきな兄が慣れない香りを纏っていたことは、無意識にルイスの気を強張らせていたのだろう。
まるで小さな猫が戯れてくるように力を抜いて抱き付いてくる弟を、ウィリアムは華やかな香水に見合う美しい笑みを浮かべて抱きしめた。
可愛い弟から漂うのは清潔感あるシャボンの香りだ。
ルイスは元々体臭が薄いせいか、洗い立ての衣服や使用した石鹸などの匂いをそのまま纏ってしまう。
染まりやすい無垢なルイスにはぴったりだと、ウィリアムはそう感じている。
「パルファムを付けるのも貴族の嗜みなんですか?」
「そうだよ。アルバート兄さんが今後のためにと用意してくださったんだ。ルイスの分も誂えると言っていたから、そのうち声がかかるんじゃないかな」
「僕の分もですか?」
「もちろん」
「…でも」
養子という立場を弁えているルイスは、「紳士らしく振る舞えるように」というアルバートの厚意を受け取ることに慣れていない。
切り替えの上手いウィリアムは早々に衣服を着こなし、それに見合った立ち振る舞いを習得しているけれど、ルイスはおぼろげなままそれらに手を出してはひとまず問題なくこなしている。
けれど気持ちは追いついていなかった。
出過ぎた真似をしてはいけないだろうし、けれどモリアーティの名に恥じぬよう一定のマナーと礼儀は身に付けておくべきだろう。
それでもウィリアムとアルバートと全く同じでは、養子の末弟という境界がぼやけてしまうのではないだろうか。
ルイスなりに色々考えて日々を過ごしているのだが、当の兄達はそんなことを考える様子もなく、ルイスを自らと対等である一人の人間として扱っている。
それどころか、世間一般の弟らしくなく蝶のように花のように丁重に扱われているのだ。
今回ウィリアムの香水を用意したアルバートの意図は、先にウィリアムを懐柔しておけばルイスも受け入れやすくなるだろう、という策略の元である。
香水で己を飾るのは紳士としてのマナーなのだから、ウィリアムは当然としてルイスにも身に付けてもらわなければモリアーティ家次期当主として困るのだ。
そんな建前はあるけれど、ルイスに相応しい香りを用意したいというアルバートとウィリアム二人の計画の根本にこそ、その本音は存在している。
「シャボンの香りがするルイスも良いけど、ルイスに合ったパルファムを用意するのも中々面白そうだろう?」
「そうでしょうか…?」
「ウィリアム、ルイス、少し良いかい?」
「あぁ、ちょうど良いところに兄さんが来てくださったね」
ウィリアムがルイスの髪に顔を埋めて届くシャボンの香りを堪能していると、アルバートから声をかけられた。
その手には見るからに高級感漂うボックスがある。
「ウィリアム、昨日渡したパルファムはどうだい?」
「良い香りで満足していますよ。ルイスも気に入ってくれました」
「それは良かった。ルイス、少しだけ君の時間を貰えるかい?」
「兄様のためならいくらでも」
「ありがとう」
可愛い弟達の抱擁を微笑ましく見守り、アルバートがソファに腰掛けたのを機に二人もその左右に腰を下ろす。
そうして彼は机に置いたボックスからいくつもの小瓶を取り出した。
「これは何ですか?」
「香料だよ。これをいくつか組み合わせるとパルファムになる」
「へぇ」
初めて見るそれにルイスは興味を持ったようで、大きな瞳をキラキラとさせながら小さな瓶を見つめていた。
その反応に脈ありと判断したアルバートとウィリアムはそっと視線を交わして頷き合う。
ウィリアム自身はさほど香水に興味はなかったけれど、紳士としてのマナーなのであれば使用することに抵抗はなかった。
だが、ルイスはきっとそうではない。
養子なのだからと過度に貴族らしく振る舞うことを避けたがる様子が見て取れるのだから、いくらアルバートが提案しても頑なに拒否していたことだろう。
それを防ぐため、アルバートは先にウィリアムの香水を作ることにしたのだ。
ウィリアムが香水を使っていればルイスも使うことに抵抗がなくなるに違いない。
アルバートは二人の弟を飾ることが出来て、ウィリアムは自分好みの香水をルイスにあてがうことが出来る。
ルイス専用に作り上げた香水はきっとルイスの魅力を底上げしてくれるはずだ。
敬愛する兄達にそんな裏があることなど知らないルイスは、手に持ってはいけないだろうと静かに小瓶を見つめている。
そうしてアルバートはボックスに入っていた一つの香水瓶をルイスに渡してあげた。
「これは?」
「ウィリアムに作ったパルファムと同じものだよ。嗅いでみると良い」
「……」
ルイスは渡された瓶の蓋を開けて、すん、と鼻を鳴らす。
届く香りは確かに満開の花々を思わせる甘さと爽やかさを感じさせるけれど、さっきウィリアムに抱きついたときの香りとはどこか違うような気がする。
ルイスは首を傾げてアルバートの更に向こうにいるウィリアムの顔を覗き込んだ。
「どうかしたのかい?」
「…兄さんの匂い、このパルファムとは違うような気がします」
「え?」
ルイスはウィリアムに瓶を渡して、これじゃないです、違う、と眉を下げている。
けれどその香りは間違いなくウィリアムが今身に纏っているものと同じで、香りを確かめてみてもウィリアムには少しの違和感も覚えない。
同じだと思うけど、というウィリアムに、絶対に違います!とルイスは言い縋っていた。
左右で揉め始めた弟達を見たアルバートは穏やかに微笑み、ウィリアムもまだ知らなかった正解を言葉にする。
「ルイスは鼻が良いね。パルファムは同じ香りでも使用する人によって香りが変わるんだ。ルイスが違うと感じたのは、きっとパルファムとウィリアム自身の匂いが混ざっていたからだろうね」
「へぇ、そうなんですね」
「やっぱりこのパルファム、兄さんと違う…」
アルバートからの正解にウィリアムは素直に感嘆し、けれどルイスは自分の意見が当たっていたことよりも違う香りになるという事実に落ち込んでいる。
大方、ウィリアムと同じ香水が欲しいと思ったのに想像した香りでないことを残念に思っているのだろう。
ルイスはしょんぼりと眉と肩を下げて、ウィリアムが今身に纏っているという香水の瓶を両手に持った。
「僕がこれを付けても、兄さんと同じ匂いにはならないということですよね…」
「そうだね。ルイスだけの香りになる」
「……兄様のパルファムは?」
「私かい?私が使っているのはこの瓶に入っているものと同じだが」
ルイスはアルバートが示した瓶を手に取り、蓋を開けてもう一度すんすんと鼻を鳴らす。
感じる香りはまさしく紳士で、大人の男性が持つシンプルな色香に満ちている。
酒を飲んでもいないのにいっそ酔ってしまいそうだ。
けれど普段感じているアルバートの香りともやはり違っていて、ルイスは失礼にならないよう隣に座る彼にもたれてその香りに集中する。
ルイスが知っているアルバートの香りはもっと芯の強さを感じさせるような、凛々しいものなのだ。
届く香りはルイスが求めていたアルバートの香りで、やっぱり手の中にある瓶のそれとは違っていた。
「兄様とも違う…」
「こればかりは仕方ないな…私にもウィリアムにもどうにも出来ない」
「……はぃ」
「ルイス…」
しょんぼりとアルバートと同じ香水瓶を手に持つルイスを見て、兄達の心は純粋無垢な弟の考えに射抜かれた。
普段のルイスならば香水など要らないと突っぱねただろうに、ウィリアムやアルバートと同じ香りならば欲しいと興味を持ったのだろう。
残念な結果になっていることはルイスにとっての不幸だろうが、兄達は可愛い姿を見ることが出来た幸福で満たされている。
落ち込むルイスに癒されながら、ウィリアムは自然と緩む頬のままアルバート越しに弟の顔を覗き込む。
「ねぇルイス。僕がルイスのためにルイスにぴったりのパルファムを選んであげるよ。だから元気を出して、ね?」
「兄さん…でも僕…」
「私も手伝うよ。ルイスにはルイスだけのパルファムがあるのだから、そう悲観しなくても良いだろう?」
「…でも、養子の僕までパルファムなんて高級品を使っても良いんですか?」
「良いに決まっているだろう?君はモリアーティ家の人間なのだから」
「表向きは養子だけど、ルイスは僕とアルバート兄さんだけの大事な弟だよ」
「……」
ルイスが僅かに頬を染めてこくりと頷いたのを合図に、アルバートはその頭をそっと撫でていく。
ウィリアムは愛おしげにその光景を目に焼き付け、ルイスに合うであろう香料が入った小瓶の蓋を開けて香りを確かめる。
可愛らしい弟には不自然でない程度に甘い香りがよく似合うだろう。
思い込みの強い情熱的なところを引き立て、遠慮がちでズレてはいるけれど兄達の邪魔にならないような思いやりと無垢で純粋な優しさを表すような、そんな香りこそがルイスに相応しい。
最愛の弟が纏う香りを自分好みに演出出来るのだからウィリアムの気合いも十分だ。
張り切る彼を見てアルバートも意気揚々と小瓶の香りを確かめ、ウィリアムとともに様々な意見を出しては組み合わせつつ、可愛い末っ子に見合った香りを探し出していく。
「兄さん、兄様。僕、お二人が使っているパルファムと同じじゃないなら格好良い匂いが良いです」
「格好良い匂い?」
「お二人みたいに格好良くなりたいので、せっかくなら格好良い匂いが良いです。兄様みたいな大人の男を感じさせる匂いだと嬉しいです」
「…うーん…」
「私みたいな匂い、か…」
格好良くなりたいという弟の気持ちは汲みたいし、アルバートに至っては自分と似たような香りが良いと望む意思は最大限尊重したい。
けれど今のルイスは格好良さよりも可愛らしさの方が際立つし、おそらく年を重ねてもアルバートが見せるような大人の男を感じさせる人間にはならないだろう。
ルイスはきっと、線が細いまま生きていく。
決して否定するわけではないが、少なくとも今のルイスには大人の男が身に纏うような香水など絶対に似合わないはずだ。
だが、それをそのまま伝えてもまた落ち込ませてしまうだろう。
ウィリアムとアルバートは互いに目配せをして、にっこりとルイスを見ては優しく偽りのない言葉を返すことにした。
「任せて、ルイス。ルイスにぴったりの素敵なパルファムを選んであげるからね」
「楽しみにしておいで」
「はい!」
こうしてルイスは己が使う香水にも関わらず、一切の好みを把握されないまま専用の香水を用意される。
けれど不思議なもので完成した香水はルイスが嫌う類の香りではなく、むしろ甘くて心が落ち着くものだった。
格好良いのかどうかはよく分からないが、二人が選んでくれたのだからきっと格好良くて自分にぴったり合うものなのだろう。
ルイスは初めての香水という自分専用の高級品に胸を躍らせ、以降の日々は品良くそれを使いながら過ごすことになる。
「ありがとうございます、兄さん、兄様。このパルファム、とても良い香りで気に入っています」
「どういたしまして。よく似合っているよ、ルイス」
「足りなくなったらすぐ用意するからいつでも言いなさい」
満足げなルイスを見て、ウィリアムとアルバートは可愛い弟に可愛い香りを纏わせることに成功して機嫌が良かった。
格好良い匂いというリクエストは総無視したが、ルイスが気付くことはないからおそらく問題はないだろう。
自らが選んだ香りをルイスが身に纏うというのはまるで所有を表しているようで気分が良い。
物の少ないルイスの部屋に特別大事そうに置かれている香水の瓶。
三人がそれぞれ満足し、長くルイスの香りを演出してくれるそれががらりと変わるのは、少し先の未来でモランという元軍人と出会った後のことだった。
(ルイス、おまえどんな香水付けてんだ?)
(え?僕は兄さんと兄様が作ってくださったものを愛用していますが…何かありますか?)
(いや、なんか妙に良い匂いがしたから気になっただけだ)
(そうですか。付けすぎないよう気を付けてはいたのですが、迷惑だったのならすみません)
(そういうわけじゃねぇよ。なんか酒場の女みたいに甘い匂いがするから何でかと思ってよ)
(…甘い匂い…でも、格好良い匂いでしょう?)
(格好良い?…そうか?)
(兄さんと兄様が格好良い匂いを用意してくれたはずなのですが)
(……そうか、格好良い匂いだぜ、うん、間違いねぇよ)
(…………)
(じゃあな、ルイス。俺はしばらく旅に出るから何かあったら連絡をくれ)
(モランさん、少し話を伺っても良いでしょうか)