Okinawa 沖縄 #2 Day 118 (19/07/21) 旧玉城村 (9) Tohyama Hamlet 當山集落
旧玉城村 當山集落 (とうやま)
- 加良増井泉 (カラマシガー)
- 西の石獅子
- 知眞樋井(チマヒザガー)
- 當山公民館
- 南の石獅子
- 簡易水道貯水槽
- 赤嶺之殿 (アカンミヌトゥン)
- 石畳道
- 仲西井泉 (ナカンシガー)
- 東の石獅子
- 伊森之殿 (イームイヌトゥン)
- 番所井泉 (バンジョガー)
- 尚布里の墓
- 上江洲之殿 (イーシヌトゥン)
- 上江洲 (イーシ) の神屋
- 北の石獅子
- 赤嶺井泉 (アカンミガ-)
- 安次富 (あしとみ、アシトゥ) グスク
- 大川ダスク (ウッカーグスク)
- 屋良 (ヤラ) 腹門中の神屋
- 屋良井泉 (ヤラガー)
- 上江洲 (イーシ) 門中墓
旧玉城村 當山集落 (当山、とうやま)
當山集落は明治時代には屋嘉部集落に次いで人口の少ない集落だった。富里が玉城間切之中心地だったので、この地期はもっと栄えても良いようにも思えるのだが、標高80mの丘陵中腹にあり、交通の便で難があったことがその理由だろうか?沖縄の本土復帰以降は人口は増えたが、ここ20年はほとんど増減がない状況だ。
當山集落は明治時代の民家の分布地域からほとんど変化がなく。丘陵から降りた比較的平坦地は住宅地にはならず現在でも耕作地として使用されている。ただ耕作地はあまり広くはなく當山区の西側には丘陵地ガ南北に延び、住宅地にも耕作地にも適していない。
玉城村誌に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: なし
- 殿: 當山巫火神 (伊森之殿 )、赤嶺之殿、安次富之殿 (所在地情報なし)、嶺井之殿 (上江洲之殿)
公民館前広場に集落文化財のガイドマップがある。
當山集落訪問ログ
加良増井泉 (カラマシガー)
集落の北西の端、富里集落との境あたりに井泉があり、加良増井泉 (カラマシガー) と呼ばれている。加良増原 (カラマシバル) にあった事が名の由来となっている。現在は農業用水として利用されているそうだ。
西の石獅子
加良増井泉 (カラマシガー) から標高80mの高台にある集落の外輪を走る道を南に進むと道路脇に石獅子がある。屋号 前宜保小 (メージーブグヮ) の民家敷地にある大岩の上にある。酉の方向 (西) への火返し (ヒケーシ) だった。
石獅子のある民家の道を隔てたところにゲートボール場がある。ここが何だったのかは書かれてはいないが、この広場は集落の西の端で、その下側は畑が広がっている。多分サーターヤーがあったのではと思う。広場の隅には酸素ボンベの鐘が吊るされて残っている。
ここからは具志頭方面が臨め、太平洋が良く見える。
知眞樋井(チマヒザガー)
集落の西の石獅子から西の畑に降りていく道の途中に知眞樋井(チマヒザガー) がある。今でも水があり、給水ホースが引かれている。現在でも農業用に使用されているようだ。かつては、畑仕事を終え、集落に帰る途中で農機具や体をきれいにしていたのだろう。
當山公民館
西の石獅子から集落の外環の道を南に進んだ高台に當山集落センター (當山区公民館) がある。かつての村屋 (ムラヤー) だったのだろうか?
南の石獅子
集落センター (富山区の公民館) 敷地内には石獅子。申と酉の間の方角 (ほぼ西方) への火返し (ヒケーシ) となっている。
簡易水道貯水槽
公民館から集落中心地への道の側に簡易水道の貯水槽が残っている。
赤嶺之殿 (アカンミヌトゥン)
貯水槽の前の道を更に集落内に進んだ道端に石造りの祠がある。いつ造られたのかは不明なのだが、尚布里がこの地に移り住む前に、赤嶺按司という有力者が村を興し、治めていたという。その赤嶺按司の名がこの拝所の名につけられ、赤嶺之殿 (アカンミヌトゥン) と呼ばれている。赤嶺の子孫は絶えてしまっている。琉球国由来記の「赤嶺之殿」に相当すると考えられている。当山 (當山) ノロにより稲穂祭が司祭されていた。現在では、正月の初御願、5月15日のウマチー、6月25日のアミシの御願、12月24日のニンシーの御願・トドミの御願で拝まれている。
石畳道
赤嶺之殿 (アカンミヌトゥン) から下に降りる細い道がある。石畳の道が残っている。ここは昔からの道が残っており、その道にある民家も昔風の造りとなっており、沖縄風情が味わえる。昔は集落内の道の大半は石畳道だったのだが、現在はここを含め2ヵ所しか残っていない。
仲西井泉 (ナカンシガー)
石畳道の道沿い、降りたところに井泉がある。屋号 仲西 (ナカンシ) の後方にあることから仲西井泉 (ナカンシガー)と呼ばれている。この井泉も石造りで昔の面影が残っている。
東の石獅子
仲西井泉 (ナカンシガー) の石畳の道を東に抜けた所に屋号神谷 (カマ) の隣にあるブリ (岩山) がある。
ブリ (岩山) の後方の畑の中に今日三つ目の石獅子がある。ここは集落の外れ南東部にあたる。午の方向 (南) への火返し (ヒケーシ) だった。
伊森之殿 (イームイヌトゥン)
ブリ (岩山) の前の道の反対側には伊森之殿 (イームイヌトゥン) がある。上森之殿とも書く。祠の右璧に「伊森祝女殿内」と書かれている。祠内部は2つに仕切られ、右側に8つの香炉、左には三つ石と香炉で火ヌ神が祀られている。この拝所は、琉球国由来記の「当山巫火神」を祀っているとされている。19世紀末から当山ノロ殿内 (ドゥンチ) を25年間勤めていた女性が夫と2人の子供を相次いで亡くしたことからキリスト教に改宗し、その後ノロ職を退いた。1914年、当山ノロ殿内はキリスト教会の伝道所となったが、 反対者もいたため、2か月で閉じられた。この他にも色々な事があり、伊森之殿は上江洲の神屋の西方にあったノロ殿内から、香炉を現在の地に移し祀られている。この個人の信仰の問題は各集落で、存在しているだろう。ノロや神人は、本人の意思とは関係なく、その家に生まれればそうなるものだと集落住民は考えており、他の宗教を信仰し、職務を放棄する事は好ましいとは思っていない。集落の習慣との板挟みになっている。自分達の子供にはこの様な閉鎖的な社会よりは那覇の都会に住んで欲しいと思っている親も少なからずいる。この元ノロの女性も辛い時期があったのだろう。現在、伊森ヌ殿は、1月2日の初御願 (ハチウグヮン)、5月15日の五月 (グングヮチ) ウマチー、6月24日のカシチー、翌25日のアミシヌ御願、九月御願 (クングヮチウガン)、12月24日のニンシーヌ御願で拝まれている。
次は集落の北側之文化財に移動する。
番所井泉 (バンジョガー)
集落北端の富里集落との境界線あたりに番所井泉 (バンジョガー) と呼ばれる井泉がある。この井泉のすぐ北側を走る県道48号線には先日おとずれた旧南城市市役所玉城庁舎 (現在 沖縄インターナショナルスクール) があり、かつての玉城間切番所だった。その時代には番所が飲料水等に使用し、その後戦前までも飲料水として使用されていた。そのことから番所井泉 (バンジョガー)と呼ばれるようになったという。先日訪れた番所公園内にある番所ヌカーとは別もの。
尚布里の墓
県道48号線沿いに尚布里の墓がある。尚布里は沖縄でもそれ程知られている人物ではない。1453年に第一尚氏五代王の尚金福 (尚巴志五男) がなくなり、その長男の尚志魯と尚巴志六男の尚布里の間で世継ぎ争いが起こる。志魯・布里の乱と呼ばれている。琉球王朝の正史である「中山世譜 (1701年)」を増補した「蔡温本世譜 (1725年)」では首里城が炎上するほどの激しい内乱となり、その戦いで志魯、布里共に首里城で戦死したとされている。これは沖縄では一般的に歴史書に書かれている事だが、琉球王統時代の文献では、この志魯・布里の乱に関しては、中山世譜 (1701年) には志魯も布里の名前すら全く出て来ず、「蔡温本世譜 (1725年)」に初めて出てくる。この「蔡温本世譜」の記述は明実録 (1368-1627年迄の明皇帝時代の実録) から来ているもので、その中に志魯・布里の乱の後尚泰久が戦火で明から賜っていた国印である鍍金銀印が焼失し、再度賜りたいと言う書簡が届き、その経緯として志魯・布里の戦いで両者とも戦死し自分が琉球を治めているが、首里城焼失で印も溶けてしまい王印がなく困っていると説明がある。この明実録が唯一、志魯・布里の乱についての記述。琉球側には一切この乱についての文献は無いので、志魯・布里の乱が本当に起きていたのかについては疑問がある。尚泰久が何らの理由で鍍金銀印を継承できなかったので、この様な理由をつけて再発行を頼んだとする。ただ、志魯や布里が健在であれば、この様な理由はつけなかっただろうから、二人は当時は存命していない事は確かだ。自分が琉球王として冊封してもらうため、半分は事実の改ざんがあると思われている。
- 志魯・布里の乱はこの二人だけの王位継承の争いでは無く、尚泰久が絡んでいると推測。尚泰久が二人を殺したか?尚泰久は一方に味方し、両者とも死に至らしめる策略を巡らせたのか?
- 志魯や布里が死んだ後、王の印としての鍍金銀印が見つからず、明に首里城焼失で鍍金銀印も溶けてしまったと理由付けして再発行を願う書簡を送った。この書簡では自分が琉球王に相応しいと暗に冊封を求めている。また、この戦火で首里城正殿は焼失していないという説もある。首里城は5回焼失している。最後の2回は沖縄戦と昨年の火事だ。一回目がこの志魯・布里の乱で焼失とされているのだが、その三年後の1456年に朝鮮使節の訪問した際の記録には志魯・布里の乱以前の首里城と同じ様子が記されており、火災の後の建設工事が行われているとは記載が無い。三年で以前と全く同じ正殿が再建されたとは考えにくい ので、尚泰久の書簡は鍍金銀印を再発行してもらう方便とする見方もある。
- 明は鍍金銀印を再度送り、尚泰久を王と認めることになった。
事実がどうだったのかは謎なのだが、その尚布里と彼のウナジャラ (ウナザラ、妃の意味なのでの尚布里の妻の事) のマカトカニ (真佳度金、大里村の登川親雲上の娘) の墓がある。尚巴志が三山を統一した後、尚巴志六男の尚布里がここ當山 (当山) 移り住んだと言う。その経緯から、ここに尚布里の墓が造られている。(布里がいつこの當山に移って来たのかは、はっきりと書かれておらず、志魯・布里の乱の前の様でもあるし、乱の後と書かれている箇所もある。)
當山集落で伝わっている話は「蔡温本世譜」とは異なっており、首里城内は敵味方に分かれ闘争が繰り広げら、首里城炎上の際に、尚布里は戦死せず、ひそかに落ち延び、大里、富名腰、伊平屋、志堅原を転々とした後にここ當山に落ち着き、上江洲腹・大屋腹の始祖となったと伝わっている。この墓の調査の際に、甕の蓋に天順8年(1464年) 58歳と書かれているを見つけたそうだ。これによれば、志魯・布里の乱 (1453年) から11年後に亡くなったことになる。布里は尚泰久より9才年上となり、尚泰久より4年長生きしたことになる。(六男 布里の兄の五男 尚金福は1398年生まれ、七男 尚泰久は1415年生まれ、布里は1406年生まれになる。)
更に、隣の富里集落を訪れた際には、聞かなかった事だが、尚泰久と不仲の長男 安次富加那巴志、次男 三津葉多武喜、四男 八幡加那志は、叔父の布里を頼り當山に移り住んだと伝えられている。そうであれば、尚布里が生きている事は広く知られていたはずだ。これも謎だ。
布里とその妻の墓の裏に布里の次男・布里子の墓がある。
上江洲之殿 (イーシヌトゥン)
尚布里の墓のすぐ側に上江洲之殿 (イーシヌトゥン) があり、この場所は尚巴志の六男である尚布里が一時住んでいたという。殿はきれいに整備されており、コンクリート造りの祠がある。その中に香炉が二つあり、一つが上江洲之殿、もう一つが火ヌ神を祀っている。この上江洲之殿は、當山に移住した尚布里を祖先として祀る拝所と考えられている。上江洲之殿は元々はこの広場の真ん中の木の根元だったが、祠に移されている。この上江洲之殿の南にある坂道は、嶺井坂 (ンミビラ) といわれ、この辺りに嶺井村があったとされている。このことから、上江洲之殿は琉球国由来記の「嶺井之殿」に相当すると推測されている。「嶺井之搬」では、当山ノロにより稲穂祭が司祭された。赤嶺之殿とともに當山集落の重要な拝所の一つであり、正月の初御願、5月15日のウマチー、6月25日のアミシの御願、12月24日のニンシーの御願・トドミの御願で拝まれている。ウマチーの日には、安次富加那巴志、三津葉多武喜、八幡加那志、百十踏揚の子孫が拝んでいるという。
上江洲之殿が元々あったはこの木の根元だそうだ。
広場には井戸があり、ここにも香炉が置かれている。
上江洲 (イーシ) の神屋
上江洲之殿 (イーシヌトゥン) から奥に石畳道がある。この石畳は先程に見学した仲西井泉 (ナカンシガー) の石畳とともに集落内に残る二つの石畳路だ。この道の行き止まりには上江洲 (イーシ) 門中の屋敷跡 (大城家 屋号 上江洲)) があり、民家になっている。その敷地内に上江洲 (イーシ) の神屋がある。この上江洲 (イーシ) の始祖は尚布里と伝わっている。神屋内部は敷地内なので見る事はできなかったが、資料には「大城家の先祖」の位牌と香炉、神人の香炉、神人4人分を合祀した香炉、尚布里の三男の香炉、次男の香炉、長男の香炉、「元祖小宗尚布里」の位牌と香炉が祀られ、更に今帰仁、江洲 (旧具志川村)、読谷へのお通しの香炉が安置されているそうだ。右側の床面に三つ石と白い丸香炉で火ヌ神が祀られている。第一尚氏第二代尚巴志王の六男の尚布里は、兄の五代尚金福王の世子の志魯との王位争いで、志魯を殺害後、当地に逃げたと伝えられるているのだが、生き残ったならば、何故王位につかなかったのか疑問がある。上江洲の神屋は、1月2日の初御願 (ハチウグヮン)、5月15日の五月 (グングヮチ) ウマチー、6月24日のカシチー、翌25日のアミシヌ御願、7月14日の納涼祭、12月24日のニンシーヌ御願で拝まれている。
北の石獅子
上江洲之殿 (イーシヌトゥン) の丘の斜面に石獅子がある。ここがかつての集落の北東の端にあたる。辰方向への火返し (ヒケーシ) となっていた。 8月15日のシーシヌ御願で他3基の石獅子と共に拝まれる。この石獅子から集落に上る坂は、嶺坂といわれ、この付近は嶺村があったとされる。
赤嶺井泉 (アカンミガ-)
北の石獅子の前の県道48号線を渡った所の路地を入ると赤嶺井泉 (アカンミガ-) がある。産井泉 (ウブガー) とも呼ばれている。赤嶺という人が使用した井戸なのでこう呼ばれている。簡易水道ができる以前は當山唯一の生活用水として使用していたそうだ。赤嶺井の水は水質がよく、飲料水として使用されていた村井 (ムラガー) だった。
安次富 (あしとみ、アシトゥ) グスク
上江洲之殿 (イーシヌトゥン) のすぐ東の林に石灰岩の岩塊があり、地元では安次富グスクと呼ばれている。尚泰久王の長男 安次富加那巴志 (あしとかなはし) が長男でありながら王位継承者になれず、異母兄弟の三男の尚徳が王位につき、父尚泰久王との折合が悪く、兄弟共に玉城の 富里・当山に田舎下りし、この安次富グスクに一時住んでいたと伝わっている。後に安次富グスクの西側近くに屋敷を構え 「屋良家」の始祖となった。
グスクと呼ばれているところは、石灰岩の岩塊で、その上面は平場になっているそうで、そこに安次富加那巴志が住んでいた。この岩塊の上の平場へは登れるそうだが、そのような登り口は見当たらず断念。虎口跡のような石積遺構があるそうだ。
大岩の下には按司墓がある。この按司墓が誰のものなのかは書かれていないが、安次富加那巴志の古墓ではないだろうか?このすぐ近くに屋良家門中墓があり、そこに尚泰久・安次富加那巴志の墓があるが、そこに移葬されたのではないかと思う。
大川ダスク (ウッカーグスク)
安次富グスクの前の道の反対側にもう一つグスク跡がある。大川ダスク (ウッカーグスク) と呼ばれ、四囲は石灰岩の岩塊によって塞がれている。尚泰久王の次男美津葉多武喜 (みつばたぶき) が一時居住した仮の住居跡と伝わっている。 この後に、富里に移住して、四男の八幡加那志の住居跡だった大仲栄真の前に前仲栄真門中を創設されたといわれている。富里集落では、この場所には仲栄真殿 (ナケーマトゥン) がある。
グスク跡は岩塊に挟まれ深い木々に覆われている。遺構などは残っていないようだが、発掘調査もされていないので、詳細は不明のままだ。安次富グスクと隣接しているので、二つのグスクが相互に補完し合う対のグスクとして機能していたのかもしれない。グスク内には三津葉多武喜の墓があるそうだが、墓は後に富里に移され百十踏揚 (ももとふみあがり) と共に仲栄真腹門中墓に葬られている。
屋良 (ヤラ) 腹門中の神屋
大川ダスク (ウッカーグスク) の側には尚泰久王の長男 安次富加那巴志 (あしとかなはし) が始祖の屋良腹門中の神屋があり、屋良 (ヤラ)、屋良殿 (ヤラドゥン) とも呼ばれている。民家の敷地内にある神屋なので、内部を除けなかったのだが、資料では、尚泰久、安次富加那巴志の位牌があり、屋良腹門中の祖先が祀られている。安次富加那巴志はこの當山に移って来て、まずは安次富グスクに住み、後にこの辺りに住居を構えたといわれる。たまたま、この神屋がある民家に住まわれている人が出て来たので、少し話をすると、屋良の祖は、尚泰久と言っていた。正確には泰久王の長男 安次富加那巴志だろうが、安次富加那巴志は長男なので、その父親の尚泰久も祖と見ているのだろう。この近くに屋良 (ヤラ) 腹門中墓があるが、そこには安次富加那巴志が葬られており、明治時代には尚泰久の墓をこの門中墓に移している。このことからも、屋良 (ヤラ) 腹門中が尚泰久を祖と見ていることがわかる。屋良腹門中の神屋は、1月2日の初御願 (ハチウグヮン)、5月15日の五月 (グングヮチ) ウマチー、6月24日のカシチー、翌25日のアミシヌ御願、7月14日の納涼祭、12月24日のニンシーヌ御願で拝まれている。
屋良井泉 (ヤラガー)
屋良腹門中の神屋のそばにある大岩の下に屋良井泉 (ヤラガー) がある。湧水はなく、井戸を模したものの前に香炉が置かれている。
上江洲 (イーシ) 門中墓
大川グスクの南側の崖に門中墓がある。 上江洲 (イーシ) 門中の墓だ。先ほど訪れた上江洲之殿 (イーシヌトゥン)、上江洲 (イーシ) の神屋に住居を構えた尚布里を祖とする門中だ。
富里、當山集落を巡ってきたが、第一尚氏に係わる多くの文化財があり、その時代の歴史についていろいろと調べ学ぶことができた。
今日は午後からは台風6号の影響で大雨、強風とと予報がある。まだ雨は降り始めてはいないので、今のうちに帰路に着くことにした。家に近くになると風は強くなり、雨も降り始めた。この後は数日間台風が居座るようなので、暫くは自宅待機となるだろう。
参考文献
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)
- 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- 王城村グスクとカー (湧水・泉) (1997 玉城村投場企画財政室)
- 玉城村誌 (1977 玉城村役場)
- 琉球王国の真実 : 琉球三山戦国時代の謎を解く (2016 伊敷賢)