自己の身体の空間性、および運動性
M.メルロー=ポンティは具体的な例を挙げている。自動車の運転と盲人の杖およびタイプライターとオルガン奏者である。自動車の運転を初めてするとき運転を気にするが、慣れてくると運転する行動を無意識にできるようになる。このとき対象であった自動車は自分の身体と一体化したことになる。盲人の杖も同じことである。メルロー=ポンティの言葉を借りると「盲人の杖も、彼にとって一対象であることをやめ、もはやそれ自体としては知覚されず、杖の尖きは感性帯へと変貌した」。タイプライターの習得はもっとわかりやすい。再度、メルロー=ポンティの言葉。「タイピストがキーボード上の文字の位置を知るのは、あたかもわれわれが自分の手足の一つがどこにあるかを知るのと同じように、客観的空間における位置なぞ示すのではない一種の昵懇知によってである。タイピストにとってその指の移動は、記述可能な空間上の道のりとしてではなく、ただ、その表情によって他の一切から区別される、運動性の或る転調としてのみあたえられる。…私が自分のまえに提示されたテキストを目で追うとき、そこには表象を目覚めさせるような知覚なぞ存在せず、総体が特徴的な、また馴れ親しんだ表情をもって、現実に構成されるのである。私がタイプのまえに座るとき、私の手の元の下に一つの運動空間が拡がり、その空間のなかで私は自分の読んだところをタイプに打ってゆくのだ。…タイピストがキーボードのうえで必要な運動をおこなう場合にも、これらの運動は一つの意図によって導かれるが、しかもこの意図は、キーのタッチを客観的な定位として措定するものではない。本当は文字どおり、タイプを学ぶ人はキーボードの空間を自分の身体空間へと統合するのである。」。さらにオルガン奏者の例を挙げている。これは、習慣が思惟のなかにも客観的身体のなかにも宿るものではなく、世界の媒体としての身体のなかに宿るものだという例である。つまり「楽譜面で指示されているような楽曲の音楽的本質と、実際にオルガンのまわりで鳴りわたる音楽とのあいだには、きわめて直接的な関係が確立されていて、その結果、オルガン奏者の身体と楽器とは、もはやこの関係のあいだの通過点でしかなくなっている。そうなるともう、音楽はそれ自体で存在し、音楽によってこそその他の一切のものも存在する、ということになる。」「」は引用。
ほとんど引用だけになってしまった。身体空間の拡張について付け足したいことがある。メルロー=ポンティの例では道具であったが、これを人におき換えるとどうなるか。自分の身体が、第二や第三の身体を他人の身体としてもつことを考えよう。人は道具ではないが、道具になる可能性を秘めている。人の集合体である組織を動かす身体というものがある。この身体は自分以外の身体を、あたかも自身の身体であるかの如く動かすことができよう。自分の身体が他人の身体を巻き込みながら、それと一体化する。動かそうとする身体は、このとき小さな身体としてではなく、巨人の身体として運動することが可能になる。これは付け足し程度の応用であるが普請中(または考え中)(または曲解的空想)!i ^2