【入門講座】ハイドンの弦楽四重奏曲 by 渡辺伸治
ハイドンの弦楽四重奏曲は多過ぎて、いったいどこから聴いたら判らないという方は多いはずです。
かくいう私もその一人ですが、かんまーむじーく のおがた代表の渡辺伸治氏にそんな話をしたところ、「その概略を知ってもらえば、ハイドンの弦楽四重奏曲に対して関心を抱き、入門の糸口が見いだせるかもしれないね」とおっしゃり、長文解説メールをいただきました。
ただ、その内容があまりにも興味深く、これが私一人にしか伝わらないなんて、もったいない!ということで、渡辺氏に当HPの公開用として、加筆・改訂していただいた文章を、ここに紹介させていただきます。
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「交響曲の父」と称されるハイドン、弦楽四重奏の分野においても偉大な功績を残した恩人であり、ハイドンの弦楽四重奏の歴史は弦楽四重奏の発展史そのものです。
まずその一つは、弦楽四重奏という分野そのものを拓いたこと(同時代のイタリアのボッケリーニという説もあります)。
23歳から30歳の時に書いた初期の10曲(作品1と2)がそれです。
弦楽四声のためのディヴェルティメントとして始まり、四重奏に限らず、コントラバスを入れても良し、弦楽合奏も良しというものでした。
その名前の通り、夜会を盛り上げる娯楽音楽で、2つのメヌエットを有する5楽章構成が主でした。
そして次に、弦楽四重奏という分野を芸術作品にまで昇華させたこと。
ただ、その道程は険しく容易ではありませんでした。
まず、その最初の試みの結実が作品20の6曲集、バロック音楽における対位法を巧みに導入しました。
ハイドン40歳の時です。
この曲集に対峙した青年モーツァルトが《ウィーン四重奏曲集》を書いたほどの出来でした。
しかし、ハイドン自身の試行は袋小路に入ってしまい、10年ばかり、弦楽四重奏の作曲から遠ざかってしまうのです。
そして、発表された作品33では、四声対等、主題の発展、構成感、音響などに大きな発展を遂げ、その後の弦楽四重奏の源流になりました。
再び、モーツァルトを大きく動かし、曲集を捧げました。
それがかの「ハイドン・セット」です。
それから10年ばかり、ハイドンにとって弦楽四重奏曲は自家薬籠中となり、19曲の四重奏曲を、次々と書き上げていきます(作品42、50、54、55、64)。
そして、ハイドン58歳の時、30年ばかり奉職したパトロンからの独立。
その翌年、ロンドンに招聘され、そこで弦楽四重奏曲作品64を劇場で一般公開しました。
弦楽四重奏はこれまで個人の館などで私的に演奏されてきたもので、公開演奏会が普遍的になったのはベートーヴェンの死後です。
作品64はこの分野の記念碑的な作品であり、凄い先駆けと言えるものでした。
しかし、ハイドンは公開演奏会では私的な機会で書いた四重奏曲に不足を感じたのでしょうか?
それを省みて、次なるロンドン訪問のために作品71と74を用意しました。
これらは晩年のハイドンの円熟が結実した仕上がりとなり、さらに数年後には「5度」や「皇帝」を含む傑作集作品76や作品77を世に送り出しました。
このころ、ハイドンに弟子入りしていたベートーヴェンにとって、これらは彼の最初の弦楽四重奏曲集、作品18の下敷きとなったのです。
駆け足で書きましたが、作品20、33、71、74、76、77が重要な作品であることは知っていただけたと思います。
これらからハイドンの弦楽四重奏に入っては如何でしょうか?
熟達した作品から初期へと遡るも良し、初期から発展の有様を愉しむも良しと思います。