F.Chopin、フレデリックのルドヴィカへの愛と、サンドとクレサンジュの野望
フレデリックのルドヴィカへの書簡の続きは、まだまだ、クレサンジュについてのことであった。それほど、何やら問題を起こしかねない人物ということなのだ、それ故に、ショパンはサンド一家へお金を送り続けて来たルドヴィカに、どうしても話しておかねばならなかった。
「クレシンジュは、1年前にダーペンティニー氏から私は紹介されました。
彼は、自分が紹介したクレサンジュとソランジュが結婚すると知るや否や、
サンド夫人に手紙を書きました。
その内容は、[才能のある人を紹介したが個人の資質を保証するものではない。]と、
サンド夫人にダーペンティニー氏は書いて来たのです。
ダーペンティニー氏は、紹介したのは自分なのだから、そのことをサンド夫人に明らかにする義務があると思っていました。
しかし、サンド夫人はそれを全く気にしなかったのです。ダーペンティニー氏への返事として、サンド夫人は丁寧な返事を送りました。
それ以来、ダーペンティニー氏はノアンのサンド一家の家に足を踏み入れなくなったのです。」
つまり、ダーペンティニー氏は、表向きは芸術家のパトロンとしてパリで名の知られているサンド夫人に若手の芸術家=クレサンジュはお金になりそうですぞ、とうまい話を持ちかけクレサンジュを紹介したが、クレサンジュという人物は妊婦の娼婦を殴り付けた酒呑みでめちゃくちゃな人生を送っているとパリで批判の的になっていることや、どうやら、この結婚を成立させても自分にはたいした金が入って来そうにないどころか、クレサンジュが事件でも起こしたら自分がサンドから恐ろしい目に遭わされかねないと、思った
ダーペンティニー氏なのだ。
だから、クレサンジュの人格のことは私の責任ではないですから、
ソランジュとの結婚を辞めるのなら、今ならまだ間に合いますよ、とサンドに言って来たのだ。
しかし、お金に目がくらんでいるサンドは、
大事なはずである娘の結婚相手の人物像は
大してどうでもよかったのだ。
それに、クレサンジュは、サンドの前では、
今のところは「いい子」にしているからなのだ。クレサンジュはクレサンジュで、
芸術家のパトロンとして有名人サンドの庇護を受けられ、ノアンの館も自分の物にならぬものか、と密かな野望を抱いていたのだ。
サンドの前では欲しい物が手に入るまでは、
愛想よく振る舞っているという訳だ…。
要するに、このままでは、いずれは事件になるであろうと想定するダーペンティニー氏は責任を取りたくないのだ。
ショパンはルドヴィカへ状況を書き続けた、
「ダーペンティニー氏はマルリアニ夫人に書簡を送り、
[このように悪い評判のクレサンジュという人物を、サンド一家が婿として受け入れているノアンの家を訪れることは私はもうできません]
サンド夫人は一般社会の常識に無関心なので、クレサンジュがどのような人物かは気にしていないのです。サンド夫人にとっては大しことではないのでしょう、」
ショパンはクレサンジュとサンド一家がうまくいくわけがないことは予測していた…しかし、ショパンはこれ以上は口を挟める立場でなかった……。
そして、日が変わり、フレデリックのルドヴィカへの書簡の続きはやっと展開した。
「ここ数日、寒い日が続いていますが、お元気ですか?」
フレデリックはパリでは、
シャンゼリゼ通りをドライブするのが流行っていると、ルドヴィカに話しかける。
「夕食後のつまり、午後8時頃にシャンゼリゼ通りをドライブするということが流行しています。
実際、夜のシャンゼリゼ通りには、イブニングドレスに身を包んだ女性たちを乗せた立派な馬車の列ができています。
昨年は午後4時から午後6時の間でしたのに…」
パリの夜は長い、日没が遅いため、いつまでも外は明るい、それがもったいなく感じるパリの人たちは夜遅くまでのイベントが好きなのだ。しかし、そのため体調を崩す人も多いとショパンはルドヴィカに話した。
それから、忘れもしない10年前にカルクブレンナーの指令で、ピアノ製造技術の開発の一環として極秘でドーバー海峡を渡り、ロンドンへ一緒に視察へ行ったプレイエルも体調が良くないとルドヴィカへフレデリックは伝えた。時は産業革命の真っ只中だ、パリは空気がどんよりしていた。その為、プレイエルはモンモランシー (フランス、ヴァル=ドワーズ県イル=ド=フランス地域)の近くに
土地を買ったと、ルドヴィカにフレデリックは伝えた。
19世紀のモンモランシーは、産業革命でお金を儲けて裕福になったブルジョワジー(中産階級)のリゾート地として注目されていた。
プレイエルは夏をそこで過ごす予定で、
彼はパリの工場に毎日列車で来て、12時から5時まで滞在し、その後、新鮮な空気を楽しむためにモンモランシーへ戻っていくと、
フレデリックは詳しいプレイエルの生活スタイルをルドヴィカに説明した。
ショパンはサンドのノアンへは行かない決意が固かったため、その代わりに何処か夏に行く場所を探していた。
「私の名付けの子供の、エルスナー、そして皆さんによろしく伝えてください。
ノヴァコウスキには私が頼んだ物をワルシャワへ全部運んでくれたことを感謝していると、伝えてください。. . .」
ショパンはパリに来て以来、名付け親をしていた、それは、ワルシャワの孤児に名前を付けていたショパン。エルスナーという名前は
ワルシャワ音楽院時代のフレデリックの作曲の恩師の名前から取ったのだ。
ショパンは名付けの子供たちにプレゼントを必ず贈っていたのだ。
そして、書簡を書き始めて1週間程経過した頃フレデリックはやっとまとめに入る…
「今日は4時にトゥール(フランス アンドル=エ=ロワール県トゥール)から森林愛好家の友人が私のアパルトマンに来てくれます。彼らのために私の《チェロソナタ》を演奏する予定です。フランショームと私で演奏します。そして、フランショームは、私の【《ソナタ》(作品35)行進曲付き】を オーケストラ用に編曲しました。
昨日、フランショームは私の夜想曲(ノクターン)に、「O Salutaris 」というミサ曲の歌詞を付けました。
私のアパルトマンは私が追い払えないほどの訪問者でドアは絶えず開閉しています。近隣の人々は長い時間、私をとても礼儀知らずの人間だと思っていたに違いありません。
しかし、まだ苦情は来ていません。
あなたに愛を送ります。
またすぐに書簡を書きます。あなたも返事を書いてください。お願いします。
親愛なるお母様へもよろしく伝えてください。あなたへ捧げる」
この頃、ショパンのアパルトマンの部屋はフランショームが毎日のようにやって来て、毎日のようにショパンは演奏をしているというのだ。
パリ音楽院の主任教授フランショーム!何故なんだ、ショパンは病み上がりのうえ、
定職に付いていないのだ。。。
ショパンは人が良すぎる…。
ショパンには目の前に《チェロソナタ》の出版がぶら下がっていたのだ。フランショームの誘いは断れないショパン…ショパン…
ショパン、
石造りの建物のアパルトマンにショパンのピアノとフランショームのチェロの音色(ねいろ)が鳴り響き、人の出入りで大きな木製扉がバタン!バタン!と回り階段に鳴り響く、近隣住民は誰も文句を言わない、それがパリという場所なのだ。昔も今も芸術に対しては厳しい態度であると同時に歴史的文化のあるパリではこの様な事には寛大なパリの人々なのだ。それにしても、フランショームとのチェロソナタはショパンはいつまで耐えなくてはならないのか…あぁ、ショパンの親友フランショームよ!
………。。。
そして、やっと、ショパンは何日もかけてルドヴィカへの書簡を書き終えたのだ。
どういう訳か、サンドからの追伸があった、ロゼールにサンドが頼んだのであろうか、
ショパンとサンドとの仲は冷え切っていたはずだ。
サンドはルドヴへ手紙を書く紙とペンもないとか、(作家なのに)養女オーギュスティーヌが結婚するから忙しいとか、ルドヴィカへお金の支援を案に書いたサンドだった。そしてショパンは元気だか、友人ヴィトウィキの死をショパンは悲しんでいるなど、矛盾だらけの手紙だ。そして、まるでまだショパンの世話を自分がしているかのように書いたサンド。
しかも友人ヴィトウィキが亡くなったことはショパンより以前に私は知っていたとルドヴィカへ不気味なことを書いたサンド。
サンドは娘ソランジュとは上手くいっていないのだが、ソランジュもルドヴィカへ愛を送っていると嘘を書いた。
いつの世も『私が世話しているんですよ』…この手のセリフは要注意なのだ…。
サンドはショパンの世話をしているふりをした。だから、大事な弟フレデリックのためにもお金を私に送ってくださいね、と、万事うまく行くにはどうぞお金を送ってくださいとひとつひとつルドヴィカを脅すサンドだった…。
サンドのルドヴィカへの短いメモはサンドの欲望が見え隠れ…、いや丸見えなのだった。