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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

2019年11月23日plus2021年6月14日記事*プロデューサーカット✳︎お届けします

2021.06.14 22:00

〜チャプスキ宮殿(クラシスキ宮殿)〜

ショパン家は、フレデリックの末妹のエミリアが14歳で亡くなった悲しみから1827年6月に、ワルシャワ大学の建物からチャザスキ宮殿(当時クラシスキ宮殿)に引っ越しました。

チャザスキ宮殿内の新しいアパルトマンは2つの部屋がありました。家族は2階の広い部屋を借りて住んでいました。屋根裏部屋は父ニコラスが管理する男子学生の寄宿舎でした。

その1年後に寄宿舎だった屋根裏部屋の一室はフレデリックに与えられました。

「僕が快適に使えるために僕の衣裳部屋から新たに階段を付けた屋根裏部屋が出来ました。古い机と古いピアノを置いて、僕の隠れ家にしようと思う。」とショパンはティトゥスに報告しました。古いピアノとはどのようなピアノだったのかは不明です。

2階の家族の居間であるサロンには新しいピアノが置かれました。フレデリック・ショパンはそこで家族や友人のために演奏しました。ヨゼフ・エルスナー、サミュエルリンデ、ジュリウス・コルベルク、カヘタン・コエミアン、ジュリアン・ウルシンニエム・チェヴィッツ、ステファン・ヴィトウィッキなどを招いていました。

フレデリックは、1830年にワルシャワを離れるまで、ここに住んで作曲をしました。

父ニコラスはフレデリックとリストの仲を取り持つために、フレデリックが使っていたピアノをリストに弾いてほしいと故郷のワルシャワに帰ってこれないパリのフレデリックに伝えました。「リストがワルシャワに来たら私たちを訪ねてほしいです。そしてお前に美しい旋律の霊感を与えてくれたこのピアノをリストに弾いてもらいたいのです。・・・昔は幸せだった。イザベラは何が起きてもこのピアノは手放そうとはしません。」

そう家族の思い出をフレデリックに語ったニコラスでした。

リストはワルシャワを訪れましたが、実際にショパン家に来てフレデリックのピアノを弾いたのかは不明です。

残念ながらニコラスがこの時に語ったショパン家のピアノは1863年の蜂起の時に破壊されたため現存していません。

チャプスキ宮殿は第二次世界大戦中に破壊され、1948-59年に再建されました。

現在の内装や家具とピアノ(画像はフリデリク・ブッフホルツの19世紀前半のピアノ)

は再現イメージで現存しません。


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(2021年6月14日記事)

ショパンの友人で詩人のナポレオン・スタニスワフ・アダム・フェリックス・ジグムント・クラシンスキ1812年2月19日- 1859年2月23日、シプリアン・カミル・ノーウィッドも1821年9月24日– 1883年5月23日もこの

チャプスキ宮殿宮殿に住んでいました。

建物の歴史は、ショパン家との交友関係の繋がりを思わせます。それは、

17世紀に遡り、最初に宮殿の敷地内には木造のラジヴィウ家の邸宅がありました。

1680年から1705年にミハウ・ラジエホフスキのためにドイツのティルマンの設計によりレンガ造りの宮殿が建てられました。

1712年から1721年にかけて王冠の大ヘトマン、アダム・シエニアウスキーが所有し宮殿と別棟が再建されました。

その後1726年娘のゾフィア(アウグスト・チャルトリスキの妻)に相続されました。

1732年、チャルトリスキ家の夫婦は宮殿を銀行家のピョートル・デ・リアクールに売却しました。

そして1733年に建物はチャプスキ家が購入しました。宮殿の内部とその周辺を再建し、1752-1756年後期バロック様式の内部装飾が施されました。

1784年にチャプスキが亡くなった後、

建物は、下院議長であるスタニスワフ・マワチョフスキの妻である娘のコンスタンチャに受け継がれました。

1790年には、建築家のヨハン・クリスチャン・カムセッツァーは古典主義様式の2つの別棟を設計しました。

1809年から、スタニスワフ・マワチョフスキが亡くなった後、宮殿はクラシンスキ家の所有物になりました。

その後、1863年の1月蜂起で建物は破壊されました。

1909年から1945年の間、宮殿の所有者はエドヴァルト・ベルナール・ラッチンスキ伯爵でした。1905年と1910年から1911年の間には宮殿は米国領事館でした。その後、

宮殿の本体は1939年(ポーランド侵攻1939年9月1日)焼失しました。宮殿の内部は完全に破壊され、通りに面した建物は1944年(ワルシャワ蜂起)全焼し建物の破壊は約70%と戦後推定されました。

宮殿は、スタニスワフ・ブルカルスキの設計に従って、1948年から1959年に再建されました。多大な努力の末、建物は18世紀の外観を復元しました。

現在、1962年市経済省により宮殿とその周辺の建物は美術アカデミーによって占められています。

1960年から2014年の間には、ショパン博物館の支部のショパンサロンは、宮殿の左の別棟の2階にありました。1827年6月にショパン家が引っ越した部屋のイメージ再現でした。

フレデリック・ショパンは1830年11月2日まで家族でここに住んでいました。


19世記頃

現在

ワルシャワ大学の西側にチャプスキ宮殿は位置します。現在は美術アカデミー。

ロココ様式宮殿