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渋谷昌孝(Masataka shibuya)

懐疑「複数のもの」懐疑

2021.06.15 13:04

〈意識すること〉または意識の源についての考察。何についての意識なのか。意識する主体は誰か?もちろん自己である。自己意識。自己が自己自身を意識すること。主体と客体が同一になること。つまり対象である自己が、もうひとつの対象である自己を観察すること。対象が対象自身を凝視すること。このとき対象である自己はひとつなのか?対象が対象をみるという作業なしに、意識の発現はあるのか?唯一ひとつの意識が、それ自身である意識を産みだすというのは考え難い。意識すると言っても、このような事情によりそう単純な話ではない。自己の意識が生じるためには、ひとつの意識だけでは不十分である。自己自身のなかに主体と客体という対象が少なくともふたつなければならない。問題が複雑になる理由は、自己の外側にある対象ではなくて、内側にある対象自身が、その対象そのものによって自己の内部で観察されるものだからである。少なくとも、ふたつ以上ある要素の相互作用がなければ意識は生じないはずである。ただ時間的に、これより前に遡って想像するのは難しい。主体=客体となっているのが自己自身の構造である。しかも同時に、対象=対象という構造でもある。〈みるもの〉と〈みられるもの〉が同じなのだ。一見すると、このままでは何の展開も起こらないように思える。意識もない。自己もない。思考もない。どのようにして意識が意識たりえたのだろうか?先にふたつ以上の要素の相互作用のようなものがあると予想したが、ふたつの要素があるとして、まず、それらに差異がなければならない。というのは、差異がなかったならば、動きはじめないだろうから。なにも動かぬところに意識の発現はない。動くためには差異あるべきだ。反復すると、自己意識が産まれるには、対象が対象をみるという特別な関係がなければならない。対象は本来ならば自己の外部にあるものだからである。対象を自己の外部にあるとした方がわかりやすい。それがあたりまえに感じられるのは不思議である。なぜなら、内から外へ向かうのが正しい順番であって、外から内に向かうのは、次の段階であるから。したがって意識の表出を、いきなり自己の外部から導出することはできない。外部から自己意識を考えるのは自然とは言えない。順序として、初めに自己を想定しなければならない。自己から発現した意識が、外部環境を把握するものだからである。〈内なるもの=生じる意識〉という第一の段階からはじめない限り、なにも起こらない。「自分で自分をみる」とはどうゆうことなのか?どうしてそれが可能なのか?自己がひとつである場合に、このような問いができるだろうか?自己が複数あるのだろうか?意識はそもそも誰によって意識されるのだろうか?やはり複数を想定すべきなのだろうか?そうなれば意識する主体はひとりではなくなるのではないだろうか?主体は果たして主体そのものから派生したのだろうか?そしてさらに、ここで思考されている課題は、ひとりの人間による複数の思考によってなされているのだろうか?それともひとつの思考によるものなのか?