温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第72回】 鈴木大拙『大乗仏教概論』(岩波文庫,2016年)
「禅」は浮き沈みが多少あれども世間の様々な人に受け入れられている。坐禅・座禅・マインドフルネスなどもそうした延長だと思っている。そして、禅の鈴木大拙氏(以下敬称略)のファンは常に一定多数いる。私自身も過去に大拙の全集を買い、ファンかと問われたらファンなのだ。ただ、大拙の思想に対する距離感はだいぶ変ってきているのも事実だ。以前、この読書録ブログの第16回で大拙の「日本的霊性」(岩波文庫)を紹介させてもらった。この作品のなかで大拙は一つの概念として「日本的霊性」といったものを提示して、それを軸に論を展開していく。鎌倉時代に禅の思想が強くなったあたりが日本の「霊性」の目覚めの時期であり、それ以前の時代を惰性的生活といったもので一括りにしてしまう。いまとなって私などはこうしたアプローチに違和感を覚えている。
この「霊性」といった概念をつよく言い始める前の大拙の作品で、事実上のデビュー作に「大乗仏教概論」(岩波文庫)といったものがある。これは英文で書かれたものを日本語に翻訳された。決して容易いことをいっているわけではないが、この本は読みやすい。「大乗仏教」の大枠の話をするにあたって、その対峙的に扱われる「小乗仏教」についてふれる。(西洋に早い段階で知られたのは小乗仏教であり、文献はパーリ語で書かれ、セイロン、ミャンマーなどで受け入れられている仏教)。大乗、小乗と救済するための「大きな乗り物」と「小さな乗り物」なる区別をすることはあるが、それをいうのは大乗仏教徒の方だけだと釘をさす。そして、大拙は大乗が小乗に優越するという意味では大乗の語を用いないとして同書を展開させていく。西洋においては大乗が不当に扱われ大いに誤解をされているとして、キリスト者からみたらどう見えるかを配慮しつつも大いに弁明をして、大乗の内容について体系的に語っていくのだ。
最近久しぶりにこの作品を少し読み返してみたのだが、これがやはり不思議と読みやすいのだ。それが何故なのだろうと思っているうちに一つの合点がいった。無礼だとは思うが私の頭のなかで僧衣に身を包んでいる大拙を、洋装に品よく身を包んでいる姿にして想像してみると意外とスンナリとイメージできたのだ。若いころの大拙が米国に滞留した時代、どのような日常生活を送ったのかはあまり知られていないとある禅者から聞いたことがある。したがって、想像の域を出ない部分もあるがこの時代に随分と西洋の教養人と共に語り合える知的共通基盤を造ったように思うのだ。そう思わせる片鱗が「大乗仏教概論」の序論にある。
「宗教の恒久的要素は、人の心の最奥に秘められている神秘的感情から起こるものであり、主にその感情によって構成されている。そしてその神秘的感情が目覚めた時には、人格の全体を揺さぶって、大きな精神的革命を引き起こし、ついには人の世界観を全く変えてしまうのである。この神秘的な感情が知的な言葉で表現され、その概念が形式化された時、それは明確な信念の体系となる。普通それが宗教と呼ばれるのだが、正しくは教条主義すなわち宗教の知性化された形と呼ぶべきである」(「大乗仏教概論」序論)
この大拙がいう文脈を肯定的かつ素直に受け入れる限りにおいてこの本は読みやすいのだ。大拙自体は非常に理知的であり晩年の最後まで知的営みをされた方だ。私はそれにたいして率直な深い尊敬を持っている。ただ、この文脈自体にそもそも少なからず違和感を覚える場合について大拙は何も回答しないともいえる。この違和感を言語化するのはとても難しくもあり、私の単純な迷走に過ぎないかもしれない。ただ、故・梅原猛氏が大拙のことを「近代日本最大の仏教学者」と称し、かつてこれを素直に私も受け入れたのだが、「仏教学者」と「仏教者」の一文字違いとは何であるかと問えばまた違ったアプローチが必要になるように思うのだ。
***
筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。