「世界を変えた男コロンブス」2 ジェノヴァ魂①東から西へ
天才といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチやモーツァルトが浮かぶが、自分の知識と過去の経験をすべて結集して、インディアス事業を創出した点においてコロンブスも天才だったと言っていい。
コロンブスの出身地はジェノヴァ(通説)。その地でコロンブスは、人は自分の運命を支配でき、出生という偶然に左右されることはなく、富は冒険的事業と交易によって手に入れることができるのだということを学びとった。その後ポルトガル(リスボン、ポルト・サント島)で船乗りとしての技能を磨く。航海術や風向きに関する理解を深め、最高水準の実践的知識を習得した。インディアス事業の構想が具体化したのはこのポルトガル時代。そしてこの構想を現実化させたのはスペイン。そこではコロンブスの政治的手腕が大いに発揮された。当時は、イベリア半島をムーア人(イスラム教徒)の手から奪回するレコンキスタの最終局面。スペイン王室から冒険事業へ出資してもらおうとレコンキスタの精神そのものを利用する。自分の事業は、幾世紀にもわたるイスラム教徒の支配の後に、キリスト教文明を伸展させる使命を帯びたものだと説いた。
コロンブスの歴史的航海の実現には、偶然、幸運が関係しているのは他の開拓者たちと同様だ。しかし、それを生かして形にして夢想ともいえる壮大な構想を現実化させたコロンブスという人物は、ヨーロッパが存亡の危機(オスマン帝国の驚異)を自覚した時代に、まさに生まれるべきところに生まれ、学ぶべきことを学んで成長した人物なのだ。このことを見ていきたい。
まずはコロンブス生誕の地ジェノヴァについて。ジェノヴァの個性というと、すぐに浮かぶのがF・ブローデル『都市ヴェネツィア 歴史紀行』の中の次の一節。
「ヴェネツィアの敵の中でも、もっとも恐るべき存在はジェノヴァ、すなわち、とかく騒乱を好むサン・ジョルジョの共和国であった。私がヴェネツィアを優しい気持ちで愛してきたのは事実だが、ジェノヴァにたいしてはいつも感嘆の念を覚える。ヴェネツィアのそれにひけを取らぬ勇気、比類ない知性、驚くべき気力の横溢。ジェノヴァにはいっさい鈍重さがなく、常に他に先駆けて生きている。」
こんなジェノヴァのコロンボ家に、コロンブスは1451年頃生まれた。父ドメニコは毛織物業を営み、母スザンナは毛織物職人の娘であった。一家の下層中流階級からの脱出はならなかった。コロンブスが後年、発見の報酬として称号や地位に固執したのはそのためかもしれない。一家は1470年に近くのサヴォナに移り住み商売を続けるが、その頃にはコロンブスも家業を手伝うようになっていた。ただし、その仕事は機織りばかりではなく、沿岸貿易航海にも従事した。家業を助けるために、リグーリア沿岸を航行して、サヴォナからその他のジェノヴァの前哨基地に品物を運び、後にはイタリア半島沿岸をさらに進み、コルシカ島やサルデーニャ島まで南下したようだ。
こうして、20代の初めには、コロンブスには長期にわたる航海の準備ができていた。そしてチャンスが訪れる。ジェノヴァで父のパトロンだった豪商スピノラ家の持ち船に乗らないかと誘われたのである。目的地は東地中海のキオス島。その頃、キオス島はすでに1世紀以上にわたりジェノヴァの領土になっており、特産品の乳香はジェノヴァのドル箱商品だった。1473年から75年にかけてコロンブスがキオス島を訪れた時、そこは利益を求めて東方に目を向けていたジェノヴァの大貿易圏の一部であった。島は、アジアへの門戸となり、冒険者を伝説と熱望に満ちた東の果てへと誘う出発点となっていた。しかし、オスマン帝国のガレー艦隊が大挙してキオス島を攻略するという情報が飛び交い、島に在住するジェノヴァ商人は自分たちの安全を守るために、ジェノヴァ本国に救援を要請。しかし内乱に揺れるジェノヴァ本国は聞く耳を持たず、商人グループが独自に5隻の小船団を仕立て、救援に向かうことになった。コロンブスが乗り込んだのはこのうちの1隻だった。
ジェノヴァ1493
ジェノヴァ 1610年
「コロンブス像」ジェノヴァ アクア・ヴェルデ広場
キオス島の位置
コロンブスがキオス島へ向かった時の航路(推定)
ジョット「東方三博士の礼拝」スクロヴェーニ礼拝堂
東方の三博士がイエス・キリストに捧げた贈り物の中には没薬、黄金とともに乳香があった
乳香
乳香樹の樹液が凝固したもの。トルコ人が好んで買い求め、口臭剤としてハーレムの女性に愛用された。中世のチューイングガムといってよい。